第二章(二)
「あれ、秀也は?」
「休み」
「え?・・・」
一人憮然と事務所に入って来た司に不思議に思いながらナオは訊いたが、素っ気無く返事をされて戸惑うように、視線を送った。司は向かい側のソファにどっかり腰を下ろすと、忌々しそうに髪をかき上げて、紺色の麻のジャケットの内ポケットからタバコを出して火をつけると、天井に向かって勢いよく煙を吐いた。
「 ったく 」
吐き捨てるように呟くと、再びタバコを吸う。
「休みって、どうしたの?」
手に持っていた新聞を閉じながら訊くと、ナオはテーブルに新聞を置いて代わりにカップを手に取った。そして、口をつけながらソファの背に体を倒した。
コーヒーを飲みながら恐る恐る司に視線を送る。
明らかに気嫌が悪い。ここで晃一が茶化せば司の逆鱗に触れる事間違いなしだ。デスクの方でマネージャーのチャーリーと話をしている事が幸いだった。
晃一にそっと視線を送ったが、司の呟くような答えに思わずコーヒーを吹き出しそうになってむせ返ってしまった。
ゲホっ、ゲホっ
「二日酔!? ・・・ ゲホっ、ンだよソレ?」
「知るかよ」
ナオを半ば睨みながら再びタバコを吸うと、煙を吐きながら灰皿にタバコを押し付けて立ち上がった。
「てことで、秀也抜きでやるからな。 さっさとやっちまおうぜ」
ナオは半分呆然としながら司を目で追ったが、ハッとしたようにカップをテーブルに置くと、司の後を慌てて追った。
「何だよ、秀也休みって?」
晃一とチャーリーは顔を見合わせると、同時に司を見上げた。
「具合が悪いんだ。だから休ませたよ。 仕方ねぇだろ、それに、大した事やる訳じゃねぇんだから一人位いなくたってどうってことねぇだろ」
「そりゃ、まあ。 ・・・ けど、紀伊也も来ないぞ」
「何で?」
「何だか知らないけど、どうしても抜けられない用事があって、午後からなら来れるって」
「 ったく」
チャーリーの気の抜けたような応えに舌打ちすると、二人から視線をそらし、何処かを睨み付けるような冷たい視線を放った。
少し緊張した空気が周囲を包む。
いつ飛び出して行くか分からないロケット花火を指先に持っているようなものだ。
「とにかくさっさとやっちまおうぜ。 オレも他にやりたい事あるから」
気を取り直したように言うと、ふぅっと溜息をつくかのように一息吐いた。
どうやら導火線の火は消えたようだ。
******
「え? オレが行くの?」
受話器を耳に当てたまま、もう片方の手で濡れた髪を拭いていた手が止まる。
「ごめん、・・・頼むよ」
少し弱々しい秀也の声に司の顔が曇った。
「具合、悪いの?」
「ん・・・、まぁ そんなとこ」
「じゃあ、今日はやめとく?」
「そういう訳にはいかないだろ。そこまでって訳でもないから ・・・ でも、ちょっと」
「分かったよ、・・・じゃ、後で行くから」
「ごめん」
車の運転が出来ない程具合が悪いのだろうか。少し心配になりながら受話器を置くと、再び手を動かしてキッチンへ向かうとカップにコーヒーを注いだ。
首にタオルをかけたままリビングに向かい、サイドテーブルの前まで来ると一口飲んでタバコの箱に手を伸ばした。
ふと亮の写真に目が留まった。
『秀也に亮さんの面影追ってるって事だよ』
昨夜、晃一に言われた言葉が突き刺さる。
そんな事・・・、言われなくても分かってるっ
くっと唇を噛み締めると、タバコの箱を無造作に取上げ、一本抜いて火をつけると勢いよく煙を吐いた。
仕度を整えて車のキーを掴むとチッと舌打ちした。
車の運転をするのは好きではない。雨の日の交通手段に使うならまだしも、他人を乗せて運転する事など司にとっては言語道断である。何故なら車の運転は運転手のやる事だと決め付けているからだ。
まあ他ならぬ秀也の為なら仕方がない。車のキーを回しながらエンジンを掛けるとアクセルを踏んだ。
ピンポーン
玄関のチャイムを鳴らし、ドアのノブを回してみるとすんなり開いた。
「秀也ぁ、大丈夫かぁ?」
玄関から呼びかけたが、こちらへ来る気配がない。
ふと心配になり靴を脱ぎかけて視線が足元で止まった。
明らかに婦人もののサンダルが2足ある。それに、見覚えのない男性用の革靴も。
?
急いで靴を脱いでリビングへ向かった。
!?
