表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

王子の婚約者なんてお断り

【短編】王子の婚約者なんてお断り

作者: MIRICO

「あなたがやったのでしょう!」


 女の力にしては結構な強さで突き飛ばされ、ラシェルは床に手をついた。


「王妃様の宝石を盗むだなんて!」

「私ではありません。どうやって宝石を盗めるのでしょう」

 ラシェルは反論する。しかし、王妃に取り巻く令嬢の一人が、眉尻を大きく上げた。


「白々しい! 高価な服をねだり、それが叶わないとなったら、メイドたちに暴力を振るうなんて! クリストフ様の婚約者候補でありながら、なんて方なの!」


 呼び出された部屋で、ラシェルが静かに待っていたところ、突然女性たちが部屋に入り込んできた。

 何事かとラシェルが立ち上がれば、いきなりラシェルを突き飛ばし、寄ってたかって、ラシェルの知らぬ話を突き付けてきたのだ。

 一体何事なのか。そう問う間もなく、女性たちから白い目で見られる。


 集まってきたのは、この国の王妃や、王妃と親しくしている、婚約者候補の令嬢たち、それからメイドたちだ。

 メイドに呼ばれ、長く部屋で待っていたら、意味の分からない話をされ、盗みの汚名を着せられている。ラシェルが知らぬ、存ぜぬと訴えても、集まってきた女性たちはラシェルを問い詰めた。


「まさか、王妃様にまで飛び掛かるだなんて!」

 メイドの一人が叫んだ。なんの話をしているのか。飛び掛かられたのはラシェルで、こうして床に膝をついている。

 しかし、女性たちも同じことを言い出した。


「王妃様。お怪我はないでしょうか。このような女性が、王子の婚約者候補などと、あって良いはずありません!」

「クリストフが選んだ女性だからと、受け入れた結果がこれとは、情けないことね」

 飛び掛かられたという王妃は、シワ一つないドレスのまま、ラシェルを一瞥した。


「母上、一体これはどういうことですか。ラシェルが何をしたのですか?」

 誰かが呼んだのか、とうとう王子までもが部屋にやってきた。後ろには、婚約者候補のイヴォンネ・オーグレン伯爵令嬢もいる。


「王妃様、お怪我はないのですか!? 令嬢に飛び掛かられたと聞いて」

「わたくしは大丈夫ですよ。皆が助けてくれました」


 王妃の言葉に、オーグレン伯爵令嬢がラシェルを親の仇のように睨み付けてくる。その様を見て、クリストフが、本当にそんなことをしたのかと、ラシェルに問うた。


「クリストフ様。私は何もしていません!」

 ラシェルは床に座り込んだまま、大きく叫んだ。

 クリストフは急いでやってきたのか、緩やかに結んだ金色の髪を乱したまま、困惑の表情をしながらブロンズの瞳を王妃へ向ける。


「クリストフ。母は哀しくてなりません。あなたが連れてきたボワロー子爵令嬢は、メイドたちに当たり散らして、果てはわたくしにまで」

「王妃様の宝石を盗んだだけでなく、王妃様に飛び掛かってきたのです! 王妃様は優しく、王宮での振る舞いを教えてくださっていたのに!!」

 先に集まっていた令嬢の発言に、他の女性たちも頷く。


「ラシェル、君がそんなことをするだなんて」

「私は何もしていません。今も、私が突き飛ばされたのです!」

「よくもぬけぬけと、そんな嘘がつけるのでしょうか! クリストフ様、どうかご処置を。王妃様に無礼を働いたどころか、傷付けようとしたのですよ!」


「クリストフ。わたくしは婚約について、口を出す気はありませんでした。ですが、少し考えさせてください。子爵令嬢は、しばらく王宮から出して、頭を冷やしてもらった方が良いでしょう」

「それは……。いえ、母上がそう言われるのならば」

「クリストフ様。私の話を聞いてください。どうして、私の言うことを信じてくれないのですか!?」


 ラシェルは訴えた。この状況を見て、どうして私が飛び付いたと思うのですか。と。


「ラシェル、急に環境が変わって、疲れたのだろう。僕の別荘に行って、少し休んだらどうだろうか」

「そうであれば、あちらの離宮はどうかしら。王が好んでいる北部の離宮ならば、遠くはあるけれど、景色が美しい場所よ」

「父上のですか? そうですね。そうしよう。ラシェル、大丈夫だ。気持ちが落ち着くまで、しばらく滞在するだけだから」

「クリストフ様!?」


 ラシェルは何度も叫び、クリストフに無実を訴えた。しかし、その叫びも虚しく、ラシェルは遠い離宮へと連れていかれることになったのだ。






「まさかラシェルが、母上に害をなすなど」

 クリストフ王子は額を押さえたまま、ボワロー子爵令嬢の行為を嘆いていた。


 王妃はクリストフ王子に寄り添い、令嬢の悪行を伝えながらも、彼女に与えた宮で指導が行き足らなかったと、反省を述べていた。王妃は優しく、あのような真似をした令嬢を未だ庇い、弁明している。そこまでする必要などないのに。


 そう思ってしまうのは、心が狭いからだろうか。

 イヴォンネは隣でその話を聞きながら、ぐっと重ねていた手に力を入れる。


「ラシェルが、離宮で反省してくれるのならば」

「まあ、優しいクリストフ。子爵令嬢もきっと反省してくれることでしょう。あなたが選んだ女性ですもの。安心なさい」

「ありがとうございます。母上」

「礼ならば、イヴォンネにおっしゃいなさいな。メイドたちから話を聞いて、その訴えを教えてくれたのは彼女なのよ。メイドたちの相談にのってくれていたの」

「いえ、わたくしは、そのような大層なことは」


 王妃は褒めるように言ってくれるが、メイドからそんな話をよく聞いていただけだ。他の令嬢たちも噂をし、王妃が苦労しているということは前から耳にしていた。

 その中で、メイドが大変なことが起きていると、教えてくれたのである。


「オーグレン伯爵令嬢も、すまなかった」

「とんでもありません」

 クリストフ王子に謝られて、なんと反応すれば良いのかわからなくなる。


「わたくしにすぐに伝えようと思ったそうだけれど、あなたの選んだ方だからと、しばらくは様子を見ていてくれたの。けれど、その甲斐もなく、結局、あのようなこと」


 王妃は、ほう、とため息をつく。王妃は最初からクリストフ王子の相手として、ボワロー子爵令嬢をよくは思っていなかった。素行が悪いのではと勘繰っていたのだ。その勘も当たり、子爵令嬢の悪行を知らしめることができ、イヴォンネは安堵する。

 あのような者が、クリストフ王子の婚約者になるなど、あってはならない。


「父親の子爵は事業に失敗し、金の無心をするからと、他の貴族たちも疎んでいたようだから、子爵令嬢は王宮に来て、高価な宝石などを見て、父親のためにと盗みを働いたのでしょう」

「ですが、婚約者候補として、宮に入るため、子爵にはそれなりの金銭を渡していると伺いました!」

 王妃はボワロー子爵令嬢を庇う姿勢を見せる。だからといって、盗みを許すことなどできない。


「目の前にある高額の宝石の前では、心も揺れるものでしょう。見慣れない宝石を目にしたら、我慢ができないのかもしれないわ。わたくしも、彼女に王家の宝石などを見せたのが間違いだったかもしれないわね」


 だからといって、盗みを働くなど。

 そう言い出しそうになるのを我慢する。クリストフ王子は、苦渋に満ちた顔をして、絞り出すような声で、そうですね、と返した。


「元気を出してちょうだい。クリストフ。後のことは、この母に任せてくれますね」

「承知しました。どうぞ、よろしくお願いします。母上」


 王妃の手を取ると、クリストフ王子は静かに首を垂れた。




「クリストフは心を痛めているわ。あの子に寄り添ってあげてちょうだい」

「もちろんです。王妃様も、お怪我などはなく、安心しました」

「あなたは優しい子ね。イヴォンネ。クリストフとの時間を作らせるから、いつもより美しく装っていらっしゃい。あの子の心を癒せるのは、あなただけよ」

 嬉しくも恥ずかしくもあるが、イヴォンネは頷いた。王妃は満足げに微笑んで、その場を後にした。


 ボワロー子爵令嬢が現れる前、イヴォンネは、クリストフ王子婚約者候補の第一等とされていた。

 両親からは期待され、特に父親からは、必ず心を射止めるのだと、きつく言い渡されていた。

 王宮へ呼ばれるようになれば、王妃はイヴォンネに、王宮での過ごし方や、クリストフ王子の好みを教えてくれた。妃としてとは言わないが、王宮で生きていくための教育もされた。茶会に誘われれば、そこにはクリストフ王子以外の客はおらず、席を一緒にする。


