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3 ー傷ー

 高校最後の夏休みが終わる日の朝。肉体が力尽きる前に、彼女の精神が悲鳴を上げた。歩く力さえ残っていなかった筈なのに、恵美は俺の背丈の何倍もある高い金網を、傷付いた足で、痩せ細った身体で越えたのだった。有刺鉄線に激しく傷付けられてもなお、怯むことなく。そこまでして、恵美はこの世界から離れたかったのか。俺がまだ此処で息をしているというのに。

 ー置いていかれた。

 悲しみよりも先に、そんな寂しさが俺を襲った。

 ー何で。

 俺には何もかもが理解できなかった。あの花火の夜からの毎日、ずっと悪い夢から覚められずにいるようだった。白い布に覆われた小さな恋人。性別も解らないくらいに変わり果てた姿で、彼女は静かに眠っていた。この骨と皮と僅かな肉の塊が、俺の大好きな恵美だというのか。俺は薄黒く変色し切った彼女の冷たい掌を握った。

 もう握り返してくれることはない。鶏殻のようになった指。骨に纏わりついた薄い皮膚には、不思議と温かさと柔らかさを感じた。近しい人間の屍体を見たのは、生まれて初めてだった。もうそれは恵美ではないことは解っていた。でも、皆がそれを「恵美」と呼ぶから、俺はそれを手放すことができなかった。傍を離れることができなかった。もう二度と、この子に寂しい想いをさせたくはなかった。

「晃輔」

 タカはその大きくない体で、強く強く俺を抱き締めた。タカの体温を感じ、俺は繋いでいた冷たい手を離した。

 もう、これは恵美ではないのだ。

「何で」

 震える俺の体を、タカは必死で温めてくれた。己の息の根を止めてしまいたかった。正気でいたくなかった。信じられる筈なんかない。受け入れられる訳などない。あの日、俺は恵美と一緒に居たのだ。

 俺にできたことがあったかもしれない。

 俺が救えた命だったのかもしれない。

 俺が、死なせたのかもしれない。

 結局俺は何もできなかった。一緒に生きることも、一緒に逝くことも。

 花火大会の日、幼い子供が恵美の身体の下敷きになって小さな命の灯を消したのだそうだ。幼子を潰してしまったその怖ろしい感触はいつまでも消えることなく、恵美の身体と心を蝕んでいった。母親の我が子を繰り返し呼ぶ声が耳から離れない、私は罪を背負って生きていくことができない弱い人間だ。そんなことを綴ったルーズリーフが、彼女の枕元に残されていた。それは俺が病室に届けた、彼女の英熟語ノートだった。

「いっぱい迷惑掛けてごめん。今まで本当にありがとう」

 何故かそこには俺に対する謝罪と感謝の言葉が添えられてあった。それらの文章と少し離れたところには、小さく「震災」という文字がだけが書かれてあった。そこに全てが詰まっているような気がした。

 何が迷惑だったというのだ。俺はいつだって何もしてやれなかったではないか。

 俺は病院の人間に片っ端から掴み掛かり、狂ったように怒鳴り散らした。アンタ等は何をしていたんだ。防げた筈だ、救えた筈だ、アンタ等が殺したんだと。全部、本当は俺自身に言いたいことだった。俺が一番責められなければいけない人間だった。止めに入ったタカを力一杯殴りつけると、俺は倒れ込んだ彼にしがみつき、汗に塗れて子供のように泣きじゃくった。

 あの将棋倒しで、幼い子供とお年寄りの十一人もが命を失った。事故があってから、メディアでは市の安全対策の甘さが連日のように取沙汰された。そして大人達の話は、俺達が生まれた頃から始まっていた、この地域の開発計画にまで遡った。あの場所をそういった意味ではよく知らない。行政の思惑や人の損得勘定など、俺達には全く関係のないものだった。ただあの海岸は、俺と恵美の大切な場所だった。

 愛しい人は荼毘に付され、その肉体は灰となった。恵美の何もかもが俺の前から完全に消え去り、光のない日々だけが俺に残された。

 気の遠くなる程の、長い長い進むべき道。

 周りは酷く心配していただけに、元気が無いにしても一人で立つことができている俺の状態に、ひとまず安心したようだった。恵美の死を受け入れる事さえできていないというのに、後追いなんて考えられる筈などなかった。泣いたり叫んだり、自虐したり暴れたりするくらいでは到底表し切れない思い。悲しいでもない、辛いでもない、もっともっと深く重たい、まるでコンクリートを体内に流し込まれたような、否、それとも違う、もっとー

 一見「落ち着いている」ように見えていた俺を決して一人にはしない様にと、タカは暫く仕事を休んでずっと傍に居てくれた。一人になりたくて彼に殴り掛かったり、一人になるのが怖くて彼にしがみついたりする俺を、タカは決して見捨てることはなかった。この時もしタカが居てくれなければ、俺は再起不能になっていたかもしれない。そう、きっと廃人のように。そう思うと、彼には感謝してもし尽くせない。

「ありがとう。俺はもう大丈夫や。安心しろ」

 俺がそう言ってから一ヶ月過ぎて、タカはようやく仕事に戻った。俺もまた大学受験一色になった学校に戻り、笑顔を取り戻したクラスメイト達に暖かく迎えられた。時は流れ始めていた。ただ俺の身体は鉛の様に重たくて、何をする気も起こらなかった。

 何故、俺はまだ生きているのか。

 そんな答えの出ない問いかけに、心を重くする。恵美の居ない世界でなんて生きていても仕方がないと思うのに、俺の身体は意志に反して生きようとした。変わらず俺に訪れる空腹感、渇き、眠気。血の通った俺の肉体は今日もまた生きる為の営みを続け、朽ち果てることを許してはくれなかった。

 恵美との時間はいつも鮮やかに俺の心にリプレイされた。その度に、俺の頬を涙が伝った。いつの間にか、俺は思い出し泣きができるくらいにまで元気になっていた。

 それが寂しい。

 それが悔しい。

 心を置いてけぼりにして、俺という人間は『恵美がもう存在しない』という現実を受け入れ始めていた。そして恵美の居ないこれからの人生を、一歩ずつ歩き出そうとしていた。

「大学、ちゃんと受験するんやってな」

 タカは机の上に小汚い両足を乗っけ、ビールを片手にサラミを齧った。一人前に稼ぎ始めたとはいえ、おっさんになるにはまだ早過ぎやしないか。俺はそう思いながら、タカの顔を暫く眺めた。髭も生えないベビーフェイスなだけに、その姿はちびっこギャングみたいで可笑しかった。

「ユキから聞いたんか」

「いや、オマエのおかんに聞いた。この前道で会うたんや」

「だからかぁ、おかんが『タカ君”は“元気に頑張ってるみたいやで』とか言うとったわ。俺はてっきり俺への厭味で言うただけかと思ってた」

「でもそれはあるんちゃう」

「やろな」

 俺が親でも、そろそろ尻を叩き出す時期である。

「あれ、否定せんのんかい。でも、ちゃんと予定通り進学することにしたんやな」

「うん、国公立は止めたけど。記憶モンはすっかり頭から飛んでしもとうねけど、今までよう解ってなかった数学とか英語が気持ち悪いくらい簡単に頭に入っていきよるねん。センセーは滑り止め無しでも大丈夫やて言うてくれとう」

「へえ、やるなあ」

「まあ、生まれ持ってるモンが他とは違うからな」

 俺は腰を痛めそうなくらいにふんぞり返った。

「恵美が乗り移っとうんちゃう」

 タカは奥歯に詰まったサラミを顔を歪め必死で取ろうとしている。

「かもな」

 だとしたら、どんなに幸せか。化けて出てきてくれてもいい、一目会いたかった。恵美にだったら取り憑かれても構わない。取り殺されても文句はない。

 だけど、恵美は夢の中にさえ現われてはくれなかった。顔が見たいのに、声が聞きたいのに。恵美が俺を待っている『死後の世界』が本当に存在するのではないか、そんな期待や妄想も、『死』からは程遠い健康体の己の現実に打ち砕かれ、まったく形を成さなかった。

