09英雄の条件
魔法も投石も届かない安全な高所から、悪意を撒き散らすゴン。
温厚な迅雷がギリと歯軋りした。
「罠師……ではあの崩落も爆裂の罠……。その転移罠も予め……。アルケミストだと偽ったのも、武器を持っていなかったのも、クエスト中でパーティーを変更できないといったのも……。二人の仲間の話も嘘……。初めから騙されていたという訳ですか」
「ハッ!騙される方が悪いなんて言うつもりはねぇけどよ?お前ら一体何考えてんだ?お花畑でも咲いてんのか」
豹変したゴンだったが、この言葉には嘲るような調子は無く、むしろ本当に疑問に感じている風な声だった。
「最初のアナウンス聞いてただろーが。最後に残った一人だけが生き残るって。殺し合いのサバイバルゲームで助け合いとか、馬鹿かよ」
反論したい言葉はいくつも浮かぶ。論破する自信だってある。けれど、今はそんなことをしている場合ではなかった。
「迅雷!!来るぞ!」
皆をかばうために、前に出ているアルマに向かって二体のハンギングスネークが飛び掛る。一体はアルマがうまく盾を使って弾くが、フリーになったもう一方のハンギングスネークの牙がアルマの左肩に突き立った。
「アルマちゃん!!」
ナナコが意味のない悲鳴を上げる。肩に噛み付いたままの蛇だけを的確に狙い打つ魔法の腕は、彼女にはない。威力重視のウィザードである迅雷も同様だ。だからこそ、動けたのはレンだけだった。
「離れろッ!雑魚がッ!!」
胴体を左手で掴み頸に短剣を添えて、引き裂く。力を失ったハンギングスネークの頭部は、噛み付く力を無くし、肩からポトリと落下した。
「あ、ありがとう、レン君……」
助けたアルマの息は荒い。受けたダメージは少ないが、傷口から流し込まれた毒物の効果で、毒の状態異常がかかっている。一定時間ごとにHPを蝕むだけの状態異常は、現実準拠の世界では、絶え間なく痛みを味わわせる悪魔の拷問と化していた。
「毒消しです!」
ようやく駆けつけた迅雷がアイテムを使ってアルマを治療する。
「迅雷、言わなくても分かってると思うが……」
「大丈夫です。今やるべきことだけに全力を尽くします」
蛇の群れをにらみつける迅雷の目には、怒りを圧縮したような赫怒が燃えていた。
「詠唱中は任せます!」
レンの返答も聞かずに、魔法詠唱に入る。
「おい、オレは中衛職だから壁になって時間稼ぎとか出来ないんだよ――って、聞いてないな」
「レ、レン君。せんちゃんはうちとナナコで何とか守るから……」
まだ足元のおぼつかないアルマに任せるわけには行かないだろう。決意を固めたレンは、「頼んだ」と言い残し、単身でモンスターの群れに飛び込んだ。
短剣を振り回し、近づく蛇から切り裂いていく。
レンは万夫不当の英雄ではない。数十倍の数相手に無双出来るほどの器ではない。だからレンは知恵を借りる。力を借りる。仲間から、自分の経験から、人類の英知から。
いつかテレビで見た、羊飼いの使う牧羊犬の動きをイメージする。獰猛なモンスターを気弱な羊に見立てる。自分はそれを追い立てる犬だ。無理やり群れを動かすのではなく、自然に誘導する。群れが丸く一箇所に固まるように、外側に孤立した個体を片っ端から切り取っていく。
レンジャーの防御力は決して高くない。数発でも攻撃を受ければ、絶命しかねない。そんな緊張を露ほども感じさせない動作で、モンスターを追い立てていく。
地を這うハンギングスネークとその上を駆けるレンのスピードには、天と地ほどの差がある。