 クリストフ王子に会うこともでき、婚約者として選ばれることは間違いないと言われていた。

 それを心から望んでいたのは、イヴォンネだ。

 クリストフ王子に初めて会った時は、まだ子供の頃だったが、その姿に一目奪われた。

 王子らしく、世間を知らないような浮世離れしたところはあったが、学校では優秀で、魔法に興じるのを好み、剣の腕もあった。

 王妃にも従順で、婚約者候補を決めなければならないと言った時も、対立することはなかったそうだ。


 しかし、イヴォンネとの婚約話が持ち上がりそうになった頃、突然、クリストフ王子は、結婚したい女性がいると言い出したのだ。

 それが、どうして、あんな子爵令嬢を選んだというのか。


 聞いたところによると、ボワロー子爵令嬢は、あまりにも貧乏で、自ら市井に働きに出ていたのだ。どこかの家のメイドでもしているのかと思えば、まさかの貿易商で働いていた。そこでどんなことをしていたのかは知らないが、貴族の事業でもない、民間の商人の下で働いているなどと、子爵令嬢にあるまじき話だった。

 社交界にはほとんど現れず、その仕事を行なっていたのだから、クリストフ王子の婚約者と連れてこられても、誰もが反対して当然だ。


 現王の願いで、王子の相手は本人が決めるべきだとされていた。その誓約は覆されることはなく、王妃は苦渋の決断で、婚約者候補として子爵令嬢を受け入れた。本格的な教育をするにも、基礎ができていないのではと訝しんだのである。


 子爵令嬢は、クリストフ王子の優しさに付け込んで、同情を得たのだろう。王子は哀れに思い、手を差し伸べたにすぎない。騙された王子が哀れだ。

 結局、盗みを働き、あまつさえ、王妃に飛びかかったのである。王妃が彼女を呼んで問いただしていた時に、乱暴を働いたのだ。


 イヴォンネはちょうど、王妃との約束があった。王宮に行けば、王妃が令嬢を注意しに行ったことを知り、子爵令嬢のいる宮に訪れれば、大声で叫ぶメイドたちが助けを求めてきた。途中クリストフ王子と会い、偶然にも騒ぎに駆けつける形になったのだ。


 王子を騙したどころか、王妃に飛びかかるなど、本来ならば処刑されるべきだろう。

 しかし、クリストフ王子が悲しむからと、盗みを働いた罰で、遠くの離宮に送られることになった。そこで教育をされるということだが、更生するのか、甚だ疑問だ。王妃もあまり期待していないようだった。


 だから、今度こそ、クリストフ王子の心に留まるよう、王妃は王子との会話の機会を設けてくれる。

 元来、王族の結婚については、王が決めることだった。しかし、現王は王子の相手は本人が決めるべきだとしている。

 そのため、イヴォンネは、クリストフ王子の心に留まらなければならない。

 けれど、それが難しいのだと、イヴォンネは挫けそうになる。


「彼の方は、誰にでもお優しいもの」


 なのに、子爵令嬢はその心を留めることに成功したのだ。同情心を煽ったのならば、そんなことは看過できない。

 子爵令嬢のように、クリストフ王子の優しい心を、弄ぶような真似はしたくない。

 もっと近くで、自身を見てもらい、心を得なければならなかった。




「お美しいわ。オーグレン伯爵令嬢よ」

「連日、いらっしゃっているわね。やはり、令嬢がクリストフ様のお相手なんでしょうね」


 メイドたちの囁きを後ろにして、ゆっくりと廊下を歩く。

 その声を無視していたが、後ろを歩いていた令嬢たちも同じように囁いた。


「皆が、イヴォンネ様がお相手だとわかっているんですわ」

「当然でしょう。あの子爵令嬢、王宮で盗みを犯したのですもの」


 令嬢たちの囁きは大きくなる。この話は口にせずとも、今では皆が知っている話だ。囁いている令嬢はあの場にいたし、話を聞いている令嬢たちの中の数人も、あの場にいたのだから。


 それでも話したいのだろう。皆がボワロー子爵令嬢に怒りを抱いているのだ。

 クリストフ王子はあれから塞ぎ込んでいる。そのため、王妃はクリストフ王子の慰めになればと、お茶会を催していた。


 イヴォンネの後ろにいるのは、婚約者候補とされている令嬢たちだ。ボワロー子爵令嬢を婚約者候補とした手前、現王に競う姿を見せるために選んだだけだと、王妃は言う。そうであろう、彼女たちは皆、イヴォンネを立てていた。自身が選ばれれば良いと考えている者も少なくないが、その姿勢はイヴォンネの前では出すことはない。

 ボワロー子爵令嬢以外にクリストフ王子が選ぶ者は、イヴォンネとは限らないのだから、彼女たちが夢見るのは当然だった。


「子爵令嬢を離宮に連れて、教育を受けさせるなど、王妃様もお優しいですこと」

「本当に。修道院に更迭なら、わかりますけれど」

「父親の子爵は、婚約者候補として支給された金銭を、全て使ってしまったのでしょう? 貧乏だからと慈悲で与えてくださったものを」

「親子揃って、なんて人たちなのかしら」

「街でも囁かれているそうですわ。クリストフ様を騙したのですから、皆が噂していますわよ」


 令嬢たちはどこで話を聞いたのか、街での噂も耳にしているようだ。

 それを聞いているだけで、悔しさが込み上げてくる。クリストフ王子の悲しみを、誰もが知っているのだから。

 それなのに、


「クリストフ様、なにか憂いごとでも?」

 カップを前に、クリストフは他所を向いて、何度目かのため息をつく。イヴォンネの声に気付くと、すぐに姿勢を正した。

「いや、元気にしているかと」

 誰と言われずともわかる。


「どうしてそのような心配を。クリストフ様を苦しめた方ではないですか。クリストフ様はお優しすぎますわ」

「僕が無理に城に連れてきてしまったのだから、当然だよ。街ではとても明るい女性だったんだ。城に連れてきて、少しずつ口数が少なくなっていってしまった」

「ですが、裏切ったのは彼女では?」

「そうだけれどね。でも、彼女が長く苦労していたことは、僕には想像もできないことなんだよ」


 そう言って、再び考え事をしはじめたのか、どこを見るでもなく虚ろな表情になる。

 貧乏子爵令嬢が街で働いていたからといって、王子がその人の苦労を全て汲み取る必要はない。それなのに、クリストフ王子は、あれだけの真似をした、ボワロー子爵令嬢の今までの苦労を嘆く。


 未だクリストフ王子の心の中には、ボワロー子爵令嬢がいるのだ。

 そして、こんなにも優しい人を苦しめている。

 どうして、そんな女性を?


