第三章(二)
ソファに寝転がると、司は、さっき紀伊也に見せた一枚の紙切れが、目の前のテーブルの上の灰皿の中で灰になって行くのを見つめていた。
完全に燃え尽きるのを見届けると、天井に向かってふぅと大きな息を一つ吐いた。
「どうしたの?」
コーヒーの入ったカップを司の前に置くと、紀伊也は何事もなかったように、カップに自分の息を吹きかけながら座った。
「んー? ・・・、 なぁ 紀伊也、三鷹って覚えてる?」
先程、紀伊也の家に入って来た瞬間に見せた鋭い目付きから一転して、今はその微塵も欠片もなく至って穏やかに、それでいて気の抜けたように話す。
「三鷹? って、あの三鷹君?」
コーヒーを一口飲んで、紀伊也は不思議そうに聞き返した。
「そう、あの三鷹繁幸君」
言ったところで思わず紀伊也に呆れてしまった。
「何?」
司の呆けた視線が気になったのか、カップから顔を上げると、仰向けに頭の上で腕を組んだ司を見た。
「やっぱりお坊ちゃんだなぁ、お前ら。 一条君、三鷹君、・・ オレなんて司くん、だもんな」
ヤケに「君」を強調して言う。
「言いたくはないけど、お前だって」
「 はい はい はい はい 」
紀伊也のその先の言葉をわざとらしく遮ると司は両脚をポンと床に下ろし、組んでいた腕を外すとソファに座った。
そして、カップに手を伸ばす。
「でも、三鷹君って、確かロシアに留学中じゃなかった?」
そんな司に少しムッとしたが、すぐに気を取り直して話しかけた。
「そうなんだよな。 オレもてーっきり、そうだとばかり思ってた」
「そうだとばかりって?」
コーヒーを一口飲む司に訊く。
「それがさ」
ちらっと紀伊也に視線を送ると、カップを両手に持ったままソファの背に倒れるようにもたれると紀伊也に顔を向けた。
「会っちゃったんだよねぇ」
まるで会いたくなかったとでも言うようだ。
「え? どこで?」
「都内で。 しかも昨夜」
そう言うと、コーヒーを飲み、溜息をつくように息を吐きながらカップをテーブルに置くと、代わりにタバコを一本取って火を点けた。
煙を吐きながら再びソファの背にもたれると、コーヒーを飲む紀伊也を見つめた。
「なぁ、三鷹って、お前の事、知ってたっけ?」
「いや、知らない」
「そ、良かった」
ホッとしたようにタバコを吸うと、天井に向かってゆっくり煙を吐いた。
「司?」
「また、その内な」
紀伊也にはそれだけ応えると、紀伊也はそれ以上は訊こうとしなかった。
先程玄関のドアを開けた瞬間に見せられた一枚の紙切れには「気配を出すな」とだけ書かれてあった。
何故、口頭ではなく見せたのか、紀伊也にはすぐ理解できなかったが、身の危険を感じての事だったのだろう。すぐに従うといつもの通り、司にコーヒーを淹れてくれと頼まれ、そのまま台所へ入って行った。
司が帰った後、カップを片付けながら思い出していた。
三鷹繁幸とは、高校が同じだった。
が、クラスは一度も同じになった事がないので、すれ違った時に軽く挨拶をする程度だった。
父親が警視庁の幹部だったせいもある。彼は至って紳士的だった。
紀伊也と肩を並べて成績は優秀だったが、今ひとつ機敏さに欠けていた。そのせいか、誰よりも近寄り難いと言われていた紀伊也より、幾分社交的でもあったので、周りからも好かれていた。
また、大人達の主催するパーティーには必ずと言っていいほど出席しなければいけなかったが、三鷹のお陰でご婦人方やご令嬢方の相手をしなくても良かったというのは、言うまでもない。
******
やれやれ・・・ と呆れたようにホッとしながらこちらに向かって来る三鷹の肩越しに司を見ていた紀伊也は、自分の目の前で苦笑した三鷹に同じような笑みを返した。
「光月家の兄妹の人気は凄いな。特に司くんが帰って来てから人が増えたような気がするよ」
肩をすくめて三鷹は言うと、紀伊也の隣に立って、広間の中央で着飾った女性達に囲まれて談笑している司を顎でしゃくった。
