4 ー恋ー
日暮れが随分と早くなり、山々は紅色黄色に色付き始めていた。街中には春と同様に修学旅行生と観光客が溢れ、京都の人口が2、3倍に膨れ上がったような気さえした。俺達の店もアルバイトが更に増員されたとはいえ、忙しさはそれにも増していた。平日でも連日満員御礼の状況の中、俺の生活もまたバイト三昧になっていた。まぁ毎日スロットに明け暮れるよりは健康的だけれど、ただでさえ出席率の悪い大学を休みがちになるのは些かよろしくなかった。珠に自分が大学生であることを忘れてしまう程だった。
料理長は覚えたがりの俺にどんどん仕事を振ってくれた。魚の捌き方を教えて貰う為に、早朝に店に出て無賃労働をすることもあった。米を洗ったことさえ無かった俺が、色んな難しい名前のソースを作っている。しかもそれをお客様にお出ししているのだ。最近は肉の焼き加減もプロってきて、料理長が褒めてくれることも増えた。恵美が知ったら、きっと似合わないと笑うだろう。食べさしてやって、ギャフンと言わせたいくらいだ。どんどん仕事が増えていく俺を「バイトなのに」と気の毒がる者も居た。でも俺は、アルバイトがこんなにも充実したものであると期待していなかったので、想像以上の収穫に、喜びと遣り甲斐を感じていた。
料理人っていいよな。
自分の店とか持ったら面白そう。
そんな事も考えるようになっていた。料理長の盛り付けを目で盗んでは、あれが綺麗、これがカッコイイ、でもこれはこうした方がイケてるな、なんて生意気なことを思ったりもした。
パチスロでは得られなかった感覚。腐りかけていたこの俺に、少しずつ力が湧き始めていた。器用貧乏だった俺の中で、何かが少しずつ変わり始めていた。移りゆく季節の中を、俺は心からの笑顔で過ごしていた。
気付けば店の主力メンバーに昇格しつつあった俺は、年末年始も休むことなく働いた。毎日のように顔を合わせる固定メンバーの青木さんや加奈とも、もうすっかり仲良くなっていた。今日も勇哉が居ないにも関わらず、加奈の「面白いお客さんウォッチング」話で盛り上がり、すっかり遅くなってしまった。気付けば、休憩室以外の全ての灯りが消されている。
「あれぇ、まだ居ったんかいな。折角明日定休日やのに」
さすがに少し疲れた様子の小絹さん、イヤ、店長が盛り上がる休憩室に入ってきた。こうして小絹さんと帰り時間が一緒になるのは初めてだった。
「小絹っちの噂しててん」
元気いっぱいの加奈が、ヘトヘト顔の小絹さんにニタついた。
「何やさ、また悪口言うてたんやろ」
小絹さん、イヤ、店長はその細い腕を伸ばし、加奈に優しいパンチを見舞った。
「佐々木君がね」
えっ。
あさっての方向から声がした。青木は時々、こういう歪んだ性格を覗かせる。
「そうなん?」
小絹さんに睨まれ、俺は何故だか少し慌てた。
「ちゃいますよ、加奈さんですよ」
「やっぱあんたかぁ」
店長が両拳で加奈の顳かみを今度はあまり優しくない力加減でグリグリとやった。
「ちゃうよぉ、誰も何も言ってないぃぃ。こらぁ、キング」
加奈と戯れ合う小絹さんは、やはり「店長」ではなく「小絹っち」だった。『女の子』から『女性』に変わっていくお年頃。生きていたら、恵美は一体どんな女性へと成長していったのだろうか。見てみたかった。見せて欲しかった。
「さあさあ、皆帰るぞよ」
小絹さんは皆を促した。
「店長、俺送りますわ。俺の車やったらあの自転車くらい楽勝で乗りますんで」
いくら合気道をやっていても、この寒さには太刀打ちできない筈だ。古都の底冷えは何よりも恐ろしい。
「おおっっカッコイイー、キング。じゃああたしのバイクも乗っけてよぉ。この寒さで原付は地獄やで」
ヘルメットに顔を押し込んだ加奈が俺の腕を掴んだ。
「じゃあ紐で後ろに繋げたるわ」
「え、余計寒いし、意味ないし」
「寒中ダイエットでもしたらええやん。ちょっとはメットに隙間できるで」
俺はそう言って隙間のない隙間に手を差し込んだ。やはりムチムチの頬が行く手を阻み、手は指先でさえ入らなかった。
「ひっどお」
「だって丸さ倍増してますよ、先輩」
「言うな、言うな。バレてない」
「バレバレですって、その太り様。ねえ、店長」
急に話を自分に振られ、小絹さんはハッとした。何か考え事でもしていたかのような、彼女らしからぬ表情だった。けれど一瞬にして天使の微笑みを取り戻したので、俺はそれ以上心配することもなかった。
「確かに加奈、笑うと二重アごふっ」
「皆まで言うなっ」
加奈は慌てて店長の小さな口を押さえた。女の子二人はそのまま無邪気にハシャぎ合っている。俺は寒さに頗る弱いから、それを辛抱強く眺めていることはできなかった。
「店長の自転車ってあれですよね」
「わぁい、ええのん、ほんまに」
振り向いた小絹さんの頬も、すっかり冷気に紅潮している。早く帰らせろよ、加奈め。
「いいですよ、全然」
俺は後部座席のシートを倒し、小絹さんの自転車を積み上げた。
「ありがとぉ。でも微妙に遠いから悪いよ」
「遠いなら尚更危ないですよ。いいから乗って下さい」
どうでもいいから早く帰りましょう、寒いから。
「何なん、キング。小絹っちには優しいやん」
加奈が卑屈に茶化す。
「キャラの違いや」
「騙されてんで、アンタ。小絹っちは根性ババやで」
「しっ、佐々木君にはまだバレてないねん」
「いや、もう充分気付いてましたけどね」
「がびーん」
店長はどうもリアクションが古い。
取り留めのない会話の間に、俺は愛車の助手席に店長を迎え入れた。勇哉が知ったら怒るだろうなぁ、なんて思いながら。
加奈の原付を見送った後、俺達は空になった駐車場を出た。
「おっきいなぁ、この車。もしかしてマイカー?」
「はい」
「へえ、頑張ったんやなぁ」
そう言って小絹さんは車内をぐるりと見渡した。どう見ても大学一年生のガキごときが頑張って買える代物ではない。所詮は親のスネを齧って生きているのだ、この俺は。
「はい、まあずっとそれ用に貯めてたんで」
でも何となく、本当のことが言えなかった。
「ささキング、よく働くもんな」
店では決して呼ばれないその呼び方に、幼稚にも少し嬉しさを感じた。
「小絹さんには負けます」
俺まで調子に乗って呼び方を変えてしまった。そして甘い空気が二人を包む、と思いきや、小絹さんの大音量の腹の鳴る音でそのムードはいとも簡単に掻き消された。ガッカリしたような、ホッとしたような。
「何か食いに行きましょか」
俺の誘いに、小絹さんは赤い顔をしてお腹を擦った。
「さすがに今のは聞こえるやんな、申し訳ない」
「いや、しゃあないっすよ。あんだけ働きっぱなしじゃ食べてる暇無いですもんね。いっつも一人だけ賄いも食べてへんし」
俺は近くのファミレスまで車を走らせた。
平日深夜のファミリーレストランは、予想外に混んでいた。近くに大学があるせいか、下宿にまともな暖房のない貧乏学生達が狭いテーブルの上で勉学に励んでいる。そういや俺もテストが近かったっけ。だから最近、店で勇哉を見かけないわけだ。あいつでさえ休みを取っているのに、俺は毎日バイトバイトで本当に大丈夫なのだろうか。
「そういえば、ささキングって大学生やったやんなぁ?」
目の前の景色を見て、小絹さんもまた同じように思い出したらしい。
「そうですよ、現役バリバリですよ」
俺の表現も大概古い。
「いいなぁ、若いなぁ」
何となく、カッチーン。
「小絹さんも大して変わらんじゃないですか」
多分。
「変わるよお、もう二十一やもん。あ、ちゃうわ。もう日が変わったし二十二やわ」
店の壁に架けられた時計は、深夜零時を八分程過ぎている。
「ええっ、今日誕生日なんっすか」
「うん、そやで。しかも産まれた時間は二分前」
小絹さんはVサインを突き出した。2ってことだろうけど。
「なんや、それなら先に言って下さいよぉ。もっといいトコ食いに行ったのに」
俺は背もたれに倒れ込んだ。
「こんな時間にええトコなんか開いてへんやん」
小絹さんは紙おしぼりで手を拭きながら笑顔を見せた。
「あ、そっか。でも折角おめでたい日やのに」
何かしてあげられる間柄ではないけれど、ええ格好しいの俺は、なんとなく何かしてあげたかった。
「もうめでたい年でもないしなぁ。ええよ、ささキングが一緒に居ってくれただけで充分プレゼントやん。送ってくれてなかったら、極寒の中鼻水垂らしながらこの瞬間を迎えてたかも」
柔らかく微笑みながらさらりとそういう台詞を出してくるところが年上の女って感じ。三つも年下の学生バイトなんて、店長からすればきっと眼中にも無いのだろう。お遊びとはいえ、勇哉と二人で勝負なんて言ってた自分が少し恥ずかしくなった。
「いいんですか、その大事な瞬間に俺なんかと居て。俺、彼氏さんに殺されませんかね」
勇哉の為に、ここぞとばかりにサグリを入れてみた。
「大丈夫、そんなの居ないから」
ぱんぱかぱーん、聞いたか、勇哉!