「許せないわ」

 呟きに、クリストフ王子は何か言ったのかと首を傾げる。


「いえ、どうか元気を出してくださいませ」

「ありがとう」


 クリストフ王子は遠慮げに、柔らかな微笑みを見せる。

 この人の優しさを、簡単に裏切った女性が、心の底から憎かった。






「ちょっと、あなた」


 後ろから声をかけられて、メイドのシェリーは振り向いた。

 声をかけてきたのは、オーグレン伯爵令嬢だ。長く緩やかな金髪が美しい。頭を下げると、すぐに質問をしてくる。


「あなた、ボワロー子爵令嬢の宮で働いていた子ね。子爵令嬢は、クリストフ様に失礼はなかったの? あなたから見て、気になることはなかった?」

「いえ、私は特に気付きませんでした」

「他のメイドから聞いたけれど、あなたにも暴力を振るっていたのでしょう?」

「そ、そのようなことは」

「正直に言っていいのよ。クリストフ様にもよく伝えておくわ。なんて人だったのかしら。あのような宮を与えられておきながら」


 オーグレン伯爵令嬢は、問いながらも、聞く耳を持たないといった感じだった。

 身構えて次の質問を待てば、別のメイドを見つけて、そちらに視線が向く。


「他にも思い出したことがあったら、正直に言ってちょうだい」

 そうして、その次のメイドへ声をかける。それを見ていた別のメイドたちが、オーグレン伯爵令嬢の噂を始めた。


「お優しいわ。素敵な方よね。どうしてクリストフ様はあの方を選ばないのかしら」

「街で会って、たぶらかされたからに決まってるじゃない。娼婦みたいに?」

「やだ、ちょっと。王妃様に聞かれたら大変よ」


 くすくすと嘲るような笑いに耐えきれず、シェリーは早歩きをする。側に誰もいなくなったのを確認して、鼓動の音が聞こえないように、胸元を押さえながら、走って裏庭へと出た。

 周囲には誰もいない。木々と壁の影に隠れて、胸元に隠した手紙を取り出す。

 その一枚の紙に書かれた文字を追って、シェリーは口元を歪めた。


『手紙は燃やしてください。あなたにはとても感謝しています。迷惑をかけたことを許してください』

「ラシェル様……」


 ラシェル・ボワロー子爵令嬢は、メイドたちから嫌がらせを受けていた。

 婚約者候補ながら、宮を与えられ、専属のメイドまでも用意されるという、特別な待遇だったが、メイドたちは頭を下げながら、仕えるのを拒否していた。


 子爵令嬢が平民に混じり、街で働いていたという噂は、メイドの中では周知されていたからだ。

 婚約するのではとされていた、イヴォンネ・オーグレン伯爵令嬢が婚約者ならば納得だが、貧乏子爵令嬢では納得がいかない。

 そんなことを口にするメイドはいたが、クリストフ王子の心を貧乏子爵令嬢が射止めたことに、やっかみを覚えていただけだろう。街で平民のように働く貧乏子爵令嬢が候補になれるのであれば、メイドでも良かったではないかと思っているのだ。


 王妃のボワロー子爵令嬢に対する態度や、急遽集められた婚約者候補の令嬢たちの態度を見るうちに、返事も適当になり、扱いもひどいものになっていった。

 最初はボワロー子爵令嬢も注意はしていた。クリストフ王子に伝えることはなく、一人で対処しようとしていたのだ。だが、あまりに目に余る行動に、とうとう王子に伝えた。その時、メイドたちは心底怯えただろう。ずっと誰にも言わず耐えていた令嬢が、突然王子に今まで受けた被害を訴えたのだから。


 しかし、その声を受けても、クリストフ王子はなにもしなかった。王妃にたしなめられたからだ。

 まずは自分が確認すると、クリストフ王子を止まらせた。しかし、王妃はメイドたちにそんなことがあったのかと問いながら、彼女に相応しい接し方を行えと指示したのだ。


 メイドたちはいいように受け取っただろう。ボワロー子爵令嬢に相応しい接し方をすれば良いのだと。

 その後も、ボワロー子爵令嬢は訴えた。それでも王妃が責任を持って対処すると言い、クリストフ王子は王妃に全てを任せた。


 そもそも、メイドたちの行動は、王妃の仕業だったのではないだろうか。

 だからこそ、婚約者候補の令嬢たちも、同じようにボワロー子爵令嬢を虐げたのだ。


「ここで、何をしてるのよ!」

 急に怒鳴られて、シェリーは肩を震わせた。同じ宮で働いていたメイドだ。シェリーを探していたようだ。

「いえ、ちょっと、休憩を」

「こんなところで? さぼってただけでしょ。部屋、片付けろって。片付けときなさいよ」

「え、部屋って?」

「貧乏令嬢の部屋よ」

「も、戻ってこられるんじゃ?」

「戻ってくるわけないじゃない。クリストフ様だってさすがにお断りでしょ。部屋の中の荷物はもういらないから、全部処分しときなさいよ」

「そんな……」

 ボロワー子爵令嬢は、何もしていないのに。


 手紙をギュッと握りしめる。

 ボワロー子爵令嬢は、ずっと嫌がらせに耐えていた。

 クリストフ王子に伝えても改善されることがなく、訴えればむしろメイドたちの態度が悪くなり、嫌がらせも増していた。

 食事も満足に与えられず、水差しには泥水が入れられ、掃除の部屋はもちろんなく、洗濯だってされることがない。


 見かねて食事を持って行った。あまりにひどい仕打ちだったからだ。けれどボワロー子爵令嬢は、巻き込まれてしまうから、このようなことはしなくていいと、逆に遠慮してきたのだ。

 それでもなんとか食事だけでもと持って行ったため、他のメイドたちに嫌がらせをされることになったが、後悔はしていない。いくらなんでも、度が過ぎていたからだ。


 ボワロー子爵令嬢は、話してみればとても不思議な人で、メイドたちの嫌がらせに堪えることがなく、むしろ、笑い飛ばすような人だった。

 与えられた宮から出ることを許されておらず、呼ばれる時以外は、ほとんど部屋の中。部屋から出ればメイドに嫌味を言われる。嫌がらせをするように、他の婚約者候補の令嬢たちが、嘲りにくる。


 それなのに、いつも明るく、いろいろなことに興味を持って、シェリーの話を聞く、気さくな女性だ。

 そんな人だったのに、少しずつ口数が減り、そうして、部屋に閉じこもって出てこなくなったのだ。


 この手紙は、ボワロー子爵令嬢が更迭された後、自分の部屋にあった。どうやって部屋に置いたのかはわからないが、机の上にあったのだ。

 差出人は書いていない。けれど、その内容が、ボワロー子爵令嬢からの手紙の証拠だった。


「私が、ちゃんと、クリストフ様に伝えていれば」

 ボワロー子爵令嬢は、それだけはするなと、何度も言っていた。あなたまで目を付けられるからと。


 大丈夫だと笑った彼女は、もう離宮で過ごしているだろう。せめて、あの宮にいた頃よりも、まともな生活をしていればいいのだが。

 そう思って、その手紙を、そっと燃やしたのだ。






「今頃、彼女は離宮に到着しているだろうか」

 窓を見上げながら、クリストフ王子は誰に言うでもなく呟いた。


「気になるのならば、手紙でもお書きになられたらいかがですか?」

 控えていたアーロンは、自分に問うたわけではないと思いつつ、返答をする。なにか言ってほしい気持ちはあるのだと思い。

 だてに長くクリストフ王子の騎士をやっているわけではない。

 クリストフ王子は、大きく息を吐いた。


「それも、甘いのではと思ってな。僕も、彼女のためと思い、多くのものを贈りすぎたのかもしれない」

 そうは言うが、やはり心あらずと、窓の外を見つめる。ここ数日の雨も過ぎて、久し振りの晴れ間が広がっていた。ボワロー子爵令嬢が王宮を出た日は、ひどい雨が降っていたのに。


 この時期、北にある離宮に行くまでの道のりは、子爵令嬢には厳しいものだろう。

 それも罰か。遠ければ、気軽にクリストフ王子が会いに行くことはできない。王妃もそれを考えて、彼女を遠くに退けたのだ。


 ぼんやりと、ただ窓の外を見つめるクリストフ王子は、絵画さながらの美しさだった。

 それだけで絵になる。この様を見た女性たちは口々に言うはずだ。長く仕えているアーロンですら、見惚れそうになった。


 クリストフ王子の見目は良い。どこにいても、女性たちからの視線が届く。

 しかし、なまめかしく熱い視線を届けられても、クリストフ王子は揺るがない。最初は女性に興味がないのかと思っていたほどだ。だがそのクリストフ王子は、あっという間に子爵令嬢の虜になっていた。


 街で出会った少女は、まさかの子爵令嬢で、平民のふりをして貿易商で働いていたという、異例の女性だ。周囲が反対して当然の相手であり、ボワロー子爵令嬢でさえ、婚約話に目を丸くしていた。


