1 ー出発ー
朝焼けの眩しさに眼を細めると、オレンヂ色に染められた瞼の裏に、数多の笑顔が浮かんでは消えた。
「たいして遠くに行かへんのに、大層なお見送りやな」
ホントは凄く嬉しいくせに、俺はホームの中までついて来たタカとユキに、そう冷たく吐いた。海の潮を含んだねっとりとした春風は、朝もこう早いとまだまだ冷たくて痛い。俺は猫背を更に丸め、モゾモゾと黄色い点字ブロックの上を歩いた。尻ポケットに忍ばせた使い捨ての懐炉は、待てど暮らせど、あまりいい仕事をしてはくれない。
半歩前を俯きながら歩いていたタカは、俺の力ない言葉に遅ればせながら立ち止まると、そのベビーフェイスをほんの少しだけこちらに振り向かせた。
「オマエの泣き顔を見たろうと思ってな」
タカは大きく鼻を啜り、寒さで赤くなった頼りない顔をニヤつかせた。
「誰が泣くか、阿呆」
俺はタカを睨みつけると、そう言って苦笑した。彼の隣では、ユキが早くも涙を溢れさせている。女の子はいい。いつでもそうやって、素直に泣くことができる。
「いつでも泣いてええんやぞぉ、うひょひょ」
無理矢理にトーンを変えたタカは、不自然にその場で飛び跳ねると、自分のケータイのカメラを俺に向け、不戯けてみせた。
「何がうひょひょじゃ、ボケ。泣かへんっちゅうねん」
俺がそれをブン取って逆向きに折り畳もうとすると、タカは血相を変えてケータイに飛びつき、俺を鬼だ、悪魔だと罵った。たかがケータイごときに大層な奴だ。
俺達のくだらない取っ組み合いを、いつもなら他人のフリで冷視しているユキも、今日はすぐ傍で微笑んでくれている。
「晃輔君、あんまし帰って来てくれなさそうやもん。遠くないって言うても、やっぱ寂しなるよ」
ユキはすでに真っ赤になった瞳から零れる大粒の涙を拭った。ユキの言うことは確かだった。
「そんなことねえって。チョクチョク戻って来るって。二時間もありゃ帰って来れるんやし、向こう行って落ち着いたら自分の車も買うつもりやから、そしたら自慢しに愛車飛ばして来たるわ」
俺は嫌味な視線でタカを見下し、ニヤついた。彼は俺よりも随分早く免許と車を獲得しながらも、既に免許取り消し処分と廃車を経験している。
「マイカーやて」
耳元でユキにそう呟かれたタカは、鼻糞を穿るジェスチャーをして白目を剥いた。
「大学生の分際でマイカーなんて贅沢過ぎるわぃ。学生なんかチャリで充分じゃ、チャリで」
“一応”社会人のタカは、珍しくマトモな反論をして、冷えきったベンチに腰を下ろした。
「チャリも積めるくらいデカイのん買うたんねん。タカの今は亡き愛車の何倍もあるやつ」
俺は寒さで錆び付いた猫背を無理矢理に引き延ばし、精一杯に偉そ振った。
「おっきい車かぁ、かっこいい〜」
ユキは潤んだ瞳を宙に浮かせ、俺の愛車を想像した。
「ええなぁ、京都! おれも連れてってぇやあ。おれも行きてぇ。遊ぶトコ多いし、可愛いコも多いしな!」
車の話題では形勢不利と見たタカは、勢いよく立ち上がって大きな声を出した。
「もう、この浮気性!」
ユキが凶器の7センチヒールでタカの足を容赦なく踏み付ける。女は加減を知らない。
「いっでえっ」
「自業自得や、お前」
「そうや、この遊び人のチャラ男!」
話題が変わったところで、2対1の構図が変わることはない。
「嘘です、ごめんなさい、すみませんでした」
タカは痛みに顔を歪めながらも、必死に平謝りを続けた。
目の前で繰り広げられているのは、すっかり見慣れている筈の痴話喧嘩なのだけど、何故だか今日は、それがとても羨ましい光景に思えた。
「お前はいつでも泊まりに来いよ」
正直、タカには一緒に来て欲しいくらいだった。
「行く、行く。来るなって言われても行くで、おれは。会社なんていつでも休んだるわ。オマエに平和な一人暮らしなんかさせたるかっちゅうねん」
「気付いたら住み憑いてそうで怖いわ」
「あ、バレてる」
タカは頭を掻いた。
「ユキも遊びにおいでな」
「ウン。行く、行く」
「ユキ、おれに内緒で独りで行ったりすんなよ」
タカは照れながら横目でユキを睨んだ。
「それはユキの自由やろ。なっ、ユキちん?」
「オマエ、絶対殺す」
俺とタカは再びジャレ合って、冷えた心と体を温め合った。朝霞のかかる駅は酷く静かで、不戯ける俺達の声は傍迷惑に響き渡った。電車を待つ人の姿は疎らではあるが、その冷たい視線群は俺達をチクチクと刺した。人様の爽やかな一日の始まりにノイズを入れてしまっているのは、重々承知の助である。けれど、こうして無駄に騒いでいなければ、俺達の心は寒さに負けてしまうような気がした。どれだけハシャいでいても、俺達はもううまく笑えていなかった。騒げば騒ぐほど、俺達の頭の中は静けさを増し、テンションは鰻下がりで底辺まで墜ちた。もう行かなければならなかった。
早口の棒読みアナウンスの後、薄汚い緑色の鈍行列車が遠くの方に現れた。その光はどんどんと大きくなって、あっという間に俺達の立ち尽くすホームへと滑り込んだ。
そんなに行くのが嫌だったら、行かなきゃいいのに。
胸の奥で、もう一人の自分がそんな事を呟いた。誰に強いられた訳でもない、俺自身で決めた出発なのだ。こうするしかないと、自分で思い込んだ道なのだ。
俺は枷を付けられたような重い足取りでその電車へと乗り込んだ。それに続いて、予想通りにタカが乗り込んで来る。
「も〜、何してんのよぉ」
もう暫く見ることができない、お約束通りのボケ。ユキがタカの大きめのトレーナーを引っ張り、彼はホームへと引き摺り戻された。
危険ですから、扉付近には立ち止まらないで下さい。
無機質な構内放送でお叱りを受ける。頭を掻くタカと、その首根っこを掴んで眉間に皺を寄せるユキが、素早く後ずさって俺の乗る車両から離れた。
もう、行かなければいけない。
「じゃ」
俺は不器用な笑みを浮かべ、胸元で小さく手を振った。
「絶対、ちょくちょく帰って来てや」
ユキが潤んだ瞳でそう言った。
「遊び過ぎんなよぉ」
タカは両手を不必要に激しく振り回し、態と隣に居るユキに強打して、またまた酷く怒られている。
「じゃあな」
閉じかけた扉の間から、女が車内に駆け込んできた。それを待って、電車はゆっくりと走り出した。必死の形相でホームを全力疾走するタカが、どんどん小さくなっていく。恥ずかしそうに手を振るユキの姿も、次第に遠ざかってゆく。
心にまで染み付いた海の香りが薄らいでいく。
大好きだった場所が、霧の中へと消えていく。
俺は鼻息程度の小さな溜息を吐くと、張り付いていた冷たい扉から離れ、橙色もしくは茶色の区別さえつかないような古ぼけた色の椅子に腰掛けた。眩しさに目を細めながら窓の外を眺めると、白く大きな吊り橋が、陽の光を反射して、誇らしげにその巨体を輝かせている。俺は死んだ魚のような眼でそれを睨みつけると、鞄の一番上に入れておいた500mlのペット茶を手にし、一気に飲み干した。