「じゃあ取り敢えず乾杯っ。おめでとうございます」
「へへ、ありがとう。お疲れ様でした」
俺達は水の入った小さなグラスを鳴らし合った。
たおやめ。しなやかで優雅な女性。小絹さんには、高校の古典の授業で習ったこの言葉がぴったりだと思った。勤労っぷりは男顔負けだし、決して媚びたりするタイプではないのだけれど、どこか持っている雰囲気が上品で女性らしい。この人を目の前にすると、自分はますらお、雄々しく勇ましい男にならなければいけないような気になる。
だが実際の俺はスロットにハマり女の子を泣かすただのチャラい男でしかなかった。自分の意志に反していたとはいえ、それもまた俺自身であることに間違いはない。過去は決して消すことはできないのだ。たとえ未成年であろうとも、道徳的責任はすべて自分自身が背負っていかねばならない。
「ささキングはまだ十九なんやっけ」
小絹さんはメニューを俺に向けて広げた。
「はい。でも言うてる間にハタチになりますけどね」
「ピッチピチやな」
「それ完全に死語ですけどね」
「ぶっ、ごめんごめん。じゃあ今のうちに好き放題しときや」
「ぶっ、ってのも古いですけどね」
「いちいちウルサいなあ、男のくせに」
「すんません。でもそんなに変わりますかねぇ、ハタチと十九って」
なんかコドモ扱いされてるみたいで、ちょっと悔しかった。
「どやろ、学生やったらあんま変わらんのかなぁ。捕まったら実名が出るのと堂々とお酒が飲めるのとくらい? あ、あと選挙権。でも私はやっぱだいぶキタなぁ、ハタチになった時。そん時フリーターやったのもあるけど、年金やら税金やら保険やらが全部私に直で請求来るやん。それまでも自分は自立してるつもりやったけど、実際は結構親に助けてもろてたんやなぁってつくづく感じたわ」
そうなのだろう。どんなに親父を憎んでいても、今の俺はあの腐った親父の腐った稼ぎで生活している。生かしてもらっている。その父に殺意さえ抱いていたかつての俺は、まだ自分では一円たりとも稼いだことのないガキンチョだったのだ。
「ささキングはお正月も休みナシで働いてくれてるけど、実家に帰ったりするなら休み出してや。ちゃんと休ませてあげるから」
「はい。でもええんですよ、別に。帰ろうとすればいつでもすぐに帰れる距離ですし」
「神戸やったっけ」
「はい、そうです」
「その年の神戸の子って大変やったんとちゃうの。震災も児童殺傷事件も思春期真っただ中やろ」
この人は点と点を線で結ぶ力に長けている。
「そうそう、俺等もキレる十四歳とか言われてましたよ。めっちゃ近いんですよ、あの事件のとこ。ってか小絹さんよく覚えてますね」
「忘れんやろ、普通」
小絹さんは眉尻を下げて優しく微笑んだ。
俺も、俺もそう思っていた。でも人は皆次第に忘れていった。それは哀しいけれど仕方のないこと。関わった人間でなければ、いつか忘れてしまう。自らの身に痛みを味わった人間にしか傷跡は残らないのだと、俺は諦めていた。
「震災は俺が住んでたあたりは建物の倒壊とかは無かったんですよ。揺れるのはすんごい揺れたけど」
「京都でも結構揺れたもん。私、震災直後に代替バスとか使って三宮まで水とか持って行ったんやけど、予想以上に被害が大きくって、すんごい自分の無力さを感じたもん」
俺は水を沢山抱えて涙を浮かべる少女の小絹さんを想像した。俺はその少女に、心からありがとうと言いたかった。
「へえ、来てくれたんっすか。でもまだその頃中学生とかでしょ」
「うん、震災とサリン事件が中二」
「わお、ジェネレーションギャップ。俺小五」
「うっさいなぁ」
「ボランティア精神に溢れる中学生やったんですね。俺なんかは須磨の事件直後に『凶悪犯予備軍』って名付けられて呼び出し喰らってましたけどね」
「なにそれ」
「危険人物の根性を叩き直す、とか言われて、体育教官室でボコボコにやられました」
笑って話す俺を、小絹さんはしかめっ面で見た。俺の口からは封印していた筈の神戸の日々が次々と飛び出してくる。今まで誰にも触れられたくなかったことなのに、何故か小絹さんには聞いて貰いたいと思った。
「なにそれ、酷い。別に何かしたわけじゃなくて?」
「そうっすよ。俺とよくつるんでたタカって奴がいるんですけど、そいつなんかそれまで散々目ぇつけられとったから、ここぞとばかりに竹刀で気ぃ失うまで殴られよったんですよ」
「何なん、それ。許せへん」
小絹さんは顔全体を真っ赤にし、小さく首を横に振った。
「しかもそれは俺とそいつの二人の喧嘩ってことで収められたんです。ほら、当事者以外に目撃者が居らんから」
俺はヘラヘラ笑って頭を掻いていたが、小絹さんは目まで真っ赤にして、まるで自分のことのように怒っていた。
「嫌や、そんなん。許せへん」
「でも皆は違うって解ってくれてましたよ。他の連中とはよう喧嘩もしましたけど、タカと俺は一度も喧嘩らしい喧嘩をしたことなかったんですよ」
「でもその卑怯な暴力教師に復讐してやろうとは思わへんかったん?」
「小絹さんって意外と恐い言葉使いますよね」
「えー、でもそのままじゃ嫌やない? ほら、ヒーローが怪獣に負けたら納得できひんでしょ。そんな感じ」
小絹さんは眉間に皺を寄せた。
「俺等も俺等で決してヒーローではなかったし、学校では教師の力の方が絶対的に強かったし、反抗するよりは放っとこうって感じでしたね。それが余計にムカつかれたんでしょうけど」
「ムカつくから殴るって考え方がどうかしてるって。そんなんしつけでも何でもないやん。そんな人間が教師になるなんておかしいわ」
小絹さんは熱くなった。俺は話せば話す程、すっきりした気持ちになっていく。
「教師ってそんなもんとちゃいますか。そもそも人に何かを教えてやろうって考えからして驕り高ぶりじゃないですか」
「確かに! 自分の言うこと聞いて当たり前、みたいな態度の輩ばっかやったもん」
「輩って。小絹さんって意外に元ヤンですか」
「え、なんで? 違うよ、優等生やよ」
「じゃあウラバンやな。言葉遣いが恐いっすよ先刻から。店では『左様でございますか』とか『恐れ入ります』とか言うてんのに」
小絹さんは慌てて口を両手で塞いだ。もう遅いっての。
「ごめん、口汚かったやんな」
「いえ、全然大丈夫っすよ。逆に小絹さんも人間やったんやなってちょっと嬉しいくらい」
俺は意地悪く笑ってみせた。小絹さんは口を尖らせて上目遣いで俺を睨んだ。
「去年の夏には花火大会の事故もありましたしね」
突然口から零れた自分の言葉に、俺自身が驚かされた。己の気付かぬうちに、俺は自分の中の一番奥の扉を開いていた。思い出すことさえ辛くてできなかったことが、何故こんなにも簡単に口を吐いて出てきたのか、自分でも全く解らなかった。
「明石のやつやんな? あの辺なん、ささキング」
俺は小絹さんの柔らかな口調に胸が詰まり、小さく頷くことしかできなかった。
「大変やったんやな、小さい頃からずっと」
小絹さんは優しく微笑むと、運ばれてきたハンバーグステーキを頬張り始めた。俺はその姿を見て、女性に対して言う台詞ではないけど、頼もしいなと思った。
「ありがとうございます」
俺は弱々しい言葉を吐いた。
「へ? なんでありがとうなん?」
小絹さんは可笑しがった。
「なんとなく。皆の中では既に風化されてると思ってたから、神戸のこと」
俺は先刻から泣き出したいのを我慢している。そして目の前の年上のひとはそれに気付かないフリをしてくれている。きっと俺が一番辛いのは、昨年の事故が、恵美の自殺が、俺自身の中で風化し始めていることなのだ。
「そんなこんなで、お互い捻くれた人間になっちゃったんやね」
小絹さんは幼い声で言った。
「え、捻くれてるのは小絹さんだけっすよ」
「え、もう裏切り?」
「冗談っすよ。小絹さんもギリ新人類ですもんね」
「“ギリ”は余計やぞぉ」
小絹さんは頬を膨らました。俺は少しだけ笑った。
「新人類って何なんでしょうね」
俺は溜息混じりに呟いた。
「理解力と想像力のない大人達が、そうやって次の世代を突き放してるだけやよ」
「小絹さんも一応大人やん」
「一応、ね」
「あのオッサンも、昔は子供やったんやんな」
斜め前のテーブルに座る脂ぎった中年男は、スポーツ新聞のエロページを机の上に広げ、真っ赤な顔で酒臭い息を吐き、舟を漕いでいる。
「終わってるなあいつ。あんなんが親やったら、私でもグレるわ」
小絹さんは微笑みながらも鋭い視線でその酔っぱらいを刺し貫いた。
