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2 ー堕落ー

 京都の桜は見事なまでに満開である。少女が点す頬紅のように華やかで美しい花弁達は、優しく通り過ぎる春風に舞い、ある者は川面を流れ、ある者は地を覆い尽くした。最も美しい都の景色に迎えられ、人々は晴れやかで満ち足りた笑顔を携えている。

 それにひきかえ、この俺は。

 目の前に聳える煉瓦作りの立派な学び舎を眺めてみても、底辺を這う俺のテンションは一向に上がらない。自分の辛気臭い表情が剰りにもセレモニー向きでないことは、よく判っている。けれど、愛想笑いを振りまく相手すら見つけられない俺は、顔面の筋肉を1ミリたりとも使うことなく、ただ隅っこの方で居心地悪く突っ立っているしかなかった。ほんの数メートル先では、晴れやかな表情の新入生達が必要以上にハシャいでいる。そしてそれを、胡散臭い笑顔の上級生共が必要以上に歓迎する。だが彼等でさえも、触らぬ神に祟りなし、俺には視線さえも送っては来なかった。別に其処に混ざりたいとは思っていないが、これほどあからさまに黙殺されてしまうと、多少なりとも気分を害する。

 別にいいけど。

 着ているというよりは着させられている慣れないスーツが、俺の体をむず痒くさせた。俺は更にジメジメ度を増し、もはや苔シダ植物になっている。

 帰りたい ああ帰りたい 帰りたい

 季語さえないくだらない川柳を詠んだりして、暇を潰してみる。帰ると言ったって、俺は一体何処に帰るというのだ。

 冷えた下宿に?

 逃げ出した神戸に?

 幸せだったあの頃に?

 答えを見出せない俺は、軽い溜め息を吐きながら、まるで水彩絵の具で彩られた様な、出来過ぎた水色の空を見上げた。眩しさに目が潰れてしまいそうだ。

 この街が綺麗であればある程、俺の気持ちは滅入っていく。

 「お前も新入生け」

 突然、耳元で野太い声がした。

 俺はギャグ漫画みたいにビクッッッとして振り返った。声の主である見知らぬ大男は、気持ち悪いくらいに笑っている。

「はあ、一応」

 正真正銘の新入生であるにも関わらず、何故だか俺は「一応」と付け足した。美しく咲き乱れる桜の木の下で、剰りにもフレッシュさの無い自分は引け目を感じていた。

「俺はまた京都ナンバーワンホストかと思ったわ」

 男は大きな声で笑った。

「なんつって」

 俺は全然笑えなかった。

「な〜んかすっげえ辛気臭ぇ顔して、全然新入生には見えへんな」

 確かに。でもだからって、何でこいつにそんな事を言われなきゃならないのだ。

「あんたは?」

 俺は目の前の大きな男を睨み上げた。

「へ、オレ? 知りたい?」

 男は俺の悪意には全く気付こうとせず、自分を指差して顔全体でニヤついた。

「…別に」

 男は顔の造りこそコアラっぽいアニマル顔をしているものの、くたびれたスーツを着ている上に、無精髭が柔らかそうな皮膚からチクチク生え出ていて、年齢がさっぱり判らなかった。悔しいけれど、こいつが一体何者なのか、少しばかり気になり始めている自分が居た。

「オレはここの教授や」

 男は偉そうに仰け反った。

「へえ」

 やばい、一切敬語を使ってない。

「なんつって、うっそ」

 なんだよ。

 男は白目を剥いて、鼻の下に舌を入れて猿のような顔をつくって俺の至近距離でその顔を一時停止させた。

 ぜってぇ笑ってなんかやらない。

 俺はまた帰りたくなった。

「うっそ」

 俺に冷たく無視された男は、もう一度同じ事を繰り返した。しかも今度は更に近い距離である。俺は堪え切れず失笑した。男が満足げなのが酷く悔しかった。

「オレ、橋本勇哉っていうねん。よろしくな」

 俺は差し出された分厚い手には応えず、両手をポケットに入れたまま視線さえ合わせなかった。それでも目の前の男はニコニコと笑っている。何となく、申し訳ない気がした。

「…俺は、佐々木や」

 俺がやっと小さく名乗ると、橋本というその男は更に顔を緩ませ、ササキョンだのササキングだの、変なアダ名を羅列し始めた。俺はこの男に自己紹介してしまったことを激しく後悔した。

 頭上を覆う雲ひとつない古都の春空。宙を舞う桜吹雪とのコラボレーションは完璧な美術品である。それらが剰りにも美しいので、そこに集い浮かれる人々の見窄らしさが余計と滑稽に映った。そしてその色褪せた群れにさえ、俺は弾かれてしまっている。ボリューム調整の間違えた女学生達の笑い声に、俺は軽い吐き気がした。

 自分が中高校生だった頃は、大学生というのは、もう立派な大人だと思っていた。しかし、いざ自分がその年齢になってみると、実際は全然立派でも大人でもなかった。

 小さい頃は、自分にとって磯野カツオ君は凄くお兄さんだったのに、気付けば自分はカツオ君よりも大きくなっていた。「なんだかんだ言って、優しいオニイチャン」というワカメちゃん目線から、いつしか「なにをやっても駄目なカツオ」というサザエさん目線になっていた。憧れのお兄さんだった高校球児達も、いつの間にか幼く見えるようになっていた。プロフェッショナルに見えたファミレスのお姉さんも、たかがアルバイトだと気付いた。頼りになるお医者サマの助言が案外テキトーだと知った。憧れのアイドルが、実は阿婆擦れだったと気付かされた。親も間違いを犯す只の弱い人間だと解った。

 そして俺は、それらを受け入れることが出来ず、ただ浮遊していた。

 当たり前の事ほど、受け入れ難いものだ。


 起きたらもう、夕日が沈んでいる。そんなぐだぐだな毎日が続いていた。ダメ人間街道まっしぐら。猫まっしぐら。

 学ぶ気の無い大学生には、腐る程の時間があった。これ以上は無理、というくらい限界まで寝続け、目が覚めても寝過ぎで頭が痛いから、すぐには起き上がることはできない。真っ白な壁に架けられた時計の針は、今ちょうど6時を指している。

 朝の?

 夜の?

 カーテンの隙間から忍び込む薄暗い光では、それさえも解らない。でもどのみち授業に出る気もないし、会う人も居なければ何の用事もない。だから慌てることもない。何となく腹が減ったような気がして、モソモソと心地良い羽毛布団から這い出た。冷蔵庫を空けたらそこには何にも無くて、俺は仕方なく、下宿近くのコンビニへと向かった。明日こそは外に出なくてもいいようにと、大量の買い物をする。1.5リットルボトルのコーラ、濃いめの缶コーヒー、弁当二つにスナック菓子を二種類。未成年だとバレることもないだろうと、さきいか、発泡酒三缶を籠の中に追加した。やる気のない店員がレジを打つ指先をぼんやりと眺めていると、もう充分寝た筈なのに、顎が外れそうなほどの大きな欠伸が出てきた。

 そういや俺、今日一言も喋ってねぇな。

 驚愕の事実に気付き、慌てて愛想のない店員に礼を言った。

「ありがとう」

 よし、これでノルマ達成!

 そこそこの満足感を得て、俺はまた自分の部屋へと引き蘢った。八畳一寸のその空間が、気付けば大好きになっている。今買って来た物をすべて床に広げると、俺はローベッドの上で胡座をかき、テレビのチャンネルを無造作に変えた。吐き気がするほど能天気な番組、目眩がするほどに重苦しい番組。それらを避けてチョイスしたニュース番組はニュース番組で、明るい話題は天気予報くらいのものだった。最後の希望が摘まれるような暗い話題ばかりが日々繰り返されている。国家権力を脅かすほどの強大な力を手にしたマスコミ共は、あれやこれやと問題提起をするばかりで、ちっとも状況を打開するまでの力にはなってくれない。世に警鐘を鳴らすのはいいが、ここまで人々の不安を煽ってしまって一体どうするつもりなのか。人は最早不安になることに疲れ、考える気力さえも失っているというのに。

 明日は晴れ、か。

 俺は結局テレビを消し、プレーヤーに入りっぱなしのCDを大音量で鳴らした。このマンションの壁は薄い筈だけど、まだ苦情は一件も来ていない。買い溜めした筈の食料をすべて平らげると、先刻起きたばかりであるにも関わらず、また性懲りもなく襲ってくる眠気にただ身を任せた。

 俺にはまだまだ気の遠くなる程膨大な年月が残されている。


 「いつも一人でいるよね、一人が好きなの?」

 喋りかけなくていい。

 そんな俺のオーラは、この女には通用しなかったようだ。

 珠に大学に顔を出すと、決まって見知らぬ女ドモがこうして俺に話し掛けてくる。折角厭世的に振る舞っているのに、それがまた別の興味を引くらしい。俺は眼球だけを一瞬その女に向け、すぐに元の視線、何処ともなくぼんやりと眺める視線に戻した。

 目の周りを黒く縁取ったパンダ目のその女は、迷惑にも俺の隣の席に腰を落ち着かせた。少し遅れて、甘ったるい香りが俺を襲う。嫌いな匂いではないが、ちと強烈過ぎる。女は色々話し掛けてきたが、俺はそれを左耳から右耳へと通過させた。相手が男なら、それだけで問題はない。「感じの悪い奴だ」と離れていってくれる。だが、相手が女になるとこれがややこしい。俺の態度のせいで突然泣き出したり、場合によっては急に怒り出す。なので適度に話を聞いてやらねばならず、それが非常に面倒で厄介なのだ。だからまた更に大学から足が遠のいてしまうのだ。

 そうやって自分の無気力を何かのせいにして、誰にともなく言い訳を繰り返した。

 頭の中は相変わらずぼんやりとしたままなのに、俺の大学生活は既に流れ始めていた。脳に吸収するものが少なければ、時間が経つのが早く感じると聞いた事がある。そういえば、俺の脳はこの地に来てから、まだ何ひとつ吸収してはいない。

 俺の鼻先を、白く塗られた長い爪がヒラヒラと揺れた。アイアンクローされるのかと思い、俺は身を捩って逃げた。

「大丈夫? 佐々木クン」

 吃驚させんなよ。

「起きてる?」

「…寝てる」

 いや、多分もうすっかり腐ってる。

「ふふ、佐々木クンって意外と面白い人なんだね」

 別に何も面白い事なんて言ってない。俺は面倒臭そうに、イヤ、実際面倒臭いのだが、目の前の巻き毛オンナを見遣った。

「あ、関西の人だよね? 標準語って、やっぱムカつく?」

 いや、別に。ムカついてるのは喋り方じゃなくって。

「でもね、私、関東って言っても田舎っ子だから、そんな目で見ないでネ」

 どんな目で見てるっけ、俺。

「私さ、その、友達少ないから、さ。良かったら、んと、その、友達になってくれると、嬉しいな」

 女は上目遣いでそう言うと、小さいメモを俺に押しやり、俺には一言も喋らせないで、友達連中の方へと走り去った。女の冷えた指先は、微かに震えていた。

 別に友達は少なそうではない。間違いなく、俺よりは多い。

 異性を誘うオーソドックスな手段、

「勉強よく解らないから教えて」

「部屋汚いから片付けに来て」

「暇だから遊んで」

 この『〜だから…』という構文の〜部分が事実である例は、実に稀である。勉強を教えに行っても、実際教材を手に取るのは最初の五分か十分程度だ。汚いと言われた部屋は行くと既にある程度片付けられている。暇だと言っていたくせに、結局は日程を詰めなければ約束は実行されない。会いたいから会いたいだとか、遊んで欲しいから遊んでとか、直接的に相手に要求する文化がこの国にはあまりない。そのくせに「ヤリたいからヤラして」と平気で言って退ける輩は多い。是如何に。

