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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。

蝶は夜を越えて ――寄宿舎で、狼は初めて名前を呼ばれた

作者: サトウ
掲載日:2025/12/21

① 出会い

レオンは、完璧な貴族だった。

姿勢も、言葉も、表情も。

同じ年のはずなのに、僕のいる場所とは違う、ずっと遠いところに立っているように見えた。

近づこうとすると、目には見えない線を引かれる。

――ここから先には入るな、と静かに告げられているような距離感。


そんな彼と出会ったのは、貴族学園の寄宿舎の一室だった。

この国の貴族は、十五歳になると王都の学園に通わなければならない。

男爵家の三男に生まれた僕――フィン・アルディスも、王都から遠く離れた町を出て、数日かけて馬車で学園へ向かった。

窓の外に広がる王都は、故郷とはまるで違っていた。

人の数も、建物の高さも、空気の匂いさえも違う。

活気に満ちているのに、どこか埃っぽくて、胸の奥がざわつく。

――ちゃんと、やっていけるかな。

同室の子が同じくらいの爵位で、話しやすい人だといい。


そんな小さな希望を抱えたまま、入学手続きを終え、案内された寄宿舎へ向かう。

部屋の前で、一度深呼吸をした。

最初の挨拶は大事だ。

ここで失敗したら、三年間が気まずくなる。

よし、と気合を入れてドアノブを回す。


「男爵家のフィン・アルディスです。よろしくお願いします」

そう名乗ると、部屋の中にいた少年は、一瞬だけこちらを見た。

そして、静かに頭を下げる。

「伯爵家次男、レオン・ヴァルクスだ」


落ち着いた声だった。

あまりに落ち着きすぎていて、感情をどこかにしまい込んでいるような――そんな声。


――狩られる前の狼。


なぜか、そんな言葉が浮かんだ。

「ヴァルクス伯爵令息ですね。王都は初めてで……人の多さに驚きました。これから三年間、同室同士なので、何かあったら言ってください」

気づけば、必要以上に丁寧な口調になっていた。

高位貴族を前にすると、どうしても身構えてしまう。


「ああ」

短い返事。

それだけだった。

その瞬間、彼の視線がわずかに揺れた気がした。

けれどすぐに、仮面のような無表情に戻る。


僕は荷物を机に置き、思い切って彼の前に手を差し出した。

「改めて、よろしくお願いします」


窓から差し込む午後の光が、彼の淡い金髪を白く照らしている。

整った顔立ち、伸びた背筋、無駄のない動き。

けれど彼は、その手を見ることもなく、僕の横をすり抜けた。


「同室だな。学園では身分は関係ない。ヴァルクスでいい。先に教室へ向かう」

そう言い残し、彼は部屋を出ていった。

背筋を伸ばしたまま、迷いのない足取りで。

「……は、はい。ヴァルクスさん」

閉まった扉を見つめながら、胸の奥が少しざわついた。

同じ年のはずなのに、背は高く、体つきも引き締まっている。

仕草の一つ一つが、洗練されていた。

――仲良くなれるといいな。


そんな願いは、この部屋には少し場違いな気がした。

ふと視線を落とすと、机の下に白いハンカチが落ちている。

拾い上げると、角に蝶の刺繍が施されていた。

家紋でもなく、派手な装飾でもない。

糸目も不揃いで、明らかに手縫いだ。


「ヴァルクスさんの……かな」

少し迷ってから、ポケットにしまった。

高位貴族で、こんなものを持っている人は珍しい。

それだけで、胸の奥に小さな疑問が残った。



② 違和感

教室で再会した彼は、窓際の端の席に座り、古い本を読んでいた。

革の装丁は擦り切れ、角は丸くなっている。

何度も、何度も読み返された本だと一目で分かった。

「ずいぶん、古い本ですね」


そう声をかけると、彼は視線だけをこちらに向けた。

「君は、この本を知っているのか」

「はい。母が隣国の出身で……小さい頃、子守唄代わりに読んでもらっていました。英雄がドラゴンを倒す場面が好きで」


懐かしさから、つい背表紙に手を伸ばしてしまった、その瞬間。

「やめてくれ」

彼は、はっきりと身体を引いた。

「……すまない。この本は大事なんだ。人に触れられたくない」

「あ、ごめんなさい」

慌てて手を引く。

沈黙が、二人の間に落ちた。

それでも、気になっていたことを口にする。

「背表紙の裏、仕掛けがありますよ。文字が書けるようになっていて」