無我夢中で戦場を駆け回り、引っ掻き回すレン。いつしかモンスターの返り血を浴び続けた彼の顔は真っ赤に染まっていた。目だけがそれを免れ、爛々と光っている。控えめに言って、どこの殺人鬼か、といった形相だ。
レンはそんな自分を認識していない。ただ走り、力の限り切り裂き続けた。
恐れをなしたように、ハンギングスネークは少しずつ味方同士固まり始めた。レベル的に格下のレンを脅威と認め、自己防衛本能が働いたのだ。「群れからはぐれれば、殺られる」と。
そしてそんな密集するモンスターの群れは格好の的だった。
「行きます!!”アイシクルエンブレイス”ッ!!」
十分な詠唱の下放たれた大魔法。ベータ版でさえ地形干渉能力を持っていた強大な魔法は、この世界で陣地破壊とでもいうべき能力を発揮していた。
始まりは霜柱。湿潤な地面から水が吸い上げられ、同時に凍結していく。突き立てられた槍衾のように氷柱が無数に噴出する。
地面が持ち上げられ、引き裂かれていく。歪な形状のまま、氷に包まれその時を止める。
それは上に乗っていた生物たちも逃れられる運命ではない。空を飛ぶ力を持たない、地を這うものたちは、氷の宴に吸い込まれ全身を白く染めていく。それは急激に冷やされた大気からの、霜の贈り物だった。
変温動物である蛇は低温に晒されると、その活動を停止する。HPはまだ残るハンギングスネークたちが残らず機能停止したのは、氷結とでもいうべき状態異常になったと考えていいだろう。
「や、やったんか!?」
残らず動きを止めた蛇たちを見て、アルマが不安そうに漏らす。
「ええ……。これでしばらくは動けないはずです」
「せ、せんちゃん……。大丈夫ですか」
急激に魔力を消費して、苦しそうな迅雷をナナコは気遣う。
「い、いえ。私よりもレンさんが――」
ナイフを固く握り締めた右手からボタボタと血を滴らせたままのレン。生まれ立ての小鹿のようにガクガクと足を震わせている。
「いや。こっちも大丈夫だ。ダメージは受けていない。単なるスタミナ切れ……」
言い終える前に、レンは躓き倒れ付す。慌ててアルマが血に汚れるのも構わず助け起こすが、血がべったりとこびり付いたせいで顔色は窺えない。
「レン君……。う、……ぅっぷ」
アルマは濃厚な鉄さびの匂いに吐き気を催したが、意地で耐える。レンのことを思えば、ここで吐くというのは許されないことのように感じていた。
意識をなくしていたレンが薄っすら目を開いた。
「大丈夫!?」
ぼやけた意識には、アルマの叫びはひどく喧しく感じられる。柔らかい、けれども少し固いアルマの膝枕から頭を上げて周囲を窺う。
「……どうやら、なんとかなったようだ」
「ブハハハ、間引き……ご苦労様ぁ。クスクス」
嘲弄が降ってくる。それは勿論ゴンの物だ。
「まさかそれだけで終わりだと思ってねぇーよな?本番はこれから。普通に対処できるモンスターをぶつけてMPKとか、運任せの素人の手口じゃねぇんだからよぅ」
彼の挑発と同時に、霧の向こうから異常に巨大な質量が迫ってくるのが感じられた。まだ敵が残っているのかと気を引き締めたレンたちの戦意は、その物体が現れた瞬間粉々に打ち砕かれた。
「で、でかい……」
呆然とした声はレンのものだ。それも仕方ない。姿を現した巨大な蛇は、あまりにも大きく視界に収まりきらないのだから。端のほうは全て霧の向こうだ。全長は想像も出来ない。
「ヨルムンガンド……!」
驚きを含んだ声は迅雷のもの。それも仕方ない。本来此処に生息しない神獣が現れたのだから。世界に三体しか存在しない神話の怪物の名を借りた世界の番人。