とうとう独りになってしまった。
否、やっと独りになれたのか。
俺は寂しさと何処か清々しいような気持ちとの境界を彷徨いながら、暫くの間、車窓に映る明石海峡大橋と対峙した。
何かが変わるだろう、と期待しているだけの受け身な人間には、所詮大した変化など訪れやしない。
そんなことは痛いくらいに解っていた。変わらなければいけないのは環境でも何でもなくて、この俺自身でしかないのだ。たとえこの地を離れたところで、俺の濁った瞳が急に光を放つことはない。自ら進んでいく力がない限り、変化は手に入らない。だとすると、やはり俺は一生を終えるその日まで、この鬱陶しい俺のまま変わらない、変われない気がする。
俺はきっとこの先何十年と残された人生を、まるで炭酸の抜け切ったコーラの様に、ただゆるゆると過ごすのだ。『生』にも『死』にも、積極的になれないままに。
やがて巨大な吊り橋の姿は遠くへと霞み、強い日射しに照らされ始めた窓の外には、早春の穏やかな海原が広がった。寒さ知らずの気の早いマリンスポーツ野郎共の姿が、ちらほらと見える。俺もどちらかと言えば“そっち派”だったのに、今はその爽やかな姿が胡散臭く見えて、無性に腹立たしく思った。
早々と波乗りなんかしやがって。俺の人生、全然波に乗れてないってのに。
なんつって。はぁ。
大好きな神戸の海。澄んだ空を映し、眩しく光り輝く水面。山々に囲まれた海のない街へと向かう今、それまでは当たり前に映っていたその深い碧色が、とても美しく、そしてとても愛おしく思えた。
行く前に、釣りぐらいはしときゃ良かったかな。
俺はまた小さな鼻息ほどの溜息を吐いた。この半年の間、俺は海に目を向けることさえしなかった。波の音を聞くまいと、耳を塞いでしまっていた。でも、こうして離れゆく静かな海原を眺めていると、ひとときも目を逸らす事ができないくらいに魅せられてしまう。
心残りなんて、数え切れないくらいにある。だけど、大好きな故郷で俺にできる事など、もう何ひとつ残ってはいないのだ。
少し高いところへと昇った明白色の太陽が、昨日の雨で薄汚れた窓ガラスを通り抜け、俺の丸まった背中をほんの少しだけ温めた。車輪が線路を転がる単調なリズムが、心地よい微睡みへと俺を誘った。
線路は続くよどこまでも。
確か、そんな歌あったな。
目を瞑ると、先刻過ぎ去った明石海峡大橋の白く大きな残像が、まるで影法師のように瞼の裏に浮かんだ。
高校三年生になった途端に、周りの連中は進路、進路と騒ぎ始めた。俺はまだその頃、自分の人生の岐路がすぐ目の前に迫っているだなんて考えもせず、与えられた平和な毎日を、ただ当たり前のように過ごしていた。中学校からの親友であるタカは、そんな俺に付き合ってくれる数少ないノンビリ組であった。尤も、進級できなかった彼には、進学も就職もへったくれもなかったのだが。
「ユキも塾に行き出したんやって?」
俺は丸まったタカの後ろ姿に話し掛けた。
「塾だけとちゃう、家庭教師にも来てもらっとうねて」
タカは明らかに悪意の籠った口調でそう答えた。
「えらいやる気やな」
俺は少年漫画に読み耽る自分を、今一度考え直す必要に迫られたような気がした。
「金さえ注ぎ込んだら受からしてもらえると勘違いして、安心しとうだけの阿呆たれや」
タカは解りやすく拗ねた。カーテンの隙間から細く伸びたオレンヂ色の陽の光は、テレビゲームに夢中になっているタカの背中のところで曲がり、そのまま向こうの壁まで突き抜けていた。
「いいよな、お前は一年の猶予ができて」
俺は毒吐いた。
「そういうオマエは大丈夫なんけ、何もせんと」
打たれ強い筈のタカは、俺をその幼い顔で睨みつけた。
「さあ。夏過ぎたら考えるわ」
「恵美は独学だけで国公立に行く気やろ」
「あいつは元々のデキが俺等とは違うからな」
俺も解りやすく拗ねた。結局のところ俺達は、現実的に生きる女子諸君に弾かれ、煙草の臭いと湿った空気が立ち籠める男臭い部屋に押し込まれているだけなのだった。俺もそろそろ色々と考えないといけないのかなぁ、なんて思いながらも、俺はまた少年漫画の世界へと帰ってしまう。この二次元の勧善懲悪の世界なら、きっと俺も生きやすかっただろう。そんな言い訳をして、緩み切った俺の人生観を誤摩化していた。
ばたばたばたばた。
階段を駆け上がる低い音がした直後、バアンッという大きな音とともに突然扉が開け放たれ、籠った空気が一瞬にして浄化された。
「お兄ちゃん、また私のCD勝手に取ったやろぉ!」
涙をしこたま溜めたタカの妹が、ダーツの的が架かったその薄いドアを激しく蹴破ったのだ。目の前の仁王立ちの少女は、激しい怒りに小さな肩を震わせている。
「うわっ、しかもまたタバコ吸ってるぅ! もう最悪!!」
小学生とはいえ家人の登場に、俺はリラックスし過ぎている体勢を慌てて立て直した。
「お、おう、真由ちゃん。久し振りやな」
取り敢えず笑って済まそうとするのが俺である。
「あ、晃輔君! いらっしゃい」
少女は一瞬にして鬼の形相から天使の微笑みに変わった。こんな小さな頃からオンナの恐ろしい習性が身に付いているのだと思うと、俺は少し怖くなった。
「あっほう、勝手に入ってくんなや真由」
タカはテレビゲームのコントローラーを投げ出すと、扉を力ずくで閉めようとして少女を挟んだ。やられている妹君も然る者で、まるで貝殻からはみ出してくる大アサリのように、全く怯むことなく男臭い部屋への侵入を試みていた。
タカが慌てるのも無理はない。部屋には煙草の他にも、見られては不味いものが散乱している。目の前で繰り広げられる激しい兄妹喧嘩を、俺は部外者になり切って静かに観戦していた。
「いーやっ、お兄ちゃんまたエッチなのん見とう。いややぁ、気持ち悪いぃ」
見られてはいけないものランキングの1位を見事に見られてしまった兄上は、扉から離れると一目散にそのDVDに飛びついた。
「あほかぁっ。これは教育ビデオや、保健体育の宿題や、宿題。真由にも貸したろか」
「何言うてんねん、お前。小学生に見せるもんとちゃうわっ。タイトルが酷い」
まるで黄門様の印籠のようにエロDVDを妹に差し出すタカの後頭部を、俺は力一杯どやしつけた。
「もーっ、お兄ちゃんなんか大っ嫌いっ」
大きな瞳から溢れ出た大粒の涙は、その白桃のような小さな頬を伝ってポトポトと床まで落ちた。
「あ〜ああ。また嫌われたな、タカ」
俺はしゃくり上げる真由ちゃんの細い髪を撫でてやった。本当のところは俺も共犯なのを見破るほどに、まだこの少女は成長していない。
「誤解や、誤解。これを見たい言うてきかんかったんは晃輔やねん。兄ちゃんは別にこんな変態映像好きとちゃうねんで。どっちかっちゅうたら、兄ちゃんはあんまり見たないねん。せやけど晃輔がど〜しても借りるって言うからな」
タカは公私問わず、困ればいつも俺に罪を擦り付けた。だがタカが手にしているものが俺チョイスなのは、紛れもない事実であった。