清らかだけど、影を持つひと。小絹さんもまた遣り切れない思いを沢山抱いて生きてきたのだろう。どういう過去を背負ってきたかは解らないけれど、きっとこの人にもタカや恵美、勇哉や俺と同じように、何か塞がらない傷跡があるような気がした。だからこの俺がこれだけお喋りになっているのだ。
「ごめん、折角の誕生日に俺のせいで暗い話んなって」
俺はわざとタメ口を利いた。もっと近い距離でこの人と話がしたくなったから。俺と会って間もない頃、勇哉は俺のことを『自分と同じニオイがする』と言った。その感覚が、今凄くよく解った。俺はこの女性から、間違いなく自分と同じニオイを感じている。
「ううん、私こそ理屈っぽくなってしもてごめん。あかん、あかん、眉間に皺ができてしまうわ」
小絹さんはその長い指で眉の間をピタピタと叩いた。いつも笑顔を絶やさない強さの裏には、何か深い悲しみや苦しみが隠されている。それに気付いたからこそ、俺は彼女を上司としてではなく吉村小絹としてしか見ることができなかったのだろう。人の上に立つには、彼女は剰りにも真直ぐ過ぎる気がした。
「たまにその顔、仕事中も出てんで」
「うっそ、ほんまに?」
「うっそ」
小絹さんははち切れんばかりに頬を膨らました。俺はその顔を指差して思いっきり笑った。するとその風船は更に大きく膨らんだ。
「でもあんだけ一人で仕事抱え込んで、それでいっつもああやって笑ってられるっていうのはホンマに凄いことやと思うで。俺も見習わなって思とうねんけど、気付いたら苛々してしもとうねん」
「私は阿呆やし何にも考えてないだけや」
小絹さんはへらへらと笑ってみせた。その表情からは何かを超えてきた人間の強さを感じ取ることができた。そしてそれと背中合わせの脆さも。
「俺もあんま考えてねぇけど」
俺も小絹さんを真似てへらへらと笑っておいた。
「そうや、ささキングから見て、私はちゃんと店長として認めてもらえるようになった? まだまだ?」
小絹さんは身を乗り出し、他意の無い上目遣いで俺を覗き込んだ。
「根に持つなあ。俺は最初っから認めてるよ」
「うっそばっか。なんか私が店長やって聞いて、やってられるかって顔してたやん。だからすぐに辞めるんちゃうかと思ってたねんで」
そんな風に思われていたとは。
「いや、若いし女の子やのにスゴいなって思っただけやん」
「ほんまかいな」
小絹さんは若くない反応で照れ笑いを浮かべた。
「でもな、人に仕事を振るんが下手やとは思う。何でもかんでも自分一人でしようとするやろ」
言いにくいことをさらりと言ってしまった俺は、小絹さんに断って慌てて今日二本目の煙草に火を着けた。
「痛いとこ突くね」
小絹さんは傍にあった灰皿を俺の前に差し出した。人の痛い所を突くのは俺の得意分野だから。俺も自分自身に何度突かれたことか分からない。
「人を信用できんのかもしれんけど、あれでは周りに居るモンは寂しいと思うで」
俺は横を向いて煙を吐いた。
「もうちょっと人のする仕事を信じたったらどうかなぁ。それも上に立つモンの仕事やと思うけど」
実働としては、小絹さんの働きっぷりは群を抜いている。でも、正直俺にとっては、料理長の爺さんの方がよっぽど尊敬できる上司なのだ。
小絹さんは偉そうなことを垂れる俺の目をじっと見て微かに頷いた。
「でも大していい給料出せてないし、あんまり色々やらすのも悪いかなぁと思って」
それは言い訳だ。小絹さんが店の誰にも信用を置いていないのは見ていて判る。皆は認めてもらおうとあんなに必死なのに。
「金貰った分だけ働けばそれでええって考えの人間は、少なくとも今の面子には居らんと思うで。俺だって料理長に色々やらしてもらえてんの、得したって思っとうし。給料とは別のプラスがあるからこそ、俺はここで働いとうんやで。楽で給料いいだけの仕事なら、他になんぼでもあるやん」
思い返せばムズ痒くなりそうな優等生的台詞が、俺の口から次々と飛び出してくる。真意なのか建前なのかは自分でもよく解らない。ただ解るのは、俺もまた何とかしてこの人に信用されようと必死なのだということ。人に信じてもらえない寂しさを知っているから。そして人を信じることのできない小絹さんの哀しさを、今痛い程感じているから。
「試しに小絹さんが抱えてる厨房の仕事、俺に振ってみてぇや」
俺は思いつきの名案に、姿勢を正した。
「えー、大丈夫ぅ?」
小絹さんは冗談めかした。迷惑なことを言っているのは解っていたが、俺は前に進まずにはいられなかった。この人の為にできることが俺にあるのなら、俺はそれを全力でやりたいと思った。俺は親友の存在があったからこそ、幾つもの壁を乗り越えることができた。人を信じることができない小絹さんのままでは、いつかきっと壊れてしまう。要らぬお節介なのは承知だけれど、俺は人を信じることの大切さを、彼女に一番知って欲しかった。
人はひとりでも生きていける、俺にはそうは思えない。もしそれが本当なのだとしたら、恵美はまだここで笑っている筈なのだ。
「信用できるまでは見張るなりやり直すなりしたらええやん。俺は全然気にせえへんし。小絹さんが自分以外の人間の仕事を信用できるようになるまで、俺は期待を裏切らんように頑張るから」
小絹さんは返答に困っていた。この人の口数が少ないから、俺は余計に多弁になってしまっている。
「俺を信じてみて」
人生で今まで一度も吐いたことの無いような、安価な口説き文句が口を吐いた。勘違いされそうな言い回しをしてしまったけど、俺は仕事を通して小絹さんの人間不信を拭い去りたかった。出しゃばり過ぎたのは解っている。いつかは辞めて居なくなる、たかが学生アルバイト。それは紛れも無い事実なのに、俺は小絹さんにそう見られているのが嫌で嫌でたまらなかった。
翌日、俺は久し振りに遊戯場へと足を運んだ。そこには予想通り、テスト勉強から逃げ出した巨大コアラが居た。
「おう、ササキョン。見てくれこの様」
既に優秀台を陣取っている勇哉の足元には、コインがぎっしり詰まったプラスチックの箱が幾重にも積まれている。
「もうそれでやめとけ。その金で今から遊びに行こうや」
俺は勇哉の袖口を引っ張った。
「もうちょっと頑張れるって。まあ、おまえも座れや」
勇哉は手を止める気配もない。俺は足元のコインが全て飲み込まれる図を想像した。
「おまえは打たへんのけ」
「うん。そんだけ噴いてる台の隣なんか、出る気せんもん」
俺は勇哉の隣に腰を下ろし、背もたれに顎を乗せた。
「どっか他の台見て来たらええやんけ。金なら出したんぞ、ほれ」
勇哉は福沢さんを数人差し出した。
「だからその金でどっか行こうって」
俺はまた勇哉の袖口を引いた。
「どこに行くねん。オレ達には他に行くとこなんてねぇんだよっ、なんつって」
勇哉は夢中である。俺も自分が何処に行きたいのか解らなかったけれど、何故かじっとしては居られなかった。
「今日、吉村店長の誕生日らしいぞ」
俺は勇哉に情報1を提供した。
「マジで!? その日にこんな大勝ちするなんて運命ちゃうん。でも店も休みやし、どうせ誰かと過ごしてるんちゃうけ」
俺は情報2を勇哉に提示する。
「小絹さん、今、彼氏居らんらしいぞ」
勇哉はようやくリールから目を離し、俺の方を向いた。
「でも連絡先とか知らんもん、オレ。おまえ知ってる?」
そういえば
「知らん」
「じゃあどうすんねん」
「ほんまやな」
早くも行き止まり。
「そや、加奈に聞いたらええんか」
「へ、勇哉、加奈さんの連絡先知ってんの?」
「知ってるよぅ」
勇哉は満面の笑みを浮かべた。
「よっしゃあ! この金でバースディパーチーしよやないけ」
「パーティーな、さっすが大蔵省!」
「その言い方、団塊の世代やぞ」
俺と勇哉は戦利金を携えて、加奈と小絹さんの元へと車を走らせた。好都合なことに、彼女達は既に一緒に居たらしく、十五分後には四人揃ってカーステレオをまるで無視して合唱していた。
「ハッピ」
「バースディ」
「トゥー」
「ミー」
「ハッピ」
「バースディ」
「トゥー」
「ミー」
「ハッピ」
「バースディ」
「ディア」
「わったし〜」
「ハッピ」
「バースディ」
「トゥー」
「ミー」
「いえ〜い、店長おめでとうございますっ」
「おめでとう、小絹っち」
「めでたい年でもないけど、おめでとうございます」
「うるさいぞ、佐々木ぃ。ってか順番おかしくない? 私が最後歌うのってめちゃ寂しいやん」
「そう文句言わんとって下さい。今日はガソリン代も含めすべてが勇哉のオゴりですから」
「やったぁ」
「店長、何処で何したいか、なんなりとお申し付け下さい。リクエスト通りの一日をオレが演出しますんで。なんならこの邪魔者らを降ろしてオレと二人きりで過ごす夜なんてのもアリですよ」