「そうだな。 でも、司のお陰で俺達は彼女達の相手をしなくてよくなった」
そう言うと紀伊也は手にしていたグラスを口に当てた。
「いいの? 高校生なのに」
「アルコールは入ってないよ。 ただのトニックウォーター」
「だよな。 こんな所で現行犯補導なんてされたくないよ」
三鷹は笑うと、ウェイターに紀伊也と同じ物を注文した。
程なくしてトレーに運ばれて来るとグラスを手に取り、それを飲むと一息ついた。
「ねぇ一条君、君は確か司くんとは幼馴染だって聞いたけど、司くんの事知ってる?」
人の周りに誰もいないのを確認し、声を潜めて紀伊也の耳元で囁いた。
その瞬間、紀伊也の目が幾分鋭くなった。
「彼女に付き合ってバンドまで組まされているんだろ? 一人で甘やかされて育ったお嬢様だから大変だよな。僕から言わせれば、彼女は姫美子以上にわがままだと思うんだ」
「何が言いたい?」
紀伊也は三鷹には目もくれず静かに言うと、グラスに口を付けた。
「この前、偶然知っちゃったんだ、司くんの本当の姿。 君には忠告しておいた方がいいと思って」
その言葉に紀伊也は表情一つ変えず、三鷹を見つめた。
「司くんには逆らわない方がいいよ」
「何で?」
「彼女は本当は凄く恐ろしい人だ。 あれは人間じゃない」
「どういう事?」
「僕の父が度々光月家に行っていたのは知っていたんだ。でも、この前、たまたま光月のおじ様が来てね、それも司くんと一緒に。しかも応接ではなく書斎で何かを話していたんだ。それでちょっと興味をそそられて聞いちゃったんだ。そしたら ・・・ 」
三鷹はあの時の事を思い出すと、一瞬身震いした。
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「オレはあんたの指図は受けない。このオレに指示出来るのはRだけだ」
そう司は冷たく突き放すように三鷹の父に言った。
「生意気な口を訊く」
半分呆れたようだが少し嘲るように言い返した時、司に差し出された右手を見て顔色を変えると一歩下がった。
その手の平には何か黒い塊が乗っていた。
「三鷹君、余りタランチュラを怒らせない方が懸命だな。何をするか分からないぞ」
ソファの背にもたれていた光月亮太郎は、それ見た事かと言わんばかりの口調で、鼻で笑った。
「わ、分かった。では事の次第は全てタランチュラに任せる」
汗ばんだ両手を軽くこすり合わせると、デスクの上の書類を亮太郎の前に置いた。
「この二人を探して欲しい」
二つの写真を指して言うと続けた。
「これはもう15年前の物だ。だから難しいかもしれない。でも、やって欲しい」
「見つけてどうしろと?」
「もちろん捕らえたい。時効が迫っているんだ。出来れば明日にでも」
「明日? それは難しいな。 どうだタランチュラ、出来るか?」
先程からその写真を冷やかに見つめている司に訊いた。
「無理だ」
表情一つ変えずに言うと、「もう死んでるよ」と、付け加えた。
「死んでる? なぜだ?」
三鷹の父は驚いて司の肩をガッと掴んだが、ハッと気付いたようにその手をすぐに離した。
司の無表情に自分を見た目に、思わず背筋が凍り付きそうになったのだ。
「仕方ない。死んでるもんは死んでるんだ。こいつらの生気が感じないんだ。 でも・・・ 」
そして、もう一枚の写真を手に取ると、それを三鷹に見せながら、
「こいつに聞けば分かるんじゃないの?」
と、冷たく言い放ち、その写真をデスクの上に放り投げた。
「あんたの部下なんだろ? わざわざオレに確かめなくたって、直接自分で訊けよ。 それとも何? ・・・ 」
そこで一旦言葉を切ると、その冷たい琥珀色の瞳が嘲るように光った。
「あんたの部下が部下なら、息子も息子だな」
音もなくドアのノブを回すと静かに、しかし、素早く開けた。