「真由知ってるもん。晃輔君はそんな人とちゃうもん。お兄ちゃんとは違うんやもん。スケベはお兄ちゃんだけなんやもん」
イメージ戦略の鮮やかな勝利である。妹君は泣きながら兄上にローキックをかました。
「オマエなぁ、ちょっと待てよぉ。スカした野郎に騙されたらあかん。今の内からちゃんと男見る目ェ鍛えとかなあかんぞ。コイツはいつもすまして二枚目ぶってるけど、学校じゃ変態の佐々木で有名やねんぞ。こういうのを大人社会ではムッツリスケベって言うねん。よお覚えとけよぉ、ムッツリスケベ、はい、リピート・アフター・ミー」
「はい、ムッツリスケベェ。って何でやねん」
俺は乗り突っ込んだ。
「真由はそんなことないって知ってるもん。メグちゃんが晃輔君は紳士やって言うてたもん」
「あっほうっ、コイツのエロさを誰よりも知っとうのは恵美やぞ」
タカは目をひんむいて正しい事を言った。だが幸い、幼気な少女は言葉の真意を掴めずに目を真ん丸くしている。
「真由ちゃん、ここは教育上も健康上も良くないから戻り。この変態悪徳兄ちゃんは俺がちゃんとやっつけとくから」
俺は少女を優しく追い出し、慌ててドアを閉めた。もっと早くに閉めるべきだったけど。そもそもあの子が何故この部屋に来たのか、それさえも本人を含め皆してすっかり忘れてしまっていた。
タカは真っ赤になった俺を指差し大笑いしている。
「危ねえこと言うなやぁ、お前」
俺は力なくタカを睨んだ。
「ええやんけ。オマエ、おれの妹にまでカッコつけんなや」
「カッコなんかつけとらんわ。真由ちゃんにしてみたら恵美はホンマの姉ちゃんみたいなもんやろ。あんまり生々しいこと吹き込むと、色々良くないやんけ」
「生々しい、生々しいなぁ、うひょひょ」
「何がうひょひょ、じゃ」
タカの阿呆笑いは止まらなかった。俺はちょっと恥ずかしくなってきたので、大急ぎで漫画の世界へと戻った。やっぱり俺はムッツリなのだ。
恵美はタカの親戚で、俺達が小学五年生の時に起きた阪神・淡路大震災で家と家族を一度に失った。長田区から俺達の居る垂水へと越して来て以来、タカの家族と一緒に住んでいた。関西人によく居る「喋らなければ可愛い子」で、口は頗る悪かったが、まあまあ男子には人気もあった。自慢の、と言う程ではないけれど、彼女として不具合を感じることは一度もなかった。
「しっかしオモロいなぁ、晃輔が紳士やて。恵美も相手が子供や思て、無茶苦茶言うとうなぁ」
タカはなかなかゲームの世界へと戻ってはくれず、引き続きニヤけた顔で俺をからかった。
「なんも無茶苦茶とちゃうやんけ。事実やん」
俺は言い返す途中で噴き出してしまった。
紳士とは何ぞや。
よく解らないけれど、俺を指す表現としては適当でないのだろう。自分でも笑いを堪え切れなかった。
「オマエが紳士やったら、おれは神や」
タカは無意味に威張った。
「アブナい人みたいなこと言うな、お前。少なくともタカよりは俺の方が紳士に近いわ」
それは間違いなかった。
「どこがやねん、恵美の前ではオマエは只の猿やろ」
サル!
心外なことを言われ、飲もうとした缶ビールが口に入らずに溢れ出た。
「ぶっ。ちゃうわ、阿呆。時にはジェントルマン、時には獣にもなるねんて。それが男というもんや」
俺も負けずに威張った。
「おれはユキの前では常に獣やな」
「お前はユキの前では忠犬ハチ公や」
ユキは恵美の友達でもあるが、これがまた恵美に輪をかけて気が強く口が悪い。
「いや、どっちかっちゅうと蛇に睨まれた蛙かな」
「確かに」
御愁傷様。でも、俺もそうなのかもしれなかった。どうして女ってのは付き合いが長くなると恐妻へと変貌してしまうのだろう。天使であり続けてくれる女性というのは、この世には本当に存在しないのだろうかと思うと、少し哀しくなった。
クレオパトラが男にべらぼうにモテたのは、ただ美人だったからじゃなくて、どんなに愛されても傲慢にならず、いつも優しい笑顔を絶やさなかったからなんだぞ。
俺は誰に向けた訳でもなく、そう心の中で呟いた。
「やめてえや。あんまり変なこと言うたら、私が真由ちゃんに嫌われるやん」
学校からの帰り道、昨日の俺達のやりとりを話すと、恵美はその柔らかい頬をいっぱいいっぱいに膨らませて怒った。その姿は小学生の真由ちゃんと何ら変わらず、とても微笑ましかった。
「お前こそ、あんまり俺のこと喋んなよ」
男ってのは、プライベート露出狂の女と違って、とてもとてもシャイなのだ。
「ええやん、良い様に言うてあげてるんやし。ホンマの事はよう言わんけどな」
恵美は綺麗に揃った白い歯を見せた。
「なんでやねん」
俺は弱々しく返した。
「包み隠さず話してしもたら、真由ちゃん、こうちゃんの顔見ただけで逃げてしまうんとちゃう」
恵美は意味深げに俺を横目で見た。
「なんでやねん」
俺は同じ反論を繰り返すしかなかった。
「くぷぷ」
なにが「くぷぷ」だ。
色々言い返したいことはあったけれど、俺は仕方なくその全てを喉の奥へと呑込んだ。こいつにあまり突っかかってしまうと、機関銃のように罵詈雑言が跳ね返ってくる。だから俺はいつも口を噤んでしまうのだった。女の子には口では絶対に勝てない。俺はいつも彼女の言葉の処理スピードについて行けず、ただただ悔しい思いをしていた。
はい、おっしゃる通りで。
はい、申し訳ございません。
ってな具合で流してしまい、数分経てばまた同じ事を言われて、二倍、三倍も怒られた。でも、そんなコミュニケーションを、俺は結構気に入っていた。
口で勝てないからといって、力で押さえつけるなんて事は、絶対にしたくなかった。しようとも思わなかった。女性に手を上げる男は最低だ(まあ、稀に殴りたくなるようなのは居るけども)。男は大切なものを守る為に強くなるのであって、自分を良く見せる為に力を持っているのではない。勘違いしている奴は多いけれど、俺は間違いたくなかった。
「ほぉら、また聞いてないやろ」
恵美に耳を千切れんばかりに引っ張られ、俺はようやく意識を元の所へと戻した。恵美は赤い顔をしてこっちを見ている。それは怒っているようにも見え、また寂しがっているようでもあった。
「ごめん、ごめん。ちゃんと聞いとうって」
「もう」
「ごめんて」
少し俯いた恵美の項がなんとも頼りなくて、俺は彼女を抱き締めたい衝動に駆られた。でもシャイな俺にはそんな事ができる筈もなく、華奢な彼女の肩に軽く触れるので精一杯だった。
「皆、こうちゃんのこと”何でもできるカッコイイ人”って言うてるし、私もず〜っとそうやと思てたのにな」
恵美は下を向いたまま口を尖らせた。
「当たっとうやん」
俺は照れ隠しにふんぞり返った。
「こんなにいっつもボーっとしとう人やなんて思わへんかったわ」
「哲学者ばりに考えなあかんことが山ほどあんねん。アテッッ」
恵美のローキックは俺の脛にメガヒットした。酷い。痛い。暴力反対!
