プロローグ
「よろしくお願いします」
魔物が凶暴化しつつある昨今。
戦闘面に特化した人材は貴重である。
「いえいえ、こちらこそ……しっかり頼みましたぞ」
肉に包まれ恰幅のいい中年男性は、その禿げかけた頭をポリポリと掻いてから、俺の差し出した手に応じた。
固い握手。だが柔らかい手は、さながら赤子のようだった。
――破格の報酬を代償に、数十体という集団で暴れまわる魔物を退治して欲しい。
そんな辺鄙な村からの要請に応えるのは、大概が俺のような非正規雇用――傭兵である。
そこは大陸最北の僻地。
小さな村を抜けた先は、草木すら育たぬ雪原。
見上げる禿山は、枯れ木に緑の潤いを与えずに地表を埋め尽くす白銀ばかりが目についた。それが左右奥へと、大陸の切れ目まで続いているのだからため息の一つも零したくなる。
そして、本来はこの寒風と共に雪が吹き荒ぶこの地には生息しない、およそ三十からなる『ヴォルフェン』の集団。狼に似た外見だが、牙はナマクラの武器より鋭く唾液は強酸。動きは俊敏で、集団で獲物を追い詰める様は狼そのもの。というか、超凶暴化した狼と考えた方がいい。
山麓に到達した俺は、そいつを見つけたのだ。
いや――そこまで誘導されたと説明するのが正しい。だって村を出て少しした辺りで、周囲から遠吠えが聞こえてたし。
周囲を見渡す必要もないほど、殺気立ってる狼が三十を超えた集団を成す。その中心には鴨こと俺。
なんとなく集団を統率している気分にも――。
「のわっ」
ならない。
いきなり飛びかかってきた眼前の狼へと、素早く鋭く適切な刺突。大口を開けた狼の喉元を貫いて脳髄をかき乱して、頭蓋を砕いて貫通。直後、唾液がべっとりとついた刀身はじゅう、と焼ける音を立てて黒く変色した。
中古で買ったのが仇になったわけではない。
強酸の唾液が、瞬時に刃を溶かしたのだ。
だから狼から抜くよりも速く、刃は半ばから溶けて折れて、使い物にならなくなった。
「まぁ、こんなもんかな」
仕方ないとは思う。
わかってて剣を使った俺も悪いし。
獲物が居ない極北の地で、決して知ってはいけない人間の味を知ってしまった彼らもタブーを踏んでいるのだ。
もっとも、今更魔物をぶち殺すのに感慨も恐怖も、哀悼も何も無いのだけれど。
――勢い良く飛び込んでくる影。俺は思わず腕を前に付き出して犠牲にする。
鋭く刃が突き刺さる。激痛を感じるよりも速く、骨と肉が同時に噛み千切られた。
「爆ぜろ!」
右腕が肘より高い位置から引き剥がされる、その瞬間。狼が噛み付いた腕が眩く輝き――爆発、するのは狼の総身。
腕だった肉塊だけが無傷のまま落ち、俺はそれを拾って切断面に押し付ける。そのまま、今度は左足に噛み付く狼があった。
またもや厄介なことに付け根部分。太ももに鮮血が走り、錆びた臭いが雪原に撒き散らされる。
「うっぜえんだよ!」
しかも痛いし!