「俺の車じゃ、阿呆」
「そやハシモティ、てめえが降りろっ」
「あはは。加奈、口悪過ぎやし」
小絹さんも人のこと言えへんやん。と言いそうになって、慌てて口を噤んだ。なんとなく、昨日のことはあまり人に知られたくないような気がした。いや、そう小絹さんが思っているような気がした。けれど言葉に出さなかった俺のツッコミはちゃんと小絹さんに伝わったらしい。バックミラー越し無言の内に、俺と小絹さんの間では秘密の約束が交わされた。
「ほんまに何でもリクエストしてええのん?」
「いいですよ、金ならいくらでもありますし。愛もありますし」
「車もありますし」
「久し振りにバーベキューとかしたいんやけど、あかんかなぁ。寒いよなぁ」
「バーベキュー?!」
真冬である。
「え、やっぱナシ?」
目を輝かせた俺以外の二人は声を揃えた。
「アリ、アリ〜!!」
無しだろ、絶対。俺は花火の次に寒さが嫌いなのだ。
皆揃って阿呆である。俺達は大型スーパーでバーベキュー用の網、木炭、着火材、バトミントンセットを買った。食料品の買い出しは一番皆が揉め、時間がかかった。
「ちょー、加奈、モヤシなんか網目から落ちるやんけ」
「じゃあラップ買えばいいやん」
「それを言うならアルミホイル」
「ぶっ、ラップは溶けるぞ」
「うるさぁい、挙足取り」
「俺、鶏肉が食べたい」
「ちょっと橋本君、キュウリも焼くの?」
「これはそのまま齧るんです。何なら店長とオレで端と端からこう」
「なすびなんかいらんよぉ、こんなの昆虫の食べるもんやで」
「そしたらキュウリもあかんやん」
「せや、よく考えたら包丁とまな板がねえ」
「お腹空いたぁ。もうお惣菜でも買って誰かの家で食べようよ」
「言い出しっぺが何言ってんすか」
皆の空腹感がピークを越えてしまった頃、ようやく俺達は宇治川の上流まで到着し、日が沈まない内にと慌ただしくバーベキューを始めた。安物の包丁とまな板は辛うじて切れるという代物で、食材切り担当の俺はかなり手こずらされた。
「はーやーくー」
「お腹すいたー」
食べるのみ担当の勇哉と加奈が俺を急かす。
「うっさい、寒いんじゃ。キュウリでも齧ってろボケ」
俺と小絹さんが一生懸命用意した食材は、あっという間に皆の胃袋に収まった。
「火があるからかな、意外と寒くなかったね」
「でも水の冷たさはハンパねぇよ」
「でもささキングって、やっぱ手さばきいいよね」
膨らんだ腹を擦りながら、加奈が珍しく俺を褒めた。なんだか凄く嬉しかった。
「そっちの道に進んだらいいねん」
「それも考えてはいるけど」
「え、そうなん」
俺の返答に、全員がハモった。
「料理人か、食品関係の会社の商品開発とか…取り敢えず、なんか食に関わる仕事がええかなって、ぼんやりと」
「じゃあ小絹っちと一緒に店出したらええねん。最強タッグやん。そしたら私も雇ってな」
「オレも、オレも」
こいつ等を雇うのは別として、それはちょっと楽しそうだと思った。小絹さんが接客してくれれば、俺の料理は何倍にも美味しくなりそうだ。
「自炊とかしてるのん?」
小絹さんが俺に訊ねた。
はい、と答えたかったが、真直ぐに俺を見る彼女に嘘は吐けなかった。
「いえ、全然。包丁もまな板も家に無いですから」
俺は声を小さくした。
「こいつは作ってもらうん専門やから」
勇哉の不意の茶々に、俺は必要以上に動揺した。
「そ、そんなこと無いですよ! そんな人居ませんって」
俺の声は大きかった。
「じゃあ毎日ゴハンはどうしてるのかしら、夜の帝王ささキング」
加奈の悪ノリにも、うまく反応できなかった。
「ま、賄いがあるから。あとはコンビニ、牛丼、回る寿司」
「キングって、夜の帝王って意味なん?」
小絹さんが、まるで無垢な少女のように、俺にじゃなく勇哉にそう聞いた。俺は何故か息を呑んだ。勇哉の返答が怖くて、俺は奴の表情を祈りながらじっと見つめていた。
勇哉は優しい笑顔を浮かべた。
「いやあ、こいつ、見た目に寄らず純情でオクテなんで、そういう名前を付けたら少しはアクティブになるんやないかって、オレが命名したんです」
俺は肩を撫で下ろした。グッジョブ、勇哉。
帰りの車内では、一番ハシャいでいた加奈が爆睡していた。意外と可愛いその寝顔に油性マジックで落書きをしていた勇哉も、車が渋滞に巻き込まれている間にすっかり眠り込んでしまった。カーステレオから流れるR&Bが俺と小絹さんの沈黙を繋いだが、俺はその静けさも嫌いではなかった。暫くして、小絹さんはミラー越しに俺を見つめ小さく尋ねた。
「ほんまに、仕事振っていってもいい?」
「勿論」
車内の会話は、それだけで終わった。
早速次の日から、小絹さんは俺に厨房の在庫管理や衛生管理の仕事を振ってくれた。俺がチェックをした後、更に小絹さんがチェックに入り、抜けている箇所があれば容赦なく手厳しい言葉を浴びせかけられた。
「ミントが水に浸かってない。レードルがホテルパンに入れっぱなし」
「はい、すみません」
「これ全部、今日廃棄やん」
「はい、見落としてました」
青木の野郎、こんなところに隠しやがって。そんな言い訳も喉の奥へと飲み込んだ。
「ハイ、捨てる捨てる。発注数も変えといて。でないと明日のディナーで足りひんようなるで」
「はい、了解しました」
「あとこの仕込み時間の記入も抜けてるね」
「…はい」
「完璧って言ってたのに、残念でしたね」
「はい、すみませんでした」
今日こそは、今日こそはと臨むのだけれど、なかなか細かい“小絹チェック”を擦り抜けるのは難しかった。自分一人でやった部分は完璧でも、なかなか人に頼んだところにまで意識が及ばない。でもそんなことを言い訳にしてしまったら、ワンマンで働こうとする小絹さんを正当化することになってしまう。俺は「自分でやった方が確実で早い」と思ってしまいながらも、厨房メンバー皆で『打倒・店長』を掲げた。やがて全てのチェック項目を完璧にこなすようになると、小絹さんは発注処理以外はチェックさえしなくなった。嬉しい反面、自分の仕事に自信が持ちきれない俺は自分で何度も何度もチェックした。帰ってから思い出して夢にまで見たこともあった。
「よし、これで完璧なハズ」
「ハズって何よ」
「いや、完璧です」
「じゃあ帰ろっか」
「はい」
上がり時間が重なるようになった小絹さんを、俺は毎日車で送って帰った。二人で遅い晩飯を食いに行き、そこでも尚仕事の話をするのが決まりになっていた。
「今日は何食おっか」
俺は助手席でCDを漁る小絹さんに聞いた。
「明日休みやし、初詣行きたい」
「はつもうでぇ? もう三月やで」
「私まだ行けてないねん。あかん?」
小絹さんが俺の顔を覗き込んだ。
京女、恐るべし。
この人、実は可愛いのかも。俺は今更なことに気付き、恥ずかしくなって顔を逸らした。
「別に、ええけど」
俺は鼻の頭を掻いた。
「稲荷山で」
「へい、稲荷山で」
俺の動揺など何も知らない小絹さんは、BGMに合わせて透明なメロディーを口ずさんでいた。
ふもとにある病院の駐車場に車を停めた俺達は、コンビニで買った肉まんを頬張りながら、人けのない深夜の神社に詣った。暗闇に佇むお稲荷さんは恐ろしく神秘的で、風に揺れる木々がざわつく度に、小絹さんは身体を強張らせた。
「これじゃ初詣っつうより肝試しやな」
「この時間じゃね」
完全にビビってしまっている小絹さんが気の毒で、すぐにでも帰ろうと思った。でも小絹さんは若干引き攣った勇ましい顔つきでその歩を進めた。
無理しなくてもいいのに。
俺達は賽銭を放り投げると、二度手を叩いて目を瞑った。俺は暫くの間、隣で手を合わせる綺麗な横顔を見つめた。
小絹さん、この期に及んで店の繁栄とか祈願してんちゃうやろか。
だから商売繁盛の神様をえらんだのか。俺はそんなことを考えてなんとなくがっかりして、そんなことしているうちに自分の願い事を考えるのをすっかり忘れてしまっていた。ちっ、五円損した。
注がれる視線に気付いた小絹さんは、照れたように歪めた笑顔を俺に返した。
「なんやさ」
「いや、どうしよっか。どっかお茶でもしに行くか」
「折角ここまで来たんやから、もうちょっと上まで登ってみようさ」
「げー、こんな時間に登山すんのぉ」
「あ、もしかしてキングびびってるのん? 大丈夫よー鳥居はライトアップされてるから真っ暗闇ではないでちゅよー」
「うっせぇ、びびってねえって」
「じゃあ行こっ」
先刻まで怖がっていた筈の小絹さんが、不気味に浮かぶ真っ赤な鳥居のトンネルを潜っていく。俺は慌てて追いかけた。もしや小絹さん、狐に取り憑かれたのでは?