レベル60昇格試験を求めるプレイヤーたちを阻んできたシステムの作り出す最強の獣。今よりレベルの遥かに高いベータ時代でも倒したことがないモンスター。そんな異常が眼前にいたのだから。
「あ゛ぁー。苦労したぞ。湿原からこの大渓谷まで釣ってくんのはよぉ!トラップメイカーの挑発スキルがあっても、挫折してもおかしくねぇ大事業だったぜ」
出鱈目なことを誇らしげに語るゴン。それは大運河をたった一人で完成させた、という言葉に等しい。迅雷の常識は理解を拒否していた。
「まぁお陰でぇ?どんな手馴れでも瞬☆殺確定のデストラップが作れたからいんだけどよ。さぁーて、四人も固まってから、爆砕罠つかっちまったしなぁ。また罠しかけなくちゃなんねぇ。まったく面倒なことだぜ」
面倒だといいながら、歓喜を隠し切れないのかニヤニヤ笑いは崩れない。
死に直面しているレンたちはただ呆然と、悪意が耳に入り込むのを黙って見ていることしか出来なかった。
ギラギラと人間大もある巨大な瞳を光らせるヨルムンガンド。自分を大渓谷に閉じ込めた矮小な人間に対して、怒りを感じているのか、じっと崖上のゴンを睨んでいる。しかし、その巨体を以ってしても遥か上方の元凶には届かない。復讐を諦めた神獣は、自身の足元で眷属に暴力を振るった四人の矮小な人間を睨みつける。
ハンギングスネークは、ボスモンスターであるヨルムンガンドが定期的にポップさせる眷属だったのだ。
ヨルムンガンドの眼光は物理的な圧力さえ備えていた。蛇睨みとでもいうべきスキルは、視界内の敵対者にさまざまなバッドステータスを与える。その中の一つのスリップダメージが、レンたち四人を襲っていた。
じわじわと肌の表面を灼かれるような、ピリピリとした痛みが走る。手足は鉛のように重く、自由に動かすことも出来ない。
ヨルムンガンドは動いた。山のような質量は、ただ呼吸するだけで小さな命を踏み潰していくのだ。削り取られた地面の欠片が降り注ぐ。それは雨の日に、水溜りの上を車が走り抜け、汚水を跳ね上げる光景によく似ていた。
ゲーム的に言えば、それら一つひとつの土砂全てに”当たり判定”がある。大盾を構えたアルマが仲間を守ろうと立ち塞がったが、無駄だった。
想像を絶する質量の前には、人間の働きなど無に等しい。瀑布の流れを一人で止めようとするようなものだ。一人で災害を防ぐようなものだ。そんな事は出来はしない。それが出来るとすれば、それは人間ではなく、英雄と呼ばれる存在だけだろう。
膨大な土砂に跳ね上げられ、一瞬でHPの全てを刈り取られたアルマは、光の粒子となって消えていった。レンは彼女の死に顔を看取ることさえ出来なかった。ただ気配察知から生命反応が一つ消えた。それが彼女の死を示すたった一つの証だった。
レンもすぐのその後を追うのだろう。
「フフフ……これで三人目だ。ようやくセカンドジョブが解禁だ。さて、必要以上に殺してもボーナスが貰えるのか?悪いが実験台になってくれよ」
悪意に満ちたゴンの哄笑は、耳に入っても頭はそれを理解できない。レンはただ呆然と立ちすくむだけだった。
「ジャァァァァ!!」
ヨルムンガンドの咆哮は、レンたちを殺そう、という雄たけびではない。矮小なる生物の死を悼むような、物悲しい調べだった。
「あ…あ……っ」
アルマの死を目の前で目にしたナナコは、言葉をつむぐ力を失ったように、口から空気を漏らすばかりだ。ペタンと地面に座り込み、ガタガタと震えている。股座はじっとりと湿っていて、彼女の恐怖を如実に表している。
跳ね上げられた泥濘が、彼女の全身に飛び散り、惨たらしい戦場を描写した一枚の絵画のような光景の一部と化している。
――そして、彼女も光に変じた。