詠唱もない。
紋章もない。
だけど意識した瞬間に、俺の足元が突如として黒く染まり始めた。
まともに認識した時には、その領域は既に全てのヴォルフェンの足を縛り付けて動きを拘束する。いや、少し足りなくて二匹ばかりは蚊帳の外だったけど、だけどわけも分からず動きを止めていた。
「飲まれろ、圧殺領域!」
拘束していた闇が、人の手を作る。触手のように一匹ずつ絡みついたそれらは、少し力を入れただけで肉体を、まるでガラス細工のように粉々に砕いて――闇の中に引きずり込む。
領域が失せた時。断末魔もなく殺されたヴォルフェンの死骸は、地中深くで埋葬されているだろう。
引きずり込まれた先は遥か地中だ。もっとも、死ぬのは殆ど引きずり込まれる際なのだけど。
「たく、痛いなあ……あ?」
「きゃ――――ッ!?」
戦闘後の愚痴も許されず、背後で悲鳴。
振り返れば、手ぶらの少女を挟む二匹のヴォルフェン。先ほど、『精霊術』の効果範囲外に逃れていた連中だ。
「つーかさ、なんで居るんだよ」
もっふもふの毛皮のコートと毛皮のブーツを履いた格好はお嬢様っぽけれど、この地域ではあれが標準装備らしい。確かに、いつもの外套だけだと真っ裸で居るみたいに寒い。
今にも飛びかかりそうな狼。
もはや抵抗手段などこの世に存在しないと思ってるのではないかというほどに縮こまってる女の子。
美味しく頂かれちゃうのは自明の理。
だけどそうさせないのが、俺の仕事だったり。
いや、決して不味く調味料をふりかけるダメ料理人とかいうわけじゃなく。
それでも、足を引っ張る一般人に気づけなかった自分が情けなくて――そんな自分を慰めるために一般人を貶めてしまう表現を使うのが、どうにも惨めで。
大きくついたため息は純白。香りは、村を出る前に飲んできた蒸留酒をほのかに孕む。
――『精霊術』が発動する契機は俺の言葉。
集中した意識が、俺の思考を遥かに凌駕する速度で少女の総身を眩く輝かせた。
触れれば爆散。俺の右腕を噛みちぎってくれたヴォルフェンよろしく。
数秒後。
堪らず飛びついた狼が、そのナイフのように鋭い牙でコートに触れた瞬間、全身がぶくぶくと沸騰するように膨らみ始めて、爆発する。
血肉、骨や内臓が殆ど跡形もなく雪原を赤く染める。銀世界は、あえなく一変した。
間もなく、彼女の背後に回っていたヴォルフェンも、学ばずに吹き飛んだ。
戦闘終了。
舐めてかかったせいで大怪我を負ったが、だけれど覚悟していなかったわけじゃない。
むしろ無傷で帰ったほうが怪しまれるから、このほうが僥倖。
「大丈夫か?」
声かけると、少女はびくりと驚いたように弾んだ。
恐らく、彼女は監視役か何かでついてきたのだろう。随分と信用がないが、まあ名も知れぬ傭兵だから仕方ない。だって非正規雇用で、殆ど無職みたいなものだし。
無職は軽蔑されるし。というか生きていけない。いろんな意味で。
女の子は顔を上げる。
すごい勢いで――バケモノを見るような眼で、俺を見て、小さな悲鳴を漏らして、腰を抜かして。
ヴォルフェンなんて比にならない勢いで、俺に怯えていた。
まあ異常だとは思うよ。狼ならまだしも、同じ人間が腕吹っ飛んだり、変な領域だして狼引きずり込んだりさ。
だけど”できるんだから”しょうがない。神さまなんてものが居るなら、きっと唯一与えられた才能だし。
精霊術師。
四大元素を操る各種精霊を基本に、その四大精霊の下に控える数多の現象に一人ずつ付く数多の精霊に力を貸してもらって人ならざる術を行使する者。その代償は消耗品、発動ごとに触媒やら体力やら、視力やらなにやらを削る。
俺の場合は、この激痛を代償に。
死に物狂いなのは本当だけど、だけど代償が大きければその分協力してくれる精霊の力も比にならないほどに大きい。だけど、小さな代償で大きな術を行使できるのは本当に才能のある人。
俺は、数多の術を網羅するだけで限界だったり。
「怪我はない?」
俺の問いに、彼女はふるふると首を横に振る。どっちなんだろう、多分無いの方向だよね、そうに違いない。
「それじゃ、帰ろうか」
提案。というか決定事項。順序良く流れればそうなることは必然である事態。
手を差し伸べれば、だけど彼女は自力で立ち上がる。
そうして呆然としていれば、命知らずもいいとこ、死にかけたのも忘れて村への道を先行し始めた。
――怯えるのはわかる。
失禁も百歩譲って理解しよう。
だけど、だけどさあ!