 先刻のパンダ目オンナが残した桃色の紙切れに目を移す。

 どれどれ。

 ユリ、と書かれたメモには、ケータイ番号とメアドが書いてあった。名字をを敢えて書かないのは、最初から名前で呼んで貰おうという作戦なのだろうが、これでは高校の時、部活の先輩から

「お前も行って来いよ」

 と貰った風俗嬢の名刺みたいだ。しかも貼ってあるプリクラの出来栄えが剰りにも良過ぎる。まるで先刻の女とは別人である。一生会わないつもりならこれでいいかもしれないが、実物を見てしまった以上、このプリクラは全く以て意味が無い。

 はい、却下。

 俺はそのメモを二つ折りにして、一応、胸ポケットに入れておいた。学校内で捨てるのは、ちょっと、ね。

「まぁた逆ナンですかい、旦那ァ」

 背後から暑苦しい声がし、ずんぐりむっくりの小熊みたいな手が俺の左肩を叩いた。ニヤけ顔の勇哉は、先刻までパンダ目オンナが座っていた俺の隣の席に、彼らしからぬ素早い動作で腰掛けた。今の今まで、こいつは何処にその巨体を隠していたというのか。

「違うよ」

 俺はようやく手を顎から離し、伸びをしながら鬱陶しそうに勇哉を見た。実はそれほど鬱陶しくはなかった。入学式以来、何故がこの男とはよく喋るようになっている。きっとお互い、他に喋り相手が見当たらないのだ。

「いいなぁ、おまえはイケメンで」

 平和な顔をした大男が、ヒヨコみたいに口を尖らせる。俺は無視した。

「松下さん、オレ結構気に入ってたのになぁ」

 勇哉は女が去った方を見遣り、深〜く溜め息をついた。

「松下? 今の子? へえ、何でまた」

 なんだ、ちゃんと立派な名字があるではないか。フルネームを知って初めて、俺は先程の女をやっと生身の人間として認識した。たった今まで、俺にとってあの女はバーチャルな存在でしかなかった。

「なんか化粧とかお洒落とか覚えたてって感じで良くない? これからどんどんイイ女になりそうで。性格もまだ純情そうやし」

 勇哉は嬉々として語った。

「どやろな」

 俺はその話を終わらせようとするが、勇哉は一向に止める気配がない。

「お前、ジャニーズ系やもんな」

 金髪の割に地味な顔で、勇哉は人懐っこい笑顔を見せた。じゃあ勇哉は郵袋動物系にでも分類してやろうか。厳つい体格に似合わず、顔のパーツに尖っている部分がひとつもなくて可愛らしいったらありゃしない。

「じゃあ、やるよ。俺が持ってても捨てるだけやし」

 俺は先刻貰ったばかりのメモをポケットから取り出すと、目の前のコアラ男に手渡した。

「おおっ。お前、見かけによらずイイ奴やん」

 勇哉はニヤけた顔で俺の左肩を叩いた。

「気付くの遅いわ」

 俺は下手な笑みを返した。

「よっしゃ。メアドゲットのお礼に、今日は奢ったるわ。オレ、昨日スロットで大勝ちしたから、今めっちゃブルジョワやねん」

 勇哉はそう言って間抜けな顔を俺に近付け、肩を組んできた。どこまでも鬱陶しい。でも、なんか憎めない。見た目がメルヘンだからだろうか。きっとこいつの背中にはチャックが付いているに違いない。そしてロシアのマトリョーショカみたいに、開けても開けても勇哉が入っているのだ。そして最後にはちっちゃい勇哉に辿り着く。この男は体と内面の寸法が違い過ぎているから、それでやっと納得できる。

 相も変わらずジメジメしている自分にいい加減飽き飽きしていたところだし、この男に対して少しばかり好奇心が芽生えていたこともあって、俺はこいつに奢ってもらってやることにした。よく考えてみれば、校外で誰かと会うなんて、こっちに来て以来一度も無かった。

「絶対来いよ」

 勇哉は締まりのない笑顔でそう言うと、俺に手を振り何処かへ消えて行った。

「ああ」

 俺はほんの少し、夜が楽しみだった。


 「やっぱり来るんじゃなかった」

「まあ、そう言うなって」

 いかにも学生ウケの良さそうな安っぽくやかましい居酒屋に入ると、未成年である筈の暑苦しい連中が、早くもすっかり出来上がっていた。同じ大学の奴等が集まっているとは聞いていたが、誰一人としてその顔に見覚えがない。きっとお互い病的に出席率が悪いのだろう。

「やっと来たぁ。オマエの奢りやし来たったのに遅いぞぉ。逃げ出したんかと思ったわぁ」

 鼻にピアスをした男が、立ち上がって勇哉を迎えた。

「すまん、すまん。でも噂のイケメン連れて来たったで」

 くたびれたスニーカーを脱ぎながら、勇哉が訳の解らない紹介をした。俺は軽く会釈をして、素面しらふのくせしてフラついている勇哉の巨体を支えた。片足で立つということも、大きめサイズの彼にとっては一苦労らしかった。きっとバランス感覚が皆無なのだろう。俺がその鈍い姿に堪らず噴き出すと、勇哉は得意げに笑い返した。

 間違えられては困る。狙って取った笑いではないのだ。「笑わせている」のではなくて「笑われている」のだ。だが本人はそれに全く気付いていない。無知と鈍感は幸せ者の秘訣である。

「おおっ、イケメン佐々木君登場〜。僕にも女紹介して〜やぁ」

 ドレッドヘアの男が俺に握手を求めてきた。見た事も聞いた事もないその男からは、多少の悪意が感じられた。

 イケメン。イケてる面、イケてるメンズ。正しい語源が何なのかは知らないが、取り敢えず今の世の男性諸君にとっては容姿についての一番の褒め言葉であるらしい。だが実際に言われてみると、あまり嬉しい響きではない。ポケモン、と言われているのと大した差は無い気がする。人を評価する言葉にしては、余りに軽過ぎるのだ。

 強烈な不快感が顔にまで出ていたのか、勇哉は俺の肩を軽く叩き、眉を八時二十分にして力なく笑った。

「おまえ、結構有名人やねで」

 勇哉は明らかに俺を誘ったことを後悔している顔だった。

 気を使わせてしまったかな。

 金髪で巨漢なくせに、勇哉はちょっと泣きそうである。そのアンバランスさが面白く、またとても不憫に思えた。こいつの為に、ちょっとくらいは無理してやろうという気持ちになった。

「何人でも回すよ」

 俺は仕方なくそのドレッドヘアと軽い握手を交わし、その居心地の悪そうな場所に腰を下ろした。取り敢えずで頼んだ俺達の薄い生ビールがやって来ると、腕をまくりわざとらしく龍の入れ墨を見せている男が、膝で立って音頭をとった。

「じゃ、改めて乾杯といきますかっ。万枚メダリスト、勇哉に乾杯!」

 見た目に寄らず、“龍”の口調はおっさん臭い。

「乾杯っ」

「ゴチんなりや〜す」

 全く訳が解っていない珍客なのだろうけれど、俺は取り敢えず連中と同じようにジョッキを鳴らし合った。男達はまるで蟒蛇うわばみのように一瞬でビールを飲み干し、わけのわからない雄叫びを上げている。もう既にしこたま飲んでいるようだった。

 俺は空きっ腹だったので、一気には飲み干さず、一旦重い大ジョッキを机上に置いた。カッコつけてる、と隣のドレッドに冷やかされても、無理をする気にはならなかった。

「勇哉、万枚メダリストって何や」

 何故か他の奴等には聞かれたくなくて、俺は小声で尋ねた。

「パチスロでコインの獲得枚数が一万枚を超えたってことや」

 勇哉は小声で答えてくれた。

「それ、凄いんか」

「うん、せやな。換金率とかにもよるけど、今回で言うたら二十万近く儲けたってことや」

「二十万!?」

 折角勇哉も小声で答えてくれていたのに、自ら大きな声を出してしまった。可笑しなことに、この場所ではパチンコやスロットを知らないことが恥ずかしい。

「佐々木君はパチンコとかせんのか?」

 “龍”の男が教師のような口調で訊いた。

「…したこと、ない」

 何故か感じる気後れ。

 別に俺は優等生だった訳ではない。どちらかと言えば、問題児とまではいかないにせよ、扱いにくい部類の生徒だったと思う。自覚はないがどうも人を小馬鹿にしたようなところがあったらしく

「お前は大人をナメている」

 とナメられた大人達は力で俺を抑えにかかった。その力の及ばぬ場所を見つけては、法を破って酒や煙草、車の運転もした。人並みの非行、ありふれた反抗期だった。

 パチンコやスロットに関しては、やってはいけないからやらなかったというよりは、全く興味のない分野だったのだと思う。少し前まで、パチンコは職業不明のおばはんやおっさんがするものだというイメージがあった。だが最近は、俺達みたいな学生や若い女性客がかなり増えてきているらしい。確かに、今一番自由な金を持っている層である。ゲームセンター感覚で気軽に出入りできるようにと、店構えは随分と綺麗でお洒落になった。「カップルシート」といって、恋人同士が並んで打つ台なんかもあるらしい。テレビでもパチンコメーカーが普通にコマーシャルを流しているし、特別な場所感はかなり薄らいできている。だが、目の前の男達の話を聞く限り、やはりそれは健全なものとは思えなかった。

「おれ今月かなりヤバいわ。負けまくって家賃の金まで使ってしもたぁ」

 鼻ピアスがへらへら笑いながら深刻なことを言った。

「負けるって、どんくらいのもんなん?」

 遊びゴトキで家賃の金にまで手を付けるという感覚が、俺にはよく解らなかった。

「負ける時は止めどなく負けるで。オレは五万以上は突っ込まんようにしてるけど、こいつ等は持ち金全部使いよるしな」

 心なしか勇哉の表情からは勝者の余裕が垣間見れる。さすがは本日の万枚メダリスト。だが明日は明日の風が吹く。

「超激アツの台があってなぁ、最初はずっと噴いとってんでぇ。でも深追いし過ぎて結局は全部イカれてもうてん。んで、そっから取り返そうと思ってヤケになってしもてなぁ」

 鼻ピアスがその坊主に近い短髪を掻いた。

 どうやら金を使う事を「突っ込む」、コインが沢山出てくることを「噴く」というらしい。

「おれが今まで一番やってしもたんは一日二十万ぐらいかなあ。でもこの前隣で打っとったオッサンは、その日だけで五十万スッてるて言うてたで」

「僕の連れに消費者金融で借りてまでハマってるやつもおるよ」

 げひょん。

 自分の可愛い子供達がそんな阿呆な大学生活を送っているとは露知らず、その親達はニコニコ顔で仕送りをするのだろう。そしてその金は、また派手な機械に呑込まれてしまうのだ。