「確かに、暗さ云々よりも狐に化かされそうで、ちと恐いかも」
俺がそう言うと、小絹さんは悪戯な笑みを浮かべ
「置いてったろ」
と言って走り出した。俺は小絹さんがそのままお狐様に取り込まれるのではないかと心配で、必死に彼女の後をついて走った。
「ちょお、待ってえやあ。ええ年こいて無理したら腰抜かすぞ」
「うるさいわぁ、キングだって若いくせにもう息切れしてるやん。おっさんや、おっさん」
「うっさい、おばはん」
「あー、リアルに言うたらあかんこと言うたなあ」
俺は額に汗を浮かべながら、小さな背中を追いかけた。目前には石の階段が延々と続いている。追いつき追い越しながら無数の鳥居をくぐり抜けると、この街を灯す光の群れが眼下に広がった。
凄く、綺麗だった。
「綺麗やね」
小絹さんは息を切らしながら微笑んだ。
「夜景が綺麗やなんて、ベタかな」
照れた彼女の潤んだ瞳がとても綺麗で、俺は何も言えなかった。
俺達は下界よりも割高になった缶ジュースを買い、石の階段に腰掛けて暫くその眺めに浸っていた。まだ夜の空気は酷く冷たいけれど、できればずっとこうしていたいと思った。
「夜中でも街ん中はこんなに明るいんやな」
小絹さんの吐く息は真っ白になって夜風に溶けた。
「キング知ってる? 電気って作り貯めできひんねんで」
小絹さんは鼻の頭が赤くなった顔をこちらに向けた。
「ん? どゆこと?」
俺は巻いていた自分のマフラーを外すと、小絹さんの細い首に巻き付けた。彼女の小さな顔は毛糸に埋もれ、黒目がちなその二つの瞳だけが輝いていた。
「貯め置きができひんねん。だから今使ってる電気は、今作ってる電気やねん」
「へえ、そうなんや。じゃあ今もどっかでこの光が作られてるんやな」
大好きな街を眺めながら、俺達はそのまま心地良い沈黙に身を任せた。不思議と寒さは感じなかった。
「…人を信用するって、難しいな」
長い沈黙の後に運ばれてきた小絹さんの声は、低く沈んでいた。
「どしたん、急に」
俺は不意に飛び出した小絹さんの言葉に、酷く淋しい気持ちになった。彼女は俯いたまま黙っている。
「でも俺にはちゃんと仕事振ってくれてるやん。もっと皆に仕事を振れば、もっと自分が楽になるで」
俺は無理矢理笑顔を作った。小絹さんの顔からは、いつもの眩しい笑顔が消えていた。初めて見る表情だった。
「人に仕事を任してる状況が、私にとっては不安定でしんどいねん」
俺は更に悲しくなった。やっぱりこの人も、俺では駄目なのか。
「…しんどいんか」
俺の作り物の微笑みは粉々に砕け散った。すると小絹さんは急ごしらえの笑顔を俺に向け、わざとらしく声色を明らめた。
「キングがどうのって話じゃないねんで。自分のしょうもない性格のせいやねん。信用もちゃんとして委ねてるんやけど、なんか居心地が悪いねん」
「小絹さんは心配事がないと落ち着かへんのやな」
俺は力なく微笑み返した。
「長く働いてるとな、折角任せられるようになってきたと思ったらハイ辞めますっていうのが何回も繰り返されるやろ。飲食業ってバイトはおろか正社員でも離職率高いしな。自分のことしか考えてないだけなんやろうけど、またそれを繰り返すのが段々面倒になってきてな。いつ辞められても痛くないような仕事の振り方しかできひんようになってしもたねん」
「じゃあ、もし自分が倒れたらどうすんの。辞めなあかん状況になったらどうするん。他の残された連中は何もできひんのやで」
小絹さんは下を向いたままだった。
「会社の方針で年中無休、24時間営業になったらどうすんの。小絹さんは年中無休で24時間働くんか」
働くもんっていつもの調子で返してくるかと思ったが、小絹さんは静かに首を横に振った。
「仕事にしても私生活にしても、その人を信用して裏切られたり去って行かれたりすんのが怖いだけやねん」
俺の事を言っているのかも知れなかった。
「私…人見る目ぇないから」
そんなこと無い、と強く言える程、俺はまだ小絹さんのことを知らない。
「…キングは何でこの仕事、こんなに頑張ってくれてんの?」
小絹さんは視線を落としたままで俺に訊ねた。
「何でって…」
俺は言葉を続けることができなかった。ただの好奇心ではない。でも、小絹さんが抱えている重圧のひと欠片でさえも、結局俺は背負えていない。そうなのだ。俺もいつかは大学を出るのだし、バイトも辞めねばならぬ日が来るのだろう。勇哉とスロットを打つことも小絹さんや仲間達と一緒に働くことも、永遠に続くことではないのだ。あっという間に時間は過ぎていく。まだ考えなくてもいい、そう言っているうちにもやがて考えねばならぬ日が来るのだ。自分の未来は用意されているものではない。学生で無くなれば尚更、己の明日は己が描かねばならないのだ。時間割が決められていない毎日を、自分を律しながら生きていかねばならないのだ。
それでも俺は、ずっと此処に居たいと思っている。
「…人が何考えてるんか解らんのって、淋しいな」
小絹さんは尖った言葉を放った後、頬の涙跡を隠すように立ち上がった。
「そろそろ降りよっか。寒いねぇ、さすがに」
俺は立ち上がれなかった。何かしなきゃいけないのに、何もできない自分に絶望していた。
「小絹さん、自分に裏切られたことってある?」
俺は優しい笑顔に戻った小絹さんを見上げた。
「自分自身に? 解らん、どやろ」
「思い当たらんってことは、小絹さんはきっと今まで自分の信念に背くことなく生きて来れたってことやろ。俺は、小絹さんがそれだけ自分自身に信頼を置けてるんが羨ましい」
「他に頼るモンが無いからなぁ」
彼女はまた優しく笑った。この人は本当に一人きりでも生きていけるのではないか、そう思うくらいに、彼女の笑顔は眩しくて強かった。だけどそんな油断があったから、俺は恵美に淋しい想いをさせてしまっていたのだ。
じゃあ、今の俺はなんだ。
それだけ解っているのなら、どうして俺はまたこうやって立ち尽くしているのだ。小絹さんが何を求めているのか、俺には解っている筈だった。そして俺自身も同じ思いでいることに気付いていた。なのに、また俺は俺自身を裏切ろうとしている。
「帰ろっか」
逃亡癖の俺が急いで立ち上がると、突如現れた足元をふらつかせる程の強い山風が、二人の身体を容赦なく斬りつけて逃げた。
「ひゃあ、何この風!」
乱れ髪から覗く小絹さんの瞳は悲しく潤んでいた。
「大丈夫?」
俺は彼女へと伸ばしかけた両腕を、そっと戻した。
抱き寄せたかった。抱き締めなければいけなかった。なのに、俺にはどうしてもそれができなかった。
俺はまだ何かに怯えている。
恵美。
恵美。
俺を薄情だと責めるか。裏切りだと恨むか。心移りと嘆くか。
俺は。
俺は、小絹さんが好きだ。
久々に足を運んだ遊戯場には、予想通りの見慣れた顔があった。
七番台のお客様、ボーナスゲームスタートです。
俺の座ろうとしていたその台には、既に巨大コアラが陣取っている。俺の睨んだ通り、その遊戯台はメダルを量産していた。
ちきしょうめ。
「おお、ササキョン。店以外で会うの、久し振りとちゃうけ」
俺は仕方なくその横に座った。勇哉のその締まりのない嬉しそうな顔に、俺は心底ムカついた。そこには俺が座る筈だったのに。
「昨日、店で伝票番号777ってのを見てな、久々にやりたなってしもてん。ほんま久し振りやな、白シャツ蝶ネクタイじゃないお前を見んの。学校でも全然見んしなぁ、お互い」
「オレはちゃんと行ってるで」
「じゃあそんなに単位落とすなよ」
「てか、おまえ絶対大学に裏金入れてるやろ。あんなに出席率悪いのにひとつも単位落としてないってのは、ちょっとおかし過ぎるぞ」