「申し訳ない……」
机の上にはしおれた布袋。
決して報酬の五万ジルが入っているようには見えない。そもそも置くときにチャリンって音聞いたしなあ。
多くて数枚の貨幣。
それが十枚で千の紙幣。
それが五十枚で五万ジル。だけど目の前には、数百ジルしかないのだろう。
戻ってきて村長の家に直接向かった。出ていったのは半日前だから、外はもう夜の帳が落とされている。
昼よりもよっぽど寒かったけど、それも気にならないくらいのウキウキ気分でやってきたのだ。
だって都市部でも、この手の以来は基本一万。それが破格の報酬が提示されていたのだから、こんな僻地まで来たのだ。
来たんだけど……。
「我が村は、見ての通りそう豊かではない。むしろ、貧しいくらいだ。今年は特に作物が不作でな……」
握手して見せた笑顔は青ざめている。
どうせ、ヴォルフェンに食い殺されるとでも思ってたんだろう。実際、ヴォルフェン超凶悪でそれなりの実力者じゃないと逃げられもしないし? 俺無名だから多分死んだと思われても仕方ないし?
腕も現在治療中だし、左足はついさっき血が止まったばっかだし……。
だけどさあ……。
「さすがに五万ジルほどの大金を支払えば、我が村は破滅に近づく……」
「村長、俺も愛用の剣を一本逝かれましてね。いやまあ、値切るのはまだわかるんですが」
数百ジルでは宿にも止まれない。
軽食で消えゆくそれは、子供が家事手伝いして貰うお小遣いが相応だ。
「せめて、一万ほどは出せませんかね。俺、腕一回引きちぎれて――」
「聞いております。貴方様が、命がけで戦って掃討してくれたのは、偶然出くわしてしまった町娘から聞いておりますが」
「偶然ねえ」
その町娘を監視役に雇う金の工面ができたなら、もっと上手に報酬も払えるはずだろう。
だけど言わない。いや、言えない。
この村が金銭面で常に困窮しているのは事実だろうし、そもそも自給自足が成り立ってるのも殆ど奇蹟だろう。温室や環境管理などの面に対して神経質に取り組んで莫大な資金を掛けたからこそ、こんな僻地でも数百世帯が生きていける。
ヴォルフェンに困っていたのも本当だ。連中はここらに生息していないし、被害だって出てる。だから狼は、俺を他の獲物と同じ陣形で取り囲んで食おうとしてたわけだ。
しかし――だから納得しろってのは、まあ……しちゃうんだけどね、納得。
「申し訳ございません」
この村で一番偉い人の頭が、俺より下がって机に擦り付けられる。
暖炉で弾ける火の音が、パチパチと虚しく聞こえた。
「いや……だけどさ、依頼書には無理のない範疇で報酬書いたほうがいいよ。下手すりゃ強制執行できるし、差し押さえされるし。端金でも、とにかく貰えるなら――って、俺みたいなのが来るかもしれないし」
可能性は限りなく低いけど。
だけど前者及びその次は事実だ。契約通りに報酬を支払えない場合は、然るべき機関が然るべき対応をする。傭兵が仕事を請け負うのは大体が民間の派遣企業みたいな場所だけど、今こうして主流になってるってことはそれなりに信頼性があるってことだし。
迷惑がかかるのは依頼を請け負った傭兵と、派遣を流した企業。自業自得だけど、一番不幸になるのは依頼主。
こういった寂れた村だと、村の主が依頼をするから、村ごと破滅する場合も少なくない。
――もう見逃してきて、ようやく今日で両手で数えられない数になった。
忘れられるわけじゃないけれど、見逃すことで自分を満たすわけじゃないんだけど。
路頭に迷ってる俺が、相手を路頭に迷わせても仕方がないわけで。
「それじゃあ、失礼します」
目の前の、元気のなく張りもない袋を受け取る気にもなれずに、頭を下げて村長の家を後にした。
家を出ると、まるで見越したように突如吹雪いてくる寒風が、暖炉で温まった俺の体温を余すこと無く拭い去っていく。