 今は鮮やかな恵美の顔や形、数え切れない沢山の記憶が、いつか薄くぼやけて消えてしまうのが酷く怖かった。やがて時が経ち、いつしか俺にも彼女の何もかもを忘れてしまう日が訪れるのかもしれない。それがとてつもなく怖ろしかった。俺はいつもいつまでも、恵美に囚われ続けていたかった。

 恵美。

 お前は今、何処に居る。

 暫くの間、俺とタカの間には静寂が流れていた。俺は俺で、タカはタカで、恵美と一緒に過ごした時間の中へと還っていた。俺の頬にまた涙が伝った。其処に居るのがタカだから、俺は恥ずかしいと思わずに心を切り刻み続けた。

「中学の時かな、恵美が暫く遠縁の親戚んとこに行っとったことあったやん」

「ああ。おれの家がモメとって、もしかしたら帰って来んかも、とか言うてたやつやろ」

「それはお前が俺をビビらそうと思てカマしとっただけやったけど」

「オマエ、かなりビビっとったな」

 タカは肩を揺らして笑った。

「だってまだ付き合い始めてすぐやったしな。いきなりかよ! って運命を恨むとこやったわ」

 よく憶えている。俺達の居る垂水からほど近い須磨で、俺達と同い年の少年が猟奇殺人事件を起こした年だ。

「あん時な、俺生きてる心地せんくてな」

 俺は目の前の缶ビールを飲み干した。

「なんやかんや言うて、毎日顔合わしとったからな」

 タカはコタツからは決して出まいと体を必死に伸ばし、小さな冷蔵庫から新しいビールを二つ取り出すと、そのひとつを俺に差し出した。

「いつも放ったらかしにしてたくせに、逆に放ったらかされたらすんごい寂しくってな」

 俺は零れ落ちる涙粒をそのままにして笑った。タカは小さく頷きながら俺の左肩をポンポンと叩いて笑い返した。

「…それが、明日も明後日も、これからずっと会えへんやなんて、俺、どうしたらええんか全然解らへん」

 格好悪くたっていい。涙が止まらないのだ。寂しくて淋しくて、仕方がないのだ。タカはその手で俺の肩を強く掴んだままでいる。手が少し震えている。タカだって遣り切れない思いを抱えているだろうに、俺はただこいつにすがることしかできなかった。

「俺、理解できひんねん。何で皆、普通に笑えてるんか。何で納得できとうんか。恵美は死んでしもたってのに、なんで何も変わらんと過ごせてるんか」

 タカはそのベビーフェイスを俺の顔に近付けた。

「多かれ少なかれ、あれから皆の中で何かが変わっとう。別に皆、恵美を忘れたんと違う」

 タカは恵美が死んでから、マトモなことを言う打率が上がった。

「人ひとり居なくなってるんやで。こないだまでここで笑いよった子が、跡形もなく消えてしもてる。でも、何も変わらん。皆知らん顔で笑ってやがる。皆の中の恵美が、段々消えていくような気がすんねん」

 そしていつか、俺の中の恵美も。

 目の前のタカだって、辛い筈だった。恵美と家族同然で六年間も過ごした男だ。なのに、もう普通に笑えるようになっているタカが恨めしかった。そして寂しかった。

「消えてねえよ」

 薄情な訳ではない。タカはどんな現実であっても受け入れる力を持っているのだ。俺はそれが羨ましくて仕方なかった。あんなに不安定に感じたタカが、今俺を支えてくれている。脆いのは俺の方だった。足下から崩れそうなのは、俺一人だけなのだ。

「俺もいつかは平気になってしまうんかな。そんなんは嫌や」

 俺自身が恵美を忘れてしまうこと。それが何よりの恐怖だった。

「おれだって平気になったんと違う。皆それぞれの思いで恵美の死を吸収していっとうんや。形を変えて自分の中に取り込んどうだけや」

 形を変えて、姿を変えて。じゃあ恵美は今、一体何処に居ると言うのだ。居るなら出て来い、俺が力一杯に抱き締めてやるから。

「俺にはそうは見えへんねん。皆自分の事で精一杯で、人ひとり死んだところで悲しんでられへん、立ち直らん俺を阿呆やと思っとう」

 俺がおかしいのか。俺だけが間違っているのか。

「そんなことは絶対ねぇ。もしそんな風に思う奴が居ったら、おれがボコボコいったるわ」

 タカは珍しく熱く語り続けた。目が真っ赤だった。

「人にとっての大切さはそれぞれ違うもんや。皆が皆、オマエみたいに思えってのは、そりゃ無理な話や。誰からも好かれる子やったけど、オマエは誰よりも恵美を好きやったやないか」

 そうだ、その筈だ。でも恵美は俺を置いて逝ってしまった。

「仕方ないんは解っとうねん。でも、皆の顔が明るくなっていく度に、ここが恵美の居た場所じゃなくなっていくような気がすんねや。恵美って子が最初っから居らんかったみたいに。俺一人だけが夢を見とったみたいに」

 寂しい、寂しい。淋し過ぎる。

 解っている。どんなに強く想っても、恵美はもう戻っては来ないのだ。なのに、想いは更に募っていく。どうすればいいのか解らない。どうしたらいいのか解らない。出口が何処にも見当たらない。

「なんで、俺はまだ生きてるんや」

 恵美。恵美。恵美。

 子供のように泣きじゃくる俺を、タカは強く抱き締めてくれていた。

「阿呆なこと言うな。オマエが居らんようになったら、また誰かがそうやって辛い思いせなあかんやろ。おれだって、もうこれ以上大事なもん無くしたないんや」

 タカの身体は小さく震えていた。タカの想いが俺の身体にも伝わってきた。深い、深い悲しみが。

 お前も辛かったのに、すまない。

 こんな俺で、本当にすまない。

「サンキュウな、タカ」

 俺はタカの小さな背中を軽く叩いた。タカは涙を袖で拭うと、俺を真直ぐに見た。

「オマエには、恵美と家族みたいに過ごしてたくせに冷たい奴やって思われるかもしれへんけど…」

「そんなこと」

 そんなことは、ない。

「でもな、おれには今生きてるオマエの方が大事なんや」

 そう言うと、タカは照れ隠しのように缶ビールを一気に飲み干した。俺も負けないようにそれに続いた。

 タカが居て良かった。本当に良かった。そしてタカも俺のことをそう思ってくれているのなら、俺は此処に居たいと思う。生きていたいと思う。恵美が死んだから俺も死ぬ、そんなことは全く意味の無いことなのだ。彼女と再会できる死後の世界なんて、本当にあるかどうかも解らない。そんな不確かな場所に焦がれるよりも、今生きている確かな場所を愛そう。恵美という少女の記憶と共に。

 忘れられる筈なんてない。いや、忘れる必要なんて最初から無いのだ。辛かろうが何だろうが、俺はこの愛情を一生貫いていくと決めた。この世に居ない者を愛し続けること、それがどれほど辛いことなのかは解っている。忘れようとすることの方がどんなに楽か。でも、俺は恵美と一緒に生きていくと決めたのだ。白い肌、常に紅潮したような頬。気の強そうな眉、黒目の多い瞳、憎まれ口の過ぎる生意気な唇、身体の割にデカいケツ、すらりと伸びた長い足。大きな口を全開にして笑うあの笑顔。全ての愛おしい記憶けしきが、時間と共に少しずつ薄らいでいく。昨日よりも朧な今日の記憶きおくは、明日はもっと霞んでしまうのかもしれない。少しずつ少しずつ恵美が消えてゆく。それでも俺は、お前をずっと愛していく。そう決めたのだ。