「よう言うわ」
恵美がそうして怒る理由を、俺は明瞭と理解できなかった。
横断歩道の向こうでは、真新しいランドセルを背負った小学生の行列が、俺達と同じように蹴ったりパンチしたりして、戯れ合っている。同レベルのコミュニケーションを楽しんでいるのが少し恥ずかしく、でもちょっと嬉しくもあった。
「最近のランドセルって、派手じゃねえ?」
小さな行列は、色とりどりに並んでいた。
「そうやんな。でも、私はやっぱり赤と黒がいいな」
恵美は表情を綻ばせ、ランドセル御一行を眺めた。
「小学校ん時に俺の同級生で一人だけ水色の奴が居ったけど、虐められとったもん。水色菌、水色菌って」
「そのまんまやな」
「ガキやし悪口にも捻りがないねん」
「まあそう言う私もピンクやってんけどな」
恵美はほんのちょっと威張った。俺はピンクのランドセルを背負っている小学生の恵美を思い浮かべた。凄く可愛かった。
「げ、似合わねえ」
だが、出てくる台詞は憎まれ口だった。殴られるかと思って身を固くしたけれど、恵美からの攻撃はなかった。
「…私も自分で違和感あったよ。ほんまは赤が良かったんやけど、親が新しモン好きやったから」
恵美は永遠に失ってしまった大切な家族のことを思い出し、暫く言葉を失った。
「…そっか」
俺は暫く彼女に掛けてやる言葉を見つけられず、ただその小さな掌をぎゅっと握った。
ぎゅっと握り返してくれた恵美が笑顔だったので、俺も笑って更に強く手を握った。やっぱり俺はこいつの事が好きだなって思った。
恵美は気付けば俺の傍に居た。タカと俺が親友であったり、タカがユキと付き合っていなければ、俺達はただの同級生で終わっていただろうと思う。中学一年の時に俺と恵美は同じクラスだったけれど、その頃の印象は、お互いそれ程良くなかった。向こうは俺のことをただの格好つけだと思っていたみたいだし、俺は俺で、恵美のことを無駄に明るく気の強い、多少ウザイ女だと思っていた。でも、中二になってタカがユキと付き合い始め、四人で居ることが多くなり恵美ともよく喋るようになると、すぐに彼女がいい子だと解った。クラスメイトから「おかん」と呼ばれるほどの責任感の強さと面倒見の良さ、恐ろしく気が強いくせして意外と繊細で優しいところが気に入っていた。辛い過去を背負いながらも、決して俯くことのない強さにも惹かれた。そんな彼女に惚れられていたことは、本当に本当に嬉しいことだった。
「そうそう、今度のゴールデンウイークにな、ユキんとこと四人で旅行にでも行こうって言うてるんやけど、どう?」
突然声のトーンを変えて表情を明るくした恵美は、先刻まで涙を溜めていた筈の大きな瞳を輝かせ、まだボンヤリしたままの俺に詰め寄った。
「ん〜」
「何よぉ」
恵美はまたか、という顔で俺を睨んだ。
「部活次第かなぁ、俺は。一日くらいは空くやろけど、旅行となるとなぁ。あとちょっとで引退やし、あんまり休みたくないねんなぁ」
煮え切らない俺の態度に、恵美の表情はまた曇った。
俺っち、ダブルデートするんで休みます!
なんて言ってみろ。監督に殴り殺されてしまう。俺の身にもなってくれ。
「タカは行けるんか? あいつ、ダブって親と揉めとうやろ。悠長に旅行とか行ってられへんのと違うか」
責任転嫁して、なんとか逃げようとした。タカが行けないのなら、俺の不参加も問題なく承諾されるに違いなかった。「部活のために」という思考は、どうも女の子には理解してもらいにくい。別に行きたくないわけではない。否、どちらかと言えば凄く行きたい。でも、そこで暴力教師と大モメになるくらいなら、大人しく諦めた方が楽だった。部員連中の尋常でない冷やかし攻撃も、できることなら避けて通りたかった。こうして一緒に下校しているだけで、俺が皆からどれだけのことを言われているか、恵美はまるで知ったこっちゃない。
「なんかな、まだ決まった訳じゃないらしいんやけど、タカ君、学校辞めてお父さんの会社を手伝うことになるみたいやねん」
恵美は声を低くした。
「へ、あいつが働くの?」
恐ろしい図を想像した。
「腐っても次期社長やしなぁ、タカ君。まあでも、まだ本決まりではないらしいんやけど」
なんとなく、俺は嫌だと思った。
「高校生さえマトモに勤まらんかったあいつに、社会人なんて勤まるんかいな」
俺はタカに置いてけぼりを喰らうのが怖くて、意味なく憎まれ口を叩いた。
「どやろね。でもやるときゃやる男やん、タカ君って」
「今がそのやる時やって自覚があるかどうか、微妙やな」
焦っている俺からは、親友の足を引っ張る言葉しか出てこなかった。ホント、俺って小さい男。
「あんまり意地悪言わへんの。でな、もしそうなったら、皆で揃って旅行すんのとか難しくなるかもしれへんし、絶対行きたいなってユキと言うてたねん」
そういうことか。
恵美が鋭い眼で俺をチラリと見遣る。うぬぬ。益々断りにくくなってしまった。
「でも、俺等は皆大学生になるんやし、今よりももっと時間ができるやん。俺等がタカの休みにさえ合わせりゃあ、旅行なんかいつでも行けるって」
嫌な汗が背中を伝った。部活を休むのも面倒だが、こっちはこっちで面倒臭い。
「…そやな」
俺の乗りの悪さに完全に気付いてしまった恵美は、そう小さく呟くと、明るい顔で話題を昨日のテレビドラマ批評へと移した。この恵美の諦めの早さには、正直参る。申し訳ない気持ちと愛おしい気持ちが、俺の胸を強く締め付けた。すぐに浮かべる彼女の諦めの表情。見慣れるほどに、俺は何度となく恵美にこんな思いをさせ続けていた。
ごめんな、恵美。
その想いは声にはならなかった。生温かい春の風が俺達の間を通り抜けると、恵美の薄茶色の髪が軽やかに靡いた。
「髪、伸びたな」
俺は見飽きている筈の恋人の姿に見惚れていた。
「似合わん?」
恵美は眉端を下げた。
「ううん、よう似合っとう」
たったそれだけで、恵美は本当に嬉しそうな顔をした。
綺麗やで。
それもまた、言葉にすることはできなかった。
結局一日だけの休みを得た俺は、恵美と二人で海を見に行った。とは言っても、電車でたった二駅の、散々行き尽くした場所である。部活で疲れ切った俺の身体は、それ以上の遠出を拒んだ。それでも恵美は文句ひとつ言わず、無邪気にハシャいでくれた。恵美はいつも憎まれ口なくせに、責めるべきところでは何も言わない。だから俺は、いつもその優しさに甘えてしまっていた。
昼過ぎの鈍行列車は空いていた。
「座らんでええんか?」
本当のところ自分が座りたい俺は、恵美を座席に促した。
「すぐやしええよ」
ちっ。
「ほんま、いつも近場ですんません」
俺は脱帽して頭を下げた。
「そんなつもりで言うたんとちゃうよ。折角の休みやのに連れ出してしもて、こっちが申し訳ないって思てんのに」
恵美は優しい声でそう言った。
水臭いこと言うな。
そんな想いを込めて、ポンと恵美の尻を叩いた。柔らかい感触が掌に残る。ムフ。
「見て、見て。こうやって立ったら足細くなんねんて」
恵美は嬉しそうに、くっつけた踵を指差した。
「こうやって、親指を浮かすねん。こうちゃんもやってみぃ」