 初めて彼女に出会った後、クリストフ王子は時間を見つけては、彼女の働く貿易商へ足を伸ばしていた。足繁く通っていたと言っても過言ではない。夕方になると、忍びで外に出る。普段真面目一辺倒でいたクリストフ王子が、まさか、女に会いに行っているとは、誰も想像しなかったはずだ。


 クリストフ王子は成績優秀で、剣の腕もある。魔法にも長けており、まれにいる精霊使いになれるのではと、期待されているほどだ。欠点を言えば、少々ズレたところがあるくらいだろうか。平民のふりをしていたとはいえ、子爵令嬢に、一般常識をもっと学べと叱られたほどである。


 クリストフ王子は、身分を伝えず会いに行っていたが、子爵令嬢はクリストフ王子の身分が高いことには気付いていた。護衛で隠れていたアーロンたち騎士を認識していたからだ。

 クリストフ王子がボワロー子爵令嬢に夢中になっている間、彼女は節度を持ってクリストフ王子に接していた。当時は平民だと思っていたので、貴族に対しての態度を取っているのかと考えていたが、子爵令嬢だからこそ、クリストフ王子に対し、それなりの距離を取っていたのだ。


 平民のふりをしていても、子爵令嬢としての矜持は保っていたように思える。一線を越える真似はしない。街を案内したり、食事をしたりと、二人の時間を楽しみながらも、一定の距離は保っていた。貧乏子爵令嬢だということもあり、王子と知らなくとも、高位貴族であろう、クリストフ王子に対して、遠慮はあったのだろう。


 だからというのもなんだが、あの子爵令嬢は、クリストフ王子にぞっこんという感じはなかったかもしれない。クリストフ王子に比べれば、母親が子供を見るような目だった気もする。相手にされていないわけではなかったが、世間知らずの男を愛でているように思えて、陰で見ているこちらは、ひと時のもので終わるのではと期待していた。


 それを考えれば、金目当てだと言われて納得できるだろうか。第一王子の妻となれば、貧乏子爵令嬢の手にできるものは比ではない。

 結局、子爵令嬢は問題を起こし、王妃の直轄とも言える、離宮へ移送された。しばらく頭を冷やせということだが、戻る日は決まっていない。

 クリストフ王子は、そう長く滞在させる気はないようだが。


「そうだな。やはり、手紙を書こう。何か不自由なことはないか。それくらい聞いてもいいはずだ」

 ずっと考えていたらしい。一人で決心して、手紙の用意をさせる。クリストフ王子は、子爵令嬢に反省させる気はないのだろう。


 それでも、今後どうなるだろうか。王妃は婚約に反対している。表向き理解をしている風だが、妙な理屈で婚約者候補という令嬢たちを集めた。

 王から見れば、王子に選択肢を与えているように。王子から見れば、多くから選んだが子爵令嬢しか好まなかったと、王に言えるように。

 実際のところ、王妃には、婚約させたい本命の令嬢がいるのだ。


 クリストフ王子が鼻歌でも歌いそうな顔で、ペンを手にする。それを眺めながら、アーロンはため息を我慢した。




「帰ってくると思う?」

「まさか。帰ってこないわよ。王妃様に目を付けられて、戻ってこられるわけないじゃない。あの時のお怒り、すごかったもの」


 手紙に集中したいからと部屋を追い出されて、アーロンが廊下を歩いていると、メイドたちのさえずりが耳に入ってきた。廊下には誰もいない。外で話しているようだ。


「荷物とか、どうしたわけ? 全部送ったの?」

「王妃様が、盗んだ物もあるから、向こうで用意させるとおっしゃっていたらしいわ。でも、何も送ってないんじゃないかしら。宮から外に出された荷物なんてないもの」

「なんにも送ってないの? 完全に追い出しただけじゃない。絶対に帰ってこないわ」


 なんの話をしているのか、聞くまでもない。ボワロー子爵令嬢の話だ。

 小さな声で話しているつもりだろうが、庭先では上に響く。階上の廊下を歩いていれば、窓からよくその声が聞こえた。廊下は誰も歩いていないが、注意はすべきかと、窓から声を上げようとする。


「だって、王妃様が選んだ婚約者は、あの方だもの。ただ、私、子爵令嬢とお話ししたことあるんだけれど、噂されている人とは少し違う気がしたのよね。やっぱり、ほら、僻みなんかもあったし。宮のメイドに選ばれた他の子たちなんて、すごかったのよ。もう息巻いちゃって。他の候補者の令嬢たちもすごいの。次はどうしてやろうって、宮で話してたのよ」

「仕方ないわよ。王妃様に睨まれたら、誰も文句言えないわ。クリストフ様だって、何も言わないんだもの」

「それよね。結局、クリストフ様に助けを求めても、全然相手にしてもらえないんだもの。かわいそうだわー」


 メイドたちは最後には笑って、その場を去っていく。注意する頃合いを失って、アーロンは言葉を呑み込んだまま、大きく息を吐いた。


「はあ、ああいうのは、耳にしたくないものだな」

 それにしても、聞き捨てならない話をしていた。

 荷物も送っていないとなると、私物すら送られていないことになる。さすがにそれはやりすぎではないだろうか。


 ボワロー子爵令嬢は、貿易商からの帰宅途中、ごろつきから王子を守り、見初められた。これは知られていないが、正義感のある女性だ。令嬢が一人、夕方とはいえ暗くなる時間まで働いていたことだけが噂になっているが、そんな時間でも一人で働き、あまつさえごろつきを前に、物怖じしない度胸のある女性でもある。


 盗みを働いたことも、どうにも釈然としなかった。街で拾った子爵令嬢だ。そんなこともあるかもしれない。そう思い直していたが。


「念のため、確認しておくか」




 クリストフ王子がボワロー子爵令嬢に会う部屋は、いつも宮の客間だ。部屋に直接行くわけではないので、入ったことはない。だから、部屋の場所がわからなかった。


「アーロン様? あの、こちらに何かありましたか?」

「令嬢の部屋は、どこだっただろうか」


 ちょうどよくメイドが声をかけてくれた。ボワロー子爵令嬢の部屋がどこか聞くと、なぜかそのメイドは、一瞬肩を震わせた。

 強張った顔が気になる。この宮にいるのならば、部屋がどこかくらい知っているだろう。

 なのに、黙ったまま、顔を青ざめさせた。


「何をしている。案内をしてくれ」

「は、はい」


 メイドは怯えるような返事をして、歩き出した。何を気にしているのか、視線が泳いでいる。後ろからついていってもわかるほど、挙動不審だ。


「令嬢には、荷物もなにも送っていないと聞いたが、本当か?」

「そ、それは。わ、私は存じ上げません」


 明らかに動揺した態度。メイドは質問を受けたくないのか、歩く足を早めた。しかし、扉の前に来ると、本当に入るのかと問うてくる。

 なにを言っているのか。しかも、鍵がないと言って、逃げるように行ってしまう。


「なんなんだ?」

 ボワロー子爵令嬢の部屋の前で立ち尽くして、メイドを待つ。

 だが、待てど暮らせど戻ってこない。

「なんなんだ!?」


 腹が立って、部屋の扉に手をかける。鍵はかかっておらず、簡単に開いた。鍵などかかっていないではないか。そう思い、部屋に入る。

 王子の婚約者に相応しい、美しい部屋。豪華な装飾に、高価な調度品。部屋は明るく、綺麗に掃除もされている。ここを使用していれば、そこまで不満はないだろう。


 けれど、どこか違和感があった。

 なにがおかしいのだろうか。扉の前でぐるりと部屋を見回す。整理され、埃一つない部屋だ。

「いや、なにもおかしいところはないか」


 あのメイドは、一体何に怯えていたのだろう。

 不思議に思って、踵を返そうとした時、別のメイドが通りかかった。

「アーロン様、その部屋に、なにかご用でしょうか?」


 おかっぱ髪のメイドは、確かシェリーという名前で、大人しく、他のメイドたちに仕事を押し付けられていたのを見かけたことがある。そういえば、彼女もボワロー子爵令嬢のメイドに選ばれていたのだ。反論しないので、使い勝手が良かったのだろう。


