『おめでとう』
その日は、夫のお祝いだった。
夕方、家に帰ってきた。
玄関の前で足を止める。
ドアノブに、紙袋が掛かっている。
中には、きれいに包装されたお菓子が入っていた。
誰からだろう。
送り主の名前はない。
夫に聞いても、知らないという。
「誰だろうね」
そう言いながら、妻は紙袋を見つめた。
けれど、その瞬間。
夫の顔が、ほんの少し曇った。
「……もしかしたら」
それ以上は言わなかった。
妻には、わかった。
――前の奥さんかもしれない。
直接連絡をしてくるわけでもない。
訪ねてきて、顔を合わせるわけでもない。
ただ、こうしてドアノブに何かを掛けていっただけ。
まるで、
「私はまだ、あなたのことをみています」
そう言っているようだ。
…
私たちは、もう夫婦ではない。
それはわかっている。
離婚届も出した。
家も変わった。
生活も変わった。
けれど、長い年月を一緒に過ごしてきた記憶は、紙切れ一枚では消えない。
夫の誕生日。
子どもの祝い事。
夫の両親の行事。
自分がそこにいることが当然だった。
だから、ときどき思う。
「あの人は、今でも私のことを覚えているだろうか」
そして、もう一つ。
「私がいなくなって、本当に何も変わらなかった?」
その答えを確かめる方法は知らない。
だから、お祝いだと聞いて、お菓子を買った。
高価なものではない。
誰が見ても、ただの手土産にしか見えない程度のもの。
それを紙袋に入れ、元夫の新しい家へと向かった。
家の前まで行く。
呼び鈴は押さない。
名前も呼ばない。
ただ、ドアノブに掛ける。
そして、少し離れたところから家を見た。
明かりがついている。
TVの音だろうか、誰かが笑っている声がする。
彼女は、その声を聞きながら思った。
――私の全く知らない場所。
胸の奥が、ほんの少しだけ痛んだ。
…
そして今、その紙袋はテーブルの上だ。
「どうする?…これ」
夫は答えなかった。
袋を見る。
かわいらしい包装。
昔から、あの人はこういうことだけはする人なの?
そう思った。
そして、ふと気づく。
この菓子を受け取ったことで、
私たちは今はそこにいない、誰かの存在について話している。
それが、妙に腹立たしかった。
紙袋を夫に差し出す。
「あなたがもらったんだから、あなたがどうするか決めれば?」
夫は黙っている。
「これ、元嫁さんからじゃないの?」
再確認するように聞いてみる。
「えっ?…ないだろ…ないない…気持ち悪っ」
「え?」
お互いそれ以上は、何も言わなかった。
ただ、その紙袋をテーブルの端へ移した。
…
その夜。
元嫁は自宅のキッチンで、袋からお菓子を取り出していた。
自分用に買った分だ。
ひとつ食べる。
甘かった。
けれど、味はよくわからなかった。
彼女はiPhoneを手に取る。
夫の名前を開く。
何か送ろうとして、やめる。
「今日はお祝いなんでしょ?おめでとう」
そんな一言さえ、やっぱり送れなかった。
もう自分が言う言葉ではない。
彼女はiPhoneを伏せる。
静かな部屋。
時計の音だけがする。
そして、気づく。
自分がドアノブに掛けたのは、お菓子ではなかった。
「まだ私は、ここにいる」
そう伝えるための、小さな印だったのだ。
けれど――
その家の中の人は誰も、自分を呼んではくれない。
彼女は暗い窓を見ながら、残った菓子をまたひとつ口に入れる。
甘さだけが、やけに長く口に残った。