入ったところで一瞬立ち止まり、顔をしかめてしまった。
「何だよ、ひっでぇ匂いだなぁ」
思わず鼻を手で覆うと、リビングに横たわっている物体を横目にしながら秀也の姿を探す。
「ああ、ごめんな、司」
口を手で拭いながらキッチンから出て来た秀也が申し訳なさそうに司に視線を送った。
「 ったく、飲みすぎかよ。 ・・・ にしてはひでェな、何だよあれ」
半分呆れたようにソファの下で仰向けに寝転がっている男と、そのソファに毛布を下半身にかけて横になって眠っている女を顎でしゃくった。
「ああ・・・」
秀也も自分で嫌になる位にバツの悪そうな顔をすると、溜息混じりにリビングを見渡す。
昨夜は久しぶりに会った学生時代の友人達と飲み明かした。
何の束縛もなく、自由気ままに過ごして来た学生時代から卒業し、社会に出てから思わぬ現実にぶち当たり、皆各々色々な壁に悩まされていた。
皆が企業に就職する中、秀也だけが違う世界を歩み、異色の目で見られるかと不安を抱いていたが、それも束の間。秀也も歩む道が違うとはいえ、同じような悩みを抱えていた事に気付かされ、何かしらの安堵感を覚えると、つい時の経つのを忘れてしまった。
しかも、週末という事もあって、それが更に彼等を宴の興へと解放していった。
そして、取り分け仲の良かった友人と秀也の家で飲み直す事になったのである。
喉の渇きで目が覚め、体を起こした瞬間ズキンと鳴った頭痛に、秀也は思わずギョッとしてしまった。あと30分後には司を迎えに行かねばならない。
慌ててベッドを抜け、シャワーを浴びに行こうとしたが、その前に吐き気に襲われたのだ。
そして、リビングのテーブルに目をやると、目をそむけてしまった。
『ああ サイアク』
思わず呟くとキッチンへ入り、冷たい水を飲んで一息ついたところで、意を決して司に電話をかけたのだ。
「どーすんの、こいつら」
呆れたように司に言われ、秀也も溜息をついてしまった。
酒の空き瓶とグラスは何とか片付けたものの、酔いつぶれた彼等を運び出す訳には行かない。
「いいよ、とりあえずこのままで」
「ふーん、で、あれは?」
司の冷めた視線を辿って行くと、少しギョッとしてしまった。
そう言えば忘れていた。 彼女の存在を。
寝室のドアに手をかけながらフラフラ出て来ると、ちらっとこちらに顔を向け、一瞬ハッとしたように目を見開いたが、次の瞬間口元に手を当ててしゃがみ込んでしまった。
「あらら」
「わっ、大丈夫か!? ここで吐くなよっ」
慌てて秀也は駆け寄ると、肩を抱いて立ち上がらせ急いで廊下へと出る。
ったく
司はチッと舌打ちすると、キッチンへ行き、グラスに水をいっぱい入れるとそれを持って足早に秀也の後を追った。
「秀也、今日はいいよ。 テキトーにやっとくからこいつらの面倒見てやれ」
そう言って彼女の背中をさすっている秀也にグラスを渡すと去った。
******
「 ・・・ あん? 何言ってんの?」
打ち合わせも何とか半分程まで進め、休憩に入ったところで、タバコを指の間に挟んでぶらつかせている司に怪訝になって晃一が訊く。
「 ・・・、 ソファに女が一人、その下に男が一人、ベッドに女が一人、男が一人? 何だそりゃ。 ・・・、 おいっ 司、大丈夫か?」
ぶつくさ何やら呟く司の肩を小突いた。
「あ? あ、ああ・・・」
ハッとしたように晃一に向くと、慌ててタバコを口に銜えて火を点けた。
しかし、再び宙をボーっと見つめたまま何気に煙を吐く司に晃一は首をかしげた。が、昨夜の今日だ。司との気まずい距離に戸惑いを感じながらも司の様子を伺ったが、昨夜の事は全く気にしていないように思えた。それより、昨夜の出来事がまるでなかったかのようでもあった。
「なぁ、どうかしたのか?」
意を決して自分もタバコに火をつけながらちらっと司に視線を送ると、そのまま天井に向かって煙を吐いた。
壁に寄り掛かって溜息をついた司の隣に、同じように寄りかかると顔を覗き込んだ。
「大丈夫か?」
おどけたような真剣な目で晃一に見つめられ、思わずゴクンと生ツバを呑み込んだが、次の瞬間力が抜けたようにフッと笑ってしまった。
「大丈夫」
その一言に安心したように晃一は離れると、再び頭を壁につけた。
「秀也と何かあった?」
「 ・・・、フッ、またその話?」
少し間が開いたが、苦笑すると、タバコを吸いながら晃一にちらっと視線を送る。
チっ
晃一は舌打ちすると、司には視線を送らずにタバコを吸って天井に向かってゆっくり煙を吐いた。
「 ・・・、 ちょっとね、ヤキモチ」
「は?」
「秀也ん家行ったらさ、リビングに男が一人、女が一人寝てたの。で、も一人女が秀也の部屋から出て来てさ」
「はぁっ!?」
苦笑しながら言う司に驚いたように聞き返した。
「ちょっとね、疑っちゃった」
「ちょっとねって、何だよソレ。 あんのバカっ」
「違うんだよ」
「違うって、何が違うんだよ」
「 ・・、すっげぇ二日酔いだったの。笑っちゃったよ。 あーんだけキレーに着飾った子でも、ゲロゲロだったんだぜ。 しかも他人ん家で。 呆れたよ」
思い出したようにクスクス笑うと、再びタバコを吸った。
「 ・・・。 俺はお前に呆れるよ。その女が秀也と寝たんだろ? ったく、一発くらいかまして来いよ」
「ないよ。 秀也はそんな事しない」
「ホントかよ?」
「うん、ない。 秀也はそういう事するヤツじゃないって一番分かってんの、晃一だろ?」
持っていたタバコを晃一に向けて悪戯っぽく笑った司に、晃一は再び舌打ちした。
「 ったく、エライ迷惑な二日酔いだな」
晃一は吐き捨てるように言うと、灰皿にタバコを押し付けた。そして鳴っていた携帯電話を取り出すと、「紀伊也からだ」と言いながら電話に出たが、すぐに電話を司に渡した。
「もしもし・・・、うん、わかった。 すぐ行く」
電話を切って晃一に返すとタバコを灰皿に押し付けた。
「ごめん、ちょっと急用。 打ち合わせはまた明日にするから、ヨロシク!」
晃一の肩をポンと叩くと、唖然とする晃一を置いて走り去って行った。