第二章(五)
外に出ると少し生温かい風が頬を撫でる。
一度、秀也の部屋の辺りを見上げたがすぐに顔を背けて歩き出した。
『秀也の事、何とも思ってないの?』
その単純な言葉が突き刺さるように痛い。
『秀也に亮を重ねるだろう』
思いがけない予感が辛い現実となってしまっていた。
それは司にも最初から解っていた事だった。ただ、認めたくなかっただけだ。
夏の湿った夜の空気がじわりじわりと纏わり付くように締め付けて行く。
不意に目の前が闇と化し、腹部に激痛が襲う。
っ!
息を吸った瞬間、独特なツンとした香りに包まれ、朦朧としてくると、いつの間にかその苦しさも消えていた。
******
『明日かぁ、・・・ 戻って来るのは分かってても淋しくなるよな』
『何言ってんだよ、2年なんてあっという間だぜ。 すぐだよ、すぐ』
そう言って司は笑うと、薄暗い天井を見つめた。
秀也の腕枕がやけに心地好く感じる。 秀也とこうしていると全てのしがらみを忘れる事が出来る。
能力者狩りのタランチュラから一人の女としての光月司になれるのだ。 自分を束縛する宿命から解放されていた。
しかし、それも今夜で最後だ。 明朝には日本を発つ事になっている。そうすれば秀也とはしばらく会えない。最低でも2年は会えなかった。
司には自信がなかった。
秀也を2年も待たせる事によって、心変わりしてしまうのではないかという事ではない。もしかしたら自分の方が心変わりしてしまうのではないか、そんな事でもない。それに、そんな事は司にとってはどうでもいい事だった。
始めから自信がなかったと言ってもいい。 何をそんなに恐れているのか、最後になってそれが何なのかはっきり分かってしまった。
秀也を秀也として見れるか、という事だ。
『え?』
秀也が何か言っていたがどうやら聞いていなかったようだ。
『大丈夫、浮気なんてしないから安心して勉強して来いよ』
秀也の優しい手が司の頭を包む。
『 ・・・。 別にいいよ、しても』
髪を撫でていた秀也の手が止まった。
『浮気』
その瞬間視線を感じて見上げると、驚いたようだったが苦笑している秀也がいた。
『可愛いなぁ、司のそういうとこ。 だから放っとけないんだよ』
体を反転させると、司の薄い唇に自分の唇を重ねた。
まだ、夜明けまでに時間があったが、司は体を起こして秀也の腕の中から抜けると身支度を整え、ベッドの端に腰掛けるとタバコに火をつけた。
『もう行くの?』
『うん』
『そっか、・・・ 気をつけて』
秀也の腕が司の腰に回る。
『秀也』
『うん?』
タバコを指に挟んだまま秀也の顔を見つめた。
『さっき言った事、・・・ 』
『 ? 』
『この前も言ったけど、秀也は秀也の行きたいとこ行ってくれていいから。 浮気って言葉は便利で簡単だけど、マジになってもいいから。 それにオレはお前の生き方を束縛する事は出来ないから、もう一度よく考えてみてよ。 ついでにオレとの付き合いも』
『司?』
『ま、いいや。 それはまた会った時にでも考えれば』
『司、俺 お前とは別れるつもりないよ』
秀也らしい言葉だと、思わず苦笑してしまった。
『じゃ、オレ 行くから』
立ち上がると、テーブルの灰皿にタバコを押し付けた。
振り向く事が出来なかった。
怖かったのかもしれない。秀也の表情を見ることが。そして司は、秀也に振り向く事もせず、アパートの部屋を後にしてしまった。
******
っく・・・
気付いた直後、腹部に痛みを感じた。
はぁっ はぁっ ・・・
ついでに息苦しさも思い出したかのように襲って来る。
しかし、手を患部に当てようにも動かす事が出来ず、余計に苦痛に歪んだ。
座り心地の悪い硬い木の椅子に座らされ、何重にもロープで手や足を縛り付けられていた。
人の気配を感じて顔を上げる。
薄暗いライトが眩しく感じた。
その下に見覚えのある男が立っている。
チッ・・・
思わず舌打ちした。
「そういう事か。 ずいぶんナメられたもんだな」