 そう、決めたのだ。




 話している最中に泣いてしまうのではないかと思っていたが、目の前の大男が呆れるくらいに泣きじゃくるので、俺の方はすっかり冷めてしまっていた。

「きったねえなあ、お前」

 勇哉は顔中の穴という穴から水物を出しまくっている。話し始めから消費され続けたティッシュペーパーは、最早残り僅かのインクサインが出ていた。

「だって、だってあり得へんもん、そんなん」

 勇哉は丸めた塵紙を大きな両鼻に詰め込んだ。

「お前の今の顔の方がよっぽどあり得へんわ」

 美しい思い出は、こいつのせいで台無しである。

「よく乗り越えられたなぁ、おまえ」

 勇哉は息苦しくなったのか、鼻の詰め物をすぐに外してゴミ箱へと投げ入れた。面白かったのに。

「乗り越えられてねぇけどな」

 寧ろ今の俺の状況は、あの頃よりも悪化している。

「すぐには無理に決まってるやん、まだ一年やろ。オレもこう見えて色々あったんやけど、立ち直るのに何年もかかったもん」

「色々?」

「ああ、こっち来てみい」

 勇哉は他の部屋へと俺を案内した。彼は地元っ子だったようで、門扉から玄関まで数メートルもある大きな一軒家に住んでいた。両親は中国へ赴任中らしく、広い家の中は閑散としていた。通された部屋の隅には、少女の遺影が鎮座している。

「…誰や?」

「五年前に自殺したオレの妹や。年子でよう喧嘩したけど」

 自殺。

「なんでまた」

 俺にとって、どうしても納得することができない最期。

はらまされよったんや」

 錆びた刃物が刺し込まれたような、鈍い痛みが胸に走った。自分がその犯人であるかのような、酷い罪悪感が俺を抉った。

「は、孕まされたって、五年前やったら、まだ」

「中学生になったばっかりや。しょうもない男に騙されてな。そいつ、デキたて分かった瞬間、行方眩ましよったんや」

 まるで今の俺ではないか。

「行方眩ますって、どうやって」

「名前も年も、何もかも嘘吐いとったんや。勿論オレが突き止めてボコボコにしたったけどな。ほんま、殺してやればよかった」

 勇哉の手が細かく震えている。俺はその手で首を絞められているような気がした。

「それが見つかってオレがパクられそうになった時にな、向こうの家とウチで示談したらしいんや。ほんなら、何でかウチがえらい額の金包んで、この話は全てなかったことにって事で纏められてな」

「そんな」

 そんな。そんな馬鹿なことがあるか。

 勇哉は言葉を止め、一呼吸置いた。

「妊娠も暴行も、理由はどうであれ、世間の目ぇからすりゃ過ちなんやから仕方がない。黙ってもらうにはこうするしかないって、ウチの両親は揃って言うんや。親にしてみたら生活を守るためのことなんやろけど、そん時は何でやねん阿呆たれって思ったよ。でも今は、妹は居らんようになってしもたけど、オレ等はまるで何もなかったみたいに普通に暮らしてるしなぁ」

 何もなかったかのように。確かに、普段の勇哉には陰らしい部分はない。だけど。

「納得、できてるんか?」

 俺には出来ない。

「素性をよう知らん男とそんな関係になるんも確かに良くないことやし、オレももっと他の方法を考えるべきやったと思うし」

 勇哉はいつもの恍けた表情で痛んだ金髪の頭を掻いた。

「大人やな」

 初めて勇哉に対して尊敬の念が芽生えた。

「そう考えられるようになったんは、ほんま最近になってからやで。示談の何日か後に妹が首吊ってしもた時は。もう何が正しいのか全然解らんようになってたし、両親のことも相手の家族のことも自分のことも、世の中自体も全部恨んだけどな」

 俺だったら、そんな風には笑えない。

「おまえの地元の連れが言うたこと、なんとなく解るねん。冷たいって思われるかもしれんけど、今オレは親のことも大事やし、こうして生きてる毎日は両親のお蔭やとも思う。オレは妹の無念とか怒りを絶対に忘れんとこうって思うけど、何より大切にしたいんは、今一緒に生きてる人間のことなんや」

 勇哉はそう言うと、写真の中の小さな笑顔に手を合わせた。

「死んでしもたら、そこで終わりや。言いたい事があったら、どんなにしんどくても生きてなあかん」

 黒い縁取りをされた可愛らしい勇哉の妹。その兄に似た丸い笑顔が、哀しく微笑んでいた。一人の人間の命を救うことができない方法など、正しいわけがない。自らの命を絶つほどの苦しみから、どうして近くに居る人間が救い出してやれなかったのか。

「勇哉」

 黙祷する勇哉の背中に、俺は小さく呼び掛けた。

「俺な、暫くずっと死ぬことに憧れててん」

 勇哉は黙って振り向くと、俺の瞳から溢れ出る止めどない涙に驚きを見せた。

「そん時な、ダチとかおかんが居るから、俺は死なんとこうって思えたんや。俺が死んだらこの人達もきっと酷く辛い思いするんやろうって考えたら、自分が生きていたくないって気持ちだけで死んだらあかん気がしてな」

 俺は小さく震え始めていた。勇哉は穏やかな口調で優しく微笑んだ。

「人に大事にされてないと、自分を大事にできひんもんやしな。おまえはいい親友と母親に恵まれたんやな」

 だけど、

 だけど。

 ー恵美は“死を選んだ”。

「…恵美にとって俺は、そう思われるような存在じゃなかったんやろうな」

 勇哉はいつも冷静沈着を装っていた俺の嗚咽に戸惑い、ただ困った顔で見つめていた。

 ずっと、引っ掛かっていたこと。

 ずっと、寂しかったこと。

 大事にしていたつもりだった。心から愛していた。でも、彼女を此処に留めることができなかった。生かしてやれなかった。一緒に生きていこうと思ってもらえなかった。ずっと傍に居たのに。

 俺は何だったというのだ。

 恵美にとって、俺は一体何だったというのだ。

「…そんなん言うたら、オレもやん」

 俺はその場にしゃがみ込んだ。蒸し暑さの中で、俺は窒息しそうだった。

「…おてもやん」

 勇哉は悲しい顔で俺を見下ろしていた。

「なんつって」

 俺はどう反応することもできなかった。でも、俺はやっぱりこの男のことが好きだと思った。

 勇哉はそれから暫く黙っていたが、俺に温かいお茶を入れてくれた後、トーンをいつもの調子に戻して笑った。

「まぁたそうやってシクシク泣くぅ。母性本能までくすぐろうってか、この色男ぉ」

 泣き止めないままの俺は勇哉の大きな張り手に突き倒された。入れてもらったばかりのお茶が浴びせかけられる。

「あっつぅっ。てっめ〜」

 俺が泣き腫らした顔で笑顔を創ったので、勇哉は緊張していた顔面を綻ばせた。

「ごめん、ごめん」

「お前はやることなすことセンスが無いねんけ」

 俺は口調とは裏腹に白い歯を見せ、勇哉の金髪を叩いた。こいつのやっていることはワザとなのか天然なのか、どうも判断し辛い。それでも気付けばいつも俺を笑顔へと導いてくれる彼の存在は、俺にとってかけがえのないものになり始めていた。

「…ごめんな、勇哉」

 俺はリビングで微笑む彼の向かい側に腰を下ろした。目の前の着ぐるみ君は慈しみの視線を向けた。

「自分ばっか責めんのは止めろや。恵美さんには恵美さんの事情があったんや。もう、そっとしといたれや」

 勇哉は優しく包み込むようにそう微笑んだ。世の父親よいうものはこんな風なのだろうか、俺はそんなことを思った。

「…そやな、そっとしといたらなな」

 俺は泣き笑いでそう返すと、汲み直された温かいお茶を啜った。湯呑みから伝わる温もりに、心は酷く落ち着いた。

「オレの妹にも、妹だけにしか解らん事情があったんやと思う。たとえば相手のロクでなしに本気で惚れとったとか、将来が不安で堪らんかったとか、生きてるのが面倒になったとか」

