湯殿
その温泉旅館は、山間の細道を抜けた先に、ひっそりと佇んでいた。
木造三階建て、昭和の香りを残したその建物には、いかにも「曰くありげな雰囲気」が漂っていたが、私のような物好きにとってはむしろ好都合だった。
都内での仕事に疲れた私は、静養を目的に一泊することにした。宿の名前は「しらさぎ荘」。部屋は二階の隅、角部屋の「葵の間」だった。
案内してくれた仲居の年配女性は、どこか不自然に言葉少なで、部屋の設備説明を終えると、ふいに一言だけ付け加えた。
「お風呂は……一人で、お入りくださいね」
それだけ言って、ふかぶかと頭を下げると、彼女は足音も立てずに廊下の向こうへ消えていった。
私は一瞬、違和感を覚えたが、すぐに疲れのせいだと気を取り直した。
*
夕食は地元の山菜や川魚が並び、質素ながらも丁寧な味だった。
日本酒を一合だけつけてもらい、ほろ酔い気分で部屋に戻る。旅館の中は静かで、他の客の気配はあまり感じられなかった。
風呂は部屋付きで、昔ながらの木製の湯舟が据えられていた。蛇口を捻ると、ぬるりとした硫黄の匂いを含んだ湯が、かすかな音を立てて注がれていく。
私は湯が溜まるのを待つ間、窓を開け放ち、夜風に当たっていた。
すると――。
「……ねえ、一緒に、入っていい……?」
耳元で囁くような声がした。
驚いて周囲を見回したが、誰もいない。風が吹き抜けただけだろう、と自分に言い聞かせた。酔いのせいかもしれない。
風呂場に戻ると、湯がちょうどいい具合に溜まっていた。
服を脱ぎ、ゆっくりと湯舟に身を沈める。
温度はややぬるめだが、体の芯に染み入るような心地よさがある。
ふと、目の端に何かが映った。
鏡だ。
風呂場の壁に備え付けられた曇り鏡に、湯気越しの自分の姿がぼんやり映っている。だが、その後ろ――私の肩のあたりに、何か黒い塊のようなものが、かすかに揺れていた。
私は慌てて振り向いた。誰もいない。
心臓が早鐘を打ち始める。体が冷える前に、出よう。そう思って立ち上がろうとしたとき。
「一緒に、入って……いいよね?」
今度ははっきりと、背後から、女の声がした。
ぞっとして振り向いたその瞬間、風呂場の鏡に映った私の肩に――白い、細くて異様に長い指が、ゆっくりと這い上がっていくのが見えた。
*
翌朝、私はフロントに「急用ができた」と告げてチェックアウトした。
駅までの送迎車の中で、運転していた若い男性に、昨夜のことを話そうとした。だが、どこかで止めた。
それでも気になって、彼に何気なく尋ねた。
「そういえば、"葵の間"って、昔からある部屋ですか?」
彼はミラー越しにこちらをちらりと見てから、ぽつりと答えた。
「ええ、昔から。でも……あの部屋、もともとは家族連れ専用だったんです。母子で泊まるお客が多かったですね」
「母子?」
「はい。……十年くらい前にね、事故があったんですよ。小さな女の子が、一人で湯舟に沈んで……」
運転手の声はそこで止まり、窓の外に目をやった。
「それ以来、あの部屋、少しずつ風評が広まって……最近じゃ一人客ばかりです」
「……どうして?」
問い返すと、彼はハンドルを握り直しながら答えた。
「**あの部屋の風呂に入ると、"誰かが一緒に入りたがる"って噂、あるんですよ。**子供が――寂しがり屋だったのかもしれませんね」
その言葉に、背筋が凍った。
私はもう、あの鏡を思い出すだけで、今でも体がこわばる。
湯殿で聞いたあの声は、確かに私に問いかけていた――
「一緒に入っていい?」と。
だけど、あれはきっと、問いじゃなかった。
もう、入っていたんだ。最初から。