 俺は酒の力も借り、口から出任せを並べ立て、すっかり連中と打ち解けてみせた。勇哉の為というわけではないが、結構無理して頑張った。女の話と車の話、ギャンブルの話だけで宴は終わる。こんなにもウダウダと無駄な時間を過ごせるのも、四年という自由な時間を与えられたからこそ為せる技である。くだらなくつまらない会合は夜明け前にようやくお開きとなり、俺は完全にコントロールの効かなくなった勇哉の重たい体を支えて其処を出た。店の前には同じ大学の何かのサークルらしき団体が溜まっている。四つん這いになりゲェゲェやっている輩を見ていると、先刻まで一緒に飲んでいたロクでもない連中の方が、まだ幾らかマシなようにも思えた。

 夜の風も随分と暖かくなっている。相変わらず宙ぶらりんの俺を置いて、日々はもう移ろい始めている。雨の季節を通り過ぎれば、夏は夏で、きっとこの街は美しさを誇るのだろう。川床、祇園祭、大文字の五山送り火。そして大きな花火が夜空に舞うこともあるだろう。俺の大嫌いな、色とりどりの打ち上げ花火が。

 自覚がなかっただけで、俺も結構酔っていたらしい。気付けば俺と勇哉は近所の公園で相撲をとっていた。木の枝で描いた土俵は、可笑しなほど歪な円をしている。

 何でこんなことに。

 勇哉は厳つい割に非力くんで、何度も俺に投げられて、すっかり砂塗れになっていた。体格がいいのではなく、ただちょっと太っているだけだったらしい。

 全然負ける気がしねぇな。

 散々奢らされて、投げられて、砂塗れ。なんて不憫なコアラ。

「おまえ、凄いよな」

 全身の砂を払いながら、勇哉は満面の笑みでそう言った。こんなにも哀れなのに、まだ笑っている。お前の方がよっぽど凄いわ。

「勇哉が弱過ぎんのや」

 俺は負けず組み掛かって来る勇哉をあっさりと投げ倒した。もういい加減止めようぜ。

「いや、そうやなくてな。あいつ等と普通に話し合わしてるんを見て吃驚してん。おまえがそんな器用な奴には見えへんかったから」

 勇哉はフラつきながら立ち上がり、全身にびっちりこびり付いた白い砂を払い落とした。

「じゃあ何で俺を誘ってん」

 俺はその場に座り込んだ。

「すまん。いや、オレは正直一人で行きたくなかってん」

 勇哉も俺に向かい合って座り込んだ。

「友達ちゃうんか、あいつ等」

 勇哉は俯いた。その姿はぬいぐるみ、否、パンダそのものだった。

「友達っちゃあ友達やけど。ただのスロット仲間って感じやなあ。その日勝った奴が皆にオゴる。その代わり情報も皆で共有するんや」

「情報?」

 なんだか怪しげな響き。

「今日はどこの店の何の台がよく出てる、とか、いつどんなイベントやるとか。あと、この店は店長が代わってから出してないとか、あの台は回収台やから手ぇ出すなとか」

「回収台?」

「勝たせはせんけど暫く遊ばせてくれるのが『遊ばせ台』で、設定が悪くて突っ込まされるだけのが『回収台』。つまり店が儲けを回収するための台ってわけや。実際んとこは派手に勝たせるような設定の台は殆どなくて、この二種類ばっかしや」

「ふうん」

「でも詳しいデータとって確実に勝ってる奴とか、怪しい人脈持ってる奴とかも居るねん。ゴト師っちゅうて犯罪で儲けようとする奴とかその機械高額で売り付けようとする奴とか、中には深入りせん方がいいようなアブナい奴も居るし関わらんように気ぃ付けろよ。今日の奴等は皆大丈夫やけど、金の貸し借りはようするから、それは注意した方がええかもな」

 目の前の着ぐるみ男は俯いたままで砂嬲りを始めた。

「お前も人に借金してまで遊ぶんか?」

 俺にはこのパンダちゃんが、そんなアングラ社会で生息しているとはとても信じられなかった。

「オレは借りてもすぐに返すけどな。有り金尽きても、後ちょっと回したらボーナスかかるとこやったら、スマンちょっとだけ貸してって」

 勇哉はまだ肩で息をし、両手を合わせて金を借りるジェスチャーをした。なんとも情けない姿である。

「やったことないし解らんけど、そこまでしてやる程オモロいもんなんか」

「いっぺん大勝ちしたら味を占めてしまうねん。今の間だけやん、親の金で遊べるん。一瞬で大金が手に入る快感を学生の内に満喫しとこうと思ってな」

 一攫千金は男のロマンというけれど、所詮は泡銭である。親が汗水垂らして稼いだ金は、このように着々と浪費されていくのだ。

「とか言いながら、学生やなくなっても止められへんようになってる奴はいっぱい居るしな。オレも止めた方がいいって思ってはいるんやけど、もう既に止められへんようになってしもてるかもなぁ。一種の中毒やで。暫くやらんかったら手がやりたなってくるねん」

 貧乏揺すりみたいなものか。

「一日で何十万とか儲けたら、マトモに働くのが馬鹿馬鹿しくなってしまうしな。人間的にもヤバいと思う」

 パンダちゃんはしょぼくれた。

「何十万も負ける方が馬鹿馬鹿しくないか」

 そして俺はそれを諭す。

「まあ、そやねんけどな。何かよう解らんけど、気付いたらついつい足を運んでしもてるねん。スロット打ってる間は他のこと何も考えんで済むから」

 ー他のことは何も考えなくて済む。

 勇哉の独り言らしきその言葉に、俺の耳は異常に反応した。そしてそれまで悪行としか思えなかったその行為に、俺は急激に魅力を感じ始めていた。

「まあ、オレとあいつ等は利用しつつされつつの関係やな」

 勇哉がいつの間にか話を戻していた。俺は話が逸れていたことにさえ気付いていなかった。

「大学の連れってそんなもんや。ノート貸してくれるとか、合コン誘ってくれるとか、その程度が殆どや。高校時代の友達関係に比べたら、何か薄っぺらい人間関係やで。損得勘定ばっかりや。色んなとこから出て来てるせいかなぁ、皆変に警戒してるっていうか、深入りせんとこうってお互いが思ってる感じがする」

 パンダは子供のように砂嬲りを続ける。俺が一人でぼんやりしてる間に、周りではそんな人間公式ができていたとは。全く知らなかった。

「おまえは今んとこ、女のおこぼれ目当てってとこかな」

 勇哉がニヤリと上目で俺を見た。俺が怒るのを期待しているのだろうけど、別に俺はそんなこと気にもならなかった。

「あぁ、紹介しろとか要らんのでいいからこっちに回せとか、そんな話ばっかやったわ。俺にそんな人脈期待する方がおかしいと思うけどな」

 あのテの男達は、女性を人とも思っていないようなところがある。人はそれぞれに意思があって心があるという、初歩的なことを見失っている。こういう男が女に向けているのは生殖本能だけであって、女が求める恋だの愛だのとは全く関係のない代物である。その擦れ違いが、哀しい女達を生む。

「おまえ、かなりモテてるもん、学校全然来うへんくせして。いいよなぁ、顔のいい奴は」

 顔で得したと思ったことは、今の今まで一度たりとも無い。昔から事あるごとに生意気な顔だとイチャモンをつけられた。大嫌いな親父に似たこの顔を殴られる度に、いっそ原形を留めないくらいメチャメチャにして欲しいとさえ思った。

「でもオレは女目当てとかと違うで。それよりオレはおまえとマトモに話したかったんや。なんかオレと同じニオイのする奴やなぁって思ってな」

 勇哉は真剣な顔になって話の調子を変えた。真剣な表情も面白い。こいつの方がよっぽど顔で得している。

「同じにすんな。図々しいにも程があるぞ」

 俺は勇哉に毒吐いた。

「お、喧嘩か」

 勇哉はボクシングの構えをしてみせたが、それはファイティングポーズというよりはチアガールがポンポンを持っている姿にしか見えず、全然迫力が無かった。

「最初の内は皆サグり合ってるんとちゃうか。段々ちゃんとした関係が築けるようになるって」

 俺はしょぼくれパンダを励ます為、柄にもなく安っぽい教育ドラマみたいな台詞を吐いてしまった。すっかり腐り切っている俺にも、いつかこの地でちゃんとした人間関係を築くことができるのだろうか。

 きっとできない。

 できやしない。

 自分のことを深く知って欲しいだとか、この人のことをもっと知りたいだとか思うことは、きっとこの先二度とないだろう。だからこそ、俺は近付いてくる勇哉にも安価な言葉を掛けることしかできないのだ。

 じゃあ何故俺はこの地に来たのだろう。

 これは旅立ちでも出発でもない、現実からの逃亡でしかなかったのだろうか。

「何難しい顔してんねん、おまえ」

 勇哉は顔面の筋肉を緩ませ、締まりなく笑った。俺は強張った顔を無理矢理ニヤつかせて立ち上がり、尻に纏わりついた白砂を軽く叩き落した。

 俺達はそれからも空が明るくなるまで相撲を取り続けた。アルコールを含んだ大粒の汗が背中に伝い、無駄に熱くなった体を冷やしてくれた。結局最後の最後まで、俺が砂に塗れることはなかった。 




 着いたのは、俺が運ばれたのと同じ病院の精神病棟だった。つい先刻まで一緒に居た筈の恵美は、青白い顔をして眠っていた。酷く窶れているようにも見える。白く細いその両腕には、太い点滴の管が刺されている。痛々しくて、俺は見ていられなかった。

「どういうことや」

 俺はタカに尋ねた。

 意味が解らなかった。一緒にいたのに。今の今まで、ずっと一緒に居たのに。そこに寝ているのが本当に恵美なのか、それさえも確信できなかった。よく似た別人なのではないかと思った。また、そうであって欲しいと思った。

「気ぃ失うまで泣き喚いて、意識が戻ったらまた泣き喚いて暴れる、それをずっと繰り返しとうんやて」

 タカはじっと恵美の寝顔を見つめていた。目を背けようとしていた俺自身に気付き、俺もその痩せこけた寝顔を見つめた。

「…俺、一緒に居たんやで…」

 蚊の泣くような俺の声を聞き取ったタカは優しく微笑むと、自分より一回り大きな俺の肩をポンと叩いた。俺は再び息苦しさを感じ、大きく深呼吸をして自分を落ち着かせようとした。

「胃の中のモンも全部出し切ってしもて、胃液やら血ぃまで吐いてしもたんやと。そのままやと危ないから、薬で寝かせとうらしい」

 タカは暫くの間、恵美の寝顔を見つめていた。その表情がいつになく大人びて見えて、それが心強くも淋しくもあった。俺は恵美の傍らに立ち尽くし、小さく震えることしかできなかった。真夏だというのに、何故かとても寒かった。寒くて寒くて、凍え死んでしまいそうだった。

