表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

湯殿

作者: あい太郎

 その温泉旅館は、山間の細道を抜けた先に、ひっそりと佇んでいた。

 木造三階建て、昭和の香りを残したその建物には、いかにも「曰くありげな雰囲気」が漂っていたが、私のような物好きにとってはむしろ好都合だった。


 都内での仕事に疲れた私は、静養を目的に一泊することにした。宿の名前は「しらさぎ荘」。部屋は二階の隅、角部屋の「葵の間」だった。


 案内してくれた仲居の年配女性は、どこか不自然に言葉少なで、部屋の設備説明を終えると、ふいに一言だけ付け加えた。


「お風呂は……一人で、お入りくださいね」


 それだけ言って、ふかぶかと頭を下げると、彼女は足音も立てずに廊下の向こうへ消えていった。


 私は一瞬、違和感を覚えたが、すぐに疲れのせいだと気を取り直した。


     *


 夕食は地元の山菜や川魚が並び、質素ながらも丁寧な味だった。

 日本酒を一合だけつけてもらい、ほろ酔い気分で部屋に戻る。旅館の中は静かで、他の客の気配はあまり感じられなかった。


 風呂は部屋付きで、昔ながらの木製の湯舟が据えられていた。蛇口を捻ると、ぬるりとした硫黄の匂いを含んだ湯が、かすかな音を立てて注がれていく。


 私は湯が溜まるのを待つ間、窓を開け放ち、夜風に当たっていた。


 すると――。


「……ねえ、一緒に、入っていい……?」


 耳元で囁くような声がした。


 驚いて周囲を見回したが、誰もいない。風が吹き抜けただけだろう、と自分に言い聞かせた。酔いのせいかもしれない。


 風呂場に戻ると、湯がちょうどいい具合に溜まっていた。

 服を脱ぎ、ゆっくりと湯舟に身を沈める。

 温度はややぬるめだが、体の芯に染み入るような心地よさがある。


 ふと、目の端に何かが映った。


 鏡だ。


 風呂場の壁に備え付けられた曇り鏡に、湯気越しの自分の姿がぼんやり映っている。だが、その後ろ――私の肩のあたりに、何か黒い塊のようなものが、かすかに揺れていた。


 私は慌てて振り向いた。誰もいない。


 心臓が早鐘を打ち始める。体が冷える前に、出よう。そう思って立ち上がろうとしたとき。


「一緒に、入って……いいよね?」


 今度ははっきりと、背後から、女の声がした。


 ぞっとして振り向いたその瞬間、風呂場の鏡に映った私の肩に――白い、細くて異様に長い指が、ゆっくりと這い上がっていくのが見えた。


     *


 翌朝、私はフロントに「急用ができた」と告げてチェックアウトした。


 駅までの送迎車の中で、運転していた若い男性に、昨夜のことを話そうとした。だが、どこかで止めた。


 それでも気になって、彼に何気なく尋ねた。


「そういえば、"葵の間"って、昔からある部屋ですか?」


 彼はミラー越しにこちらをちらりと見てから、ぽつりと答えた。


「ええ、昔から。でも……あの部屋、もともとは家族連れ専用だったんです。母子で泊まるお客が多かったですね」


「母子?」


「はい。……十年くらい前にね、事故があったんですよ。小さな女の子が、一人で湯舟に沈んで……」


 運転手の声はそこで止まり、窓の外に目をやった。


「それ以来、あの部屋、少しずつ風評が広まって……最近じゃ一人客ばかりです」


「……どうして?」


 問い返すと、彼はハンドルを握り直しながら答えた。


「**あの部屋の風呂に入ると、"誰かが一緒に入りたがる"って噂、あるんですよ。**子供が――寂しがり屋だったのかもしれませんね」


 その言葉に、背筋が凍った。


 私はもう、あの鏡を思い出すだけで、今でも体がこわばる。


 湯殿で聞いたあの声は、確かに私に問いかけていた――

 「一緒に入っていい?」と。

 だけど、あれはきっと、問いじゃなかった。


 もう、入っていたんだ。最初から。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
温泉旅館と和風ホラー合いますね! じわりとした怖さで温泉の情景が一気に冷えましたね……
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