「令嬢の荷物が送られていないと聞いて、部屋に来たのだが、」

 言って、気付いた。部屋をもう一度見回す。なにか違和感があると思ったのだ。


 この部屋には、クリストフ王子が贈った物が、一切ない。ドレスやアクセサリーなどの装飾品ばかりを、クリストフ王子が贈っていたわけではない。彼女が過ごしやすいように、暇を持て余したりしないようにと、学ぶことが好きな子爵令嬢のために、多くの物を贈っていた。


 貿易商で働いていただけあって、ボワロー子爵令嬢は地理や経済学を好んでいた。領土や他国について語っていたことを思い出し、クリストフ王子は地図を贈ったり、冒険記録などの本も贈ったりした。まるで海軍の指揮官へ贈るように、望遠鏡や言語の本、使えもしない魔法の書なども贈っていたのだ。


 それらが、一切置いていない。


 ボワロー子爵令嬢の部屋に行ったことはない。クリストフ王子は令嬢に宮を与え、客間で会っていた。宮に訪れる回数はそこまで多くなかったが、クリストフ王子はよく気にして足を伸ばしていた。

 婚約とはいえ、まだ正式ではなく、候補だからと、令嬢の部屋には近付かなかった。部屋に行く必要はなく、客間で会うのが礼儀だと、王妃に注意されて。


「ここは、本当に令嬢の部屋なのか?」

 シェリーは先ほどのメイドと同じく、体を強張らせた。

 どういうことなのかと問えば、シェリーは周囲を確認して、アーロンを促す。


「どうぞ、こちらに」

 誰もいないか、確認するように、階段を見上げて登っていく。そうして、辿り着いたのは、屋根裏部屋のような、およそ子爵令嬢が来るような場所ではない、最上階だった。

 汚れた板の廊下に、今にも壊れそうな、ボロボロの扉。それを開けば、そこはまるで、使用人の部屋のようだった。

 いや、それ以下だ。


「ここが、ラシェル様の部屋になります」

「どうなっている。ここが!?」


 部屋に入れば、ベッドと机と椅子だけで、それ以外になにもない。歩く隙間もないような、小さな部屋だ。当然、クリストフ王子からの贈り物など、なにも置いていない。


「どうか、クリストフ様にお知らせください。ボワロー子爵令嬢は、ずっと、この部屋で耐えてきたのです」

 シェリーは涙を堪えながら、静かに訴えた。




 宮は先代の妃、クリストフ王子の祖母が若い頃に住んでいた宮で、調度品は古いが、豪華で美しい宮だ。壁紙やカーテンは新しくなり、華やかな内装になっている。それを、クリストフ王子は喜んで眺めていた。

 それなのに、あの部屋に、ボワロー子爵令嬢が住んでいたと。


 誰の命令で、あの部屋を? 聞かなくとも、想像できる。


 ボワロー子爵令嬢から、クリストフ王子に対し、報告があった。

 まともに食事を得られず、休むこともできない。嫌がらせを受けて、まともな生活も送らせてもらえないと。

 その声に、一度だけクリストフ王子が宮に赴き、状況を確かめに行ったことがある。

 もちろん、そこでなにかが出たわけではない。特におかしなところはない。メイドたちに聞き取りを行えば、令嬢の暴虐無人さを逆に訴えられた。

 王妃もそれを口にして、結果的に令嬢の態度が悪いのだとされた。


 王妃からは、令嬢にクリストフ王子の婚約者に相応しい教育を与えるとし、その教育もなされていたが、努力はしていても、身になるのが少々遅いと言われていた。そんなことも王子は頷き、彼女に会っては、努力を誉めながら、もっと頑張ってほしいと約束をさせていた。

 そうしてそのうち、ボワロー子爵令嬢は何も言わなくなり、王子も気にしなくなったのだ。


 クリストフ王子は気付いていない。ボワロー子爵令嬢が、全てを諦めたことを。




 クリストフ王子に知らせなければ。このような場所で、ボワロー子爵令嬢が嘆いていたと知れば、王子はすぐに彼女を呼び戻すだろう。


 宮を出て、クリストフ王子の部屋へ赴こうとすれば、ふと誰かに呼ばれた。

 先ほどのメイドのように、ギクリと体が強張る。


「お、王妃様」

 不気味な微笑みをたたえ、近付いて来るのは王妃だ。後ろには、先ほど逃げたメイドがついている。鍵を取りに行くフリをして、王妃に伝えに行ったのだ。


「アーロン、クリストフは、まだ気落ちしているかしら」

「は、まだ。少々」

「そう。では、お慰めしないとならないわ。ねえ、あのような令嬢に会わせてしまったのは、誰の責任であると思うのかしら?」


 低い声音に、ぞくりと寒気がする。

 お忍びについていったのは、アーロンと側近の騎士だ。一度ならず何度もその手助けをし、街での逢瀬を手引きした。

 引き止めなかったわけではない。だがそれは、王妃からしたら、ただの言い訳しかならない。


「婚約者候補は他にもいるわ。そうでしょう。アーロン」

 そう言って、王妃は通り過ぎていく。


 ボワロー子爵令嬢は追い出された。王妃によって。

 そして、度重なる嫌がらせを訴えたにもかかわらず、クリストフ王子は子爵令嬢を信じることなく、王妃を信じた。

 クリストフ王子がどれだけボワロー子爵令嬢を想っても、戻ってくれば、嫌がらせは続くだろう。


 ボワロー子爵令嬢にとっては、知り合ったのが不運か。

 あの王妃では、離宮に閉じ込められていた方がましかもしれない。王宮にいれば、何をされるかわからない。


 不憫だ。街で会ったボワロー子爵令嬢は快活で、貧乏だろうが、自ら立ち、苦労しながらも笑顔を絶やさない、不思議な人だった。


 その彼女の光を、失わせることになったのだ。





 馬車を出す時、なにか物々しさを感じた。


 御者として命じられたが、離宮まで走らせたことは一度もない。道は知っているが、一人でそこまで走らせる自信はない。

 まだ見習いで、王族を乗せるほどの腕はない。馬の世話をして馬車の手入れをしているが、そこまでだ。

 だが、今日は、お前が馬車を動かせと命令があったのだ。まだ、新人で、王族を乗せる腕はないのに。


 令嬢を乗せて走らせるなど、とても重要な任務だ。

 ただ、それが王子を騙した子爵令嬢だと知って、納得したのだ。どうりで、自分が御者として選ばれたのかと。

 そうして、古くて使われなくなった馬車を出せば、やってきたのは、冷たい雨の中、傘もささず、コートも羽織っていない令嬢だった。疲れているのかよろよろと歩き、騎士たちに引っ張られて、馬車の中に押し込められた。


「あ、あの、王子様の婚約者さまとか」

「いいから、出せ。さっさとしろ」


 この寒い朝の時間に、ドレスの上に何も羽織っていない。離宮まで距離があり、方角も北になった。北部には公爵領もあるが、この時期はまだ季節的に厳しい場所だ。とてもではないが、その姿では寒さで凍えてしまうだろう。

 しかし、荷物も積まずに、とにかく出せと命令を受ける。

 よほどのことをしたという噂は聞いていたが、これではまるで罪人だ。

 昨夜からみぞれが降り、今は雨が激しく降っている。それなのに、濡れたまま馬車に押し込めたのだから。


「早くしろ! さっさと出せ!」

 紋章も何もない馬車に乗せて、馬車は走り始める。

 なにかがおかしい。気のせいだろうか。令嬢は罰として離宮に運ばれるわけだが、窓も開かないように板を貼り、外側から鍵が閉めてある。ほとんど護送だ。

 護衛なのか、馬に乗った騎士が四人、側について走り続ける。


 都を出て、何もない平原を走り、森に入っては、また平原の道を走っていく。町に寄り、手洗いや食事を済ませたかったが、それすら許されない。森を駆ける途中、自分は手洗いを許されて、木々に隠れて用を足した。

 令嬢は、水も与えられず、中でじっと座っているだけだ。


 彼女を乗せたよな? そんなことを不安に思う程静かで、ずっと馬車の中なのに、泣き声すら聞こえない。気丈な人なのだろうか。普通の男でも、ずっと座っているのはきついだろう。しかも濡れたドレスで、ひどく冷えているのに。