「大丈夫か、オマエも」

 青ざめた顔で小さく頷く俺の背中を擦りながら、タカはまた優しく笑った。

「あんまり心配すんな、すぐに良くなるって。オマエも自分の身体を過信せんと大事にせえよ」

 タカは俺の肩を軽く叩き、下手な口笛を吹きながら病室を出た。全然吹けていない。パタン、という扉の音が静かな部屋に大きく響いた。俺は心細くなって、慌ててタカの後を追い掛けた。


 数日が経過しても、恵美の身体はまだ点滴しか受けつけないままだった。すぐに元に戻る、そう信じていた心は、いつしかもう二度と戻らないのではないかという言い知れぬ恐怖に支配され始めていた。ただ時には状態が少し安定することもあり、ほんの短い間であれば会話ができる日もあった。

 二人きりだった。俺は恵美が眩しがらないようにと、窓から差し込む晩夏の夕日を薄汚れたカーテンで遮った。

「ごめんな、折角高校最後の夏休みやのに」

 蚊の鳴くような声で、恵美は一生懸命話してくれる。

「ごめんとか言うな、早く元気んなれ」

 そして恵美はまた泣き始める。

「ごめん」

 柔らかな髪を撫でてやると、恵美は静かに眠るのだった。同じ会話、同じやりとり。彼女の身体は日毎痩せ細り、すっかり骨と皮だけになってしまっていた。

 嫌だ。

 こんなの嫌だ。

 俺の身体はすっかり元通りになっていた。花火の日のことも、もうずっと前のことのようにさえ感じていた。なのに、目の前には変わり果てた恋人の横たわる姿があった。ずっとずっと眠ったままの、愛しい人が居た。

 何がそんなにも恵美を苦しめるのか。

 ずっと傍に居たのに、なぜ俺は何ひとつ解ってやれないのか。

 俺は自分が何をすればいいのかもまったく解らず、ただ当たり障りのない励ましをするだけだった。毎日見舞いはするものの、何ひとつできやしない。恵美の身体が小さくなっていくのを、ただただ黙って見ていることしかできなかった。

「ごめんな、高校最後の夏休みやのに」

 聞き取るのがやっとの、細く小さな声。

「気にすんなって。早よ良くなって、一緒に勉強しようや」

「ごめん」

 啜り泣く恵美の折れそうな細い手を、俺は両手でしっかりと握ってやった。疲れた顔をしてしまっている自分が情けなくて仕方なかった。

 ふがいない、ふがいない俺。

 恵美の細く白い腕には、点滴の痕が無数の斑点となって残っていた。もうじき針を刺すところも無くなってしまう。気持ちが焦るばかりで、相変わらず俺にできることは何ひとつ見つからなかった。代わってやることもできず、救ってやることもできず、解ってやることすらできない。もどかしさが、俺を苛立たせた。

 どうしたらいい。

 どうすればいい。

「食べろ、食べろって」

 寝ている恵美に怒鳴り、病室の壁に拳をぶつけた。鈍い音が小さな部屋に響いた。

 こんなことが何になる?

 何にもならないのは解っている。でも、どうすればいいのか、何をすればいいのかちっとも解らなくて、悔し涙だけが止めどなく流れた。恵美のためなら何だってする。この身体を差し出しても構わない。その気持ちは確かなのに、それだけでは彼女を救うことができないのだと、毎日毎日思い知らされる。

 笑って。

 笑ってくれ、恵美。

 一緒の大学に行こうって約束やぞ。卒業したら、絶対に二人きりで旅行するからな。タカ達にも邪魔はさせへんからな。

 だから笑って。笑ってくれ恵美。

 いつものように、俺を阿呆だと笑ってくれ。

 恵美の痩せ切った身体を抱き締めながら、俺は嗚咽していた。まるで紙でできた人形のように、彼女は軽く軽くなっていた。あの夜の花火の音が、俺の頭の中で遠くこだました。

 次の朝が来るのを待たず、恵美は病院の屋上から飛び降りた。




 七番台のお客様、ボーナスゲームスタートです。

 騒々しい店内にアナウンスが流れ、俺の遊戯台は派手なアクションを始めた。大音量でリズミカルなトランスが流れ、何となく楽しいような気がした。今朝買ったばかりの煙草は、もうラスト3本になっている。店員がこまめに灰皿を回収してくれるから、自分が此処に来てからどれだけ吸っていたのか、全く解らなくなっていた。視界を白く曇らせるほどの副流煙も鱈腹に吸い込んで、俺の肺の中はきっと真っ黒になっている。肺癌になろうが早死にしようが、今の俺には何ら関係のないことだった。

「お、やっぱササキョンの台やんけ」

 音に誘われてやって来た勇哉が、俺の背後に立って肩を叩いた。

「連戦連勝」

 俺は勇哉にVサインをしてニヤついた。俺にスロットを教えてくれたこの男は、近頃すっかり勝ち運が遠のいているようだった。

「只のビギナーズラックやって。そのうち痛い目見るで」

 負け犬の勇哉は虚しく吠えた。

「天は二物を与えたんやって」

 俺は勇哉の沈みっぱなしの肩を二度叩いた。

「でも佐々木、大学では早くもサイテー男って評判らしいぞ」

 隣のパチンコ台に腰掛けた着ぐるみコアラは、その丸い顔を俺の方に向けた。何度見ても、慣れないくらいに面白い顔である。

「え、何で」

 良くも悪くも、俺は学内で評判が立つ程に出没してはいない。

「松下さんが、自分のケータイ番号をお前に売られたって泣いてたらしい」

「へ」

 俺は一銭も貰ってない。でもオゴっては貰ったか。いや、きっとそういう問題じゃあない。

「お前、他人事みたいに言うてるけど、むちゃむちゃ当事者やんけ」

「おほほ」

 コアラは口を押さえて笑ってみせた。

「お前、ホンマにあの子に連絡したんや」

 コアラちゃんの意外な行動力に、俺は素直に驚いた。

「廊下で拾って運命感じたって言うたんやけど」

「まぁ、バレるわな」

 だからって別になんとも思わなかった。

「オレだって自分から聞かんでもええようになりたいわぁ。おまえばっかズルいぞ。引く手数多、選り取りみどりやんけ」

「別にそんなに潤ってねえって。おっ」

 俺の台にリーチがかかった。

「だってこの前もあのめっちゃ可愛い子、何やっけ、山崎さんやっけ」

「山崎アイミ?」

 小洒落た源氏名みたいだと思ったから、よく覚えている。俺達の同年代にはそういう現実感のない派手な名前の子が多い。きっと親世代の片寄った趣向だろう。

「そうそう、あの子にめっちゃ喋りかけられとったやん。あの子あんま人と喋らんくせにおまえにばっか喋りかけよるやろ。絶対おまえに気ぃあるぞ」

「みたいやな。おっしゃ、またボーナスかかった」

 じゃらじゃらとコインが流れ出た。警報音が鳴ったので、店員が俺の台にコインを補給しにやって来た。アルバイトらしきその細身の眼鏡男は、小声でドウゾと言って迅速にその場を離れた。俺はそいつに軽く会釈を返し、遊技を再開した。コインの詰まったプラスチックの小箱が、俺の足下に積み上げられていく。勇哉はそれを恨めしそうに眺めた。

「みたいって何やねん、それ」

「本人がそんなこと言うとった」

 俺は新しい煙草に火を付けた。これでとうとう残り一本になってしまった。

「ええっっ、つまりそれは何かい、告られたって事けぇ? んでんで、おまえは何て答えてん」

 勇哉はその図太い足をバタつかせて興奮した。見た目によらず少女趣味な話題が好きらしい。

「別に。ああ、そうなんって感じ」

「かああ〜有り難みのねぇ奴! おまえのその冷酷さを女共に教えてやりてえよ」

 ああ、酷いさ。サイテーと罵られて初めて、自分の無神経な行動に気付くデリカシーの無さ。折角頂いた連絡先を、最初の三桁さえ憶えずにスルーパスしてしまう最低っぷり。あの時の俺は全く何も考えていなかった。

「勇哉が教えんでも、きっともう皆俺が酷いってことは知ってるわ」

「そうかなぁ。女は見た目で人を判断しやがるからなぁ」

 男ほどではないだろう、と男ながらに思った。女が化粧の鎧を纏い着飾るハリボテになったのは、真実を見る力のない男が多いからだ。そんな主張をどこかで聞いた気がする。

「おまえ、かっこいいだけじゃなくて、なんか寂し気で色っぽいもんなぁ」

「なんやねん、気持ち悪い」

 早くこの澱んだ遊技場から出たいのに、俺の台はコインを噴き続けた。一ヶ月以上も続いているビギナーズラック。ちっとも嬉しくない幸運。この夜も俺達はその泡銭で浴びるほどの酒を飲んだ。

 連中と毎晩のように開かれる会合は、いつしか何も考えずに過ごせる楽な時間になりつつあった。ギャンブルで何万勝っただの、どんな車に乗っているだの、何人の女と寝ただの、ピアスの穴の大きさがどうだの、実につまらない物差しで彼等は人を測っていた。馬鹿げてはいるが、俺にとっては決して深入りされることのないこの関係が丁度良かった。ここは自分の居るべき場所ではない。皆そう薄々は感じながらも、冷たく無機質な自分の下宿に帰ってしまうのがつまらなくて、こうして此処に集まってくるのだ。

 そもそも居心地のいい場所なんて、然う然う簡単に見つけられるものではないのかもしれない。見つけたとしても、其処に留まるのは難しい。

 大切なものほど、変化という波に攫われやすい。


 そして今日もまた、二日酔いで朝を迎えた。

 もしかしたら丸一日寝てたのかも。

 慌ててケータイの日付を見て、まだ六時間しか経っていないことに心を落ち着かせる。実際のところ、何日経っていようが丸一年眠り続けていようが、何の支障も無い生活を送っているのだけれど。

 可笑しなことに、スロットを打ち始めるようになってからは、どれだけ前の日に夜更かしをしていても、毎朝行きつけの店の開店時間十分前にはきっちり目覚められるようになっていた。

 今日はさすがにやめておこう。

 枕元に並べられたリモコン群からテレビのものを取り、スイッチを入れた。朝っぱらからテレビのニュースでは何処かよその国の屍体や流血者が搬送されていく様子が映っている。買い置きのサラミを齧ろうとしていた俺は、その朝食を中止した。最近は惨たらしい映像がお茶の間まで普通に配信されてくる。

 気分が悪りぃ。

 そうかと思えば、次のコーナーは誰々の熱愛スクープです、と司会者は笑顔を見せる。俺はその会ったこともないその男に対する強い不快感を拭い去りたくて、急いで外に出ようとした。だが出席も取らない講義には出る気なれず、結局いつもの様に遊戯場へと足を運ぶのだった。

 気付けば、毎日のように通っている。居心地の悪い筈の酷く汚れた空気、聴力や視力を減退させるであろう騒音や電光。だが一度それに慣れてしまえば、今度はそれ無しでは居られなくなる。寂しさや孤独を紛らわすために、虚しい想いに囚われないために、俺はその空間の賑やかさの中に逃げ込むのだった。