本当、懐が寒いってこういうことなんだな。
家の前の階段を降りて、雪でグズグズの道を歩く。
空を見あげれば、吸い込まれるような藍色の闇。煌めく星々は、こんなに空気が澄んでいるからこそ、手を伸ばせば届くのではないかと錯覚するほどに鮮やかで、近い。
新月の夜。いつもより暗い夜道は、慣れない寒さを伴って妙に虚しくて。
人っ子ひとり居ない村道を歩いて、雪原に出る。
道も何も無いのは、人が立ち寄らない何よりの証拠で。
ここから最寄りの最北大型都市は、歩いて半日ほどかかる距離で。
「っくしょん」
べらぼうめ、と言いたくなるほど遠慮のない豪快なくしゃみを最後に、俺は振り返らないことにした。
ばっさばっさと、大型の鳥が羽ばたくような音がする。
それは背後から近づいてきて、頭の上を飛び越して――急降下。驚いて足を止めれば、ソレは二本足で立って、俺の前に立ちはだかった。
軋むような音を立てて雪を踏む。
――側頭部にはうねる角。
寒くないのか、お手製らしき薄手の鎧はその肢体に張り付くようにして身につけられている。だから、随分と自己主張の激しい胸やら尻に目が行かぬわけもなく、だけど俺は目をそらして顔を見た。
背中からは、コウモリのような羽根。
蠱惑的な笑みは、俺を硬直させる――いろいろな意味で。
「な、な……?」
血色の悪い肌は紫。
琥珀の瞳は、俺を射抜いていた。
「わけがわからないって顔ね」
「あ、ああ……なんだ、俺に、用か?」
「ええ。だけれど……誰だって、聞かないの?」
問い不足らしかった。彼女はわざとらしく肩を落として、上目遣いに見る。異色な”付属品”ばかりだが、その美しい容貌や仕草は、人間そのものだ。
「誰だ? エルフ……じゃないみたいだけど」
空飛ぶエルフなんて知らないぞ。
「悪魔よ。アクマ、デーモン。わかる?」
「悪魔って……あの悪魔?」
悪を示す存在。宗教文化ではその象徴として語られるけど……いやいや。
「そう、その悪魔」
鳥人かな。まあ、他種族と関わるのはあまりいい気がしないけど、彼女は悪意はないようだし。いや、悪魔って名乗ってる時点でちょっと不安だけども。
「それで、その悪魔がなんだい?」
「あなた、困ってるでしょ。主に経済面で」
「まあ主に経済面でしか困ってないな」
一番重要なとこだ。
いい年して所持金が三桁ってのも悲しすぎる。
「ねえ、取引しない? いいかしら、いいでしょう、いいわよね」
「お、押しが強いですね……取引っていうのは?」
「あたしがあなたと契約してお金出してあげるから、その代償に当分の間、一緒に行動しない?」
「はあ? お金、ですか? 出せるんですか、それ偽造通貨とかじゃなくて?」
「正真正銘のお金よ、ちゃんと流通してる通貨で望む額だすわよ――ほら、このとおり」
彼女が指を鳴らす。
直後に、何の手品か、その手に突如束になった紙幣が現れた。
手にとってパラパラとめくる。香りを嗅ぐ――ううん、新札らしきインクの匂い。手に取るだけで胸の奥から暖かくなってくるようだ。
「信じる? 信じない?」
「……代償って、着いてくるだけ?」
「ええ。暫くは、だけど。むしろ、お金を出す以外でも、一緒に居る間の経済面はあたしが出してもいいわよ?」
うわー、ヒモみたい。
確かに都市とか行くと妙に『夜の蝶』たちには持て囃されるけど。
実際にこうして夜の蝶たらしめるように飛んできた女の子にそう言われると、なんだか男として自信がなくなってくる。
だけど、まあ。
彼女の提案がいくら怪しくても、飲まざるをえないのは事実なわけで。
「いいよ」
頷いた俺に、彼女は契約の証として手を差し伸べた。
堅く握り返すと――ようやく結合したばかりの右腕に、手の甲から肘先まで伸びる黒い一閃が刻まれた。
「それじゃあ、よろしくね」
笑顔で腕に抱きつく彼女に、俺は照れながらも頷いた。