余りにも突然に開いた扉に声も出ず、全身が凍りついたように固まってしまった。
そこに見たのは、初めて目の当たりにする、この上なく冷酷に自分を見下す琥珀色の瞳だった。
そのまま誘導されるようにソファに座らされた繁幸は、恐怖の余り失神しそうになっていた。
「オレの事を知られたんだ。始末は当然させてくれるんだろうな」
その言い方はまるで、捕らえた獲物を糸でくるみ、それを見つめながら足を研ぎ澄ましている主のようだ。
いつ牙を剥こうか、ほくそ笑む司に全身の毛が逆立つ。
「待ってくれ、R。 過ちとは言え、私の息子だ。将来は私の跡を継いでもらう。だからっ」
「では、今から鍛えるか?」
亮太郎は然程興味なさそうに、両手を膝の上に置いたまま肩に力を入れて全身の震えを何とか抑えている繁幸とその父を交互に見た。
「そうするしかない。 繁幸、お前は見てはいけないものを見てしまった。 が、いずれは知る事になる。 今、この場で死にたくなければ私の言う事を聞きなさい」
そう言われて繁幸はただ頷くしかなかった。
恐る恐る顔を上げて司を見れば、せっかく捕らえた獲物を仕方なく逃がさなければならなかったかのように、忌々しそうにこちらを見ている。
あの気取ったように誰に対しても横柄な態度の司とはまるで別人だ。
いやしかし、時折り見せる冷ややかな眼差しは、今目の前に居る司と同一人物なのであろう。
そして、「死ぬ」とは、この司に「殺される」という事なのだろうか。
繁幸は喉の渇きを覚えて、ごくんと生つばを飲み込んだ。
「で、さっきの続きだけど、こいつをどうすんだよ」
少し苛付いたように写真を手にすると、再びテーブルの中央に投げ放った。
一瞬、その写真を見た三鷹だったが、黙って亮太郎に視線を移した。
少しの沈黙の後、亮太郎はふっと静かに笑うと、司を見上げた。
「好きにしなさい」
その瞬間、司はニヤッと口の端を上げた。
「なら、今だ」
そう呟くように言うと、その冷たい琥珀色の瞳に妖しい光を放った。
「全ては闇の中だな」
司が呆れたように言うと、亮太郎は黙って立ち上がり、黙って司と共に部屋を出て行った。
それから数分後、三鷹家に一本の電話が入った。
「 ・・・ 死んだ?」
三鷹の父はそう一言呟くと受話器を置き、スーツを着て慌てて出かけて行った。
メディアには一切公表されなかったが、あの時、あの写真の男が突然死んだという事を繁幸は後になって聞かされた。
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「司くんは普通の人間じゃないから、君も気をつけた方がいい」
三鷹はそう言って、あの時の恐怖を抑えるようにトニックウォーターを一気に飲み干した。
「三鷹君、何故それを俺に? 他には?」
「え? ・・・ 言える訳ないだろ、そんな事。君だから言ったんだ」
あの時の恐怖を紀伊也には伝えなければならない。それがさも当然だという言い方に紀伊也は内心苦笑してしまった。
既にタランチュラの能力によって支配下されていたのだ。
それも、あの時の出来事を自分で伝えず、三鷹を使って紀伊也に伝えさせた事にも感心させられる。
しかし、その紀伊也もタランチュラの右腕とも言われる程の能力者である事を三鷹は知らないようだ。
確かに紀伊也の存在は殆んど知られていない。
高校を卒業してから三鷹は東京に残り、紀伊也はアメリカに渡った。
それ以来、互いに連絡は取っていない。
そして、紀伊也が日本に戻り、ジュリエットとしてデビューしてから、入れ違いのように三鷹はロシアに留学していた。
彼が何処で何をしているかなど、紀伊也にとっては全く興味がなかった。それは司にとってもどうでも良かった事なのだろう。
しかし、急に思い出したように三鷹の話を持ち出した司に紀伊也は何かしらの不安を感じた。
「面倒な事にならなければいいが」
カップを片付けると、一つ溜息をついた。