第七章(二)
夕陽が射し込むと、四方を白い壁で覆われた部屋が淡いオレンジ色に染まる。
一人、ピアノを奏でていた司がふと顔を上げると、さっきまで窓際のソファに座っていた筈の秀也の姿が見えず、指を止めた。
ピアノの音色は止んだが、遠くで微かに波のさざめく音が聴こえた。
開け放たれた窓から心地好い潮風が入って来る。
誘われるように窓際に立った司は、肩を出し、首にリボンのように巻きついたホルターネックのふわっとした白いサマードレスを着ていた。
「秀也?」
窓から顔を出すと辺りを伺ったが、何処かで水の流れる音だけが聴こえて来る。
窓から離れ、部屋を出て一つ一つ扉を開けるが、どこにもその姿が見えない。
「秀也っ!?」
不安になって走り回る。
バンっ
思い切って玄関の扉を開けると、ガレージにある車に水がはねていた。
「司?」
声と共に車の向方からホースを持った秀也が顔を出すと、司に微笑んだ。
「秀也っ」
司は構わずにそのまま裸足で駆け寄ると、秀也の首に両手を廻してその胸に飛び込んで行った。
そして秀也を見上げると安心したように笑みを浮かべた。
***
「司?」
ふと安心したように微笑んだように見えた。
「司」
もう一度呼んでみる。
すると今度は本当に笑みを浮かべてソファに座っていた司が寝返りを打った。
夢でも見ているのだろうか
起こすのは可哀相だとも思ったが、呼ばずにはいられなかった。
「司」
ん・・・
「司」
え?
何度となく自分を呼ぶ声に、夢の中の秀也が自分を呼んでいるのだと思った。
しかし、目の前にいた筈の秀也の顔がいつの間にか何処かへ消えていた。
「司」
それでも秀也の声が聴こえて来る。
!?
思わず目を開けた。
突然醒めた夢に一瞬、自分は何処に居るのか解らなかった。
しかし、この独特の匂いが自分は病院の秀也の眠る病室にいるのだと思い起こさせた。
きっとまだ目の覚める事はないだろう。
そう思い込んで、がっかりしたように秀也の眠るベッドに視線を動かした時、目が合った。
え?
瞬間、時が止まってしまったかのように自分の目を疑った。
しばらく動く事が出来ずにいたが、「司」という秀也の呼ぶ声に、吸い寄せられるように立ち上がると、恐る恐る近づいた。
これは夢ではないだろうか
しかし、先程まで覆われていたビニルの無菌シートはなく、すぐそこに秀也が横たわっている。
「秀也」
かすれたような声で確かめるようにその名を呼ぶと、秀也は優しく笑みを浮かべて軽く頷いた。
司の手が秀也の頬に確かめるように触れた時、病室に射し込むオレンジ色に反射して神秘的に明るく光る琥珀色の瞳が、みるみる涙で埋まって行く。
「秀也っ」
瞬間、その場に崩れ落ちると枕元に顔を埋め、声を上げて泣き出してしまっていた。
わあっ という誰かの泣き声が聴こえ、病室のドアのノブを廻そうとしていた手が止まってしまった。
一瞬息を呑んだ晃一だったが、その泣き声が司のものだと分かると手を下ろした。
「秀也がいないとオレ、何も出来ないっ」
そう聴こえた時、晃一は一つ溜息をついて黙ってその場を離れた。
何やってんだ、俺・・・
中庭のベンチに腰掛けると晃一は両腕をベンチの背に広げ、空を見上げた。
昼間の太陽が眩しすぎるせいなのか、夏の夕暮れは何故か淋しさを覚える。
一人たそがれるにはちょうどいい。
ようやく仲間の最後が目を覚ましたのだ。
それも、一番倒れて欲しくなかった人物だったせいもある。目覚めた時の喜びはひとしおだった筈である。
なのに何故だろう、訳の分からない喪失感を覚えていた。
秀也が司の元に戻って来たんだ。 それでいいじゃねぇか
「何、期待してたんだろうな・・・」
晃一は呟くと、ビルの狭間に見える夕陽をじっと見つめていた。