恵美は子供のように微笑んで、俺を覗き込んだ。
「俺が足痩せしてどうすんねんな」
俺は可愛い恵美に微笑み返した。
「そっか」
恵美は愛しい笑顔を見せてくれた。俺は視線を下に送り、彼女の足を暫く眺めた。別にそれ以上痩せる必要のない、健康的な美脚。女性特有の柔らかな曲線を持つ、美しい足。
「その程度の運動量で、大根が牛蒡になるんかねえ。いでっ」
先刻まで見蕩れていたあの足が、鮮やかなローキックを俺に喰らわした。自業自得、だけど痛い。
「冗談やって」
俺は情けない声を出した。
「乙女心は繊細なんっ」
恵美は頬を紅潮させ、幼い少女のように口を尖らせた。
何故なのだろうか、俺の口からは素直に褒め言葉が出てきてくれない。どうも憎まれ口ばかり利いてしまう。好きな子を苛めてばかりいた子供時代から、俺は殆ど成長していないのかもしれなかった。
いつもは貸し切り状態の埋め立て海岸も、さすがに連休となると、訪れる人は少なくなかった。特に恋人同士の姿が目立つ。ここは夜になると、ライトアップされた明石海峡大橋が一望できる絶好のデートスポットになる。だが昼間であっても充分、潮風や珠に通る貨物船の汽笛なんかが俺達のデーティングを盛り上げてくれていた。俺と恵美は他の恋人達と同じ様に指と指の間を握って優しく微笑み合い、優しい風に吹かれながら、目の前に聳える白く巨大な吊り橋をただぼんやりと眺めていた。
見慣れた風景。大好きな景色。そして隣には、大好きな女の子。
タカ達と一緒に山や海に行ってハシャぎ回るのも楽しいが、こうして恵美と二人きりで静かに過ごす時間が俺は一番好きかもしれなかった。恵美と俺との距離がうんと縮まっているのを感じられる瞬間。傍に居て当たり前、そう思える人を見つけられた幸せ。格好つけの俺がこんな女々しい想いを巡らせていると知ったら、恵美は俺を嫌うだろうか。
「何ニヤけてんの?」
恵美が不意に俺の顔を覗き込んだ。
「え、俺? ニヤけてた?」
自覚はなかった。
「ニヤけてたよぅ。また何か悪巧みしとうやろ」
恵美は優しい体当たりで、俺を小突いた。
「ぶっ、してないって。なんや人聞きの悪い」
俺の顔は更にニヤけた。
「だって、こうちゃんがニヤけてるんは、悪いこと考えてるかヤラシイこと考えてるかのどっちかやもん」
なんでやねん。って、当たってるか。
「ちゃうわ、阿呆。恵美が怒ってないから安心しとうねん」
「怒るって?」
「いや、結局旅行に行かれんかったし」
「ああ、そんな事、もうすっかり忘れとったわ」
恵美は顔を逸らし、静かに揺らめく水面を見つめて目を細めた。
嘘つきめ。
恵美は嘘を吐く時に、決まって顔を逸らす分かりやすい癖があった。
「俺ほっといて三人で行って来たら良かったのに。そうか真由ちゃん連れて四人でとか」
俺は恵美の整った顔を覗き込んだ。
「ううん、ええねん。元々こうちゃんが行かんのやったら私も行かへんつもりやったし、それにユキんとこの邪魔すんのも悪いやん」
可愛いこと言うなあ、お前って奴は!
俺は表情が緩みまくるのを必死で堪えた。
「そっか。でもあいつ等二人きりで旅行かぁ。また激しく喧嘩しとうのとちゃうか。止める人間が居らんし大変やで」
「ほんまやな」
恵美は面白そうに笑った。俺はその横顔を見ているだけで満ち足りた気持ちになった。
「ええのう、ディズニーランド」
俺の頭の中を、エレクトリカルパレードが進んで行く。つんつくつんつん、つんつんつくつく。
「そうやな」
恵美は穏やかな海に視線を落としたままで、そう答えた。
「楽しんどうやろなぁ、あいつ等」
俺もその深い碧を見つめながら、海風から守るように恵美の身体を抱き寄せた。
「ほんまやな」
恵美はその小さな頭を俺の右肩に擡げた。
「ごめんな」
「ううん」
彼女はそう言うと、俺の背中にしがみついた。
恵美は我慢することに慣れ切っていた。沈黙の中、俺はやっぱり一緒に旅行に行ってやれば良かったと、少し後悔した。彼女の肩を抱く手に力を込めたら、恵美が強く抱きつき返して無邪気に笑った。
こんなにも愛しい彼女の望みを、どうして俺はいつだって叶えてやれないのか。
「卒業したら、二人で旅行しような」
「うん」
恵美は頬を赤らめ俯いた。
「泣き虫」
俺が髪を撫でてやると、恵美は隠していた涙を拭って最高の笑顔を見せてくれた。
俺は、この子の為に生まれて来たような気がした。
二人の沈黙を繋ぐように、遠くの方で微かに汽笛が鳴った。
「おい、タカ。何でディズニーランドの土産が鹿せんべいやねん」
俺はノックもせずに扉を蹴破り、煙で白く曇る部屋に入った。雑誌のグラビアに釘付けになっているタカの背中は、何処となく寂し気に見えた。
「細かい事気にすんなや、男のくせに」
タカは振り向かずにそう答えた。俺は足の踏み場もないその部屋の中に踏み入り、タカのすぐ傍に腰を下ろした。数冊の漫画本が、俺の尻の下敷きになっている。
「お前、学校辞めんのけ」
俺は鹿せんべいを片手に、タカの小さな背中に尋ねた。
「おう、多分な」
タカはまた振り向かずに答えた。
「お前が社会人になるなんて、恐ろしくて想像したくもないわ」
淋しい俺は、また意地の悪い言葉を吐いた。
「失敬な」
タカが相変わらずこっちを向いてくれないので、俺は手にしている鹿せんべいの封を開け、小さく割った欠片を口に放り込んだ。
「わ、マズ」
「えっ、オマエ食ったんけ」
タカは吃驚した顔で俺を見た。振り向いた彼が泣いていなかったので、俺はやっと緊張していた顔を綻ばすことができた。
「うん、食った。お前も食うか」
俺は鹿せんべいをタカに差し出した。
「阿呆か、それ鹿のエサやぞ」
タカは真剣だった。それが凄く可笑しかった。
「解っとうわ。ほなこれ、どないせえっちゅうねん」
「ネタで買うて来たのに、それよりおもろいことしてくれんなよ」
タカは口を尖らせた。
「お前、ネタの為にわざわざ奈良まで行ったんけ」
そのエネルギーをもっと他に費やせよ。せめて落第しない程度に勉強するとか。
「五月蝿いねえ、オマエは。ごちゃごちゃごちゃごちゃごちゃごちゃとぉ。それをエサに恵美と奈良公園にでも行って来たらええやんけ」
「お前、ええこと言うな」
なるほど、笑いと実益を兼ねたわけか。恵美と兄妹同然のタカだ。もしかしたら恵美本人から俺の出不精を訴えられているのかもしれなかった。
「今更何を抜かしとう、おれは社長の跡取り息子やぞ」
タカはようやく笑顔を見せた。
「親父さんに同情するわ、気の毒に」
「失敬だね、君。未来を期待された次期社長だよ。ノータリンの君には解るかね、ボクの言っていることが」
タカは雑誌と灰だらけの寝間に寝そべると、汚れた靴下を履いたその長くない足で、俺の頭を撫でてきた。俺は力一杯振り払い、やめろと怒鳴った。臭い、汚い。心配して損した。
「じゃあ進級くらいちゃんとしろよなっ」
俺はタカの退学を悲しんでいたユキの顔を思い出し、彼女の事を何も考えていないタカに少々苛立った。俺だって、唯一無二の親友が学校から居なくなるなんて、信じたくなかったのに。
「平民が生意気抜かすなっ」