クチバシを尖らす勇哉に、俺は自分の頭を二度指差した。
「ここが違うねんて」
俺は精一杯勝ち誇った。だが実際のところは、自分でも諦めていた学生生活が剰りにも順調過ぎるので、俺自身が一番気持ち悪かった。大学受験の時も思ったが、俺は誰かと間違えられているような気がする。
「絶対怪しいわ」
勇哉は訝し気に俺を睨んだ。俺もそう思う。
「なんやかんや言うてバイトもよう出てるよなぁ、お互い」
俺はすっかり消費速度の落ちた煙草に火を着け、深い息とともに有害な白煙を吐いた。煙の向こう側では、勇哉が目を上弦の月にして必要以上にニタついている。
「おまえは仕事以外にも楽しみがあるからなぁ」
「はぁ? それはお前やろ」
昔からトボケるのは大得意である。勇哉が言わんとしていることは解っていたが、俺は敢えて知らないフリをした。確信犯だと思われたくなかった。毎日一緒に帰る俺と小絹さんのことを、あの店の連中が噂しないわけはなかった。そしてそのことで店長としての小絹さんの評価に傷がつき始めていることも知っていた。
「まぁた、トボケて。もうええ加減カミングアウトしろって。こういうことはオープンにしてしまった方がわりかし丸く収まるもんやで。そしたらオレも約束通り焼き肉十回奢ったるやんけ」
そういえば、そんな勝負してたっけ。
「店長とは、ほんまに何もないで」
嘘ではない。確かに、手を繋ぐ隙も気持ちを打ち明ける機会もあった。抱き締めたくて仕方ない瞬間も、愛したい衝動も。だが俺はいつだってそれに気付かないフリをして、猛烈に身体を締め付ける激しい金縛りを頑として解こうとはしなかった。己の中に沸き上がる恋心が、やがて消えゆく一時の迷いであって欲しいと願っていた。
それが一番、丸く収まるのだ。
「オレに遠慮とかすんなよ」
勇哉の真剣な顔は相変わらず面白かった。
「頼まれたってせんわ」
「頼むからしてくれ」
どっちやねん。
「店長とはほんま仕事の話しかせんし、上司としてしか見た事無いで。向こうも三つ下の学生バイトなんか恋愛対象外やって」
勇哉は悲しそうな顔をした。
彼を信じていないわけではない。騙すつもりもない。ただ俺の激流のようなこの感情は、決して人目に触れさせることなく息の根を止めてしまわねばならなかった。俺の心に巣食う恋愛感情というものは、すべて押し殺してしまわねばならなかった。
それは目の前の親友の為ではない。恋焦がれる女性の為でもない。一年前に手放してしまった、哀れな少女のためなのだ。
愛していた、恵美。
ボーナス中に手を止めた勇哉は、地を這うような大きな溜め息を吐いた。
「店長の気持ちは、もう店の誰もが気付いてるで。おまえだってほんまは解ってんのやろ」
勇哉は鋭く尖った視線で俺を貫いた。俺は何も答えなかった。
「おまえ、なんかカッコええもんなぁ。オレが女やっても絶対おまえに惚れとった」
勇哉は無理に声を明るくさせた。
「お前が女やったら、相当キツいことになるな」
俺はその勇哉の寛大さに甘えた。
「ひどいぃ。妹はオレにそっくりやってんぞ」
「はは、せやったな」
二人の間には虚しい笑いが響いた。
「…付き合うつもりはないのんけ」
勇哉は厳しいような優しいような顔つきで俺を見た。
「店長に俺は似合わんわ」
俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
「そうかなぁ、オレは充分お似合いやと思うけどなぁ。もうちょっとおまえが大人にならなアカンけどな」
勇哉はいつものアニマルフェイスでニヤついた。
「俺はいつまでも子供で居たいんやもんっ、ピーターパンシンドロームやねんもんっ」
俺はこの期に及んで不戯けて返した。
いつまでも恵美と居たあの時のように。明日のことなど考えもせず、ただ毎日を笑って生きていたあの日々のように。過ぎてしまった季節を憶っていては、決して前には進めない。それが解っていても、俺があの夏から離れることはできない。
生きているものの方が、大切。
俺までそう思ってしまったら、恵美は本当に独りぼっちになってしまう。
「…まあ、後はおまえの気持ち次第や」
勇哉は俺の肩を二度、軽く叩いた。
「結局何が言いたいねん、お前は」
俺の遊戯台がようやくこの日最初のボーナスゲームをスタートさせた。再び手を止めた勇哉はヨタりながら立ち上がり、メダルがカチ盛りされた箱を椅子の上に重ねた。
「付き合うつもりが無いんやったら、おまえ、ちょっと構い過ぎてるんとちゃうか」
勇哉の言葉が、俺の鳩尾に鈍い痛みを走らせた。
「知らんやろ? 小絹さんの前にあの店の店長してた男、店の金全部持ち逃げしたの」
「え」
「小絹さんは知られたないやろからおまえには何も言ってないやろうと思うけど、その男と小絹さん、付き合うてたんやて。小絹さん、そいつに裏切られたくせに店の損害全部立て替えて、自分が後任引き受けたって」
「…知らんかった」
「それ以来、仕事以外では男はおろか他人とまったく関わろうとせんかった店長が、今はまるで別人や。おまえもまだ恵美さんのことで気持ちの整理ができひんっていうのはよう解る。でもそれが解るんは、事情を知ってるオレだけや。小絹さんの気持ちも考えろよ。いつまでも自分にばっかり浸ってたらあかんぞ」
語られた想い人の過去に、いつになく尖った勇哉の口調に、俺は酷く動揺した。
「どんな理由があっても、泣かすようなことしたらオレも加奈も許さんぞ」
表情は穏やかだったけれど、勇哉は激しく怒っていた。
「お前に何が解るねん」
俺は世の中で一番無意味な言葉を吐いた。誰も俺の気持ちなど解る筈がない。だけど、必死で解ろうとしてくれる優しい人達に支えられ、俺はこうして笑顔を失わずに生きて来れたのだ。なのに俺は、その温かさに背を向け、いつまでも還っては来ない宝物を想い続けている。俺は、救いようのない馬鹿なのだ。
勇哉はそんなろくでなしのこの俺に、人懐っこく微笑んでくれた。
「晃輔。おまえは筋を通そうとして、違ったとこへ行きがちや。もっと柔らこうなれ」
俺の肩を軽く二度叩き、勇哉は戦利品を手に去って行った。俺はその丸みを帯びた背中を、ただじっと見送った。そして心の霞みを打ち消すため、目の前で回転する絵柄達に夢中になろうとした。だが、いつものように上手く気を紛らわすことはできなかった。小絹さんの花のような笑顔が頭の中にチラつき、遊技になんか全然集中できなかった。
閉店の音楽が鳴り、俺はようやく手を止めた。壊滅状態の脳のままで店を出ると、頭上の星達が俺の心をいくらか癒してくれた。廃人のような俺の目の前に、待ち構えていた赤い原付が立ちはだかった。
「何や、お前も説教しに来たんか」
ヘルメットを外した加奈は、すでに目を赤く腫らしていた。
「…小絹っちが、店辞めるって言うてる」
「へ。何で」
そんな筈はない。そんな筈はなかった。
「あんたが行かな、あの子ほんまに辞めてまうで」
加奈は小さな少年のように、自分の袖口で顔面の水滴を拭った。
「んな阿呆な。店、どないすんねんな」
そうだ、どうするのだ。小絹さんの代わりができる人間なんて、誰一人居ないではないか。人を育てもしないで居なくなるなんて、そんな無責任なこと、小絹さんがする筈ない。
「そう思うんやったら、早よ行ったりぃよ!」
加奈も怒りに震えていた。
「何で俺が」
トボケようとしたその瞬間、加奈の厚い掌が、俺の左頬を激しく打った。
「あんた等二人の為に諦めたのに! あたしも勇哉も諦めたのに!」
痛い、痛い、ヒリヒリする。