 激しい雨は続いている。


「あの、食事はされないので?」

「この雨で何を食べるというんだ。さっさと行くぞ」


 森の中で休憩中、自分たちは乾燥させた肉を喰み、水を飲んでいるのに、御者にはなにもない。令嬢にもあるわけがない。

 本当に、罪人を乗せているのではないだろうか。




 離宮に行くまでは、日にちがかかる。

 途中夜になり、町に寄って、やっとしっかり休めると安堵したが、令嬢は一人部屋に押し込まれた。メイドも誰もいない。しかも部屋の前に騎士が立ち、逃げないように見張っていた。

 これは、尋常ではない事態ではないだろうか。


「さっさと寝ろ。明日も早く出る」

「しょ、承知しました」


 食堂で食事をして戻れば、騎士に叱咤される。令嬢は食事をしたのだろうか。食堂には降りてきていない。騎士たちが食事を部屋で与えたのだろうか。それすらわからなかった。


「さすがに、食事くらいは与えるだろう」

 しかし、それすらも不安になっていた。次の日の朝、令嬢は同じドレスを着ていたからだ。


 離宮までは遠い。何度も夜を過ごすことになる。その度に、いつも同じドレス。着替えも何も用意していない。その上、食事すらも。


 寒気がした。子爵令嬢と聞いた。王子の婚約者候補だと。それなのに、この扱い。

 ほんとうに、離宮に行くのか?

 だが、進んでいる方向は間違っていない。受け入れる宮があるのは確かだ。

 それでも、拭いようのない不安があった。


 騎士たちは終始無言で、罪人を護送しているかのような警戒心を持っていた。

 それがなおさら、不安を掻き立てた。




「雨がひどいな」

 ここ数日、ずっと雨が降っている。時折霧雨になったり、小雨になったりもしたが、やむことがない。この時期は雨が多いが、こんなに降るのは久し振りだ。春が近く、季節が変わる頃になると、長く雨が降る。その時期とはいえ、長い雨が続いた。


 そうして、それは起こったのだ。


「止まれ」

 あと少しで離宮のある土地へ入る。川を渡り、小山へ入って、もう一走りするだけ。その前に、騎士が馬車を停めた。


「へ、へえ。こんなところで、何を?」

 これから川を渡ろうというところ。高い場所に吊られている橋は、風で揺れ、川は長い雨で濁った水が流れている。

 激しい雨に吊り橋が弱くなっているのだろうか。川幅はそこまで広くはないが、落ちれば一巻の終わりだ。水の少ない頃ならまだしも、今日は長雨で増水もしている。


 足元を見れば震えそうになる。馬も落ち着きなく、足踏みをした。足元から風が吹き、その風に触れるだけで凍えそうになる。雨も大粒で、滑って吊り橋から落ちるのではないかと不安になる程だ。


 騎士の一人が馬を降りて、馬車の扉に手をかけた。

 そうして見えた、鈍い銀色の煌めき。言い争う声。

 何をする気なのか、そう考える前に、上流から、轟音が聞こえた。


「うわっ!」

 馬がいななく。騎士が逃げろと叫ぶ。地響きと共に、轟音が、一瞬で通り過ぎた。


「は、はは。は」

 笑っているのか、泣いているのか、自分でもわからなかった。

 何が起きたのか。上から雨が降ってくる。いや、雨だけではない。雪の混じった泥水や小石が、身体中に降りかかった。

 カタカタと震え、恐怖で手足も動かない。


「ば、馬車が。令嬢が……」

「ち。巻き込まれやがった。あれじゃ、生きてはいないだろう」


 騎士の一人が、馬と共に逃げおおせて、吊り橋に戻ってくる。上流からやってきた急激な出水によって、吊り橋はひどく揺れた。手すりの綱が強風に煽られる。板が風に乗って、バラバラと濁流の中へと落ちていった。

 吊り橋は押し寄せた濁流で、一部が破損した。馬車が、吊り橋から落ちたからだ。騎士と、令嬢と共に。

 自分はなぜか無事だった。上流から見えた黒い影に怯えて、馬車から転がり落ちて、吊り橋にしがみついたからだ。

 間一髪。だが、歯が、カチカチ鳴り始めた。


「なんという。吊り橋で、立ち止まったりしなければ」

 いや、立ち止まった時、騎士はなにをしようとしていたのか。一人が剣を片手に、馬車の中へ入ろうとした。そうして、言い合う声が聞こえ、一気に流出してきた雪と土砂混じりの出水により、近くにいた騎士と、中に入った騎士が、令嬢を乗せた馬車と共に、濁流に呑まれていったのだ。


 馬から降りてきた騎士が、腰の剣に手を伸ばす。


「一緒に流れていけばいいものを」

「ど、どうして」

「ここで、ちょうど事故が起きる予定だったんだ。運が悪かったな」


 剣を振り下ろすわけではなく、剣を持って、こちらを脅す。まるで、飛び込めと言わんばかりに。

 足が動かない。歯がカチカチと鳴り続けるだけ。


「さっさと、落ちろ」


 騎士の足が、腹に入り、吊り橋が遠のくのがわかった。

 どうしてこんな。そう口にする前に、大量の水が口に入り込んだのだ。






「急に暖かくなって、冬も終わりですわね」

 イヴォンネが、朗らかな笑顔を向けて、クリストフとの会話を楽しんでいる。


 晴れた日の午後、イヴォンネを連れて、クリストフとお茶を共にしているが、良い雰囲気に王妃は安堵した。

 ここ数日、長雨で気分も悪かった。

 季節の変わり目の雨も過ぎ、陽気な気候が続いている。わずらわしいことから解放されて、気分も晴れやかになっていくようだ。紅茶の香りを楽しむ余裕ができることに、胸のすく思いがする。


 クリストフはイヴォンネとの会話を楽しんでいるのだから、そのうちクリストフもこれで良かったのだと気付くだろう。

 やっと、落ち着くことができる。あとは、報告を待つだけで。


「王妃様、」

 静々と、侍女の一人が耳打ちしてくる。なにかあったのかと、クリストフとイヴォンネがこちらを見つめた。

 侍女に許可を出せば、やってきたのは、一人の騎士だ。


「ご歓談中、失礼致します」

 汚れた衣服のまま、慌てた様子で騎士が一人、部屋に入ってくる。


「ご報告がございます」

 片膝を床に突き、首を下げ、発言の許可を待っている。汚れた衣服がいかにも急ぎで、緊急の報告のように見せていた。赦しを得れば、話しにくそうに、報告をしはじめる。


「ボワロー子爵令嬢を、離宮に送る途中、吊り橋の上で濁流にのまれ、騎士二名、御者、それから、令嬢を乗せた馬車が、橋の下へ」

 騎士はこれ以上言葉を紡げぬと、最後まで言わず、申し訳ありません。と力ない声を出した。

 沈黙に声を出したのは、クリストフだ。


「なんと、言った?」

「申し訳ありません。突然のことで、どうにもできず。雨の中、下流を探しましたが、馬車も見つけることができず。あの濁流では……、おそらく」

「ラシェルが、なぜ! 一体、お前たちはなにをしていた! 彼女を離宮へ送るだけだったのだろう!? それなのに、どうして!!」


 クリストフは騎士に掴みかかかった。申し訳ないと謝り続ける騎士の前で、愕然とすると、床に崩れ落ちた。


「イヴォンネ、クリストフを部屋に連れていってあげてちょうだい。クリストフ、すぐに捜索隊を出しましょう」

「母上。早く、彼女を、助けなければ」

「わかっています。早めの対処をしましょう。イヴォンネ。クリストフを部屋に」


 イヴォンネは大きく頷いて、力無く項垂れるクリストフに寄り添いながら、部屋へ連れていく。

 信じられないのは無理もない。遠く離れた場所で起きたことだ。そう簡単に行ける場所ではなく、確かめるまでに時間もかかる。


「それで?」

 二人がいなくなったのを見計らい、全ては言わず問うと、騎士は先ほどの焦燥はなく、淡々と話し始める。


「実際に上流より増水した激流に襲われ、馬車とその中にいた令嬢ごと流されました。あの流れの激しさでは、助かることはないでしょう。馬車を落とす手間が省けましたが、仲間二人が呑み込まれました」