 勇哉は内容にそぐわぬ明るい顔をしていた。

「最期まで、恵美さんはおまえに感謝しとったんやろ。ずっと好きで居てくれたんやろ。おまえはきっと、できることは全部やったんや。間違いない」

 勇哉は自分の言葉に二度大きく頷いた。

「…そやな」

 そうは思えなかった。でもそう思うしかなかった。いくら罪滅ぼしを考えても、もう此処に恵美は居ないのだから。いくら罪悪感を募らせても、彼女はもう二度と戻っては来ないのだから。それが恵美の決めた道なのだ。それが彼女の下した決断なのだ。

 震災で独りぼっちになった恵美。本当の家族のように彼女と暮らしたタカや真由ちゃん、親友のユキや恋人の俺が救ってやることのできない程深く暗い孤独の中で、恵美はひとりで生きていたのだ。それを思うと、俺は胸の奥が酷く痛んだ。

 俺は勇哉の家を出たその足で、アイミの部屋へと向かった。


 諦めかけた三度目のチャイムで、その灰色の扉は開け放たれた。中から顔を覗かせたアイミは、以前の彼女とは随分様子が違って見えた。連絡もせずに突然訪ねたせいもあるのだろうけど、いつもミニスカートにフルメイクの完全武装だった彼女には珍しく、Tシャツにジーンズ姿で化粧も殆どしていないようだった。

 いつもと変わらず桃色の瓢箪型の机に温かいコーヒーを出してくれたアイミは、穏やかな笑顔を見せ、俺の正面に三角座りした。俺は無意識に彼女の腹の辺りを見つめた。

「丁度私も連絡しようと思ってたとこねん」

 アイミは両手でマグカップを持ち上げると、湯気の出るコーヒーを僅かに啜った。

「ごめんな、長いこと放ったらかしてしもて」

 俺はまた自分が逃げ出さないように、しっかりとアイミの大きな瞳を見た。

「ウウン、いいねん。それよりな、言わなあかんことがあんねん」

 アイミは体勢を変えて正座した。俺も姿勢を正すと、また無意識に下腹部に目を遣った。

「何?」

 もう何を言われても驚かないし、もう逃げない。

「…お腹の子な、コースケ君の子じゃなかったねん」

「へ」

 驚いた。

 アイミの頬を、粒状の涙がコロコロと伝った。妊娠を告げられた時と同様、俺はまったく事態が掴めなかった。

「ごめんな、いらん心配させて」

 ? ???

「…そ、そっか」

 よかった、と続けそうになるのを慌てて止めた。でも何故か少々ガッカリしたような気持ちもあった。腹を括った一大決心が、あっけなく空振りに終わったからかも知れない。

「どういうことなんかな、その、それ」

 他にも俺みたいな男が居たのか、妊娠自体が間違いだったのか、いやもしかしたら俺に気を使って嘘を吐いているのかもしれない。

「…私な、昔からよう見る変な夢があってな」

「夢?」

 突然話が逸れたような気がしたが、俺はアイミが語るに任せた。何にせよ事情が全く解らないのだから、彼女の言葉を待つしか他にしようがなかった。

「気になってしゃあなくて、夢占いとかしてみたりしたんやけど、意欲が湧いて来ている表れ、とか書いてあったから、そうなんや〜って感じで終わっててん」

「ふうん」

 夢占い、か。恵美も一時期ハマってやがったな。

「私、昔から寝つきが悪くて睡眠薬飲んだりしてたから、それも悪いんかなあって思ったんやけど」

 アイミは震える声で話し続ける。俺はその姿を黙って見ていることができず、彼女の隣に座り、その薄い背中を軽く擦った。

「無理すんな」

 俺は話を止めさせようとした。だがアイミは首を激しく横に振り、その話を続けた。

「その夢、こっち来てから暫く見んかったんやけど、前に実家に帰った時に毎晩続けて同じ夢を見たねん」

 アイミは大きく深呼吸して、震える手を顔の前で組んだ。まるで神に祈りを捧げるように。

「…お父さんに犯される夢やってんけどな」

 更に激しく震える声。そして剰りにも残酷な全てが見えてしまった。

「私が睡眠薬飲んでるの、知ってて…」

「もう、いい。もういいよ」

 俺はアイミの震える肩を強く抱き締めた。

「夢じゃなかった」

 塞き止めていたものが、一気に溢れ出した。俺は壊れてしまいそうな彼女の小さな肢体を死守するように、強く強く抱き締めた。今の俺がこの子にしてやれることは、これくらいしかなかった。あらゆるものに対する怒りが、俺の中を渦巻いた。

 ひとしきり泣いて落ち着きを取り戻したアイミは、俺に礼を言った。責められる覚えはあっても、礼を言われる覚えなんてひとつもなかった。俺だって、同罪だった。

「別れるつもりやった彼がな、今までのこと全部分かった上で私を許してくれてな、一緒に人生やり直そうって言うてくれてん。これから今までの分取り返すくらい幸せになろうって」

「ええ男やん」

 俺はアイミの笑顔にホッとした。

「コースケ君ほどではないよ」

 それが俺には理解できない。俺なんて、何ひとつ約束事ができない、顔だけのアンポンタンでしかないのに。

「でも私、彼と結婚することに決めてん。ほら、女は愛するよりも愛される方がいいって言うやろ。だから彼と一緒になって、学校も辞めて、できるだけ遠い所に行くことにするねん」

「うん、それがええわ」

 女だけに限ったことではない。大事にしてもらえる人の傍に、人は居るべきだと思う。でもほんの少し、寂しいなとも思った。なんかちょっと、振られ気分。

「ぶっちゃけ、まだコースケ君のことが好きなんやけどね」

 だから、それが解らないのだ。女心ってほんと難解。

「彼氏、きっと幸せにしてくれるよ」

 アイミはまだ真っ赤なその眼を細め、ニコリと笑った。

「だから、絶対死のうなんて考えんなよ。彼氏が可哀想過ぎる」

 俺は、彼女の左手首に生々しく残るリストカットの傷跡をそっと握った。本気で死ぬ気が無かったとしても、死に憧れること自体が、俺には淋しいことだった。

 どれ程涙を流しても、癒えない傷がある。どれ程耐え忍んでも、出口の無い苦しみだってある。だから「死」を選ぶのか、それでも「生」を選ぶのか。アイミには、生きていて欲しかった。もう誰にも死ぬだなんて考えて欲しくはなかった。折角この世界に産まれ堕ちたのだから、「幸せだな」って感じることができるその日が来るまで、頑張って生き続けて欲しいと思った。ただの綺麗事かもしれない。でもそう考えなきゃ、俺だって生きてはいけない。恵美を失ったまま長々と続く未来に希望など持てないし、踏み出したその足を前へ伸ばすことさえできなくなる。