今度はその汚い靴下をわざわざ脱いで、そのニオイ爆弾を俺の顔目掛けて投げて来た。どうもこいつの攻撃はバカバカし過ぎて、こちらの闘争意欲を削ぐ。
「阿呆か。今は実力社会や。下克上やぞ、平民もクソもあるか。お前の武器は血筋だけやんけ」
「おれは実践型の人間やねん。机に向かうより戦場に出る、男の中の男じゃけん」
「確かにお前が机に向こうとう姿は殆ど見た事ねえわ」
実際、突っ伏して涎を垂らしている姿しか見た事がなかった。
「自分、不器用ですから」
タカは白目をむいた。やっと元気になった彼を見て、俺は嬉しくて堪らなくなった。
「一人で言うとけ」
俺はニオイ爆弾をタカに投げ返した。
「やれば出来る子やねんぞ、おれは」
「じゃあちゃんとやれ」
「ぷう」
「わ、やったなお前」
最悪である。タカが放った屁が予想以上に臭かったので、俺は慌てて窓を開け放った。淡緑色のカーテンは初夏の風に大きく翻り、その生暖かさが俺達を優しく包み込んだ。
タカが本当は頭がいい奴なのだという事は、誰もが知っていた。そして本当は凄く繊細な人間だということも。
彼の父親は努力の人で、自分一代で立派な会社を起てた偉人として、近所でも有名だった。そんな親父さんを、タカは心から尊敬していた。軽蔑する他ない父親を持った俺にとっては、何よりも羨ましいことである。だが、突然大金を手にしたタカの家庭は、見る見る内に崩壊していった。母親は身も心も異常なまで派手になり、夫の稼ぎを、会社の利益を容赦なく喰い散らかした。親戚達はハイエナのように群がり、返すアテもなく大金を借り倒した。タカが一番懐いていたという彼の祖母も、ある日タカ名義の通帳と印鑑と共に何処かへ消えてしまったという。
金は人を駄目にする。近しい人間の裏切り、そして欺き。人間の最も汚い部分を目の当たりにした少年は、信じていたものに悉く裏切られ、大人を、人間というものを信じない男になっていった。こうやって冗談めかした時以外に、タカが自分の家庭の経済力を誇ったことは一度もなかった。
本格的な夏が訪れ、タカは俺達の心配を跳ね返すように、驚く程真面目に働き始めていた。唯一の味方である息子の献身振りに、親父さんもさぞ喜んだことだろう。そして他の同級生達もまた、その大半は俺の気付かぬ内に、大学受験へ向けて勉学中心の生活へとギアチェンジしていた。
受験生に夏休みはない!
夏を制する者は受験を制す!
そして恵美もまた例に漏れず、実に受験生らしい夏休みを計画していた。
「高校最後の夏休みを受験勉強で潰すなんて、俺は勿体ねえと思うけどなっ」
人の部屋に上がり込んでおいて、一時間近くも机上のノートから目を離してくれない恵美の背中に、俺は小さな子供の様に吐き捨てた。
「今までは自分の方が全然構ってくれへんかったくせに」
恵美は振り向いて俺を鋭い目で睨みつけた。一番痛いところを突かれた俺は、何も言い返す言葉がなく凝固してしまった。
「こうやって受験勉強に明け暮れる夏があったって、それはそれでいい思い出になると思うけどなぁ、私は」
恵美は微笑みながらそう言うと、また視線をノートへと戻した。
「そんなに必死こいでせんかったって、俺等はちゃんと受かるって」
俺は恵美の隣に座り、机の上を覗き込んだ。
「油断して後悔とかしたくないもん」
恵美は真剣な顔をしている。そのノートには英語の構文がびっしりと書き込まれてあった。
イズ イット ファン?
「夏は真っ黒に日焼けせんかったら、病気になる!」
俺はそう唸るとベッドに寝転んだ。
「それはこうちゃんだけの病気や」
呆れた保護者のようなその口調に、俺は少々不快を感じた。
「何時間もそんなことしてるお前の方が病気や」
俺は恵美に背を向け、ケータイの無料ゲームで遊び始めた。完全にコドモである。
「こうちゃんやったらさあ、勉強でもそうやけど、スポーツ推薦とかでも結構いい大学行けるんとちゃう」
恵美は忙しくノートに何やら書き込みながら、俺の背中に話し掛けた。
「そんなんで行ったら、絶対続けなあかんやんけ」
俺はゲームをしながらそう返した。
「続ける気はないのん?」
恵美は意外そうに訊ねた。
「怪我したら学校も辞めなあかんやろ、ああいうのって」
恵美が手を止めたのが視界の端に映ったが、俺はそのままゲームを続けた。
「…こうちゃんって器用貧乏やんな」
「何やそれ」
いつに無く悪意の籠った恵美の一言に、俺の口調は少し尖った。
「勉強もできるし、スポーツもできるし、女の子にもようモテる。でも、どれも今一つやる気にならへん」
ペンを置き赤い顔をする恵美は、いつもの溌剌とした彼女らしくなかった。
「なに、どゆこと? やる気出して浮気しろってか」
俺の悪い冗談に、恵美は何も返さなかった。俺はそこでやっとゲームの手を止めた。
「…今まで寂しい想いさせてごめんな」
俺はすぐ傍に居る恵美がとても遠い所に居るような気がして、酷く淋しい気持ちになった。俺は恵美の小さな掌を両手で包み、もう一度ごめんと呟いた。恵美は俺のすべてを許すかのように輝く微笑みを浮かべ、心配顔の俺に優しく言った。
「一日だけ、遊び納めでどっか行こっか」
一日だけかい。
本気でこいつは四十日もの貴重なヤングデイズを勉強で潰す気らしい。涼しい顔で「一日だけ」と言ってのける恵美もまた、タカと同じように俺を置いてけぼりにするのではないかと不安に襲われた。
「おう、どこ行きたい? 遊園地でも行く?」
俺はワクワクを抑えた。
「ん〜」
「そうかバーベキューとかするか。夏のレジャーは山か海っしょ」
俺はウキウキを抑え切れない。
「…それって、『皆で企画』?」
「ん、ああ。嫌か?」
俺はドキドキを封じ込めた。
「ん〜、それでもいいけど、ふたりで花火とか見に行きたいなぁ」
「花火かぁ、人多そうやけどなぁ。じゃあ京都にでも行くか。亀岡とか宇治とかでやりよるやろ」
「でも折角近くでもあるんやし、明石の花火大会行こうさ」
「おう、なんやそんな近場でええんけ」
いつもは遠くに行きたがるくせに、何故か恵美はそう望んだ。考えてみれば、明瞭と行き先まで希望する恵美は珍しかった。
「うん。明後日に大蔵海岸であるらしいんよ。夏祭りのフィナーレやって」
「ふうん」
いつも行っている埋め立て海岸である。何だか少しつまらなかった。しかも明後日って。じゃあ俺は明々後日から何を楽しみに生きていけばいいというのだ。
「ネットで見たんやけど、三千発ぐらいの花火が打ち上がるらしいんよ。音楽が鳴る花火とかもあるんやって、スゴくない?」
「へぇ、凄いな」
どんなものか、あまりよく判っていなかった。
「折角やし、浴衣でも着よっかな」
おっ、賛成。
恵美の浴衣姿。こっちはすぐに画が浮かんだ。いい、いい。それ最高。黙ってさえいれば、こいつは結構なべっぴんさんだから。
「俺、ニヤけてる?」
「ううん、何で?」
「ヤラシイこと考えてたから」
「もおっ阿呆!」
「いでっ」
見事な一発、女のものとは思えないほどの重い鉄拳が、一寸の狂いもなく俺の鳩尾にめり込んだ。でもその痛さが心地よかった。こんな時間が凄く楽しかった。俺って実はMなのか?