「最ッ低っ! あんたなんかに惚れたあたしと小絹が阿呆やったわ! この顔だけのクズ男!」
加奈は猛スピードで俺の目の前から消えた。
「痛ってぇ…」
殴られたことなんて数え切れないくらいにあるのに、今までに感じたことのない激しい痛みが俺の左頬を脈打った。そしてその鈍い痛みは、いつまで経っても消えることはなかった。
加奈の気持ちに気付いてやれないほど、俺は小絹さんに夢中になっていた。恵美のことを思い出せなくなるほど、彼女の笑顔が胸に焼き付いていた。なのに、どうして俺は一歩も動けないのだ。
車に乗り込んだ俺は、そのまま愛車を神戸に向かわせた。今すぐに帰らなければいけない気がした。愛しい思い出の詰まった、唯一無二の故郷へ。大切な人達に囲まれ共に喜び、怒り、笑い、耐え忍んだ街へ。
きっと今、小絹さんは一人きりで苦しんでいる。膝を抱え、淋しさに凍えている。俺の温もりを必要としている。今すぐ、彼女の元へ行きたかった。彼女を強く抱き締め、俺は決してあなたの傍を離れはしないと伝えたかった。
でも俺はその前に、どうしても行かなければいけない場所があった。何よりも大切だった人が、裏切ることのできない人が、もう本当に何処にも居ないのだと納得しなければならなかった。涙が視界を曇らせる中、俺は必死にアクセルを踏み続けた。記憶の中でまで朧になってしまった恋人の顔を思い出そうと、俺は囈言のようにその名を呼び続けた。
恵美。
恵美。
お前が居なくなっても、俺は笑って生きていける。そのことが、何よりも一番悲しいことだったんだ。お前を死なせたのは俺かもしれないのに、俺はまたこうして笑っていられる。それが許されることなのか、俺にはまだ解らない。
俺の指先から、恵美のきめ細かい肌や柔らかな髪の感触が消えていった。あんなに苦しんだ胸の痛みも、日々薄らいでいる。解りかけていた、恵美がもう居ないってこと。だけど心の何処かで、恵美はまだ俺の故郷に居て、俺の帰りを待ってくれているような気もしていたのだ。だからこそ、思い出の地に帰って本当のことに気付くのを怖れていた。残酷な現実を受け入れようとする自分に怯えていた。
助手席には、小絹さんの香りが微かに染み付いている。何故、あなたの顔ばかりが浮かんでくるのだ。どうしてあんなにも愛しかった景色を霞ませるのだ。
恵美。
今、お前はどこに居る。
どうか俺の心変わりを恨んでくれないか。
家に着いたのは真夜中だった。案の定、泥棒と間違えられた俺を、金属バットを片手に持ったネグリジェ姿の勇ましい母が出迎えてくれた。俺は思わず爆笑した。
「晃輔かぁ。何しよんアンタ、こんな夜中にこっそり帰って来て」
「いや、起こしたら悪いかなぁと思って」
「相変わらずおかしな子やで」
久し振りに会ったせいか、母は以前よりも随分と明るくなったように感じた。俺が居ない方がいいのかな。ちょっとロンリー。
「誰かと思ったら」
俺達の声が聞こえたのか、てっきり不在だと思っていた親父が、ゆっくりと二階から降りて来た。会いたかったような、会いたくなかったような。
「おかえり晃輔。どや、一緒に飲まんか」
親父は俺の記憶にはない笑顔で、温かく息子を迎えた。
「はあ」
相変わらず俺はアドリブに弱い。誰がお前なんかと。そう怒鳴り散らすチャンスは、二度と巡っては来なかった。母は嬉しそうに微笑み、俺の背中をリビングまで押して歩いた。そして俺の耳元で
「最近はお父さん、ちゃんと家に帰ってくるんよ」
と囁いた。
「ふうん。でもだいぶ老けたね、あの人」
今まで散々放ったらかしにしてたくせに。俺は釈然としなかったが、母は以前に比べて随分と幸せそうな顔をしていた。こんな親父のことを、それでも母は好きなのだ。
人というのは、今が幸せであったなら、過去のことも許せてしまうものなのだろうか。
テレビの明かりだけに照らされたリビングで、俺と親父はビールを飲んだ。母は台所で甲斐甲斐しく肴を作ってくれている。
俺がまだ未成年だって解ってんだろうか、この人達は。
記憶の中では厳しかった父親を前に、俺は普段なら絶対に気にしないことを気にした。それにしても、家を出る時は挨拶さえしなかった親父と、こうして二人で酒を酌み交わすとは何とも不思議な感じがした。一年前には想像することさえもできなかったシチュエーション。お蔭で俺の胸には懐かしさや喜びは殆ど湧かず、まったく知らないおっさんと相席させられているような、なんとも言えない居心地の悪さだけを感じていた。
一年というのは、そんなにも長い時間なのだろうか。懐かしい場所に帰って来た筈なのに、何故だか俺の心は落ち着かないでいた。俺の居ない新しい時間が、この家族には流れ始めている。だがそれは悲しいことではなく、喜ばしいことであった。
「どうだ、調子は」
親父は静かな声で俺に訊ねた。睨み上げてやろうかとも思ったが、しなかった。久し振りに見る親父の顔は、やはり酷く年老いて見えた。思えば物心ついてから今の今まで、親父の顔をこんなに明瞭と見た事は無かったような気がする。思い出の中の親父は、いつも俺に背を向けていた。
「まあ、ぼちぼちやってます」
「そうか、ぼちぼちか。それはよかった。ぼちぼちが一番丁度いい」
親父は嬉しそうに微笑んだ。あんなに憎んだ父なのに、老いて小さくなった姿が哀れでならなかった。憎悪の対象がこんなにも弱ってしまったことが、俺には淋しくてならなかった。吐き気がするほど大嫌いだった親父。どうしても許す事のできない父親。それでも俺は、間違いなくこの人の息子なのだ。俺に似た目元を見ていると、とうの昔に捨て去った親父への僅かな愛情が、朧げながら湧き返るのを感じた。
「たまには帰って来いよ、近いんだから。母さんが寂しがってる」
そんなこと、この人にだけは言われたくなかった。父の独り言のようなその言葉を最後に、俺達は黙ったまま飲み続けた。酒豪だった筈の父は俺に注ぐばかりで、自分は妻の作る肴をつまむばかりだった。後で母から、親父が大きな病を患っていることを聞いた。生き死にに直面しなければ、人を愛することさえできない男だったのだ。この人も、そして俺も。
翌朝、俺はなんやかんやとウルサい弟を振り払い、恵美の墓前に立った。そこには僅かな骨が家族のものと一緒に納まっているだけで、恵美が居るわけではなかった。だが、多くの献花に埋め尽くされたその『家』を見ただけで、恵美はもう苦しんではいないのだと解った。沢山の愛に守られて、安らかな気持ちでいるのだろうと。
俺はその足で大蔵海岸へと向かった。歩道橋の端には、あの事故で犠牲になった人達の慰霊碑が建てられていた。俺は小さな花をそこに捧げ、静かに手を合わせた。志半ばで命を絶たれた人々、愛する人を突然失った人達。先立った者の無念と残された者の癒えることのない悲しみが、まだそこに浮遊しているような気がした。
海岸に出ると、白く光る吊り橋が視界に大きく現れた。風は刺すように冷たいが、とてもいい天気である。俺は小さな波音を立てる海に近付き、日の当たるベンチに一人腰掛けた。
ここに昔、恵美が居た。
もうその笑顔を俺に見せてくれることはない。その手を握ることもできない。その幼さの残る愛しい声で、俺を呼ぶこともない。
こうちゃん。
こうちゃん。
手を合わせても花を手向けても、恵美が俺の名を呼んでくれることはもう二度とない。あんなにも愛した少女の顔も霞み、耳の奥に残るその声も、明瞭とは思い出せなくなっていた。そんな俺を、恵美は責めてもくれない。恋人の俺が他の女性に惹かれ始めているというのに、恵美は怒ってもくれない。
恵美を愛した日々が消えていく。
小絹さんとの毎日が増えていく。