 アイミは小さく頷いて、またアリガトウと笑った。


 哀しいかな、なかなか習慣というものは変えられない。今日もまた俺は、数字の7を揃えることに必死になっている。

「おっしゃ、なんや俺またツキが戻ってきたんちゃう」

 俺の遊戯台は絶好調である。

「おまえ、オレの運を盗ったやろ」

 勇哉が隣で口を尖らせる。

「お前が五キロ太ってる間に俺の時代がやってきたんやって。なんつーかコレはもう運とかツキじゃなくて実力やなぁ」

 俺は更に丸くなった勇哉に流し目を送った。

「ギャンブルに実力もクソもあるかっ」

 勇哉がその重い肘鉄で俺の手元を狂わそうと茶々を入れる。

「うっさい、負け犬、負けコアラ、負けタスマニアデビル」

「なにおう、泣き虫」

「阿呆、お前の方が汚い顔して泣きじゃくってたやろ」

 手や足で邪魔し合う俺達の間を、灰皿清掃に来た店員の女の子が割って入った。気の毒に可愛い顔をしているものだから、隣のエロコアラにちょっかいを出されている。

「こら、バイト中のお姉さんの邪魔すんなって」

 俺が鼻の下を伸ばす勇哉の足を蹴飛ばすと、店員は頬を赤らめて礼を言った。去って行く彼女の背中と俺の顔を、勇哉は文句言いたげに見比べた。

「はい、俺の勝ちー。残念やったな、この振られ上手。おっしゃ、また来た」

 毒吐く俺のリールは、また7で揃って止まった。

「そういやササキョンさあ、バイトしよっかなとか言ってなかった?」

「ああ、言うてたよ。どえらい前の話やけどな」

 そんなこと、今の今まですっかり忘れてたけど。

「オレも考えててな、ええとこ見つけたし一緒に行かへんけ」

 子供か。

「一緒にぃ? お前、俺のこと大好きやろ」

 でもちょっと嬉しくもあった。俺もこいつが大好きなのだ。

「ついにバレたかぁ。もうライクじゃなくてラブやなあ」

 勇哉が完成度の低いウインクをしてきた。更にチュウの唇を近づけてくる。

「もー、やめろやキショイ」

 俺にアイアンクローされて勇哉の顔がいつもに増して可笑しく歪んだ。草履の裏みたいな顔だった。こいつと一緒に働くのかぁ、仕事になんねえや。ちょっと躊躇はしたが、暇さえあればパチスロに明け暮れる生活にもそろそろおさらばしたかったし、俺はその話に乗ることにした。

「俺等が連れやって絶対言うなよ。お前と同類やと思われたら働き辛いわ」

 俺の言葉に勇哉はまた口を尖らせる。

「また格好つけて女の子食い散らかすつもりやろ。おまえばっかええ思いはさせへんからな」

 気付けば夏も終わろうとしていた。パチスロのお蔭で、イヤ、勇哉のお蔭で、俺はこうしてこの季節を笑顔で過ごすことができている。それは決して寂しいことではなく、本当に嬉しいことだった。

 恵美。

 せめて今、君が安らかであって欲しい。


 茶色い大きな扉を開けると、カランコロンと重たい鐘の音が鳴った。市の文化財に指定された洋館をそのままレストランにしたらしい。異国情緒溢れる一方で、傍を流れる鴨川が京の風情も添えている。勇哉の薦める飲食店、イコール居酒屋か定食屋だという思い込みがあったので、この洒落た雰囲気に俺はすっかり圧倒された。どうせなら客として来たかった、恵美と二人で。ああ見えてロマンチストな恵美のことだ、きっと気に入ったに違いない。

 俺は態と靴音を鳴らして存在をアピールし、歩を進めた。

「すいません」

 返事は無い。

 ぽつーん。

 奥の方から年配の男と若い女の話し声が聞こえてきた。STAFF ONLYと書かれた扉を見つけたので、取り敢えずノックでもしてみようとその前に立った。その瞬間、有り得ないくらい激しくその扉が全開され、俺の自慢の顔を強く打ち付けた。驚きと激痛に声も出ず、女の悲鳴を遠くに聞きながら、星がちらつく視界に眼をこらした。

「きゃー! ほっんまごめんなさい! ごめんなさい、ごめんなさい、大丈夫? 大丈夫じゃないやんな」

 俺は萎えて帰りたくなったけれど、大人げないことはやめようと二度小さく頷いて応えた。

「ごめんなさい、お待たせしました。面接の佐々木君やんね、えらい出迎えしてしもて。どうぞこちらへ」

 やんわりとした京都弁がこの店のムードには不似合いで、少し変な感じがした。だがこの店員の人懐っこい笑顔で、俺の緊張はいくらか解かされた。でも顔面はまだ痛い。

 アルバイトの面接に伺いました佐々木と申します。

 心の中でしつこい位に反復していた台詞が無駄に終わり、アドリブに弱い俺は言葉を失っていた。半歩先を歩く店員の艶やかな黒髪を見つめながら、取り留めのない短い問い掛けに、ただ「ハイ、ハイ」と答え、大人しくノコノコとついて歩いた。この時間帯には店は営業していないらしく、俺は誰も居ない広いホールに一人座らされた。

 先に面接を受けた勇哉はどうだったろう。

 天井が恐ろしく高いので、物音がいちいち大きく館内に響いた。グランドピアノまで置いてある。やっぱり客として来たかったな。ここでならレトルトカレーを出されても、きっとどこのレストランよりも美味しく感じるに違いない。

 勇哉、落とされてたらどうしよう。

 俺は一人でこの店で働くことを想像し、急に不安な気持ちになった。根性はある方だと思っていたけれど、厳かな店の雰囲気にすっかり圧倒されている自分に気付き、肝の小さい自分が情けなくなってしまった。

 窓から入り込む昼下がりの陽の光を眩しく思っていると、それを察してか、先刻の店員がカーテンを閉じてくれた。俺と然程年も変わらないアルバイトなのだろうけれど、「言われる前に」というサービス業のお手本姿勢に関心する。西側にある窓のカーテンを全部閉め終えた先刻の店員は、そのまま俺の向かい側に座って人懐っこいエンジェルスマイルを見せた。

 あれ、この子が面接してくれんのかな。

 なんかちょっとナメられてるような気がして、拍子抜けした。

「やっぱちょっと赤くなってるなぁ、顔。冷やす?」

「あ、いえ、大丈夫です」

 顔面を冷やしながら面接するなんて、就職活動の練習にもならない。

「ほんまごめんなぁ、きれいな顔になんてことするねんなぁ、私」

「いや、ほんと平気ですから、始めて下さって結構です」

「あ、そやな。ごめんね、お待たせしまして。私が本日面接を担当します店長の吉村小絹です」

 目の前の“少女”に見えた女性は、そう言って横書きの名刺を俺に差し出した。

 店長? この人が?

 多分俺は口を開けたまま絶句していた。目の前の女性がコロコロと笑うので、やっと自分の阿呆面い気付いてハッとした。

「あ、はい、宜しくお願いします、すいません」

 失礼な思考は口に出してはいないのだけれど、俺はついつい謝ってしまった。

「こんなチンチクリンが店長やなんて頼んなくて不安かもしれんけど、そんなに吃驚せんといてね」

 色白の店長は眉尻を下げて微笑んだ。俺は動揺を隠し切ることができないまま、イエ、と小さく返した。

「反応が素直やなぁ、ちょっと傷ついたわぁ」

 女性に傷ついたと言われると、男は酷く慌てるものである。しかも京都弁で言われると、なんかちょっと怖い。

「いや、すいません。そんなんとちゃうんです。お若いのにこんないいお店の店長しとうなんて、凄いなぁと思ったんです」

 俺は頭を掻いた。

「佐々木君って、神戸の人?」

 吉村店長は俺の履歴書も見ないうちにそう尋ねた。

「あ、はい。解りますか」

 振り払って来た筈の潮の匂いが、まだ俺の心に染みついているのかも知れない。

「うん、喋り方でな。私、神戸の人に弱いから。なんつってアハハ」

 店長は小さな顔の前で掌をパタパタと動かした。

 おばはんかよ。

 俺は年のよく分からない目の前の女性に合わせて僅かに失笑した。大丈夫かなぁ、この人。

「頼りなくて不安やろうとは思うけど、只の雇われ店長やから会社はちゃんとしてるし安心して頂戴」

 店長はまた眉尻を下げて微笑んだ。

 俺、口に出してないよな。なんか失礼な反応しちゃってるのかな。

 俺は再び頭を掻いた。先刻ぶつけたせいか、それとも心をすっかり読まれているせいか、顔面が熱くなっているのが解った。きっとこの京女の店長は今こうして笑っているけれど、腹の中は相当煮えくり返っているに違いない。相当悪い印象を与えてしまっただろうな、俺。