二〇〇一年七月二十一日土曜日、第三十二回明石市民夏祭り花火大会。地元民の余裕をカマして、俺達は打ち上げ開始直前に、あの花火会場へと向かった。何も知らずに、二人微笑み合って。
いつもは人があまり乗っていない電車も、この日は年に一度の一大イベントとあって、車内には多くの人達が蠢き合っていた。俺は見知らぬ者と押し合いへし合う不愉快を、浴衣姿の恵美と密着できる愉快に少しだけ助けられ、何とか耐えていた。
「恵美、帰りは歩いて帰ろか。ちょっと距離あるけど」
「うん。でも、下駄やから足が痛くなるかも」
恵美の前髪を伝う一雫の汗が落ち、俺の肩を濡らした。
「そしたら、俺が負ぶったるわ」
満員電車に揺られるよりは、そっちの方がよっぽど良かった。
「重いで、私」
恵美は眉間に皺を寄せて、上目遣いで俺を見た。
「うん、知ってる」
恵美は真っ赤な頬を膨らまして俺を睨んだ。
「ごめん、ごめん。軽い、軽い」
恵美は小さく微笑むと、俺の胸元にしっかりとしがみついた。
電車が揺れる度に顔を歪める恵美が気の毒で、俺は花火なんかどうでもいいから、今すぐにでも降りたいと思った。俺は花火を見たいのではなく、ただ恵美と一緒に居たいだけだった。
「東京の通勤電車っていっつもこんくらい混んどうんやろ。俺、絶対に東京には住めへんわ」
「私も」
そう言うと、恵美は更に強く俺にしがみついた。俺は母鳥が卵を温めるかのように、彼女の華奢な身体をしっかりと包み込んだ。肺が圧迫されているせいか、それとも空気が薄いのか、俺達は息苦しさの中、お互いを労り合いながら電車に揺られていた。
間もなく俺達を乗せた飽和状態の電車は、会場最寄りの朝霧駅に到着した。首を捻って外を見た瞬間、俺は目を疑った。窓からは車内とほぼ同じ状態の駅構内が見えた。駅に着けば解放されるという期待は、脆くも打ち砕かれたのだ。俺と恵美は顔を見合わせ、暫く言葉を失った。だがこの状態では、もう引き返すこともできない。
扉が開いても、やはり一向に楽にはならなかった。電車の中から恵美を庇い続けた俺の両腕は、すでに限界ギリギリであった。指先は軽く痺れている。取り敢えず人の流れに身を任せ、決して逸れないように身を寄せ合って、俺達は会場へと少しずつ歩を進めた。
いつもはそこに降り立つと、潮の香りがする大好きな駅。だがこの日は、運ばれて来る筈の海の匂いは他人の汗の臭いによってすっかり掻き消され、穏やかな波の音も俺達の耳には届かなかった。やっと改札口へと上がる階段まで辿り着いた時、俺は軽い目眩がして、少しフラついてしまった。
やばい、やばいぞ。
俺は恵美に気付かれなかっただろうかと心配になり、軽く咳払いをして誤摩化した。
「なんか、空気薄くない?」
恵美が眉間に皺を寄せて、可愛い声を絞り出した。
「無理に喋んな。絶対に俺から離れんなよ」
俺は痺れる腕で、恵美をしっかり抱き寄せた。彼女は俺にピタリと寄り添った。もうこのまま二人で何処かへワープしてしまいたかった。
尋常ではない状況に、その場に居る誰もが気付き始めていた。だからといってどうすることもできず、後から到着した電車からは、更に多くの人々が降りてくるのだった。前から後ろからも圧迫されて、あらゆる臓器が口から飛び出して来そうだった。
絶対に、恵美だけは守ってやらねば。
もうこの際、腕が折れ砕けたって構わなかった。いつもは屈強に感じる彼女も、この人混みの中では脆く儚い存在である。きっと俺以上に苦しい筈だった。
「やばい、俺の中身の餡子が出そうや」
苦し紛れに、俺はつまらない事を言った。
「餡子? つぶ餡? こし餡?」
恵美の愛しい声が、俺を和ませてくれる。
「こ、こし餡かな」
「私の好きな方やな」
彼女は力なく微笑んだ。
「勿論」
腰に電気が走るような痛みを感じたが、俺は無理矢理に笑って見せた。帰り道、俺はちゃんとこいつを負ぶってやれるだろうか。
駅と海岸とは、歩道橋で結ばれていた。それは両サイドに透明のシェルターが架かっていて、天井部分は開いていた。シェルターが無ければ何人かが零れ落ちてしまいそうだけど、あったらあったで息苦しさを感じずにはいられない。頭上には夜空の星が瞬いていたのかもしれなかったが、勿論それを拝む余裕などこれっぽっちも無かった。人がこんなに居なければ、高い位置から明石海峡大橋をバックに花火が眺められる、絶好のスポットだったに違いない。だがこの場所も駅周辺同様、否、それ以上に人が溢れている。まるで俺達は網の中に追い込まれた鰯の大群のようだった。
ここに入ってしまうと危険だ。そう判ってはいても、俺達は人波に押され、一歩、また一歩とその歩道橋を進んで行った。
「止まらないでください、止まらないでください」
橋の外から警備員らしき男の掠れ切った声が聞こえてきた。誰も止まっている訳ではない。進めないのだ。恵美と何度も来ているこの海岸。今歩いている歩道橋の出口が入り口よりも更に狭くなっているということも、俺達はよく知っていた。
蛸壺で蠢く蛸。俺は子供が自分の玩具を死守するように、恵美を必死で抱いていた。指先の感覚は、もう完全に無くなっている。
俺の視線の左端に、幽かに見える赤い火。
夏の夜空に咲く、幾千の大輪の華。
もう、始まっていたのか。
「恵美、見えるか」
完全に埋もれている彼女には見えている筈なんて無かった。けれど恵美は小さくウンと頷いた。なんて可愛い奴だ、この期に及んで俺はそう思った。意識が朦朧としていくのが判った。飛び交う怒号、女の悲鳴、子供の泣き声。酷く騒がしい筈なのに、頭の中は何故かとても静かで、気が遠くなるような耳鳴りがした。スローモーションで再生される光景。こんなに人が沢山居るのに、其処には恵美と俺の二人しか居ないような感じがした。
遠くで人が倒れているのが見えた。一人や二人ではない。だがその人達を救う手立てもなく、すぐ隣で青くなって倒れていく人々を、その場に居る誰もが全くどうすることもできなかった。踏み付けられている人も居た。それは血の通った人間ではなく、人間の形をした作り物のようだった。誰もが必死で体勢を立て直そうと、もがき苦しんでいた。
まるで地獄のようだった。自分だけは助かりたいという人間達の海だった。そして俺もまた、その潮の流れとなっていた。恵美さえ助かれば、他はどうでもよかった。周りで蠢く人々を、命あるものだと考える事ができなくなっていた。恵美の小さな身体が人の渦に呑込まれようとしている。俺は必死でそれを拒んだ。この手を離してはいけない。何があっても、絶対に。ここで彼女と離れてしまったら、もう二度と会えなくなるような気さえした。
