第二章(三)
ビルを出て角を曲がった所に停めてあった赤いフェラーリに近づくと、助手席のドアを開け、何も言わずに乗り込んだ。
ドアが閉じられると同時に車は走り出した。
「で、オレにどうしろって?」
シートに体を深々と倒し、面倒臭そうに天井に向かって言うと、司は窓の外の空に目をやった。
スモークシェードの窓からでは空の色が曇ってよく分からない。
「とにかく連れて来いって」
ハンドルを握りながら前を向いている紀伊也はそれだけ応えた。
「それより気になる事聞いたんだ」
その言葉に、サングラスの奥から不気味な程の冷たい琥珀色の瞳が紀伊也を見上げた。
「ジャックが動き出すかもって」
が、とたんに冷たい瞳が呆れたように視線が外された。
「またぁ? もういい加減にして欲しいよなぁ。 オレらだってあいつらと遊んでるヒマはないんだぜ。 忙しいのに、どいつもこいつも ・・・、 ったく」
チッと舌打ちすると、司は天井に向かって大きく息を吐いた。
「どうする?」
「いいよ、ジャックはほっときゃ。 どうせアイツらのやる事はたかが知れてんだ。 ほっとけ」
シッシと、目の前の埃を追い払った。
しばらく二人は黙ったまま車に乗っていた。 そして、海沿いのとある巨大なビルのゲートをくぐり、地下へと潜るように車が入って行く。その中の2,3の無人のゲートを抜け、少し走らせた所で車が止まった。5秒程停止していたが、突然コンクリートの床に吸い込まれるように車が消えて行った。
しばらく降りた所で停止すると、今度はそのまま地面が動き出し、目の前の壁が両側に開き、その中へと吸い込まれて行った。
四方をコンクリートの冷たい壁に囲まれ、車が停止すると、司は助手席のドアを開けた。
「あ、そうだ。 打ち合わせは明日に延期したから」
そう言って車から降りた。ドアを閉めようとしたところで、思い出したようにルーフに手を掛けながら車の中を覗き込んだ。
「どうした?」
「 ・・・、 紀伊也さぁ、向方にいた時、酔いつぶれるまで呑みに行った事ある?」
「え?」
「あ、いや。お前がつぶれる事はないか。 ・・・、 そういう友達っていたの?」
「え? あ、まあ。 いたな、そういうヤツ」
「そ」
別にそれ以上訊く訳でもなく、そのままあっさり首を引っ込めるとドアを閉めた。
紀伊也にはその質問の意味が全く解らず不思議に首をかしげながら、壁に右手を当てるとその一部が開かれ、中へと入って行く司の後姿を見送った。
エレベーターの扉が開かれ、何のためらいもなく正面のカウンターへと歩いて行く。
受付の女性が深々と頭を下げた。
「応接でお待ちでございます」
「そ、応接ね。 ・・・ ねぇ、今日はどこ?」
片肘をカウンターに乗せながら少しうんざりして訊く。
「ロシアでございます」
ニッコリ微笑んで返す女性に司はチッと舌打ちすると、こぶしを軽くコンとカウンターに打ちつけ、廊下の奥へと歩いて行った。
応接室の扉の前に来た時には既にその表情はなく、黒いサングラスの奥には無表情で冷たい琥珀色の瞳が潜んでいた。
中へ入ると60歳代半ば程の男性が二人、黒い革張りのソファに向かい合って腰掛けている。各々の背後には黒いサングラスを掛けた体格の良い男達が二人ずつ立っていた。
何も言わずに黙って入って来た司に、ソファの二人が黙って視線を送ると、司はそのまま入口近くの一人掛けのソファに腰掛けた。
「どうぞ続けて下さい」
そう言う司のロシア語は、生粋のロシア人と言っても過言ではない程流暢なものだった。
何の表情も表さず、まるでコンピューターのように正確に通訳していく。
一時間ほど話を進めたところで、司の左側にいた男性が一つ溜息をついた。
「今日はこれ以上話ても無駄でしょう。我々としてもそれ以上の条件を呑む気にはなれませんよ」
と、英語で話しかけた。それに対して向かい側にいた外国人男性も
「そうですか。では改めてお伺いするとしましょう」
と、ロシア語なまりの英語で応えると立ち上がった。
「君のロシア語は大したものだな」
「どうも」
素っ気無くロシア語で返すと、男性は背後に立っていた男達を従えて外に出て行った。
扉が閉じられたとたん司は勢いよく立ち上がると、目の前で少し難しそうな顔をしている男性に向かうと
「いい加減にしてくれよなっ、親父の商談に一々付き合ってるヒマはないんだぜっ」
と、苛立たしげに言ってしまった。直後気配を感じてハッと振り返ったが、日本語で言っていた事を思い出すと気を取り直したように「じゃぁ 行くよ」と、背を向けた。
「司」
ノブを回しかけたところで呼び止められ振り向いた。
「何をするか分からん連中だ、気を付けなさい」
別に司の方を見る訳でもなく、手にした書類を見ている。
司も何も言わず、そのままノブを回してドアを開けると出て行った。
ったく 何なんだよっ、指令じゃなきゃ自分で雇えってーのっ
閉じた扉にチッと舌打ちすると、腹立たしげに一度、冷たいコンクリートの床を蹴ってエレベーターに向かった。
チン と音がしてエレベーターが止まると同時に司の目が鋭くなる。
サングラスの奥の琥珀色の瞳が冷酷な影に満ちて行く。
扉が開き、そのまま中へ入るとすぐにその扉が閉じられた。
「まだ何か用でも?」
丁寧に流れるようなロシア語が冷たく響く。
「我々のボスがあなたの事をいたく気に入りましてね。お食事にでも如何かと」
先程、背後に居た男とは違って、スマートな体格の紳士的な男だ。
「お誘いいただき光栄ですが、あいにく外せない用事がありますので遠慮させていただきたい」
冷静に返す司には全くと言っていい程隙がない。
こういう状況には慣れているのだろう。余裕の笑みすら浮かべている。
「それは残念だ。ではまた次の機会にお誘いいたしますよ」
それ以上何も言って来ないので少し安心すると、黙ったままエレベーターの扉が開くのを待った。
1階でエレベーターが止まると扉が静かに開く。
「では失礼します」
軽く会釈をし、司は外に出ると首を傾げて閉じられたエレベーターに振り返った。
「珍しい事もあるもんだな」
相手が能力者だと分かってはいたが、何の殺気も邪悪な気配も感じなかった。
互いに何の表情もなかったせいなのか、ただ妙に冷めた空気が流れていただけだった。
余り余計な気は使いたくない。
それ以上の詮索をやめると、気にする事もなく巨大なビルを後にした。