 失礼な大学生にムカついている(であろう)店長は、怖くなるくらいに変わらぬ笑顔で店の営業時間やシフトについて説明をした。

「何か質問はありませんか」

 吉村店長は首を少し傾け、上目遣いで俺を見た。でもそれは松下ユリやアイミの視線とは違う、厭味のないものだった。また失礼なことを言ってしまえば、おばあさんが老眼鏡越しに見るような、そんな視線だった。

「あの、ホールとキッチン両方募集してるって伺ったんですが、キッチン業務はどのくらいの調理業務になるんでしょうか」

 面接では必ず質問するように、そう大学の教授が言っていたのを思い出し、俺は慌てて質問を考えた。

「一応『調理補助』とは言うてるけど、うちのシェフは本人にやる気さえあれば何でもやらせる人やから、やりたければどんどんやればいいし、やりたくなければそこそこ頑張ってくれればそれでええよ。でもちゃんとやってくれる人には二年続けばアルバイトでも証明書は出すし調理師免許も取れるよ。キッチンがいい? 調理する?」

「あ、はい、ありがとうございます」

 俺は猫背で小さく頷いた。店長は瞳を面相筆で描いた線のように細めて柔らかく微笑んだ。

 その場で採用が決まり、俺が書類に色々書き込んでいる間も、正面にちょこんと座った店長は俺の姿を事細かに観察しているようだった。何だか全てを見透かされてしまいそうで怖かった。嘘発見機にかけられている容疑者の様に、変な汗が次々と俺の背中を伝った。この人には嘘や隠し事ができないような気がした。その真直ぐに人の眼を見つめる黒く澄んだ瞳は優しいようで鋭く、物事の本質を見抜く力を持っているようにさえ思えた。時間にすれば十分そこそこだったけど、俺は酷く疲れてしまった。

 俺は、俺自身に負い目が有り過ぎるのだ。

「気楽に頑張ってや、スタッフは皆ええ子ばっかやし、仕事もなんも難しいことは無いからすぐ慣れると思うよ」

 吉村店長が後ろ手で大きな扉を開け放つと、オレンヂ色の光と共に生温かい強い風が舞い込んだ。俺は眼を細め、纏わりつく痛んだ髪を指先で払った。そろそろ髪切らなきゃな。

「すぅごい風!」

 店長は清々しく笑った。俺は再びその優しい笑顔に心を解された。気分を害していないのかな。いや、腹の底では怒っているのかもしれない。けれど営業スマイルもここまで完成度が高ければ、最早神業である。

「では、明日からよろしくお願いします」

 俺は深々と頭を下げた。

「私も佐々木君に早よ認めてもらえるように頑張るわ」

 小さな店長は腰に手を当て扉の前で仁王立ちした。

 ほら来た。京女ってのはやはり根に持つ。俺は最初の激痛でさえもう水に流してるっていうのに。

「だから俺、別にそんなつもりじゃないですって」

 俺の困り顔を見て、彼女は悪戯に笑った。

「一緒に頑張っていこな」

「はい」

 俺は手を振る店長に、もう一度深く礼をした。


 俺はコンビニで大量の発泡酒を買うと、そのまま勇哉の豪邸に上がり込んだ。二人の採用祝いである。緊張感から解放された二人の会話は弾んだ。

「オレもめっちゃ吃驚したわ。こんな店長アリかよって」

「俺もただのバイトやと思ってたし、失礼な態度とってしもたかも」

 俺はまだ自分の失態を引きずっている。

「かなりショックや、狙ってたのに」

 勇哉は俺と方向違いに口を尖らせた。

「ぷ、狙うて何やねん」

 俺は口に入れ損ねた酒を手の甲で拭った。

「可愛くない? あの人」

 勇哉は眼を輝かせる。

「そうか?」

 申し訳ないが、そんな印象はないかも。

「さてはおまえ、モテるくせに女見る目ないやろ」

「そんなことないわ。お前こそストライクゾーン広過ぎて、いつもフライング気味やんけ」

 こいつのドーパミンは誤作動が多過ぎるのだ。惚れ上手の振られ上手。俺はエキサイトし始める勇哉を余興代わりに、安物の酒を楽しんだ。

「前に客で行った時から目ぇつけてたんやって。だからあそこがバイト募集してんの見てチャンスって思ったわけやん」

「それでか」

 ナルホド、そういうことか。こいつがあんな上品な所に働きに行こうとするなんて、ちょっとおかしいとは思った。でも客として行ったってだけで、充分な違和感である。

「顔は特別べっぴんって訳じゃないけど、あの笑顔はサイコーやと思わん? めっちゃポイント高いよなぁ」

「ただの営業スマイルやって」

 俺はサラミを齧りながら、恋するパンダに意地の悪いことを言ってやった。京都の女は腹黒いから気をつけろ、そんなタカの口癖を思い出した。

「いいやっ、あれは本物や。心からの笑顔ってやつや。でも店長かぁ〜ショックやぁ。ヘマしたらあの人に怒られんのかぁ。どうせ学生バイトなんか男として相手にされへんやろなぁ」

 勇哉は黒く染め直した髪を両手でわしゃわしゃ掻き乱した。意外と本意気だったのな。恋に悩める阿呆パンダ。

「頑張ってみたらええやん、振られ上手」

 でも俺には完全に他人事である。

「よっしゃ、ほんなら勝負せえへんけ、どっちがオトすか」

 勇哉はもう酔い始めている。赤い顔をしたパンダは前足を俺の顔面に突き出して宣戦布告した。スロットをする人間は、どんなことでもすぐに賭けたがるから鬱陶しい。

「何で俺が」

「おう、分かった。じゃあ負けたら焼き肉十回オゴりな」

「え〜」

 なんて迷惑な話。賭けられる店長も気の毒だ。

「でないとおまえ、やる気出さんやろ」

「だから何で俺が。ぶっちゃけそんなにタイプじゃないし」

「んで、オレにハンデ頂戴」

「なんでやねん。ちょっとは人の話聞けよ」

「決まりぃ〜」

 勇哉は呆れる俺と乾杯し、幸せそうに酒を飲み干した。

「平和やの、お前」

 俺は恋するパンダの緩んだ顔を暫くの間眺め続けた。どちみちどっちが勝つことも負けることもない勝負だ。俺は熱くなる勇哉を肴に、久々に酔う程の酒を飲んだ。

 恵美を失ってから丁度一年が過ぎた夜。俺は随分うまく笑えるようになった。


 アルバイト初日は道具の説明と皿洗いだけで終わった。ホールではジャズピアノの生演奏も行われ優雅なひとときが流れていたが、厨房内はまさに戦場だった。ひっきりなしに注文が入り、次から次へと運び込まれる洗い物の量も半端じゃない。最初は余裕をカマして人間観察をしていた俺だったが、棚の食器類が瞬時に無くなっていくのを見て、慌てて本気モードに切り替えた。

 速くしないといけない。

 でも割っちゃあいけない。

 しかも綺麗に洗わなきゃいけない。

 よく「皿洗いでもします」なんて言うけど、実際皿洗いってかなり大変な仕事だぞ。そんなことを思いながら、必死に動き回った。お洒落なレストランも、その中は居酒屋やラーメン屋と大差ない。流行りのインフルエンザで一人欠員が出たらしく、休日だというのに厨房には新人の俺を入れても四人の従業員しか居なかった。もう、てんやわんやである。俺から見ても動きの遅い眼鏡の男が、料理長に何度となく拳骨を喰らっている。すいません、すいません、と何度も頭を下げる眼鏡男は猫背気味で痩せているので、料理人というよりは疲れたサラリーマンのように見えた。久々に味わう体育会系のその刺激に、俺の元運動部の血が騒いでいた。

 俺もああやってよく殴られたものだ。いつしかその痛みにさえ慣れてしまって、怒られようが怒鳴られようが何も感じなくなってしまっていた。だから余計に怒鳴られ、執拗なまでに殴られた。でも目の前で繰り出される料理長の拳骨には愛情が感じられる。あんな拳骨なら、俺も喰らってみたいと思った。

