なろう系作品における転生者(幼少期)について
なろう系作品には「転生」という設定が数多く存在する。
現代日本で亡くなった主人公が異世界に生まれ変わったり、歴史上の人物や幼少期に転生したりする作品は、今や一つの定番ジャンルと言ってよい。
この設定自体は非常に面白い。現代の知識を持った人物が過去や異世界で活躍するという発想は、多くの読者にとって魅力的だからだ。
しかし、読んでいて毎回疑問に思うことがある。それは、転生した主人公が「赤ん坊や幼児であること」を完全に無視して行動していることである。
確かに転生者なのだから、生まれた瞬間から前世の記憶があり、自我を持っているという設定は理解できる。
問題なのは、それ以外まで最初から完成されていることである。新生児は大人のようには物事を認識できない。人間は生まれた瞬間から世界を鮮明に見ているわけではない。新生児の視力は極めて低く、目の前の親の顔ですらぼんやりとしか見えていない。色の識別能力も未発達であり、焦点も十分に合わない。耳も聞こえてはいるものの、大人と同じように言葉を理解できるわけではない。
さらに身体能力も当然ながら皆無である。首すら座っておらず、自分の意思で歩くことはもちろん、寝返りさえできない。脳そのものも発達途中であり、大人と同じ情報処理能力を持っているわけではない。
つまり前世の記憶が残っていたとしても、その記憶を自由自在に活用できるかどうかは別問題なのである。
ところが、多くの転生作品では生まれたその日から状況を完全に理解している。
周囲の会話を正確に聞き取り、自分の置かれた環境を分析し、さらには将来の計画まで立て始める。鍛える描写すらある。
まるで成人男性が小さな身体に入っただけであり、乳児であることがほとんど描写されない。これでは「幼児」である意味がほとんどない。
幼児らしさが存在しない。さらに不思議なのが、行動そのものも完全に大人であることだ。
大人顔負けの礼儀作法や会話能力を発揮する。家族も「この子は賢いね」で済ませてしまう。
いや、そんなはずはない。
普通なら恐怖を感じる。中世ならなおさら異常視される。特に異世界ファンタジーの多くは、中世ヨーロッパ風の世界観である。
医療も科学も未発達であり、人々は宗教や迷信を強く信じている。さらに作品によっては魔法や呪い、悪魔や精霊まで実在する。
つまり「普通ではない存在」が現実に存在する世界なのである。だからこそ、普通ではない子供は警戒されるはずだ。
大人のように喋る三歳児。異常な知識を持つ赤ん坊。政治や軍事について語り始める幼児。現代日本ですらニュースになるような存在である。
まして中世レベルの価値観なら、「悪魔が取り憑いた」「妖精に入れ替えられた」「呪われた子供だ」と考えられても何ら不思議ではない。
実際、ヨーロッパには取り替え子の伝承が数多く残されている。日本でも狐憑きや物の怪憑きといった考え方が存在していた。そうした文化背景を考えれば、転生幼児は歓迎されるどころか迫害される危険すらある。
しかし作品では誰一人疑問に思わない。「神童だ。」「天才だ。」これだけで終わってしまう。
史実を舞台にするとさらに違和感が強い異世界ならまだ作者独自の世界観で説明できる。問題は史実をベースにした作品である。
戦国時代や幕末、あるいは明治時代など、実際の日本史を舞台にしているにもかかわらず、幼児が大人と対等に交渉している作品は少なくない。
ある作品では、日本史上の有名人物が三歳になった主人公へ家督を譲る描写があった。能力を認めたという理由である。
しかし、いくら天才でも三歳児である。現実には字を書くだけでも難しい年齢だ。
まして家督相続など、家臣団が到底認めるはずがない。戦国時代の家督とは単なる財産相続ではない。何百人、何千人もの家臣の命を預かる立場である。政治、軍事、外交すべてを担う責任者である。
そこへ三歳児を据えるというのは、能力以前の問題である。家臣たちが反発しない方が不自然だ。
近代日本でも同じ問題がある近代日本へ転生する作品でも同様である。三歳児が企業経営者と交渉し、大人相手に契約を結ぶ。
設計図を書き、工作機械を自ら組み立て、新技術を開発する。
成人になる頃には現代を超える技術大国を築いている。確かに現代知識を持っているという設定は面白い。
しかし知識があることと、それを実際に形にできることは別である。例えば内燃機関の仕組みを知っていても、工作機械がなければ部品は作れない。材料工学や精密加工技術、計測器具、工場設備など、膨大な周辺技術が必要になる。図面を書くだけで機械が完成するほど工業は単純ではない。
さらに三歳児では手先の力も足りない。大人用の工具すら扱えない。身体能力という現実的な制約が完全に無視されているのである。
幼児である必要があるのか。そもそも、なぜここまで幼児を活躍させたがるのだろうか。
物語として考えれば、十歳や十五歳から始めてもほとんど問題はない。むしろその方が自然である。
読み書きもできる。体力もある。社会的にも一定の行動が許される年齢である。幼児期間を数ページで終わらせても、物語は成立する。それにもかかわらず、生後数日から活躍を始める作品が少なくない。
おそらく作者としては、「できるだけ長く人生を描きたい」「幼少期から無双させたい」「神童として周囲を驚かせたい」といった意図があるのだろう。確かに読者へ強烈なインパクトを与える演出にはなる。
しかし、その代償として現実味や説得力が失われてしまう。読者が「さすが転生者だ」と感じる前に、「いや、それは無理だろう」と冷めてしまえば、本末転倒である。
本当に必要なのは年齢に応じた成長ではないか。転生設定の魅力は、前世の知識そのものではない。
その知識を現在の環境でどう活かすかという過程にある。身体が未熟なら、その未熟さに苦労する。言葉が話せないなら伝えられない。大人に信用されないなら工夫して少しずつ認められる。そうした制約があるからこそ、主人公の知恵や努力が際立つのである。
ところが最初から何でもできてしまえば、転生という設定は単なる「最強主人公」を成立させるための便利な理由にしかならない。
幼児として生まれたのであれば、幼児ならではの限界を描くべきである。その制約を乗り越えて少しずつ周囲の信頼を得ていく姿の方が、物語としても成長が感じられ、読者も主人公を応援したくなるだろう。
転生者だからといって、生まれた瞬間から大人そのものとして振る舞わせるのではなく、「精神は大人でも身体は子供」という矛盾をどう描くかこそが、本来の転生作品の面白さなのではないだろうか。