大口を開けたヨルムンガンドが、ナナコを丸呑みにした瞬間、口の隙間から光の粒子が漏れ出し、天に還っていった。レンはまたしても看取ることは出来なかった。
レンと同じく、その二つの光景を間近で見ていた迅雷は、発狂したような叫び声を上げながら、ヨルムンガンドの眼に自らの腕を突き立てていた。ナナコを食らった瞬間、ヨルムンガンドの頭は地面すれすれまで降りてきている。そこを狙ったのなら、確かに会心の一撃だろう。けれど、レンの目にはただ錯乱して突っ込んだようにしか見えなかった。
眼は巨大な怪物の弱点だったらしい。苦悶の叫び声をあげるヨルムンガンドに対して、右腕を眼球に埋めたまま迅雷は力を解放した。
「”ヴォルテックス”ッッ!!」
自身の腕ごと相手を焼ききろうとした、死に物狂いの一撃は、ヒトの身でありながら巨獣を吹き飛ばすことに成功した。ヨルムンガンドはのたうち回り、その勢いで迅雷は放り出された。
弾丸のような速度で飛翔する人影は、爆音と共に崖に衝突して土煙を辺りに撒き散らした。
土が交じり合って汚らしい色になった霧が晴れると、残されたのはもっとも惨たらしい死体。
視界が悪いせいで、細部まで見えないのは幸運だといっていいだろう。晴れた日に太陽の下でこの光景を直視していれば、間違いなく嘔吐していただろうから。
赤と黒の絵の具をぶち撒けたような悲惨な場所。鶏肉にたっぷりと絵の具を塗してから、悪意を持った凶刃でズタズタにそれを引き裂いたような肉片が、いくつも転がっている。
霧があるのも、死体の原型がまったく残っていなかったのも幸運だった。死体は下手にヒトに近い形をしているほうが、冒涜的だ。一生知りたくなかった知識を、望まずしてレンは手に入れた。
レンがその肉片を元迅雷だと判別できたのは、数秒後それらの肉片が淡く光と溶け合って、薄くなり消え去ったからだ。それは場違いに美しい光景で、この世界の神が死を賛美するために作り上げた、偽りの美しさのように感じた。
「うわぁー。グロ画像かよ……。今日飯食えっかなぁ」
嫌悪するようなゴンの声に対して、怒りも湧かない。
多分、後で冷静になったとき、殺しても殺し足りないほど彼のことを憎むのだろう。
けれど、レンにはもう”後”など残されていないのだ。目の前の荒れ狂う災害が、数分後でも数秒後でも彼を呑み込むのだから。
「R18とか、ちゃっちい縛りも無いのか。あぁ、そう考えるともったいないことしたかなぁ。男はともかく女は残しておけば、もう少し楽しめたかもしんね。出会った中、六人中四人が男だもんな。うん、やっぱ貴重だわ。次余裕あったら味見してからにしとくかな」
下種な思考を垂れ流すエルフの男。端正なアバターの顔は、原型の分からないほど醜くゆがみ、正視できないほどだった。
「さてさて、セカンドジョブ何にすっかなぁ。やっぱヒーラーで安全に行くか?カモフラにもなるしなぁ。特化型にするならアルケミストも鉄板だけど……さてどうしようか。この瞬間が一番楽しいわ」
もうアルマたちのことは忘却の彼方のようで、楽しそうに今後の計画を一人声に出して考え始めている。
けれどまだ生き残っているレンのことさえ意識から外した様な、油断しきった男の末路は、自分が陥れていった者たちよりも、なお悲惨だった。
「グッゥェ」
何かが背後から凄い勢いで、飛び掛ってきたせいでうつ伏せに押し付けられる。岩肌に叩きつけられたゴンは、無様な声を上げて肺から息を吐き出した。腹部を蹴り飛ばされ、仰向けにさせられた彼の目に映ったのは、霧も晴らさんばかりの美貌の少女が、馬乗りになっている姿だった。