 一人で居るより気が晴れる。

 誰かと居るより心が休まる。

 「お金」と「不幸」は寂しがり屋で、沢山ある所に集まっていくのだと、昔タカが言っていた。俺の仕送りはこの日でおよそ五倍にまで膨れ上がった。別に嬉しいと思うこともなく、俺は無駄に分厚くなった財布を履き慣れたジーンズの右尻ポケットに捩じ込んだ。俺のつまらない金は毎日恐ろしい勢いで増え続け、もう誰にいくら貸しているのかも解らなくなっていた。

 いつもは一日店に居ると誰かしらに会うのだが、今日は珍しく誰にも会わなかった。

 結構出てたのに、勿体ないな。

 誰かに会うのが楽しみな訳ではないけれど、誰にも会わないと何故かちょっと寂しいような気がするものである。

 店の外は、もうすっかり夜だった。こうして貴重な筈の一日を完全に無駄に過ごしてしまっても、最早後悔する気持ちすら芽生えては来なかった。稼いでやった、という誇らしい気持ちもない。

 ふと、店の向かいにあるこじんまりとしたコンビニエンスストアから、見覚えのある派手な女がこちらに歩いて来るのが見えた。夜道であるにも関わらず、襲って下さいと言わんばかりの短いスカート。かかとの高いミュールをコツコツ鳴らして、その女は俺に向かって近づいて来る。

 に、逃げたい。

 無意識とはいえ深く傷付けてしまったらしい少女、松下ユリが俺の目の前でその足を止めた。

 ーぶたれる。

 目を細めて”覚悟”した俺に、松下ユリは目が眩むほどの笑顔を見せた。

「凄い、偶然ね」

 怖い。その笑顔が怖過ぎる。何を考えているのかさっぱり判んねえ。罵詈雑言浴びせかけられた方が幾らかマシだ。松下ユリが健気に振る舞えば振る舞うほど、俺はどんどん小さくなっていく。

「佐々木クンって、意外とイマドキの人なんだね。このパチンコ屋さんから出て来るの、結構よく見かけてたの。私の家、この近くなんだ」

 じゃあ別に凄い偶然なんかではないじゃないか。ちっ、分かっていたら店を変えたのに。でもここの7番台はよく出るんだよな。

 松下ユリは黙って突っ立つ俺にニコリと微笑んだ。何を考えているというのだ。彼女は上目遣いに俺を見ると肩を竦めた。意識的なのか無意識の技なのかは解らないが、女という生き物はいつもこうして俺を見る。


 ー“あの女”もそうだった。

 俺が中学に上がったくらいの頃から、親父の仕事を手伝っていると言って頻繁に家に来るようになった若い女がいた。いつもパステルカラーの服を着て、目が眩みそうなほどのアクセサリーを標準装備していた。浴びるように振り掛けられた香水の匂いは、女が去った後にも家中あちこちにこびり付き、俺達家族の吐き気を誘った。女は俺や弟、母が目の前に居てもお構いなしに親父を上目遣いで見ては首を竦め、濃く影を落す睫毛をバサバサと暴れさせた。厚化粧で年齢の割に肌の荒れたその女が親父の何であるのかは、幼い弟や俺にも簡単に解ることであった。暫くすると、その女は父の留守中にも平気で家に上がり込むようになり、やがて俺にまで色目を使うようになっていった。堪り兼ねた俺は母に家を出ようと持ちかけたが、母は

「裕福な暮らしをさせてもらってるから」

 と哀しく笑って聞き流したのだった。その言葉に、俺は女というものの悲しさと強かさを見たような気がした。母本人がそれでいいというのなら、俺はそれ以上何も言えなかった。

 幸せな筈なんてなかったのに、思い浮かぶ母の顔はいつも笑顔である。


 「…メシ、食う?」

 本当のところは詫びる気持ちも然程なく、実はただ来るわけないと高を括り、時間に合わせた社交辞令をカマしてみただけなのだが、計算違いに松下ユリは肩を竦めて小さく頷いた。

 うっそん。ほんまに来んの?

 自分で誘ったくせに、そう思ってしまった。酷く傷付けられたのに、この俺にまだ頬を赤らめるなんて全く理解できない女である。

 仕方なくユリを助手席に乗せ、俺は愛車を近所の焼き肉屋へと転がした。別に下心があって精力をつけようなんて思っているわけではなく、金もたっぷりある事だし今はニクが食いたい、ただそれだけだった。電話番号の一件もあるし、期待させるようなところは全く無い筈だった。だが哀しいことに、ユリの方は遠足前日の小学生の様にあからさまに落ち着きを無くしていた。それが「警戒」ではなく「期待」であることは残念ながら明確であった。女性には自分からファスナーを下ろすような真似はして欲しくないのに。

 目の前に運ばれる肉達は、殆どが俺の胃袋に運び込まれた。ユリはタン塩を数枚食べたくらいで、後は添え野菜を何に添えることもなくそれメインでむしゃむしゃ啄んでいる。

 ウサギか、お前は。

 俺よりも食いっぷりのいい女が居たらそれはちょっと嫌かもしれないが、食べない女ほど男をがっかりさせるものはない。太るのが嫌だとか顔に吹き出物が出てしまうとか、女には女の言い分があるのだろうけども。女の子は嬉しそうに頬張って「おいしい、おいしい」と言うのが可愛らしい。その姿が愛おしい。恵美はいつだってそうだった。

 気まずい空気から逃れる為に、俺は店内を一通り見渡した。すると、客に見せる為に置かれているにしては剰りに存在感の無いテレビの画面が、見慣れた景色をそこに映し出していた。俺は箸を止め、暫くの間、実際はきっと俺が感じるよりももっと長い時間、そのニュース映像に囚われていた。

 昨年末、あの海岸で、父親と散歩に来ていた女児が、砂浜の陥没により生き埋めになる事故があった。その少女が、今日亡くなったのだという。

「知ってるの?」

 ユリは口をポカンと開ける俺の顔を覗き込んだ。それは唇を奪われてしまうのではないかと思うほどに近かったので、俺は思わず激しく仰け反ってしまった。どうもこの女は人を驚かすのが趣味らしい。

「え。ああ、覚えてない? この事故」

「なんかあったような気がするけど、よく覚えてない。佐々木クンの知り合いなの?」

 ユリの平和惚けたその口調に、俺は無性に腹が立った。自分の知らない場所、知らない人間の事件や事故には、この女は全く興味が無いようだった。

「いや」

「ふうん、よく覚えてるんだね」

 ブン殴りたい。

 苛々の限界が来て、切りたくないカードを切ってしまう。俺は自分の事を話すのが一番嫌いだというのに。俺は箸で行儀悪くテレビ画面を二度指した。

「俺の地元」

「へえ、佐々木クンって神戸の人だったんだぁ。だからお洒落なのかなぁ」

 知るか、ボケ。

 俺はそれ以上会話を続ける気がしなかった。逆にユリの方は店に入って来た時よりも多弁になっている。自分の他愛もない思い出話を人間ジュークボックスのように次から次へと語り出すユリに、俺は少し安心した。俺の胸の奥を抉るのではないか、そういった警戒心はこの女には無用なようだった。夜な夜な飲み交わす輩達と同じである。俺が俺自身でなくてもいい、真実の不必要な場所。

 ユリと俺は平行線のまま店を出て、車に戻った。別にもう話すこともない。

「時間、大丈夫?」

 遅くなったから早く帰りましょう。

「うん。私一人暮らしだから、まだゼンゼン大丈夫だよぉ」

 この女をスムーズに送り返す機会を俺は狙っている。

「明日早くない?」

「ん。明日は一日ゆっくりできるし、まだ平気だけど」

 だけど、で止めないで欲しい。俺は仕方なしに言わなければならない。

「じゃ、軽くドライブして帰ろか」

「ん、そうだね」

 はああああ。

 俺は暫くアテもなく車を走らせた。

「行きたいとことかある?」

「ううん。お任せコースで」

 どないせえっちゅうねん。だったら真直ぐ帰ろうぜ。

 取り敢えず何処かに行けば帰ろうと言える。でも俺はまだ京都の地理には強くない。しかも引き蘢り気味の俺の知っている場所と言えば、日々の飲み会で得た情報ー夜景の見える場所、カーセックスのできる場所ーばかり。この女をそんなところに連れて行っても仕方がない。下手したら俺が襲われるかもしれない。なんてな。

「しゃあねぇ」

 俺は小さく唸ると、将軍塚まで愛車を走らせた。京都市内では一番オーソドックスな夜景スポットである。と同時に、付近の山中は車を持つ男にとってのパラダイスでもある。ユリが京都の女でなくて良かった。こんなところに連れて来たら、ここを知る大抵の女は「覚悟」してしまう。

 京都市内を一望する視界一面の夜景に、ユリは感激したようだった。街のネオンだけでなく、そこからは煌煌と光る月や無数の星達の姿も綺麗に見えた。

 今日は満月だったのか。

 その吸い込まれそうなくらい眩しい光に、俺はすっかり魅せられていた。これだけ遠い星なのに、その静けさがここまで響いてくる。ここ最近、俺は夜空を見上げることなど無かったような気がする。俺がこの地に来てから、月は何度満ち欠けを繰り返したのだろうか。

「綺麗だね」

「へっ。え、ああ、うん」

 ユリの無駄に色っぽい息を含んだ声で一気に現実に引き戻された俺は、素っ頓狂な声を出してしまった。

「ごめんね、驚かしちゃった?」

 ユリは嬉しそうにコロコロと笑っている。

 お前には驚かされっぱなしだ。

 俺はもう何も答えなかった。それにしてもやはり此処はカップルが多い。というかカップルしか居ない。ホテルのブライダルフェアか、はたまた週末の『南インター』(大人のアミューズメントパーク、広大なラブホ街)かと思うほどである。微かに気持ちが高揚しているように感じるのは、周囲に流れる甘ったるい空気のせいなのだろうか。それとも満月のせいなのか。少なくとも隣にいる女のせいでないことは確かである。けれど彼女の恋心は、残念ながらまだ状態の良いまま保存されていたようだった。恋愛は勘違いの産物だというけれど、一度思い違いをしてしまったら、なかなか修正は効かないものらしい。俺なんか、やめとけって。

「行こっか」

 早くこの場を去った方がいい。そう思った俺は輝く夜景に背を向け、駐車場に歩を進めた。と、後ろから小走りで追いついて来たユリが徐に掌を繋いできた。

 ぬぬ。

 東の女は大胆なのか。それともこの女が特別大胆なのか。恵美と手を繋ぐのには付き合ってから一ヶ月以上もかかった俺だというのに、親しくもないタイプでもない女と仲良くお手々繋いで歩いているなんて。かといって、女の子から繋がれた手を男が振り払うわけにもいかない。俺にスキがあったのかな、なんて少女みたいなことを思いながら、早足で車に向かった。自然に手が離れてしまうのを狙っているのだが、ユリは俺の手を更に強く握り、必死で後をついて来る。その様はまるでアスリートである。

 と、右前方に怪しく上下に揺れる車が見えた。スモーク硝子に黒いボディ。大型のワゴン車を支える四つのタイヤが激しく軋んでいる。

 え、ここで?