 嵐のような業務が終了すると、十人ちょっとの疲れ切った従業員が狭い休憩室に集まった。ホールスタッフになっている疲れ切った顔の勇哉も居る。白いシャツにネクタイ姿の勇哉はかなり老けて見えて笑いを誘った。噂の店長はまだなんやかんやと仕事をしているようだった。

「佐々木君は飲み込みが早いなぁ」

 青木というらしい厨房の眼鏡男が、煙草の煙と共にお褒めの言葉を吐き出した。

「イヤ、まだ皿洗いしかしてないじゃないっすか」

 しかもそれで一杯一杯だった。

「休みの日に一人で洗い場回せる子なんて、今まで居なかったよ」

 青木は腕を組んでそう言った。

 まともに働いたことのない俺は、自分の力がどんなものなのか、まだ全然解りようがなかった。ただ、どんなことでもある程度やれる自信というのはあった。ただ、器用貧乏の俺が、どこまで真剣になれるのか、どこまで期待以上のことができるのか、そこに自信を持つことはまだできなかった。今まで、勉強にせよ部活にせよ、自分の為にしか努力らしい努力をして来なかった。恋人の為にさえ何も出来なかったこの俺が、お客に対して、店に対して、社会に対してどこまでのことができるのか。そこに自信が持てて初めて、俺が俺自身を認めてやれそうな気がする。自分を裏切った自分を、俺を失望させた俺自身を、もう一度信じられるような。

「でもいっぱいいっぱいでしたよ」

「まぁ一人少なかったからねぇ。ほんとはホールから誰か一人回してくれるって話だったんだけど、店長が佐々木君なら一人で大丈夫でしょ、とか呑気なこと言って知らん顔するんだもんな」

 京女の報復だ。俺は頭を掻いた。

「いいねえ、若いと覚えが早くて。僕も若いうちからやっとくんだったなぁ」

「御前の覚えが悪いんは、年のせいだけとちゃうわい」

 料理長が青木にぼやいた。

「でも料理の世界やと大学生からでも遅いくらいですよね」

 俺はまるで料理人を志すかのように料理長に尋ねた。

「まぁ中卒、高卒が殆どやけど、洋食はまだわりかし高学歴のあんちゃんも居るね。最近は青木みたいな間違って流れ着いたようなおっさんも増えたわ、わはは」

 白髪の大男は、私服になると随分と老けて見えた。こんな老いぼれた爺さんがあんなにパワフルなんだから、洗い場ごときに十九の俺が疲れているわけにはいかなかった。

「へえ、大物新人なんや。全然そうは見えへんかったけど」

 ホール担当の加奈という女が、偉そうな口調で言い放った。

「ただのヤンキーに見えますよね」

 先刻まで疲れ切っていた筈の勇哉が、ここぞとばかりに口を挟む。他人のフリをしている俺は、何も言い返さずにただ黙っていた。

「ほんま、ほんま」

 加奈が煙草片手に大口を開けて笑った。この女も店内では天使に見えたのに。サービス業の女は本当に恐ろしい。

「あたしはてっきり佐々木君の方がホールでハシモティがキッチンかと思ってた」

 加奈は煙草で俺と勇哉を指した。

「でも佐々木君がホールに出たら、女性客が殺到してホストクラブみたいになっちゃいますよ」

 勇哉は更に毒吐いて俺に視線を送る。今の内に笑ってやがれ、後でシバき回してやるからな。

「確かに、確かに」

 加奈はまた大口を開けて爆笑した。勇哉は嬉しそうに俺の方を見ている。

 ホント、後で覚えとけ。

「さあ、上がりましょうか」

 仕切るのが下手そうな青木が皆に呼び掛けた。爽やかに疲れた従業員達が、その号令でぞろぞろと動き出した。こんなに忙しい店なのに、意外と少人数で回している。青木と料理長以外は皆パートかアルバイトだし、更に店の長はあの小さな京女である。

 なんだかレストランサークルみたいだな。

 雑誌で紹介される程の人気レストランも、その裏側は素人に毛が生えた程度の集まりなのかもしれない。なにせあの勇哉がすました顔でお出迎えしてるんだから。

 店長は一人厨房に残ってまだ何かしているようだった。

「店長は何をしてはるんですか」

 一緒に帰れない淋しさからか、勇哉は青木に尋ねた。すると横から加奈が出しゃばった。

「チェックチェック! 厨房はいい加減やからなぁ」

「すいません」

 青木が謝る。

「働きモンの店長に仕事を残してあげてるんや」

 料理長が苦し紛れに笑う。

「よう言うわ。在庫の管理も発注も丸投げしてるくせに。そのくせ足りひんなったらめっちゃ怒るし。ほんなら自分でやれっちゅうねん」

「わしみたいなジジイがやるよりは確実や。もうパソコンでなんかせえっちゅうのは、もうついてけへん」

「ハイハイ、老人のいい訳。あ〜小絹っちカワイソ」

「しかも今日、加奈さんのせいでお客さんに謝ってはりましたしねぇ」

 勇哉が早くも憎まれ口を叩いた。こいつの人懐っこさは天性のものだと思う。ちょっと羨ましかったりもする。

「もう、せっかく忘れかけてたのにっ。あれはアンタに教えながらやってたからやん」

 加奈は頬を膨らませ、丸い顔を更に丸めた。

「うわ、ひっど。オレのせいにされてる」

「アンタのせいとは言ってないやん、もう」

 勇哉と加奈は早くもジャレ合っている。確か今日が初日だったよな、俺達。しかもあんなに忙しかったんじゃ、仲良くなる暇さえ無さそうなのに。

「珍しいな、加奈さん何かやらかしたんですか」

 立場的には青木の方が上司になるのだろうに、この男は殆どのスタッフに敬語を使う。

「お客さんにぶつかって水かけてしもたのっ。もう凹むわぁ、あたしとしたことが」

 厨房を覗く皆の姿に気付き、店長はこちらに向かってあの天使の笑顔で大きく手を振った。

「お疲れサーン、皆ありがとう。佐々木君と橋本君もありがとね。疲れたやろからゆっくり休んでやぁ」

「お先に失礼します」

 俺達は彼女を一人残して店を出た。夜空には雲もなく、初秋の星達が煌煌と京都の山々を照らしている。星が降って来そう、とはよく言ったものだな。そんなことを思いながら、俺は天然のプラネタリウムに見蕩れていた。恵美も星が好きだった。

「可愛いわあ、やっぱ」

 勇哉が俺の隣で小さく呟いた。

「へ? 店長? 加奈さん?」

「こ、き、ぬ、さんっ! んふ!」

 勇哉は締まりのない顔を俺に近付けた。

「病気やな」

 そうせすぐに振られるくせに。

「でもなんで佐々木が先でオレが後やねん」

 勇哉は口を尖らせて腕を組んだ。アニメ探偵のような安っぽいジェスチャーが鬱陶しかった。

「帰りの挨拶? アイウエオ順とちゃうか、平等に」

 あの店長ならそこまで考えていてもおかしくはない。それよりも勇哉が体つきに似合わず細か〜いことを気にすることに驚いた。納得のいかない勇哉はデカイ体で小さくぼやいている。

 客も去った大きなガレージには、車が二台と原付、自転車が一台だけ残っていた。大抵のスタッフは電車で来ているらしく、終電も間近なので皆足早に帰って行った。

「それでは、さよなら」

 青木が年期の入った紺色の軽自動車を俺達の前に停止させ、窓から手を振りながら爽やかに去って行った。隣では料理長が既に鼾をかいている。どうやら老人の送迎までが、青木の仕事らしい。