唖然としたのは一瞬。少女は固いブーツを履いた足を思い切りゴンの喉に振り下ろした。
激痛に顔をゆがめる。
なんだこの痛みは、なんだこの女は。
「手足をもぐ前に発声器官を潰さないとね。ほんと、面倒な世界だわ」
鋭利に尖ったヒールをぐいぐい喉に押し付けてくる。既にゴンの喉には風穴が開いていて、呼吸をしてもコヒューコヒューと、大昔のSF映画の暗黒卿のような音しか出てこない。その穴にぐりぐりと突起を押し付けてくるのだから堪らない。抗議しようにも、もはや声は出ず、ただ耐える事しかできなかった。
彼が味わっている痛みは、彼が陥れたアルマたちを襲った苦痛の十分の一にも満たないものだが、彼にとってそんなことは関係ない。ただ自分を今襲う激痛こそが事実だった。
「これくらいでいいかしら」
存分に男の咽喉を破壊しつくした少女は、軽い調子で手を男の肩に伸ばした。よく見ると、手の甲は薄く鱗付いていて、五本の爪は人間のものとは思えないほど鋭く尖り、恐竜を思わせる。
そんな凶悪な爪を持つ手が、がしりと男の右肩を掴んだ。そして、その肌に染み込むように五本の指が、めり込んで行く。
意味の分からない痛みに、暴れまわろうとするゴンだが、がっしりと押さえ込まれて、足をばたばたする事しか出来ない。絶望的な熱さが、肩から消えたと思った瞬間、彼の右腕は引き千切られていた。
「#3"!hr!*!%@A!!!」
悲鳴は声にならない。まるで彼の犯した罪過の分だけ、彼の自由が奪われたように。
少女は何の感慨も無く、無造作にその怪力で以って四肢を分断していく。一本一本引き千切られるたびに、ビクンビクン跳ねていた男の体は、最後の一本を捻じ切った時には何の反応も示さなくなっていた。
「あぁ、ここで楽になられても詰まらないわね。”ヒール”」
清浄な光が男の喉以外の傷口を包み込み、出血を抑え組織を再生させていく。三途の川を渡ろうとしていた男は、暴力と苦痛の支配する現世に無理やり引き戻された。
濁っていた瞳に光が戻り、すぐに恐怖で染まる。
「あまりゆっくりもしていられないのよ。あの爬虫類を放っていく訳にもいかないし」
四肢の無くなった不自由な男の体を少女は、思い切り蹴り飛ばす。男は崖下にごろごろと跳ね回りながら転落していき、少女はそれを追う様に飛び降りた。
背中に収納されていた翼が開き、パラシュートのように降下速度を和らげる。天狗のように、崖を足場に飛びまわり優雅に谷底へと降りていく少女。彼女は、カーズドワールドで最も身体能力に優れた種族、ドラゴニュートだった。
気配察知はうまく働いていない。ヨルムンガンドの眷属のハンギングスネークが無数に徘徊する谷底では、生命反応が多すぎて、正確な察知が困難なのだ。
それでも大多数を迅雷の魔法で封じ込めたため、怨敵であるゴンの居場所だけはマークしていた。範囲外に逃げられてしまえば、レンに追う方法は存在しないのだが、何故か彼は動こうとはしなかった。それどころか今高速で動く一つの反応が、ゴンの反応と重なるようになっている。
レンは抗っていた。避けようの無い死の定めから。
片眼を失い苦痛に悶える大蛇。その巨体に比して取るに足らない弱者であるレンの事は、文字通り眼に入ってすら居ない。
レンはスリングに炸裂弾を装填した。近づくだけで死んでしまうような、ヨルムンガンドに対抗するためには、遠間から攻撃を仕掛けるしかない。それにレンにはもう一つ事情があった。足が動かないのだ。物理的に。