「御者は?」

「無事でしたが、そのまま川へ突き落としました。傷を付けては、見つかった場合面倒ですので、流れていっただけですが、生き残ることはないかと。見つかってもひどい状態になるでしょう。流れも激しかったので、公爵領にある海まで流れるかもしれません」

「ならばよい」


 これで終わりだ。王妃は胸を撫で下ろす。

 あの場所を狙うのは、最初から決めていたことだ。高所に繋がった吊り橋で、水量も多い川が流れている。川は公爵領土に入り、最後は海に流れる。海に流れるまでに、馬車はバラバラになるだろう。馬が浮かぶかもしれないが、紋章もない馬車で、中にいたのはみすぼらしいドレスを着た女ひとり。周囲の貴族の娘ではないとわかれば、さほど問題にならない。

 水に流れて、見た目もわからないほどになっているだろう。


「捜索するふりでもして、しばらく帰ってこないでちょうだい。適度に時間を潰して、帰ってくればよい」

「承知しました」

 騎士は首を垂れて部屋を出ていく。静かになった部屋で、王妃は胸の内を隠しきれず、一人微笑んだ。


「あとは、あの子が彼女を選べば良いだけのこと」

 王が面倒な誓約を作るから、こんなことになったのだ。相手は自らが選ぶなどと。その結果、とんでもない女を選んでしまうのだから。


「まったく、運の良いこと。橋を落とすつもりだったのだけれど」

 あの吊り橋の下流は公爵領で、捜索するにも公爵の許可が必要だ。その許可を得る必要もないだろう。


「北部は雪が積もっているのだから、雪崩でも起きれば、川も土砂に襲われるでしょう。雨も長く降っていたのだし」

 ちょうどよく、地盤でも緩んでいたのならば、これほど運の良いことはない。


「幸先の良いこと」

 口端を上げて、小さく笑うと、もう一度ゆっくりと紅茶を楽しんだ。






「どうして、彼女が」

「クリストフ様、どうか、お気を強くなさってください」

「出て行ってくれ」

「クリストフ様」

「一人にしてくれ!!」


 部屋にいる者たち全てを外へ出し、足音が遠ざかる音を聞きながら、クリストフはその場でうずくまった。


 悔やんでも悔やみきれない。


「宝石を盗んだからと、それがなんだと言うのだ」


 もっと宝石を与えてやれば良かったではないか。王子の妻。自分が王になれば、王妃になる人が、高価な宝石を手に入れて、なんの問題がある。


「そんなことでラシェルを追いやって、結果が、これだと?」

 こんなことで、追いやって。


 ラシェルは、街では屈託なく笑っていた。飾り気がなくとも美しく、生き生きとしていた。

 城でその笑顔が少なくなったのに気付いても、手放したくなかった。


 母上の言うことを聞いていたのは、納得してもらいたかったからだ。街で知り合った子爵令嬢など、母上が好むわけがない。自分の相手は自分で決められるが、それでも王妃の協力なくては、王宮で生きていくのは難しい。

 それをよくよく言い聞かせ、どうか我慢して欲しいと言ったのは自分だ。ほとぼりが冷めるまでのこと。宮も与えて、満足いくようにドレスや宝石も多く贈っていた。不慣れな生活で不満も多かっただろう。教育もあり、窮屈だったのは知っている。


 それでも、手放したくなくて、彼女に無理を強いたのだ。

「それなのに、こんな結果に」


 信じたくない。


 ラシェルはいつも笑顔で、危険な夜の街でも、物おじせず、堂々として、悪漢を追い返すほどの勇気と度胸のある人だった。

 そんな彼女が、そう簡単に死ぬなどあってはいけない。


「そうだ。遺体が出たわけではないのだろう。どこかで、生きているかもしれない」


 だから、奇跡が起きてくれと祈りながら、クリストフはアーロンを部屋に呼んだ。

 探せる人間は多い方がいいのだから。




 地図を広げて、アーロンは難しい顔をする。なにを気にしているのか、ラシェルが落ちたとされている川を指差した。


「ここから、公爵領になります。公爵領に入って捜査をするならば、許可が必要かと」

「それくらいわかっている。母上が許可を得ているはずだ。人数が増えるくらい、問題ないだろう」

「公爵家とは、昨今あまり交流がありませんから、確認してみないことには」

「王子の婚約者が行方不明になったんだぞ? 断る理由があるか!?」

「それは、そうですが」


 ラシェルが川から落ちて、すでに何日経っているのか。護衛をしていた騎士たちが数日探し、それから報告に戻ってきたというのだから、あまりに時間が経ち過ぎている。川で助けられていれば、心細く思っているだろう。


「なんでもいい。ラシェルの無事を確かめてくれ!」

「……承知しました」


 アーロンは頷きながらも、さっさと部屋を出ていかず、迷うような態度を見せる。

 公爵領は遠い。行って、公爵に許可を得られるかどうか心配しているのか、動きがやけに鈍い。


「なんだ。他に何かあるのか!?」

 早くしなければ。ラシェルになにかあったら、どうするというのか。

 なにかと考えるのですら、おぞましい。


「ボワロー子爵令嬢の両親は、葬式を出す予定だとか」

 その言葉に熱が上がりそうになった。

「だから、なんだと言う! ラシェルは両親と仲が良いわけではない。ラシェルの心配をしていないだけだ! 彼らが心配しないのならば、誰が心配すると言うんだ! 僕しか、僕が心配しているんだ! いいから、さっさと、ラシェルを助けに行くんだ!!」


 アーロンを追い出すように怒鳴りつけたが、アーロンは何か言いたそうにして、けれど何も言わず、気分が晴れないような、当惑した表情で出ていった。


 最近のアーロンは、いつもあのような顔をしている。いや、アーロンだけではない。同じような顔をして、人を腫物のように扱って、まるでもう良いではないかと言わんばかりに、体を休めろと勧めてくる。


「ラシェルは生きている。簡単に死ぬような人ではない。お前たちは、ラシェルのことを何も知らない」

 彼女は特別なのだ。それがわかっていない。どれだけ特別なのか、すぐに気づくことだろう。

「だから、大丈夫だ。ラシェルが死ぬはずない」

 自分に言い聞かせるように言い続けて、クリストフは頭を抱える。


 ラシェルの物は全て送られて、それすら川に流されてしまったと聞いた。だから、彼女の物は何も残っていない。

「大丈夫だ、必ず帰ってくる。そうしたら、前よりもっとドレスを与えて、宝石を贈って。ラシェルのために、なんでも贈ろう」


 涙を流しながら、泣いているのか笑っているのかわからないような声を出して、クリストフはただただうずくまっていた。

 扉の前に佇む騎士たちが怯えるほどに異様だとは、気づきもしなかったのだ。






 見慣れないマントを羽織った者たちが、敷地内を急ぎ足で歩いていた。どこの騎士なのか、用は済んだらしく、馬に跨り門の方へと走り出す。


「何かあったのかね?」

「もしかしたら、馬車の件じゃないか?」


 一ヶ月ほど前にあったひどい嵐の中、誤って馬車が落ちたのか、下降にある村の側の川で、その残骸が流されてきた。

 遺体もなく、捜索願も出ていなかったので、大きな問題にはならなかったが、その捜索に来たらしい。

 サイラスはふうんと呟いて、荷馬車を動かした。メイドたちが休憩するのを眺めながら、裏口の倉庫に荷物を置く。

 メイドたちも、先ほどの見慣れないマントの騎士たちの噂をしていた。


 一ヶ月も前の事件。吊り橋から落ちた馬車には、王子の婚約者候補が乗っていた。その婚約者候補を探すために、王子の騎士たちが探しているのだ。遺体が見つかってもひどい状態に違いない。それでも探しに来るのだから、それだけ愛していたのだろう。などと、適当な話をしている。