「お疲れさんでーす」

 隣の勇哉が夜にふさわしくない大きな声で車を見送った。

「あんなポンコツでも一応パワーウインドなんやな。オレもあんなんでええし車買おっかな」

 俺はあることに気付いた。

「あれ、お前何で来てん」

「オレ? 勿論乗せて帰ってくれるやろ」

 抜け駆けはさせん、と言わんばかりの勇哉の表情。別に本気で勝負するつもりなんてないのに。

「知るか、お前なんか。電車で帰れや」

「いやだぁ、コースケくぅん」

 勇哉が俺にしがみつく。コアラにしてはデカ過ぎるぞ、お前。

「あっれえ、やっぱ二人友達やったんや」

 横で見ていた加奈が会話に寄って来た。

 しまった。

「せやねん、マブダチやねん」

 勇哉は物凄く自慢げに俺と肩を組んだ。俺は精一杯迷惑そうな顔をした。俺は加奈と勇哉の立ち話をぼんやり聞きながら、まだ明りのついた店を見つめた。

 遅くまで頑張るなぁ、店長。

「どうしたん、ささキング」

 加奈に変な呼び方をされ、俺は慌てて振り返った。

「なんすか、ささキングって」

 嫌な予感がした。

「ハシモティが、佐々木君は夜の帝王やからそう呼べって」

 最悪である。俺は話題を素早く戻した。

「女の人一人残して、危なくないんっすか。金庫破りとか、あと帰り道とか」

 俺はいつまでも明りの消えない洋館を見つめた。

「小絹っちなら大丈夫なんとちゃう」

 加奈は緩い反応をした。お前なら大丈夫だろうけどな。

「あんなに可愛い女性が夜中に自転車なんてなぁ、危ない、危ない」

 勇哉は力強く言った。お前みたいなのが居るから危ないのだ。

「何、ハシモティ狙ってんの?」

 加奈は目を丸くした。

「おう、だから協力してくれや」

 あっけなくカミングアウトした勇哉は先輩である加奈の肩を偉そうに叩いた。

「へ〜、やっぱモテるなぁ、小絹っち」

 加奈は恨めしそうにそう言った。

「え、店長モテてんの?」

「ほら、なんか陰があるでしょ、あの子。それが男心をくすぐるみたい。でも止めときな、小絹は職場恋愛は絶対無いから」

「え、マジで、何で。ゼッタイ? ゼロ?」

 焦る勇哉、からかう加奈。俺は少々苛立って話を戻した。

「だったら、やっぱ危ないんじゃないですか」

 別にどうしても送りたい訳ではない。寧ろとっとと帰って一風呂浴びたい。でも常識で考えて、年頃の女性を一人置くのはおかしいことだった。何かあってから、後悔するのは嫌だった。

「でもあの子、合気道やってたから、その辺は大丈夫」

 へえ。

 俺と勇哉は短くハモった。俺は更に加奈に尋ねた。

「ついでに聞きますけど、店長にあの子とか小絹っちとか言ってていいんですか」

 俺は体育会系の頭だから、加奈の態度に些か不快を感じていた。でも店長にはそっちの方が似合っているような気もして、少し可笑しくもあった。

「うん、小絹っち元々はバイトやってん。そん時から一緒に働いてたから、私は店長って呼ぶ方が抵抗あるねんな。呼ばなアカンのやろけど、本人も今更いいよって言うし」

 加奈はヘルメットをその丸い顔に装着しながらそう笑った。

「あのゴツい車で帰るねんな。事故らんようにな、お疲れさん」

 加奈は赤い原付で走り去った。ガサツだけど、飾り気がないし悪い奴ではない。

 愛車に乗り込んだ俺はフロントガラス越しに店を眺めた。助手席では、勇哉がカーステレオに合わせて迷惑なリサイタルを始めている。新しい季節が始まろうとしている。そのせいか、俺の中でも何かが始まりそうな予感がしていた。入学式には得ることのできなかった胸騒ぎを、今微かに感じていた。

 遠さかる店の灯りはまだ夜の闇中で光り輝いている。

「どうやった? 厨房の方は」

 勇哉がいい加減な鼻歌に交えて俺に尋ねた。

「え、めっちゃ疲れた。あかんわ体がすっかり鈍っとる」

「腰ばっか鍛えとったもんなぁ」

 勇哉がニヤつき横目で俺を見た。反論し切れない自分が居る。

「そういやお前なぁ、夜の帝王とかいらんこと言い過ぎやねん」

 俺は大きな声で勇哉を責め、恥ずかしさを誤摩化した。

「ハンデやん、ハンデ」

 勇哉はニヤつきながら足元のCDを漁っている。

「お前ホールやし充分それでハンデやろ」

 加奈さんとも一日ですっかり仲良くなってさ。

「おお、なんか珍しくその気やん。さては本気で勝負する気になったな」

 勇哉は満面の笑みを浮かべて腕まくりをした。

「ちゃうって。だって普通に嫌やん、夜の帝王とか」

 俺は口を尖らせた。折角新しい自分になろうとしているのだから、過去の失策は忘れさせて欲しかった。って都合良過ぎるかな、俺。

「今まで何言われても平気やったくせにぃ。あらら、お顔も真っ赤じゃないですかぁ」

 ツンツン、と勇哉が俺の頬を突ついた。俺は力一杯払い除け、鳩尾みぞおちに鉄拳を喰らわしてやった。こんな暗がりで顔色なんか見える筈などないのに、何故か俺は少し慌てた。多分俺はこういう小学生レベルの冷やかしに頗る弱い。

「ぐへっ、乱暴者っ。小絹さんに言いつけてやる」

「勝手にしろっ。あんまりウルサいと車から突き落とすぞ」

「お〜、こわ」

 勇哉のはしゃぎっぷりは、仕事帰りというよりは完全にドライブ中のテンションだった。

「で、そんなことよりホールはどうなん、面白いの?」

 接客業なんて、無愛想な俺には絶対出来ないだろうと思う。加奈の言うように俺がホールに出されていたら、きっと店長の仕事が更に増えてしまっていただろう。その点、勇哉ならそつなく人に接することができる。

「最初は店長にマンツーマンで教えて貰えて楽しかったけど、途中からはずっと加奈さんやったしなぁ、おもんなかった」

 勇哉はくちばしを尖らせた。

「お前の頭はそれだけか」

 俺は仕事のことを聞きたかったのに。

「でもな、仕事っぷり見てて、増々オレ小絹さんに惚れ込んだで」

 勇哉は背もたれから起き上がるとシートベルトをしていなかったことに気付き、慌ててその巨体を締め付けた。

「もうゾッコンやな」

「おう、英語ペラペラやしめっちゃよう動くし、気ぃも利くし、皆苛々してても一人絶対あの笑顔やし。でな、端っこの席の客が水を飲み干したのをな、見えてへん筈の配膳場から気付くねんで。人間業じゃないやろ。オレは小絹さんに水注いで来てって言われて初めて気付いたんやけど」

 勇哉は早口で続けた。

「後な、後な、お客さんが車のキーを置いた位置までちゃんとチェックしててな、あそこのお客様がメニューの裏に鍵置いてはるから、帰りに忘れはらへんか注意して見といてって言うねん。案の定、そのお客さんは帰るとき鍵を忘れて席を立たはったんやけど、すぐに鍵もって追いかけられたし、オレめっちゃ感謝されてん。でも全ては小絹さんのお蔭やねんで」

 凄いな、というよりは、大変だな、と思った。一人残ってしていた仕事といい、どうも他人を信用していない仕事の仕方を店長はしていた。性分なのか、なんなのか。俺には意地になっているようにさえ見えた。

 ーほら、なんか陰があるでしょ、あの子。

 何かあるな。

 隣で彼女を崇拝する馬鹿には何も言えないが、俺には吉村小絹という人間が、やはり『店長』ではなく、アルバイトからも『小絹っち』と言われてしまう程度の器にしか思えなかった。ただ、そんな俺の意識を彼女自身が打ち崩してくれることを期待してもいた。上司を尊敬する、それが秩序を重んじる元運動部の俺にとっての一番座りよいスタンスだから。


 続

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