半信半疑のまま本を開いた彼は、息をのんだ。

そこに刻まれていたのは、隣国の、しかもかなり古い文字。

消えかけながらも、丁寧になぞられている。

「……教えてくれて、ありがとう」

そう言って、彼はすぐに本を閉じた。

ちょうど先生が入ってきて、会話はそこで終わる。

怒ってはいない。

けれど、彼の周囲の空気は、相変わらず張り詰めたままだった。



彼はとても優秀だった。

勉強も、運動も、学年で一番。

それに比べて僕は、みんなについていくのが精一杯だ。

授業中、一番に褒められるのは、決まって彼だった。

「皆さん、ヴァルクス伯爵令息を見習ってください。王都の財政難について、きちんと改善案を書けているのは彼だけでした」

教室がざわつく。


「――また、あいつかよ」

「あいつ、次男だろ。領地を継げないから勉強しかないんだろ」


僕が眉をひそめても、彼は涼しげな顔で何も感じていないように見えた。

「周りのことなんて、関係ないですからね。ちなみに、どんなことを書いたんですか? 参考にさせてください」

「……好きに見ていい」

差し出された用紙には、医療制度への具体的な改革案が記されていた。

「すごい……医療制度に着目したんですね」

「……」

反応は薄い。

昼食も一緒に取ってみた。

「ヴァルクスさん。隣、いいですか」 「ああ」

彼の皿の上には、トマトクリームのリゾット。

けれど、ほとんど手を付けられていない。

「トマト、好きなんです?」

「……食べられるものを食べるだけだ」

僕が食べ終えるのを見届けると、彼は席を立ってしまった。

皿には、まだ半分以上残っている。

――人と一緒に食べるのが苦手なのかな。


そんな日々が、三か月続いた。

雑談はできる。

授業の話もする。

けれど、距離は縮まらない。

彼はいつも、逃げ道を探している狼のようだった。

笑っていても、決して隙を見せない。


ある日、学園の中庭で、彼の父親を見た。

近寄れないほどの鋭さをまとった伯爵当主。

低く、冷たい声。

「顔も見せるな。あの売女と同じ顔で、私を見るな」

「……申し訳ありません」

レオンは胸元を押さえ、深く頭を下げていた。

声をかけることもできず、ただ立ち尽くす。

なぜ、あんな言葉を向けられるのか、理解できなかった。

けれど――

背を向けて去る彼の姿が、ひどく小さく見えて。

胸の奥に、重たいものが残った。


③ 触れ合い

部屋に戻ると、レオンは机に向かったまま振り返らなかった。

背中越しでも分かる。いつもより、空気が硬い。

「お前、今日はどこにいた――?」


低く、抑えた声。

「どうしました? 図書室に本を借りに行こうと、学園の中を少し……」


中庭で見たことは、言えなかった。

あの光景を知っていると悟られたら、彼はもっと遠ざかってしまう気がして。

レオンはしばらく黙り込み、視線を落とした。

「……なら、いい」

そう言った直後、彼は胸元を押さえ、顔をしかめた。


「どうしました……?」

「――近づくな」


鋭く、拒絶の言葉。

僕は足を止めたまま、何も言えなかった。

レオンは一度だけこちらを見て、そのまま部屋を出ていく。

扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。


「……言葉にされると、きついな」

独り言が、空気に溶ける。

本気の拒絶だった。

それでも――嫌われたくは、なかった。

彼に、近づきたい。

でも、どうすればいいのか分からない。

ふと、あの古い本が頭に浮かんだ。

彼が誰にも触れさせたがらなかった、大切な本。

僕は椅子に腰掛け、古語の辞書を開く。

小さい頃、母に教わった言葉。

もう忘れてしまったものも多いけれど、それでも――。

「……できることから、やろう」

その日から、語学の勉強を始めた。

朝は誰よりも早く起きて、古語をなぞる。

授業の合間も、昼休みも、辞書を開いた。

夜は、寄宿舎の灯りが消えるぎりぎりまで文字を追った。

レオンとは、ほとんど話さなくなった。

お互いに、声をかけないまま日が過ぎていく。


ある日、不意に問われた。

「……なぜ、そこまでする」

机越しに、レオンがこちらを見ていた。

「……えっと……」


理由はある。

けれど、それを言葉にする勇気が出なかった。

目を伏せたまま、何も答えられずにいると、彼はそれ以上聞かなかった。


そんな日々が続いた、ある夜。

苦しそうな、うめき声で目が覚めた。

