第一部 ■温泉とわたし■
畳みの和室にはいると、ぬれた山のにおい、床のきしむおと、すこしカビ臭い布団。
シーツだけ、あたらしく清潔で、ノリまでかけられていたから、それだけ目立った。
20時。
「ばんごはんほんとに、いらんかね?」
「いらんて、たべてきたんだって」
バス停から旅館への道すがら何度もきかれ、なんどもこたえてる
「そんなやから、縦にひょろながなって横にふとらんのよ」
婆さんに会って、30分たってないのに、この人から産まれた気がしてきた。
「ここから温泉でてるとこ近いんだっけ」
「川添の道くだったらすぐよ」
「荷物もおいたし、いってくるよ」
婆さんは、ばんごはんのことをいいながら無料貸出のお風呂セットがあるからと、部屋をでてった。
部屋におかれたちゃぶ台の上に、手書きでかかれた温泉までの地図がおいてあった。
さっき、いれてもらったお茶をすすりながら。
地図をもって、窓から外を。
旅館は渓谷の上にあって、すぐそこに川の水流。旅行の下に、赤塗りの板でできた橋のような、遊歩道が作られていてそれを行くと着くらしい。
朽ちかけた橋の足元にぽつぽつあかりがともってる。つづきが山林の中につながって消えた。その先も夜でも歩けないではないくらいにはしてあるのだろう。
赤い橋。橋の手摺りには、陰気に、木の枝がしだれかかっていて、川の方へ誘う痩せた女の腕にみえた。
このあたりは、銅山と温泉宿があるので一時は流行ったところだった。いまはもう疲れて、使わなくなった余計なものを山に還していく、途中なんだろう。
集落をみても、廃校になった学校、猪や狸に荒らされた住人のいない家屋、朽ちて通行止めになった山道…ばかりだった。
感傷もほどほどに、
浴衣に着替えてると、
まだパンツと靴下なのに、婆さんはなんにもきにせず、ラップにつつんだおにぎりと、貸出お風呂セットをもって戻ってきた。
橋の下は、黒い流れしかみえない。二三日前に、雨がふって水かさがましたのだろう 穏やかではない。
ラップのおにぎりを、片手おてだまをしながら、かぞえうたを歌おうとし、やめた。
あたたかいおにぎりが、すこし うとましい。
自分の頬や耳や胸。
冷たい。
吸血鬼の自分には体温がない。たちこめた霧よりも、岩よりも冷えてる。
足元を流れる黒い川とおなしで、ただ、からだの真ん中にあるポンプが冷えた血をまわして朽ちていくのを待つ途中なのだ。
……。
携帯がなりだした。
「はい」
女の子からだった。
「どした」
「どしたじゃないです!!今晩はレポートの発表があるから、研究課題がいなくなったら困るっていいましたよね!!」
たいへんに怒ってる。
電波の先にいるのは、
14歳の魔女っ子学校バンパイアハンター科に通う ボインちゃん(巨乳)本名がはなちゃん。
「約束しましたのに!」
「いっしょの棺桶で眠ってくれたら、レポートに協力するって約束でしょ。約束破ったのはボインちゃん」
「いまどこです!?20分なら遅れてもだいじょうぶなの!」
「いまね、極楽浄土温泉宿の旅〜」「旅行なんてきいてません!勝手にどこまりいかれたら契約もあったもんじゃないです!」
穏やかではないかんじ。
魔女はいくつにかなると、故郷から離れ、一人暮らしの修業を(ジブリ、キキしかり)。使い魔を一匹はもつようになる。
黒猫や梟、蜘蛛、蝙蝠。魔力が未熟な内は、本人より下等なレベルの動物なんかと契約を結ぶ。
ビスケットを三枚、毎日あげるから、命令を聞いて−要領はこんなかんじ。
もちろん、魔女っ子学校のボインちゃんも、修業試験で、使い魔と契約を交わしてる。イカス吸血鬼と。
「ボインちゃんの魔力がもう少し強くなきゃ契約の効力はでないんだよ」
ただ、イカス吸血鬼の方がまだまだ魔力が強いから、こちらが任意同行してるというかんじになってる。
今回も、その使い魔をつかってなにかしらさせるような課題レポートなんだろうが、前回はレース網をしろとか、ぬかみそをつくれとかで…だいぶこりた。
「ほうきでくるといいよ、バスだと大変だったから」
「…−−…−!」
「ねえ?ゆっくりできるし」
「−−…−−
電波が遠いのか切れちゃった。
あちらも大変そうだか、こちらも用事があるし、
また旅館にもどったらで。
今回、この寂れた銅山と温泉旅館にきているのは、ただ羽を伸ばしたかったわけでない。
一様、郷土史料を見に訪ねるのが目的だ。史料館とはいえ、ちいさな倉庫のついた寺だが。
三ケ月前にアポをとって明日住職と会う予定になっていた。
ただ連絡がここ二日とれてない。
考えながらたらたら歩いていたら、霧とはちがうあたたかい蒸気が頬に触れた。
橋の先が終わったら、開けた先には岩場が。
天然温泉。
月がぼんやり空にあるし、暗くはあるが、人間と比べると断然夜目がきく。自分には充分な明るさだった。
「これだとボインちゃんは怖がるだろうね」
森が近かった。
瞼を閉じると、ひとつひとつのちいさな、土くれ、植物の葉や根、虫、獣、息きが重なって、得体のしれない大きな生命のかたまりになって揺れている。
その中に取り込まれて、自我を盗られるのではないか、そういうような感覚に襲われる。
怖がってなきべそをかく、ボインちゃんを想像してクスリとした。
こういうときは、たぶん、委ねてしまうしかない。自分よりも、おおきな流れを前に、あらがうのなら、大きな流れはもっと大きく避けがたい恐怖になる。
だから いっしょになって揺れているしかない。
そうしてるのが 気持ちいい。
「さてお湯につかりますか」
蝋燭を思い浮かべた。
人の寿命に例えたのはうまい話しだとおもう。
風に揺らいで灯る様は、危うくて人任せ。
消えるも灯るも、ふく風次第。
強い風にあらがって炎を強くすれば、一時は生き逃れても、蝋は減って寿命が縮まる。
蝋が生命なのか、炎が生命なのか、炎の消えた先、暗闇が生命なのか。
これもまた、気ままな風の采配なのだろうけど。
「あったかあー」
手早く旅館の浴衣をぬいで、温泉につかった。
吸血鬼には体温がない。冷めた死体のような身体が、ぬるくなってく。
「いきかえるわー」
血がぬくもるとなんだか母をおもいだす。
垂れてたけど乳房はおえきくて、あたたかだった。
父は吸血鬼のバツイチ子持ち(子は自分)で、再婚した父の嫁、母は人間だった。
父がいうには、前の妻は大柄だったが、新しいのは小柄で、小回りもきくからいい、ということだった。
自分は、このあたたかい母がすきだった。
大柄な母もすきだったが、吸血鬼だったから体温がなかった。
このあたらしい人間の母の体温が、あたらしかった。
母におぶわれて、思う。
もしかしたら、自分も、このまま、あたためつづけたら、生き物になるのかもしれない。
いまの自分は、どちらかといえば野を走る”生き物”より、土くれに近い。
−…ポシャ
誰もいないお湯がはねる音がした。