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『恋愛・結婚』

『おめでとう』

作者: ミオ
掲載日:2026/09/16

その日は、夫のお祝いだった。


夕方、家に帰ってきた。


玄関の前で足を止める。


ドアノブに、紙袋が掛かっている。


中には、きれいに包装されたお菓子が入っていた。


誰からだろう。


送り主の名前はない。


夫に聞いても、知らないという。


「誰だろうね」


そう言いながら、妻は紙袋を見つめた。


けれど、その瞬間。


夫の顔が、ほんの少し曇った。


「……もしかしたら」


それ以上は言わなかった。


妻には、わかった。


――前の奥さんかもしれない。


直接連絡をしてくるわけでもない。


訪ねてきて、顔を合わせるわけでもない。


ただ、こうしてドアノブに何かを掛けていっただけ。


まるで、


「私はまだ、あなたのことをみています」


そう言っているようだ。



私たちは、もう夫婦ではない。


それはわかっている。


離婚届も出した。


家も変わった。


生活も変わった。


けれど、長い年月を一緒に過ごしてきた記憶は、紙切れ一枚では消えない。


夫の誕生日。


子どもの祝い事。


夫の両親の行事。


自分がそこにいることが当然だった。


だから、ときどき思う。


「あの人は、今でも私のことを覚えているだろうか」


そして、もう一つ。


「私がいなくなって、本当に何も変わらなかった?」


その答えを確かめる方法は知らない。


だから、お祝いだと聞いて、お菓子を買った。


高価なものではない。


誰が見ても、ただの手土産にしか見えない程度のもの。


それを紙袋に入れ、元夫の新しい家へと向かった。


家の前まで行く。


呼び鈴は押さない。


名前も呼ばない。


ただ、ドアノブに掛ける。


そして、少し離れたところから家を見た。


明かりがついている。


TVの音だろうか、誰かが笑っている声がする。


彼女は、その声を聞きながら思った。


――私の全く知らない場所。


胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。



そして今、その紙袋はテーブルの上だ。


「どうする?…これ」


夫は答えなかった。


袋を見る。


かわいらしい包装。


昔から、あの人はこういうことだけはする人なの?


そう思った。


そして、ふと気づく。


この菓子を受け取ったことで、


私たちは今はそこにいない、誰かの存在について話している。


それが、妙に腹立たしかった。


紙袋を夫に差し出す。


「あなたがもらったんだから、あなたがどうするか決めれば?」


夫は黙っている。


「これ、元嫁さんからじゃないの?」


再確認するように聞いてみる。


「えっ?…ないだろ…ないない…気持ち悪っ」


「え?」


お互いそれ以上は、何も言わなかった。


ただ、その紙袋をテーブルの端へ移した。



その夜。


元嫁は自宅のキッチンで、袋からお菓子を取り出していた。


自分用に買った分だ。


ひとつ食べる。


甘かった。


けれど、味はよくわからなかった。


彼女はiPhoneを手に取る。


夫の名前を開く。


何か送ろうとして、やめる。


「今日はお祝いなんでしょ?おめでとう」


そんな一言さえ、やっぱり送れなかった。


もう自分が言う言葉ではない。


彼女はiPhoneを伏せる。


静かな部屋。


時計の音だけがする。


そして、気づく。


自分がドアノブに掛けたのは、お菓子ではなかった。


「まだ私は、ここにいる」


そう伝えるための、小さな印だったのだ。


けれど――


その家の中の人は誰も、自分を呼んではくれない。


彼女は暗い窓を見ながら、残った菓子をまたひとつ口に入れる。


甘さだけが、やけに長く口に残った。

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