夢かと思ったが、静まり返った寄宿舎に、乱れた呼吸がはっきりと響いている。

「……ヴァルクスさん?」

返事はない。

そっと近づくと、レオンは布団を蹴り、身体を丸めていた。

額は熱く、指先はひどく冷たい。

「先生を呼びます」

そう言った瞬間、彼の手が、僕の袖を掴んだ。

「……やめろ」

弱々しいけれど、必死な声。

「……ここにいろ」

その言葉に、胸がきゅっと締めつけられた。

僕は頷き、冷やしたタオルを用意する。

額に乗せると、彼の呼吸が少しずつ落ち着いていった。


「僕、小さい頃、よく熱を出したんです」

静かに話し始める。

「母は心配してくれましたけど、両親とも忙しくて……一人で寝てることが多くて。すごく、寂しかった」

身体が弱っているときは、心も弱くなる。

誰かに、そばにいてほしい。

「……だから、僕は」

小さく笑う。

「さみしくて、よく泣いてました。誰か来てくれって」

レオンは何も言わない。

けれど、目だけは開いて、こちらを見ていた。

「ヴァルクスさんって、迷子の狼みたいです」

ぽつりと、こぼす。

「強そうに見せて、弱いところは見せない。でも……一人で全部抱えたら、体がもちません」

沈黙。

「英雄だって、弱いときはあります。誰かの助けが必要なときも」

彼の喉が、小さく動いた。

「母が、あの本を読んでくれたとき……何度も文字をなぞっていました。最初は分からなくて。でも、知りたくて、勉強しました」

ゆっくりと、レオンの青い瞳がこちらを向く。

「……努力するんだな」

「努力しないと、追いつけません」

しばらくして、彼は小さく息を吐いた。

「……羨ましい」

「え?」

「お前は……自分で、選んでいる」

胸が締めつけられた。


「……着替えましょう。汗、冷えます」

「一人で……いや……手伝ってくれるか、フィン」


名前を呼ばれ、息をのむ。

シャツのボタンを外す指が、震えた。

背中に触れた瞬間、彼の身体が小さく揺れる。


「……期待されない方が、楽だった」

幼い声。

見えない棘が、彼の背中に刺さっているようだった。

「……無理は、しないでください」

そう言うと、レオンは小さく笑った。

「……ありがとう」



④ 変化

それから、レオンは少しずつ変わった。

「となり、いいか」

朝は並んで歩き、授業も自然と隣に座るようになる。

昼食時には、わざわざ席を空けて待っていたりする。

「このトマトの飲み物は、身体にいい」

「酸味、苦手なんです」

「……いいから」

差し出された杯を口にすると、思ったより甘い。

「……美味しい」

「この産地は、酸味が弱いらしい」

そっけなく言いながら、耳が赤い。


授業の合間には、本を広げる。

「この古語は?」

「文脈的には、こちらですね」

彼は素直に頷き、書き留める。

「僕、運動も得意じゃないし……でも、文字が好きです。いろんな国の言葉を覚えて、旅をするのが夢で」

辞書を引きながら語ると、レオンは静かに聞いていた。

「……お前は、本当に努力家だな」

そう言って、ぎこちなく頭を撫でる。

彼は、大切な本の古語を読み解くため、勉強を始めた。

その横で、一緒に文字を追う時間が増えた。



ある日、昼休みに庭園へ向かう途中、同じ学年の公爵令息に呼び止められた。

「お前、レオンの女か?」

胸元を掴まれ、言葉が詰まる。

「僕は、友達です」

「知らないで付き合ってるのか? あいつの母親は――」

「その人に触れないでください」


背後から、レオンの声。

彼は僕を引き寄せ、前に立った。

「僕なら、相手になります。ただし、婚約者の公女殿下と同席で」

公爵令息は舌打ちして去っていった。

静寂。

「……大丈夫か」

「はい。来てくれたので」

震える手を隠して笑うと、レオンは悲しそうに目を伏せた。

僕は、白いハンカチを差し出す。

「部屋に落ちてました」

「……母の形見だ」

驚いたように、こちらを見る。

「蝶って、自由ですよね」

「……自由なんて、なかった」

「でも、今はあります。まだ、小さな箱庭ですけど」


視線が重なる。

「……フィン」

「はい」

「次からは……名前で呼んでくれ」

「……レオン」


額が触れ、呼吸が近づく。

ゆっくりと、唇が触れ合った。


それは――

夜を越えた蝶が、

初めて安心して羽を休める場所を見つけた、静かな瞬間だった。



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