流暢なロシア語が蔑むように響く。
「手荒なマネはしたくはなかったが仕方がない。こちらとしても状況が変わったのだ。 早急に返事をもらわなくてはならなくなったのだよ」
少ししゃがれた低い声が探るように言って来る。
司はちらっとその後方にいるスマートな体格の男に視線を送ると、観念したように溜息をついた。
「で、このオレにどうしろと?」
「さすがはトップクラスの能力者だ。 我々の期待以上の働きをしてくれると思われる。 そこで、だ。 まずは君のお父上を説得していただきたい。我々にはどうしてもルートが必要なのだ。それも君のお父上の力を借りる事が出来るのであれば簡単に手に入るというものだ。しかも世界的に名高い貿易会社と言えばその信用も厚い。我々としては是非そのルートを使わせていただきたいのだよ。どうだね、簡単な事だろう。 君からお願いしてもらえばいいのだよ。 その君の能力を使ってね」
薄気味悪く笑うと、上着のポケットから葉巻を取り出す。
すかさず後ろに控えていた白銀の髪をした青白い男がライターを差し出した。
「オレは親父の仕事に興味はないからルートを使ってもらうのは勝手だが、一体何を運ぶつもりだ? 親父がごねてるくらいだから、よっぽど気に入らないものなんだろう。・・・ 例えばウランとかコカインとか?」
適当に言ってみたつもりがどうやら当ってしまったらしい。
葉巻を吸っていた初老の男の手がピクリと反応した。
司は内心呆れてしまった。何と分かり易いのだろう。が、同時に別のイヤな予感も走る。
「君はどうも透視能力も優れていると見える。 が、興味がないのなら余り詮索しない方がいい。それが君達の為だよ。 私も君自身の表舞台には興味がない。だから詮索するつもりもないし、邪魔するつもりもない。ましてや協力や応援などする気にもなれない。 君達のね」
そう言うと葉巻を吸って、司に向かってゆっくりと煙を吐いた。
思わず顔をしかめると、わざとらしくケホっ ケホっ と咽返った。
再び頭から黒い袋を被せられ、クロロフォルムを嗅がされると、左胸に走る激痛に耐えながら意識が遠のいていった。
全身を打ったような痛みに襲われた時、車の走り去る音と同時に、冷たい大きな鉄の扉から数人の人影が走り出て来て、彼等に抱き抱えられるように連れて行かれた。
っく・・・
再び気が付いた時、心臓の大きな鼓動に一瞬顔をしかめたが、柔らかな暖かい寝具に包まれている事に気付き、ホッと一息つくと自分の部屋の天井に向かって大きな息を一つ吐いた。
「お嬢様? お気づきになられましたか?」
優しい温かい声が心配そうに響く。
「ばあや」
乳母の杉乃が安心したように司の顔を覗き込んでいる。
思わず微笑んだが、不意に胸が締め付けられるように切なくなってしまった。
顔を背けると、「親父、帰ってる?」と、誤魔化すように訊いていた。
「はい、お嬢様が目を覚まされましたらお呼びになるようにと」
「そう」
体を起こそうとしてズキっと頭に痛みが走った。
杉乃に支えられるように起き上がると、水を一杯もらった。
ベッドから降りようとして今度は体中のあちこちに痛みが走る。先程の出来事を思い出すと腸が煮えくり返るようだ。
まったく、何度拉致をされれば気が済むのだろう。
幼少の頃より海外で一人で暮らして来たが、父親の仕事上のトラブルは全て司に降りかかって来る。 ただの金銭目的の誘拐もあったが、今回のようなものもなかった訳ではない。
ただ、今回気になったのは、司が能力者である事を承知しているという事だった。 しかし、司としても都合がいい事に、わざわざ探し出さなくても先方から現れてくれた事には、能力者狩りのタランチュラとしても血が騒ぐというものだ。
内心ニヤっと笑ったものの、指令が出される事によって、表向きの忙しい身に、更に鞭を打つようなものには些かうんざりとしてしまう。
父、亮太郎の書斎の扉をノックした時、一つ溜息をついてしまった。