 俺は目が点になった。後部座席をカーテンで覆い不自然に縦揺れしている大きな車内からは、男女の喘ぎ声と馬鹿な笑い声が聞こえてきた。男も女も間違いなく数人は居る。見えないようにするのなら、聞こえないようにもして欲しい。てか、そういうことはもっと山手でひっそりとやってくれ、露出狂の変態ども。ここは健全な駐車場なのだ。いくら深夜とはいえ、此処は公共の場なのだ。

 数人の馬鹿な輩が、何とかして中を覗いてやろうと、その車の周りに張り付いている。そして奴等までもが次第に興奮し始めるのだった。俺はあくまで平静を装いながらも、不本意に繋がれた掌が汗ばんではいないかと心配した。湧いた唾を飲込む音がユリに聞こえやしないかと気になった。親と見ていたテレビ画面に突然濡れ場が映し出された時の、あの気まずいお茶の間のような感覚。俺はユリの手を振り払い、やっとの思いで辿り着いた自分の愛車に慌てて乗り込んだ。

「変なモン見たな」

 ここまできて無反応は余計に気不味いだろうと思って取り敢えずのコメントをしてみた。だがユリは恥ずかしそうに下を向いたまま、モジモジとただ黙っている。

 駄目だこりゃ。

 俺は今まで以上に居心地が悪くなり、鼓動が速まる中、ハイスピードで車を走らせた。喉が酷く渇いた。何だ、この童貞みたいな俺の反応は。体中の血液が逆流しているような心持ち。全く興味がない女と居るというのに、俺の身体は男になろうとしていた。

 生殖活動が本当に子孫を残すためだけのものなら、神は男の肉体を剰りに不完全に創り過ぎている。愛のあるセックスも愛の無いセックスも同じ性交だ。実質的に全く異となるものであっても、種が実る確率に違いなどない。哀しい事に、愛など無くても勃起はするし、射精もする。愛する者にしか反応しない肉体があれば、どんなにいいか。愛する人がもうこの世に居ないのなら、もう二度とこの手で触れる事ができないのなら、俺はもう男で居たくなかった。男である必要が無かった。俺は恵美とだけ繋がっていたいのだ。もう永遠に彼女を愛することができないというのに、どうして俺はまだ男なのだ。俺は自分の男の部分を切り落としたい衝動に駆られた。こんなものがあるから自分じゃない自分に支配されてしまうのだ。こんなものがあるから。

 恵美。

 君を抱き締めたい。


 煙草に火を着けてから、そこに灰皿が無いということに気が付いた。俺はテーブルの上に放置されている生温かい缶コーヒーを飲み干すと、その中に毒々しく白い灰殻を落とした。

 隣の女は額を丸出しにして静かに眠っている。汗が引き身体が冷えてしまったのか、ダンゴ虫の様にすっかり丸くなっている。俺は女の上に被さっている軽い掛け布団を、何となく剥いでみた。

 すっぽんぽん。今こうして改めて眺めていても、この女に対して特に何の感情も湧いては来ない。体の反応もない。昨夜の事はまるで遠い夢のようである。あまりいい夢ではないが。

 俺は腕を伸ばして、窓をほんの少しだけ開けてみた。外は鬱陶しい天気。雨が降り出す前の生暖かい風がその隙間から吹き込んで来た。俺はベッドから這い出て、無造作に脱いだシャツを羽織った。綺麗に片付けられていた筈のユリの部屋の床には、彼女の下着や洋服が散乱している。

 軽い頭痛と吐き気がした。身体が重たい。沼地に足を取られているかのように、俺はゆらゆらと揺れながら立ち上がった。目の前の女が起きる前に、俺はここから出て行かなければならないと思った。もうこの女と面倒な話などしたくはなかった。

 目の前には女のヴィトンの長財布が無防備に転がっている。背を向けて寝息を立てるユリを確認すると、俺はそれを手に取った。そして何人もの福沢さんの中からお一人様だけを拝借し、それをジーンズの左尻に捩じ込んだ。金が欲しいのではない。この女の金が遊戯台にあっさりと呑込まれていくのを、ただじっと眺めていたいだけなのだった。加害者はきっと俺なのに、そうしてユリに「復讐」してやりたいと思った。

 恵美。

 本当に、本当にごめんな。


 日替わりで幸運を手にした仲間の金で、俺達は相変わらずいつもの店でいつものように呑み惚けていた。俺はこのところ負けが込み、今までの儲けが回収されつつあった。生活費に手を付けるのも時間の問題である。仕送りが足りないと言えば、母は簡単に送金を増やしてくれるだろう。でも親父の稼いだ金なんか一銭だって欲しくはなかった。あんな男の金なんか、全部スロット台に流してやる。

 悶々とする俺の前では、いつものように阿呆な連中が阿呆な会話を楽しんでいる。

「あの女、『売り』やってるらしいでぇ」

「マジで? いくらで本番ヤッてくれるんやろ」

「でもアイツに金出すくらいやったら、本物のプロにお願いするわぁ」

「オレもそう思う」

「知り合い割引とかないんかなあ」

「あはは、その制度いい」

 いつもなら適当についていく連中の会話が、今日はやけに耳障りに思えた。俺は座ってから一言も喋らず、ただ只管ビールを喉に流し込んでいた。苛々してるのは自分自身のせいだった。

「おい佐々木、なんや今日は機嫌悪いな。てか最近ずっとか」

 赤ら顔のドレッドヘアが肩を組んでくる。その酒臭さに虫酸が走った。俺自身も負けないくらいに酒臭い筈だった。

「生まれた時から機嫌悪いよ」

 俺は口の端だけで微かに笑った。

「おまえ、ちょっとペース早過ぎひんけ」

 勇哉が心配そうに覗き込む。いつもなら噴き出すほどの勇哉の困り顔も、何故か腹立たしく思った。むしゃくしゃしているのは、俺自身のせいだった。

「ええやんけ、佐々木はメダルに負けへんくらいに女ゲットしまくってんねんし」

「そや、折角やから誰か呼んでもらいまひょか」

「せや、女呼ぼう、女」

 毎日のように集まる顔ぶれに飽きがきたのか、”龍”とドレッドヘアがそう騒ぎ出した。勇哉が悪ノリする。

「じゃあ今から佐々木に誰か呼んでもらおうや」

 はい、はい。

 なんでもいい、この空気を変えてくれるのなら誰でも呼んでやるよ。俺は連中好みの友達が多そうな山崎アイミをケータイで呼び出した。突然の連絡にも関わらず、さすがのアイミは気を利かせて俺達と同じだけの人数を揃えて来てくれた。

「やっぱ可愛い子の友達は可愛いわあ」

 連中の顔が下品に緩む。

 アイミは当然のように俺の隣に座った。充分なスペースが空いているにも関わらず、かなりの至近距離に、である。この女は他人との距離感をてんで解っていない。しかしよくもまあこの子達はここに来てくれたもんだ。俺ならオゴると言われても、絶対にこんな所へは来ない。どう考えても無事に帰れるわけがない。

「どしたん?」

 アイミが大きな目で俺を覗き込んだ。俺の嫌いな、女特有のあの目つきで。俺は今考えていたことをそのままアイミに話した。

「でも誘ったん、コースケ君やで」

 そうでした。

 アイミは惚けたような俺の表情が可笑しいと笑った。

 目の前では、定番ゲームその1『竹の子竹の子にょっきっき』が始まっていた。親が

「竹の子、竹の子にょっきっき」

 と言うと、他の面子が他人とカブらないように

「イチにょき」

「ニにょき」

「サンにょき」

 とジェスチャー付きで続ける。他と被ったり、あるいは最後の「にょき」を言った者が負け、というシンプルな酒の席ゲームである。道具も要らず誰でも簡単にできることと、「にょき」というちょいと卑猥な音を連呼することで、後に続く男の策略だらけの『王様ゲーム』へとの自然な流れを創る優れたゲームなのだという。

 俺はそこに混ざる気がしなかった。にょきにょき言ってられるテンションではなかった。何も考えたくはないくせに、何も考えなくて済むその輪から、気付けば離れていこうとする自分が居た。何か大切なものに蓋をして、ただ誤摩化すだけの毎日に、そろそろ限界がきているのかもしれない。

 いつの間にか俺の膝に掌を乗せているアイミもまた、静かに隣で酒を飲んでいる。この子は無駄口が少ないので非常に助かる。勇哉はそんな俺達をチラ見すると、面白そうにニヤついた。連中はアイミの事を近寄り難い上等の女だと言っていたが、俺の目にはそうは映らなかった。自然と身体に絡み付いてくる様は、まるで中堅ホステスだ。とても素人とは思えない。最近は水商売の世界も、天下の祇園でさえも、学生バイトが多くを占めているという。こういうところにもその一派が潜んでいるのかもしれない。

 なんだか嫌な甘やかムードが俺達を包み始めていた。其処に居る誰もが、俺とアイミの存在を敢えて黙殺している。隣には確信犯の女。ハメられたのかもしれない。逃げなければ、早くここから。

「ごめん、俺帰るわ」

 次の瞬間、俺は自分の失敗に気付いた。振り向くと、俺の言葉を合図に何故か帰り支度をしているアイミが居た。悪い笑みを浮かべた男女八人が、まるでずっと前から用意していたかのような返事をする。

「はあい、お疲れ〜」

 見事な合唱。しくじった。俺は公然とアイミをお持ち帰りするような形になった。

 なんだかなあ。

 俺はずっと恵美一筋で生きてきたせいで、恋愛の駆け引きだとかそういうものにかなり疎いのだろう。松下ユリの時といい、あらゆる状況をうまく回避できず、完全に相手のペースにはまり流されてしまっている。今もまた無抵抗に腕をしっかり組まれた俺は、アイミと二人で梅雨時の重苦しい夜空の中を歩いていた。短時間でしこたま飲んだせいで、俺は隣の女が居ないと歩く事さえままならなくなっている。酒臭い。頭がくらくらする。巨大な空が時計と逆廻りに回っている。

 なんかもう、どうでもよくなってきた。何もかも、何もかもが。

 もうすぐ夏が来る。俺はちゃんと越えていけるのだろうか、俺の人生から突然光が消えてしまったこの季節を。夜空に大輪の華が咲く、俺自身を恨み始めたこの季節を。

「どこいくの?」

 アイミの甘ったるい声が、俺を嫌な現実へ引き戻した。そうだった、まだ片付けなければならない仕事が残っていたのだ。

「アイミ、帰りな」

「…一人で?」

 めんどくせえな。

「わかった、送るわ。家、どのへん?」

「ふふ、心配なんはコースケ君の方やで? んな私のうちで休んだらええわ」

 またしくじった。激しく冷たくしたつもり。でも真意は全く伝わらず、逆の方へ逆の方へと進んでいく。日頃カッコつけてる奴は、何をやっても只のカッコつけにしか見られないのだろう。アイミは無邪気に笑って、こっちこっちと俺の手を引いた。