限界を越えて酷使した両足。ハンギングスネークの群れ相手に大立ち回りを演じた代償として、両足の筋肉は完全に弛緩してしまっていた。時間をかければ徐々に元に戻るだろうが、この戦いには間に合わない。
そこらに散らばる瓦礫の一つを抱くようにして姿勢を固定して、投擲の準備をする。携帯型のスリングにたいした射程は無い。少なくとも、摩天楼のような体長を誇る大蛇相手に通用するほどの射程は。
チャンスは少ない。暴れまわるヨルムンガンドが近づいてきたその瞬間だけしか、こちらの攻撃は当たらないのだから。我知れず呼吸が速くなった。心臓は早鐘を打つ。容易く死をもたらす化物を恐れているのか。
仲間のことを思い出す。
――二週間以上を仲間として過ごしてきた。
アルマとは無償で助けてもらう約束をしながら、果たされなかった。
ナナコは記憶を失ったまま、取り戻すことも無く居なくなった。
迅雷にだって教えてもらいたいことはまだまだあったのだ。
それを――それを。
呼吸は落ち着き、心臓はトクトクといつものペースに戻る。
「ただで殺されてやるかよ。打倒される為に設計された障害ごときに」
その時、予想だにしない出来事が起こった。
ガラガラと石くれが転がり落ちるような音と共に、崖の上から何か大きなものが転がり落ちてきたのだ。細い幹の丸太かと思われる物体は、不規則に跳ね回りながら、レンの近くまで惰性で転がってきた。
回転を止めた丸太は、なにやら赤かった。ぼろぼろに千切れた赤黒く染められた布切れが、こびり付いている。
「んな……!!」
それ――いや彼はヒトだった。レンたちを罠にかけ、嘲っていた張本人、ゴンの変わり果てた姿がそこにあった。
四肢は消滅して、断面から赤っぽい肉と白い脂肪のようなもの、骨が見えている。よく見れば、顔らしきものもある。ぐちゃぐちゃに潰れ、何がなにやら分からないが、かろうじて眼窩と口の穴だけは残っている。天辺にはなんとか髪の毛だと判別できる金糸がへばり付いていた。
それが死体ではなく生きている人間だということは、レンの気配察知が何よりも雄弁に語っていた。
「レン、それは殺しておいてもいいわよ」
聞きなれた冷たい声と共に、羽を広げた黒い天使が舞い降りた。
爬虫類のような鱗で纏われた翼竜のような両翼には、コウモリ羽のような薄い皮膜が膨らんでいる。その花のかんばせは見慣れた友人のもの。カチューシャの形にびっしりと敷き詰められた鱗、その先端には一本の角が生えていた。
全身を黒い甲冑で固めた、勇ましい姿の亜貴が空から降りてきていた。
「亜貴……。ドラゴニュートにしたのか」
浮かんだ疑問の数々の中で、一番どうでもいいものが、口に出た。
甲鱗で全身を守る龍人。カーズドワールドの前衛としてもっとも強いといわれる、鉄腕の種族。
黒い甲冑の隙間からのぞく白い柔肌も、良く見ると薄く光る鱗に覆われている。
羽をしまいこんで、綺麗に両膝を屈折させて、着地の衝撃を和らげ優雅に着陸した亜貴は、
「久しぶりね。色々話したいこととか、文句を言いたいこととか、積もる話は本当に色々あるのだけれど、まずは緊急の障害だけでも取り除いてからね」
そう言って、ヨルムンガンドを見た。
暴れていたはずのヨルムンガンドは何故か、急にその動きを止めてじっと亜貴を見ていた。強烈なバッドステータスを引き起こす視線を受けているはずなのに、超然とした様子を崩さない亜貴。
死を量産する怪物相手に一歩も引かずに、排除を言ってのける彼女の姿は、神話やフィクションに語られる英雄のようだった。
「あなたはこれに復讐する権利があると思うわ」
言葉をヨルムンガンドに投げかける。指しているのは、ぼろぼろの肉隗。死に体のゴンだった。