恵美の小さな肢体は、最早俺の痺れた腕に委ねられている。恵美を守らねば。俺はその使命を背負い、何とか正気を保っていた。あるのは愛する者を守り通す、男の本能だけ。鍛え上げた筈の俺の両腕は、既に紫色に変色し始めていた。
「ごめんな、ありがとぉ」
絞り出した恵美の声が、頼りなく愛おしくて堪らなかった。
神様。
もし貴方が本当に存在するのなら、この腕の中の少女を守ってやってくれませんか。
俺は今までしてきた数々の背徳行為を、心の底から懺悔した。もうしませんから、そんなチンケな言葉を、頭の中で何度も何度も繰り返した。もう俺一人の力では、恵美を守り切れないと思った。
次の瞬間、今までのものとはまったく比べ物にならないほどのマグマのうねりのような圧力が、大きく俺達に押し寄せてきた。大震災の時、俺達は悪魔の笑い声の様な恐ろしい地響きを聞いた。あの言い様も無い恐怖感が、再び俺達を襲っていた。一体何が起こったのか、さっぱり解らなかった。
重いのか、痛いのか。
熱いのか、苦しいのか。
俺の意識は次第に薄らいでいった。俺達は無事でいられるのかなぁとか、こうやって人は死んでいくのかなぁなんて思いながら。それは凄く長い時間のようだったり、たった一瞬の出来事のようだったり。今まさにリアルタイムで起こっている事なのに、ずっと昔のことが夢の中で再生されている様な、不思議な感覚だった。人の渦に溺れていた。俺もまた渦になった。渦の中で、恵美が俺の名を小さく呼ぶのが聞こえた。
こうちゃん。
可愛い声、愛おしい声。
震災で、たった一人助かった恵美。少女の微かな泣き声を聞き出した消防隊員が、火のつき始めていた瓦礫の中から、彼女を救い出してくれたのだという。それは奇跡だった。きっと、家族の誰かが必死で守ってくれたのだろう。恵美をしっかり抱き締めて、「神様、この子だけは」って祈ってくれたのだろう。その優しい家族がまだ残る火事場を、少女は周囲の静止を振り切り、ずっとずっと眺めていたのだという。夕日が沈むまで、火がすべてを焼き尽くすまで。
あれから七年。俺達の傷は、まだ完全に癒えてはいなかった。
殺風景な壁と薄汚れた天井。其処が病院であるという事は、目が醒めてすぐに理解できた。周囲には見知らぬ人達が右往左往している。俺は寝かされていたベッドから起き上がると、大きく伸びをした。
いでで。
体がとても重く、全身くまなく鈍い痛みが走った。長年放置されてすっかり錆び付いてしまったブリキの玩具。それをようやく動かすかの様に、俺は恐る恐る自分の首を横に回した。顳かみに電気が走るような激痛が走り、辛さを通り越して少し面白くさえなってしまった。一人で失笑し、そして深く溜息を吐いた。背筋を伸ばそうとしても、腰から下がついてこない。無理をするとぎっくり腰になりそうだったので、俺はもう一度真っ白なベッドに寝転ぼうかと思った。だが、そうすると今度はもう二度と起き上がれなくなりそうな気もして、俺は仕方なくベッドから降り、ゆっくりとそこに立ち上がった。病室には医師の姿も看護婦の姿もない。
「どないせえっちゅうねん」
俺は小さく呟くと、自分のこれからとるべき行動がさっぱり解らなかったので、のっそりとその病室を出た。
酷く疲れていた。服もそのままだったから、もうこのまま家に帰ろうかと思った。それでいいのか、それじゃ駄目なのか、教えてくれそうな人は居なかった。俺は早く家に帰って、慣れたベッドで大の字になりたかった。ふやけるまで風呂に浸かりたかった。
やっと来たエレベーターには、家族に添われる軽傷の患者数人と、年配の看護婦が一人乗っていた。彼女は俺の全身をくまなく眺め、
「もう大丈夫なの?」
と訊ねた。
「はあ、多分」
俺はもう大丈夫なんですかね。本当は俺がそう聞きたかった。
「男前が台無しねぇ」
大口を開けて笑う看護婦に下手な愛想笑いを返すと、俺は多くの人でごった返すロビーへと歩を進めた。病院全体が、あの花火会場から運ばれた人達やその家族、駆け付けたマスコミの群れで騒然としていた。
恵美は何処に居るんだろう。
やっと気付いた俺は、受付の人混みに分けて入った。恵美も一緒に運ばれている筈だった。また足元はフラつき、両腕に鈍い痛みが走った。腰も覚束無い。俺よりも非力そうな連中にまで弾かれ、結局は受付カウンターから更に遠ざかってしまった。
なんやねん、こいつ等。
こんなに人が沢山居るのに、俺は世界でたった独りになってしまったような、酷い心細さに襲われた。
恵美が居ない。タカが居ない。家族が来てくれない。
淋しかった。不安で不安で堪らなかった。一人きりが怖くて、気が狂いそうだった。
もう一度受付へと挑もうとした瞬間、誰かが俺の変色した腕を掴んだ。
「阿呆か、オマエ。怪我すんぞ!」
振り向くと、見慣れた童顔がそこにあった。
「あ、もうしてるか」
「タカ…」
「なんちゅう顔しとうねん、オマエ。イケメンが台無しやな」
タカは小さく笑った。
「お前、何でここに居んねん」
ほっとした俺の頬を、大粒の涙が伝った。
「オマエと恵美がここに運ばれとうって聞いたから、親族代表で来たったんやんけ」
「やっぱり恵美もここに居るんか」
俺の声は震えていた。
「ああ、今見て来た。オマエ、病室に居らんかったから心配してんぞ」
タカは俺の尻を軽く叩き、優しく笑った。
「だって誰も何も言うてくれへんし、何も解らんかったから」
「何も解らんかったからぁ」
タカは大袈裟に泣きベソの俺を真似た。
「お前なぁ、大変やってんぞぉ。ほんま冗談抜きで死ぬかと思ったんやからなぁ」
俺は力無いパンチをタカにお見舞いした。
「ほんま、二人とも生きてて良かった」
タカはまた俺の尻を軽く叩いた。
「恵美は? 俺より酷い怪我なんか」
「まあー、怪我は左足親指の骨折だけで済んだみたいやけどぉ」
「ほんまか。んで、どこに居るんや」
「オマエは大丈夫なんか」
「俺は全然平気やで。一緒に恵美んとこ行こうや」
「オマエ、病室戻って休むけ? それともそのまま帰る?」
タカは芝居が恐ろしく下手だった。
「何で会わしてくれへんねん」
俺は苛立った。タカは不自然に俺の足元に視線を落とした。
「恵美はどこに居るんや」
タカはまだ黙っていた。俺は更に苛つき、タカの胸ぐらを掴んで怒鳴りつけた。
「聞こえてるやろ、お前!」
タカは俺を振り払うと、逆に俺の胸ぐらに掴みかかり、更に大きな声で怒鳴り返した。
「今から連れて行くから落ち着けよ! オマエも一緒に看てもらえ!」
タカは顔を真っ赤にして涙を溜めていた。
「何やねん、お前…」
タカは何も応えず、背を向けて歩き出した。俺は黙って彼の後ろに続いた。
ワックスが寂しく光る病室の廊下に、タカと俺の不揃いな靴音が無機質に響き渡っていた。
続