 アイミの部屋は店のすぐ近くにあった。もっと離れていれば酔いも少しは冷めたのに。もっと少女趣味な部屋を想像していたが、意外と無機質な印象を受ける部屋だった。

 てか、なんで俺は普通に上がり込んでいるのだ。

「インスタントで悪いけど、酔い冷ましにドウゾ」

 アイミは瓢箪みたいな形をした折り畳み式の小さなテーブルに、湯気の出るコーヒーカップを二つ置いた。

 これを飲んだらさっさと帰ろう。

 そう気が焦り、俺は舌を火傷した。

「猫舌〜」

 よく笑うアイミは部屋の中に干してあった洗濯物を鼻歌混じりに畳み始めた。俺はその姿を眺めながら、酒臭い息でコーヒーを必死に冷ました。

「このキャミソール、可愛いやろ」

 アイミは洗濯物を広げて見せた。

「ああ」

 どうでもいいわ。俺はコーヒーを冷ますのに一所懸命で、テキトーな返事をした。その冷たい返答を受けてもなお、アイミは微笑みながら鼻歌を再開させた。このテの女は何を考えているのかさっぱり解らない。

「コーヒーさんきゅう。おかげで酔いもだいぶ冷めたし帰るわ」

 急いで立ち上がる俺の足元はまだ全然ダメである。女はフラつく俺の腕を強く引くと、その華奢な身体を俺の胸元に収めた。自分の両腕を俺の腰に回し、俺の唇をじっと見つめながら下半身をくっつけてくる。アメリカ映画の見過ぎじゃないか、この女。そんな思いとは裏腹に、俺の中の血液は、また沸騰し始めた。俺が俺でなくなる。人格は崩壊し、ただの雄になる。分類、ホモサピエンス。

「まだ全然冷めてないやん」

 息を多く含んだ声で呟くアイミの唇を、俺は自分の唇で塞いでいた。

 どうせもう、恵美に合わせる顔なんてない。

 先刻火傷したばかりの俺の舌に、女は長い舌を絡ませてくる。俺の下半身が意志に反して固くなっていく。いや、もう自分の意志がどこに向かっているのかさえもよく解らなくなっていた。俺はアイミの一番温かい部分を乱暴に弄った。先刻まで逃げようとしていたのは俺の方だったのに。アイミは驚くほど色っぽく悶えた。

 身体が、熱い。

 俺はユリの時と同じように、恵美の事を考えながら、何度も何度もアイミを抱いた。自分が男であることが、こんなにも恨めしい。俺が女だったなら、精神も肉体も唯一無二の愛を貫き通せたのだろうか。

 恵美。お前をこうして抱けたなら。

「もう帰るの? 泊まってかないの?」

 シャワーから出て来たアイミは、俺の大嫌いなあの目つきで俺の胸元に収まろうと近付いた。素顔のアイミはやはり美人で、濡れた髪は二十歳に満たない少女のものとは思えないほど艶かしかったけれど、平静を取り戻した俺は、特に何も感じなかった。先刻までの俺は、きっと何かに取り憑かれていただけなのだ。

「ずっと一緒に居たいのに」

 そう言った女を、俺は払い除けて冷たく笑った。

「彼氏を大事にしろよ」

 女はその場で固まっている。俺はアイミに恋人が居ることを知っていた。だからこそ、抱いてもいいと言い聞かせた。だからこそ、傷付けてもいいと勝手に思った。

 部屋を出た俺は自動販売機で無糖コーヒーを買うと、一気にそれを飲み干した。空いた缶をゴミ箱に投げ捨てたら、それは大きな音を立てて跳ね返されてしまった。俺はそのまま何もなかったかのように、アスファルトを転がる空き缶に背を向けて歩き始めた。『人に厳しく、地球に優しく』がモットーの俺だったのに、いつの間にか地球にさえ優しくできない人間に堕ちてしまっている。

 明るくなり始めた空の下を、俺は独りで歩いた。虚しい。セックスがこんなにも酷く虚しいものだったとは。月が白く消えようとしている。俺もああやって消えてしまえたらいいのにと思った。俺の心を占めているのは、変わらぬあの笑顔。彼女に置き去りにされ負った深い傷は、未だに膿んだままだ。そしてそれを言い訳に、俺は沢山の人を傷付けてしまっている。俺は左尻のポケットに入れたケータイを取り出し、スロットゲームをして気を紛らわした。7の揃った液晶に、ぽつりぽつりと涙が落ちた。

 何やってんだ、俺は。

 やがて細かい雨が路面を濡らし始めた。俺は何かを見つける為にここに来たんじゃない、ただ逃げ出したかっただけなのだ。でも、逃げても逃げても追って来る、何処まででも纏わりついて来る影がある。残酷過ぎる現実に溺れ死んでしまいそうだ。このままでいい筈なんてない。でも辿り着ける場所なんて何処にも見当たらない。

 そしてまた、俺は一睡もせずに朝から遊戯場に籠った。先刻両替をしたばかりなのに、もう最後の夏目漱石を出動させなければならない。今日もハイペースで負けている。苛つく俺の頭を、誰かが軽くどやしつけた。振り向くと、メルヘンな大男がエンジェルスマイルを浮かべている。

 気持ち悪。

「どうやった、山崎アイミは」

 すでに一稼ぎしている勇哉が、煙草を吹かしながら隣に座った。俺はその満ち足りた勝者の笑みに少々腹が立った。

「どうって、別に、普通」

「やっぱ場数こなした男は言うことが違うよぉ」

 勇哉は意味不明に悶えた。動きが芝生を転がるパンダのようだった。ちょっとカワイイから余計にムカつく。

「お前等こそ、あの後どうしてん」

「もちろん」

 勇哉は左の親指を立てて誇らし気に笑った。その言葉だけで、乱れた会合の光景が目に浮かんだ。

「よろしおすなあ」

 相手をするのが一人で済んだ分、残らなくて正解だったのかもしれない。

「せや、佐々木。一緒に来とったうちの一人が言うてたねんけど、おまえ、松下ユリと付き合ってんのけ」

「へ、何それ」

 そう言えば、ユリとはあれ以来会っていない。

「松下本人から聞いたって。その子はそれをアイミに言うか言わんか迷っとるらしくてな。俺は違うと思うとは言うといたんやけど」

「ふうん」

 どうでもいい話である。

 俺は財布の中の最後の諭吉を両替した。今日もよく遊んだ。

「佐々木、おまえ最近何か変やぞ。って前から結構変やったけど」

 だとしたら、この季節のせいだ。

「あ〜くそう。もう止めやっ。も〜いいっ、もうパチスロなんかせんっ」

 俺は大人げなく遊戯台を蹴った。

「あはは。絶不調やんけ、おまえ」

「そろそろバイトでもすっかなあ」

 俺は思いつきを吐いた。

「ササキョンがバイト? なんや似合わんなあ」

 ムカ。あのタカにでも社会人が勤まっている。俺にだってバイトくらいはできる筈だ。今動き出さなければ、このまま朽ち果ててしまうような気がする。こうして数字の7を揃えることにだけ没頭して、貴重な四年間を浪費してしまいそうな気がする。そうしたら、京都に残ることも神戸に帰ることもできず、本当に行き場を無くしてしまう。

「似合わんかなあ」

「さては大学内の女は皆食い尽くしたから、そろそろ学外進出しようって魂胆やな」

 どんだけ猿やねん、俺は。

「バレたか」

 思ってもいないことが口から出る速度も、このところ随分と速くなった。

「じゃあ要らん番号頂戴」

 勇哉は俺の鼻先に掌を広げておねだりした。

「全部要らんわ」

 俺はケータイごと勇哉に投げつけた。勇哉は自分のものとは違う機種であるにも関わらず、俺のケータイから慣れた手つきで羅列された女の連絡先を盗み見ている。

「すげえなあ、よく集まったよなあ。これぜ〜んぶヤッたんか」

「阿呆か。そんなんしたら“無くなる”わ」

「オレおまえと兄弟になりたくないしなぁ。おまえがまだ食ってない子がええわ」

「じゃあかなり限られるぞ」

「ええ〜、マジでぇ。じゃあこの子は? 順子ちゃん。オレ結構好きなタイプねんけど」

「セーフ」

「よっしゃ、頂き! ほれ、情報料」

「まいど」

 勇哉が手渡したその金のおかげで、俺の台はこの日最初のボーナスゲームをスタートさせた。勇哉は自分の遊技を始める気配もなく、煙草を吹かしながら俺の遊戯台の液晶画面を横で見ていた。

「佐々木、ほんまのトコどうやねん」

 勇哉はやや低いトーンでそう呟くと、眉尻を下げて俺の方を見た。

「どうって、何が?」

 俺はラスト一本になった煙草に火を着けた。

「おまえさあ、モテまくってるけど誰がいいとか全然言わへんやん。気に入った子とか居らんのか」

 何だその一人娘を持つ父親のような詮索は。

「別に。そんなん考えた事もないわ」

 俺は副流煙を勇哉のアニマルフェイスに吹き付けた。真っ白な煙の中から、勇哉の穏やかな声がする。

「まあそんだけ不自由してなかったら絞るん勿体ないんかもしれんけど、おまえ実際のところは結構真面目そうやん。せやし彼女とか作らんのかなぁって、ふと思ってん。アイミもそんなんではないんやろ」

「若いうちから一人に絞るの勿体ないやん。選択肢は多い方がええかなって思って」

 俺のいい加減な返事を真に受けるほど、勇哉は馬鹿ではなかった。

「もしかして男の方が好きとか。え、まさかオレ?」

「百歩譲ってそっち系でも、お前は無い」

「なんやと〜。脱いだら凄いんやからな」

「こないだスーパー銭湯で見たわ。酷いぞあの脂肪」

「地元に忘れられん女でも居るんか」

 勇哉が真顔で俺を見遣る。

 ー恵美。

「せや、俺用事があるんやった。すまん、これまだボーナス続いとうし、代わりに打っといて。儲けは全部お前に遣るから」

 勇哉が俺の扉を抉じ開けようとしている。それに気付いた俺は、急いで奴から逃げようとした。

「待てや。オレはおまえとはマトモに話したいって言うてるやろ。そろそろちゃんと友達やってくれや」

 その言葉に、俺は胸が酷く痛んだ。

「なに青春ドラマみたいなこと抜かしとうねん」

 俺は勇哉の方を向く事ができないまま、足早に店を出た。

 大切な恵美を、誰にも見られたくはなかった。


 また暫く、引き蘢りの日々が続いた。毎日のように降り続く雨の中を出掛けるのが億劫なのもあったが、学校に行っても遊戯場に行っても勇哉に会ってしまうだろうし、それはどうも気まずいと思った。でも、それ以外に俺が行く場所なんてないし、結局は家で不健康なテレビっ子になるしかなかった。