ゴンは湿原に住まう神獣であるヨルムンガンドをヘイトコントロールスキルや、挑発スキルを駆使して隣のエリアである大渓谷まで誘導する、大掛かりな大移動をやり遂げた。その後、爆裂罠でも使用して渓谷のがけ崩れを誘発させ、入り口出口を封鎖した。谷底に閉じ込められた大蛇は眷属を生み出しながら、そこに元々住んでいたモンスターたちを侵略した。全てを喰らい尽くしたころ、大蛇は自分が小さな箱庭の中に幽閉されたことを知る。その時から生まれ続けた、自分を嵌めた者に対する憎悪。
それを発散する機会をついに得て、大蛇は吼える。ヨルムンガンドは亜貴を見つめていたのではなかった。ただ、全ての元凶たる襤褸雑巾のような男だけを見つめていたのだ。
ヨルムンガンドは巨体を揺るがし、急接近する。レンはそれに恐怖を感じた。
たとえかの大蛇の目的が、ゴンだけだったとしても、大蛇の体はあまりにも大きい。彼を殺そうとするだけで、その近くに居る自分と亜貴も巻き添えを食らって死んでしまう。それは確実ともいえる未来だった。
「亜貴!!逃げろ!」
足が動かないなら、せめて亜貴にだけでも助かって欲しいと、思いを込めて叫ぶ。
けれど。
「蓮が逃げないのなら、私も逃げないわ」
あまりにも状況を無視したような殊勝な科白。いや、ある意味では状況にマッチしているのかもしれないが。
「オレの事はいいから!」
「ふふ、そんな映画みたいな台詞が聞けるなんて思わなかった。やっぱりゲームを買ってみて正解だったわね」
レンの方を向いているせいで、亜貴は今、大蛇に背を向けている。その背後には大口を開いて、丸ごと全てを呑み込もうとするヨルムンガンドの姿が。
口の中に綺麗に生えそろった短い牙の列。ぬらぬらと扇情的に光る赤い口内の粘液。その光景は、ナナコが死ぬ瞬間に最後に見た光景と同じなのだろう。
苦い味を感じた瞬間、体が勝手に動いていた。
引き絞ったスリングから爆裂弾を、大蛇の喉奥に打ち込む。布団のような分厚い舌の上で跳ねた弾は、そこで爆発した。
怯んだ様に動きを止めたヨルムンガンドは、しかしそのまま動かなくなった。
「まさか、やったのか……!?」
「そんなわけ無いでしょう、仕掛けで動きを止めただけ」
つかつかと大蛇に歩み寄りながら、呆れたように亜貴が言う。
ステータス表示を良く見れば、確かにヨルムンガンドは麻痺状態になっていた。
「バルサがなんとか間に合ったみたいね。麻痺罠は一回目は十秒間の麻痺状態を強制的に起こすわ。あまり時間は無いの」
迅雷の右腕に貫かれ、魔法の雷で焼け爛れている大蛇の片眼に亜貴は手を触れた。鉤爪と、人間の爪の中間のような長い爪を、ぶよぶよの肉にめり込ませている。
「今日のところは私たちも力不足。見逃してあげるわ」
レンには場違いにしか思えない言葉を吐いて、亜貴とヨルムンガンドは魔法の光に包まれる。
「”リコンストラクション”」
癒しの閃光が走った後、まるで亜貴の言葉を聞き入れたように、ヨルムンガンドは頭を下げて立ち去っていった。ずるずると巨体を引きずりながら、霧の向こうに消えていく大蛇。
レンはその有様をただ眼を丸くして見ている事しか出来なかった。単身で神獣を従えて、退けた偉業。英雄譚にでも語られそうな幻想的な光景だった。
「蓮。あまり悠長にしているわけにも行かないわ。まだセカンドジョブは取得していないのでしょう?そこのを殺してもいいわよ。私はもう持っているから」
出会いの言葉と同じ。物騒なことを言い出す亜貴。レンにはまだ復讐の気持ちは湧いてこなかった。ただ、あまりにショッキングな出来事が続いたせいで、感情が麻痺していたのかもしれない。亜貴の言葉と自分の認識に食い違いを感じたせいもある。