目の前の懐かしい景色は、涙でもう何も見えなくなっていた。恵美がここで息をしていても、俺は小絹さんに心惹かれていただろうか。恵美が隣で笑っていても、俺はその恵美を傷付けてまで、あの人を好きになっただろうか。
無意味だ。そんな考え、無意味だ。どんなことがあっても、恵美はもう何処にも居ないのだから。もう二度と、俺の元へ還っては来ないのだから。
死んでしまったら、そこで終わり。
彼女には、俺はもう必要ないのだ。
さくさく、さくさく。砂を踏みしめるその音は、俺の背後でピタリと止まった。
「帰っとうなら、連絡くらいせえよ」
太陽が彼方へ沈もうとしている。俺はきっと、こうしてこいつが来てくれるのをずっと待っていた。辛い時はいつも、タカが俺を助けてくれたから。
「お前と俺の仲やんけ。臭い嗅ぎ付けて来てくれたんやろ」
俺は冷え固まった身体を捻り、懐かしい顔を拝んだ。
「阿呆か、オマエのおかんが教えてくれたんやんけ。なんか思い詰めた顔して急に帰って来たって」
思い詰めた顔、か。やっぱり解る人には解るもんなんだな。
「でも何でおかんがお前に」
「知らんかったやろ。おれとオマエのおかんはメル友やねんで」
最悪だ。
「なんやオマエ、その顔は。情っけないのう」
真っ赤な目をした俺の頭を、タカは遠慮無しに殴った。
「なんかあったんけ」
俺を覗き込んだベビーフェイスに、申し訳程度に無精髭が二、三本生えていた。こいつもおっさんになっていくのか。俺もきっと、おっさんになっていくんだな。俺達はこれからどんな大人になっていくのだろう。哀しいような、楽しみなような。
「好きな人ができたんや」
「ほう、ええこっちゃやんけ」
「ええこっちゃかな」
「ええこっちゃや」
タカは目を輝かせている。
「どんな子や。べっぴんさんか」
「ん〜、ぼちぼち」
ぼちぼちが一番丁度いいのだ。
「恵美に似とうか」
「いや、全然似てないよ」
タカは意外、といった表情を浮かべたが、何処となくホッとしたようにも見えた。
「で、どんな感じなん。うまいこといきそうなんけ、この色男」
「もうアカンかも」
俺は夕凪に揺れる白い吊り橋を見つめた。
「相変わらずやなぁ、オマエも。んで、どこの誰やねん、それ」
タカは嬉々としている。
「バイト先の店長」
「てんちょおう?! 年上かいな」
「三つだけな」
「三つかぁ、ギリやな」
「ギリかなぁ」
「ギリアウトやな」
「アウトなんかい」
失敬な。
「でも、おれは昔からオマエには年上が合うと思ってたで。カッコつけで甘えたやしな」
何も言い返す言葉がなかった。
「でも、もう手遅れかも」
俺はしょぼくれた。
「なんでやねん」
「恵美がもう居らんってことが、今日やっとほんまに解ったんや」
「え、そこに居るで。オマエの後ろ」
俺は思わず振り返った。
「ちょお、怖いこと言うなや」
俺は背後を指差すタカに笑われてしまった。
「怖いって思うようになったか、遂に」
タカは嬉しそうにそう言った。化けてでも出て来て欲しい、俺はつい最近まで、本当にそう思っていたのに。
「墓参り、行って来たよ」
「幸せそうやったやろ、アイツ」
タカは、あの場所には恵美が居ないということを解ってそう言った。
「ああ、俺と居た時よりな」
俺は苦笑いでそう返した。
「晃輔が恵美のことを大事にしとったんは、皆もよう解っとう。恵美だってオマエには最期まで感謝しとったやないか」
「いいや、もっと大事にしてやれば良かった。もっともっと。たとえ同じように先立たれたとしても、後悔せんくらいに」
腫れの引かない俺の左頬を、小さな涙が一筋走った。
飽きずにウジウジする俺に呆れ、タカは大きな鼻息を吹いた。
「じゃあ今度こそ、その年増を大事にしたらええやんけ」
タカは白い歯を見せ、俺の背中を強く叩いた。
「年増とちゃうわ」
「怒んなよ、冗談通じんやっちゃねえ」
お前は冗談を言う”間“が悪いのだ。
「出逢うタイミングがちょっと早かったから、まだ気持ちが整理し切れてないんやろけど、そんな状態で好きになれた子なんやったら本物や、尚更大事にせなあかん」
タカは偉そうにそう言った。さすが、春には親父になる男。
「お前もユキのこと大事にせえよ。子供もな」
俺はタカの小さな肩を叩いた。ここに大切な家族を背負うのだ。本当に大丈夫かいな、こいつ。
「おれのことはどうでもええねん、想定外の話やから」
タカは照れ笑いを浮かべた。俺も一緒に笑った。
「オマエも、本気で惚れたんやろ」
募る想いを言葉にできず、俺はただ大きく頷いた。
「よっしゃ、じゃあ今から行こ」
タカは俺の腕を力任せに引っ張った。
「行くって何処へや」
「彼女んとこや。オマエだけに任せとったら、今世紀が終わってまうわ」
「わかった、わかったって。俺一人で頑張るから、お前は来んなって」
「おれも見てみたい」
「結局はそれやろ」
「バレたか」
「間に合うかなぁ、まだ」
俺はまた尻込んだ。
「知るかボケ。間に合わせるんじゃ、早よ行って来い」
「わ、わかった」
「んでひとつ聞きたいんやけど、その左ホッペはその子にやられたわけ? それとも違うオンナ?」
「ち、違う子やけど」
「オマエもやるなぁ」
「違うねん、そんなんと違って、その子の代わりにやられたってかなんつーか」
「はは、なんでもえーわ、行って来い」
俺はタカに押し出され、よろめきながら走り出した。
「うまいこといったら、近いうちに連れて帰って来いよ」
俺は憑き物が堕ちたような清々しい気持ちで、見送るタカに大きく手を振った。
車の鍵を握りしめ、息を切らして階段を上った。海岸を見下ろすと、もう其処にタカの姿はなかった。俺と違って、奴は一挙一動が恐ろしく速い。同じ街に生まれ育った俺達は、似ているようで、全く違う人間だった。足りない部分を補い合い、俺達は支え合って生きてきた。
「俺もそろそろ、タカ離れせんといかんな」
ようやく歩道橋に差し掛かった俺の足は、そこで再び動きを止めた。小さな慰霊碑の前には、静かに手を合わせる天使が居た。今、一番逢いたい人。俺にとって何よりも大切な存在。天使はこちらを振り向くと、優しく優しく微笑んだ。
「…何で、小絹さん…」
幻覚かとさえ思った。小絹さんは静かに立ち上がると、頬を転がる涙を拭った。
「橋本君が、あいつ待ってたら今世紀が終わってしまうから、行ってやって下さいって」
彼女は俺の阿呆面を見つめ、声を出してころころと笑った。
タカと勇哉。お前達は俺以上に俺のことを解ってるよ。
参った。
「…ごめん、私何も知らんくて、自分のことばっか」
小さく震える小絹さんを、俺は両手で力一杯に抱き締めた。ずっとずっと、そうしたかったように。
「俺、小絹さんが好きや」
一番伝えたかったことが、涙と一緒に溢れ出す。俺の腕の中で、彼女は何度も何度も頷いた。
ごめんなさい、随分待たせてしまいました。もう絶対に、あなたに淋しい想いはさせません。
そう、俺はもう二度と、大切なものから手を離さない。
決して断ち切ることのできない恵美への想い。だが、それに負けないくらい確かな想いが、俺の胸を占めている。俺の心に棲んでいるのは儚く散った少女ではない。今この腕の中で確かに息をしている小絹さんだけなのだ。彼女にはどうしても俺が必要で、俺も彼女なしでは生きてはいけない。
それだけで、充分だよな。
お前なら、それで納得してくれるだろう?
恵美。
ありがとうな。
愛していたよ、誰よりも。
本当に、本当にありがとう。
歩道橋の上からは、夕闇に白く浮かぶ巨大な吊り橋が見えた。潮をたっぷりと含んだ湿った海風が、俺の傷んだ髪を小さく靡かせた。
終