 あ〜スロットしてえなぁ。

 俺の右手は最早中毒症状を起こしている。俺はそんな時いつも、アイミに連絡をしてしまっていた。彼女の部屋で一緒に酒を飲んで、テレビを見て、セックスをする。二人で映画を見に行きたいだとか、食事に出掛けようだとか、そんな要求をして来ない彼女の存在が、俺には丁度良かった。恵美の事、タカの事、親父の事。スロットのこと、母のこと、勇哉のこと。アイミは隣でぼんやりする俺に、何を考えているのかと訊ねることもなかった。寂しいと言うこともなかったし、本当に愛して欲しいとも言わなかった。それ以上を要求すると俺が離れていってしまうことを解っているのだろう。そんな彼女の隣が、俺には丁度良かった。

 梅雨が明けても尚、鬱陶しい天気が続いていた。俺はアイミとの自堕落な生活に身を潜め、呪われた季節が過ぎゆくのをただじっと待った。絶望に狂ってしまいそうな自分を正気で居させるため、俺は毎日狂ったようにその身代わりの少女を犯し続けた。

 そして夏の終わりを迎えようとする俺を待っていたのは、アイミの妊娠という動かし難い事実だった。

 正規の恋人とは半年近く関係が無く、俺の子であるのは間違いないという。

 まさか。

 彼女の無機質な部屋の真ん中で、俺達は向かい合って正座していた。瓢箪型の机には、冷えきったコーヒーが二つ並んでいる。

 まさか。

「ごめんなさい」

 死人のような顔をした俺を前にして、アイミはその大きな瞳から、大粒の涙を次々と零した。昔あれだけ弱かった女性の涙を目にしても、寝惚け腐った俺の心はなかなか起きようとはしなかった。今語られたことの重大さに向き合う事など到底できず、ただ嘘ではないか、嘘ならいいのにと現実から必死で逃げようとしている情けない男。

 まさか。

「謝ることじゃないよ」

 やっと出た言葉は、酷くピン惚けしている。謝らねばならないのは、どう考えても俺の方だった。それが明瞭はっきりと解っているくせに、俺の口からは謝罪の言葉も喜びの言葉も労りの言葉でさえも出てこようとはしない。否、謝って済む問題ではない。取り返しのつかない事をした。そのことを飲み込めないまま、ただ俺は黙っていることしかできなかった。

 可哀想なアイミ。俺はこれ以上この子を苦しめて一体どうしようというのだ。あの時勇哉に背を向けてしまってから、もう俺は後戻りのできないところにまで自分を追い込んでしまっていた。もう俺は俺ではない。人間の心を完全に失ってしまっている。自分の子を宿す目の前の少女を、俺は親から貰った幾らかの金で見捨てるつもりなのだ。けれど、その思惑も母性という神の力で脆くも打ち砕かれた。

「…私、産もうと思ってる」

 俺の思考は完全に止まった。蒸し暑い京都の晩夏。冷房さえついていないこの狭い部屋の中で、俺は酷い寒気に襲われ、震えを必死で堪えていた。

 泣きじゃくりながらも、アイミは続けた。

「一人ででも産もうと思ってる。私はコースケ君が好きやから、ほんまに好きやから、私とコースケ君の子供が欲しいねん。この子をどうしても産みたいねん」

 アイミは自分の腹を愛おしそうに撫でた。俺はその腹をただじっと見つめた。自分のしたことの重大さが、やっと少しずつ解り始めていた。アイミの腹の中では、もう新しい命が鼓動を打ち始めている。自分と命を分かち合って生きる小さな生命を、母親がそう簡単に無かった事になどできる筈がない。命の尊さを、俺は誰よりも解っていなければならなかった。

 父親になる覚悟、夫になる覚悟、そして妻と子供を愛する覚悟。何ひとつ、今の俺は持っていなかった。アイミの言葉を受けても尚、優しい態度や誠実な態度を見せることができない。詫びる気持ちでさえ、言葉にはならない。恵美以外の女と俺との間にできた子供が、今この世界で生き始めている。俺はどうしてもその事実を受け入れられなかった。

「…また来るわ」

 長い沈黙の後、俺はそう言ってアイミの部屋を出た。泣き止むことのできない彼女を独り其処に残して。音を立てずに扉を閉めることだけが、今の俺にできる精一杯のことだった。

 

 俺はそれから暫くアイミの部屋を訪ねることはなかった。彼女からの連絡もなく、心の何処かで「なかったこと」として処理しようとしている自分が居た。俺の知らない所で俺の遺伝子を受け継いだ子供が産まれ、俺の知らないうちにすくすくと育っていく。それでいい、それでいいではないか。アイミもそれでいいと言ったのだ。

 本当にそれでいい?

 息子だろうか、娘だろうか。元気に育つだろうか、優しい子になるだろうか。父親が居ないことで、辛い思いをするだろう。淋しさに身を震わせるだろう。じゃあ俺は、何をしてやるというのだ。何ができるというのか。考えようとしても、答えは何ひとつ見つけ出せない。一年前に恵美の病室で味わった焦燥感と同じようなものが、俺を激しく責め立てていた。

 自分に対する失望。

 自身に対する憎悪。

 どうして愛してやれない。じゃあ何故、抱いたりしたんだ。後悔や自責の念だけでは、母子の哀しみを拭ってやることはできない。懺悔ならいくらだってできる。しなければいけないのは、これからの話。明日の話、未来の話。俺はこれからどうするのだ。何をしてあげるのだ。

 アイミに?

 恵美に?

 これから産まれてくる自分の子供に?

 いい父親になりたかった。妻を、子供を精一杯愛してあげられる人間になりたかった。なのに、今の俺は何だ。親父以下だ。自分の子供を宿す少女を抱き締めてやることもできないではないか。罪を償う覚悟も、何ひとつ無いではないか。

 恵美への想いを貫きたかった。恵美への愛を守り通したかった。なのに俺は、死んでも恵美に合わせる顔が無い程にまで堕ちてしまっている。

 恵美。

 恵美。

 聞こえているなら、返事をしてくれ。

 俺はあの時、君に何をしてあげられた?

 どうしていたら、今も隣で笑ってくれていた?

 何故、俺では駄目だった?

 そして今、俺は何をすればいい?

 人を愛することなんて、簡単だと思っていた。できない奴等を軽蔑しようとしていた。なのに俺は、今その軽蔑されるべき人間として息をしている。一年前背にした十字架が、どんどん重みを増していく。

 勇哉、お前ならどうしてる?

 あいつなら、きっとどんなことがあっても、満面の笑みで我が子を迎えるのだろう。

 俺は、自ら突き放してしまった男に会いたいと思った。あの憎めない笑顔が見たいと思った。きっとあそこにいる筈だ。俺はいつもの遊戯場へと向かった。


 スロットのフロアを捜し回っても、その姿はなかった。夏休みだから実家に帰っているのかもしれない。よく考えれば、あいつがどこから来たのか、俺は何も知らない。いつもツルんで仲良くしてたくせに、お互いの事を全く話していなかった。進んでそうしたのは、俺だ。

 もう二度と会えないような気がした。俺は急いで嘘のメールを勇哉に送信した。

「7番台、激アツやで!」

 送信して1分も経たないうちに、フロアに振動が走った。そして髪の毛を振り乱した勇哉が、俺の目の前に現れた。息を切らす巨大コアラの登場に、俺は思わず顔を綻ばせた。

「はやっ、お前」

「え、パチンコの方で羽モノ打ってた。何、もう打ち終わったん?」

 勇哉はまだ息を乱している。どれだけ走って来たというのだ。相変わらずのアニマルフェイスに、俺は思わず涙を零しそうになった。

「いや、今からやで」

 笑いと涙を堪えていたので、声は自然と小さく震えた。俺は勇哉が目の前に居る事が、嬉しくて嬉しくて堪らなかった。こんな俺に変わらず笑いかけてくれる勇哉が、大切で大切で仕方なかった。

「何、その麗しい笑顔。オレ惚れちゃうよ」

 勇哉は照れくさそうに丸い頬を掻いた。

「いや、この前の俺、態度悪かってごめんな」

 俺の言葉に、勇哉は更に顔を緩めた。

「そんな事気にするかい、阿呆タレェ。オレの方こそ、ちょっと調子乗り過ぎた。誰だって言いたくない事あるもんな」

 俺は溢れ出ようとする涙を必死で堪え、夏目漱石を目の前の台に投入した。勇哉も横の台に座り遊技を始めた。

「久し振りや」

 俺はこんなつまらない時間が楽しくて嬉しかった。

「ほんまやで。おまえ学校にも此処にも顔見せへんかったやんけ。このまま大学辞めて帰ってまうんかと思って、めちゃくちゃ心配してんぞ」

 勇哉は口を尖らせた。その顔は横から見ると太り過ぎたヒヨコの様だった。

「ごめん、久し振りなんはスロット。お前のこととちゃう」

 俺は言いながら思わず噴き出した。勇哉は信じられないといった顔で俺を睨みつけた。

「やっぱりおまえは蛇のように冷たい男や! オレの気持ちなんか解ってもくれへん」

 俺はこの素直な男が大好きだ。

「こないだの話やけどな」

 俺は声を落ち着かせ、ラガーシャツの胸ポケットから煙草を取り出して火を点けた。俺は勇哉に背を向けてしまったあの瞬間に立ち戻って、もう一度やり直そうと思った。勇哉の変わらぬ笑顔を見て、もう逃げてはいけないと思った。

「うん、急にえらいとこまで話を戻すなぁ」

 勇哉も真剣な表情に戻り、俺に手を差し出した。俺はその肉厚の掌に自分の煙草とライターを乗せてやった。勇哉は小さく会釈をすると、一本をくちばしに挟んで火を点けた。

「勇哉の勘ぐり通り、俺、地元に彼女を置いて来とうねん」

 俺は巨大ヒヨコから返された煙草をポケットに仕舞い直した。

「へえ、やっぱり。にしてはちょっと遊び過ぎちゃうんけ、おまえ」

 俺は大きく煙を吐いた。

「残念ながら、ヤキモチも妬いてもらえへんねん。今は墓の中で静かに眠っとう」

 静かに、本当に静かに。俺に恨み言ひとつ言わず、待っていた家族の元で安らかに。

 勇哉は手を止め、俺を睨んだ。

「阿呆、こんなとこでする話とちゃうわい。もっと違うとこ呼び出せよ」

 ヒヨコは眉間に皺を寄せた。

「だってスロット関係でないと来てくれへんのとちゃうかって思ったんやもん」

 俺は照れ臭くてリールから目を離せなかった。煙草の火を捻消したヒヨコは、のっそりと、おそらく本人的には素早く、頭を掻いて立ち上がった。

「そんな顔してカワイイ事言うなよ。惚れてまうやろー」

 勇哉は涙を溜めて赤い顔をしている。怒っているのか、それとも本気で惚れられたのかも。

「気持ち悪いねん、お前」

 俺は若者のものとは思えない勇哉のビール腹を殴った。

「オレんち来いや、今日は二人でゆっくり語ろうや」

 勇哉はそのデカイ腹を擦りながらそう言った。

 ー妊娠。

 俺の脳裏を、不幸な母子の姿が過った。

「おう、このボーナスゲームが終わったらな」

 俺は目まぐるしく変化する遊戯台に挑んだ。

「なんか最近、佐々木の方がハマってないか」

 勇哉は眉尻を下げた。

「気にすんなって」

 俺達は勝ち逃げをして、勇哉の家へと向かった。


 続

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