「……話し合う時間は無いのか?」
「レン、まさかあなた、まだ誰も殺していないの!?」
驚いたように、亜貴が言う。
「一人でも殺せば、アナウンスが出てくるのだけれど……。三人殺せば、セカンドジョブっていう恩恵が貰えるらしいわよ?」
あまりの非現実さに理解が追いつかない。友人が平然と、殺すと言っている事も、レンに殺せ、といっている事も。全てが悪夢だと思い込みたかった。
「おい……。この世界で死んだらどうなるか分かっているのか……?」
「さぁ?死んだ事無いから分からないわ。いっぺん死んでみれば分かるんじゃないかしら」
ゲームなら、近くの町で蘇生できる。それが出来ないのならば、この世界の死とは一体何を意味するのか。本当にデスゲームなのか。それとも、死ねばログアウトして現実世界に戻る事が出来るのか。
亜貴の言う通り、それこそ死後の世界なんて、死者にしか分からないだろう。
「それよりレンがまだ誰も殺していない事に驚きよ。最初のクリア条件聞かなかったの?滅人滅相、自分以外を全て死なせれば勝利って」
「ま、待て。それは結果的にそうなれば勝利、というだけだ。元々は魔王を最初に討伐したら勝利のはずだ」
「魔王?魔王なんて存在するかも怪しいものを、真面目に勝利条件に出来るわけ無いじゃない」
「それは……」
確かに亜貴の言う事にも一理ある。彼女が普段RPGのようなゲームをやらない分だけ、そんなあいまいな勝利条件は奇妙に思えるのだろう。だがしかし、今決定的な情報をレンは持っている。
「魔王の居場所は分かっている。鎮魂の洞穴。そこの魔王を倒すクエストが王都に貼り出されていた」
今朝ヤマメに教えてもらった情報。そう、魔王は最早曖昧なラスボスなどではない。姿を明確にした倒すべき目標なのだ。
「あぁ。それね。それは私たちが撒き餌としてばら撒いた偽情報の一つだけど。釣られてやってくるプレイヤーを背後から一網打尽にする予定。レンはひっかからないでよね」
コロコロと面白そうに亜貴は笑う。彼女からすればちょっとした悪戯がばれた位の心持なのだろうが、レンの心は激しく揺れていた。
魔王は存在しない。それが意味するものが何なのか理解し始めたからだ。
「レン~。日和見もいいけどね?これみたいに――」
足元に転がる無残な男を足で突付いて、
「性急な手段で無理やりスコア稼ごうとする奴もいるんだからね。せめて身の回りの警戒くらいはしなさいよ。自分が殺すにせよ、殺さないにせよ……ね」
そして男の頭部に乗せた踵を思い切り踏みしだく。その踏み込みで、男の頭部はトマトのように柔く爆発し、汚らしい脳漿を飛び散らせた。レンジャーのレーダーからも生命反応が消失して、散らばった肉隗は、きれいな光の粒子になって消えていった。
「レンが誰も殺したくない、って気持ちは十分理解できる。けれど――」
ふと思い出したように亜貴は懐からギルドカードを取り出した。そこには、
名前:亜貴
職業:ヒーラー
副職:ファイター
位階:18
パッシブスキル:敵意認識
モンスターのヘイトを数値化して読み取る能力。視界内のモンスターのヘイトを比較参照できる。
パッシブスキル:二段跳躍
所謂二段ジャンプ。空気を固めて、空を足場にする。
推奨武器:魔導具
亜貴は副職を既に取得していた。その意味を推測できないほどレンは馬鹿ではない。
「もう私、処女じゃないんだ。ごめんね」
凄絶に笑った龍人の笑顔。それはヨルムンガンドの眼光などよりも遥かに恐ろしいものだった。