 川に流された婚約者候補は、落ちた後、一ヶ月も気付かなかったのかと、うんざりしていることだろう。

 王宮から公爵領まで距離はあるが、事故があった後、急いで探しにくれば、一ヶ月もかからない。


 子爵令嬢が不憫だよ。


 口には出さず、サイラスは噂話に交じらず、一人洗濯物を洗うメイドを見つめた。噂話をしていたメイドたちが、そのメイドに、汚れた洗濯物を投げつけて、それも洗っておけと命令する。

 新人らしいそのメイドは、頭の上に洗濯物を乗せたまま、洗い場まで足を進めていた。

 いじめに慣れているのか、その割には怯えるような姿はなく、むしろ堂々として、頭の上の洗濯物をたらいに放る。


「大変だねえ。新人さんは」


 メイドはちろりと据えた視線を向けてきた。いじめられるような視線と面ではない。

 メガネをして地味な雰囲気だが、意志の強そうな濃い青紫色の瞳をしていた。長めの前髪で隠しているが、近くで見ればその瞳に釘付けになるだろう。


「王宮から騎士が出たぞ。王子が捜索隊を出したんだ」

 周りに人はいないが、サイラスは小さな声で呟くように言う。


「道中で王妃に狙われるとは思わなかったよ。無事で良かったな」

「むしろ助かったわ。死んだことにできたのだから」

「そんなこと言う令嬢はいないよ。まあ、何かあれば連絡を。金になるなら手伝うよ」


 サイラスは井戸を後にする。一人残されたメイドは、井戸の水を汲み始めた。その姿は随分と慣れていて、あれが子爵令嬢など誰も思わないだろう。


 あのお嬢さんを舐めてかかったのが、王妃の敗因だな。


 ラシェル・ボワロー子爵令嬢。王妃に殺されかけて、この公爵邸に逃げ込んだ。偽名を使用して、メイドとして働いている。

 ラシェルとは貿易商での縁で、住み込みの仕事を探す手伝いをしていた。王子の婚約者候補となり、連絡も途絶えたが、再び住み込みの仕事を探してほしいと連絡がきた。王宮に居続けるのは難しいと判断したのだろう。そのうち王妃に殺されると、予想していたからだ。


 案の定、王妃は、ラシェルを殺そうとしてきた。


 どうやって生き残ったかは聞かないが、その方が良いだろう。王宮で監禁されているような状態で、堂々と町娘の格好をして、サイラスに連絡してきただけではない。馬車ごと川に落ちたと聞いていたのに、なんの傷もなくけろりとした顔で、予定通りメイドとして働くと、公爵領で待機していたサイラスに会いにきたのだから。


 ラシェルは洗濯物を持って、干し場へ歩き出す。


 公爵家でメイドとして働くって、ガラでもなさそうだけれどな。


 謎の子爵令嬢。表舞台に出てこないため、なにができるのかも知られていない。

 街で一人、夜まで働くような令嬢が、只者のはずがないのに。


 間違いなく、魔法は使えるんだろうね。


 王子は人を見る目はあったかもしれないが、彼女を守る気概がなかった。振られて当然だろう。

 これからも彼女は自分の客だ。そう思いながら、サイラスはその場を後にした。





『橋から落ちた死体を探して、王子はどうするのかねえ。死体を持って帰って、王族の墓にでも入れてくれるのかねえ?』

「王妃に掘り起こされて、川に捨てられるまで、想像できるわ」

『それもそうだね』

 軽い返事が届いて、ラシェルは肩をすくめる。


『二人くらい橋に残ってたかねえ。急いでたから、遠慮しなかったけど』


 突然上流から水が流れ、吊り橋の上にあった馬車に直撃した。連日の雨で、あれだけの水が流れてもおかしくなかったかもしれないが、ちょうど良く、激流が起きるわけもない。


 暗殺者に謝る気はないが、こちらも命がかかっていたので、手加減はできなかった。


 クリストフには教えていなかった、ラシェルの能力。

 水の精霊と契約していることを、伝えたことはない。


 街中で夜一人うろついているのを不思議に思わないのだから、気付くはずがないのだ。


 だから王妃も、ラシェルが川に落ちたことに、疑問を持つことはない。

 ちょうど川が流れている場所でよかった。魔力も少なく水を操れたのだから。

 水が少なければ魔力を多く使うことになる。騎士の中に精霊使いはいなかったため気付かれることはないだろうが、魔力の残滓があっては調査の時に気付かれる可能性があった。


 さすがに一ヶ月経って調べたところで、何も出ない。


「トビアのおかげだわ」

『当然だよ。僕は水の精霊だからね! 近くに水があれば、無敵だもん!』


 精霊トビアのおかげで馬車から逃げられた。その前から王宮を去ろうとはしていたが、王妃によって流刑の身になった。途中で殺しにくるとは思わなかったが。


 おかげで、死んだことにして公爵邸に逃げられたのだし、むしろ感謝すべきかもしれない。


 逃亡を企てたのは、少し前に遡る。

 クリストフの婚約者候補として王宮に入ってから受けた嫌がらせは、数えきれないほどだった。

 王宮は王妃の思う通り動く場所で、それにクリストフは気付いていない。しかし、音を上げずに過ごせば、嫌がらせはエスカレートするばかり。


 ラシェルも耐えてばかりではなかった。メイドたちの愚行をクリストフに知らせていたが、クリストフは調査をすると言って、証拠を掴めなかった。王妃が隠匿したからだ。王妃が否定すれば、クリストフはそれを信じ、ラシェルの言葉を信じない。


 ラシェルは高価な物を望んだことなどなかったが、王妃たちがクリストフに嘘を伝え続けていた。ラシェルが高価な物をねだってばかりだと思い込んでいる。言葉では必要ないと言っていても、本心はそうではないのだと、言いくるめられていたのだ。


 クリストフはラシェルのことを、信じようとも思っていない。

 クリストフは、無意識にラシェルを見下していることも分かっていない。


 貧乏子爵令嬢ならば、高価な物に憧れるものだと、当然に思っている。欲しい物を手に入れられないのならば、盗んでも仕方がない身分なのだと考えている。市井の者には盗みを犯すものがいるからだ。

 クリストフがラシェルをどう思っているのか、どう見ているのか、よく分かった。


(一人だけ、助けてくれたメイドがいたから、それだけが幸いね)


 城の中については彼女に聞いた。食料を持ってきてくれたりしたが、王妃に見付かれば大変なことになる。だから、どんな造りになっているのか、どこに食料が保管されているかを聞いた。

 彼女のおかげで、それなりに情報は得ることができた。だから外に出て、街で働いていた時の店で、何でも屋のサイラスに仕事を紹介してもらい、もしもの時は名を変えてどこかで働けるように依頼しておいた。

 そのうち、王妃によって修道院送りにでもされると、心配していたからだ。


 どれだけの間、ラシェルが苦しんでいたのか、クリストフにはわからないだろう。


 婚約者として王宮に連れてこられて混乱していても、大丈夫だというだけで、何もしてくれない。

 人の言葉を信じず、王妃や他の女性たちの話は信じる。初めは耐えようと思ったが、耐えても未来があるように思えなくなっていった。


 それなりの情はあったから、頑張ろうと思ったが、クリストフが信じてくれないならば、頑張ることなどできない。


 そうして起こった盗難事件。クリストフはラシェルが盗みをしたと信じ、ラシェルの言葉など一切信じようとしなかった。王妃の言うことを鵜呑みにし、現実を見ようともしない。頑なにクリストフはラシェルの味方をしてくれない。

 クリストフは気付いていないから。それならば仕方ないのだろうか?


 ラシェルは何度もクリストフに訴え、王妃たちの虚言を否定し続けていた。けれど、ラシェルよりも王妃を優先し、王妃の言う通りにし続けた。


 その結果がこれだ。


 だが、これでもう、ラシェルは自由になった。


 ラシェルは、もう会うことのない男との思い出を、濁流と共に流し終えたのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] ・ヒロインが王宮〜馬車とずっと密室の中で使用人?女官?や王子側近の目線で話が進んでいくのが面白かった ・登場人物の中で一番むかつく糞ボン王子に何もザマァがなかったのは残念 ・最近の流行なの…
[気になる点] あまりにひどく理不尽な流れが解消されることもなく最後まで続き、驚いて他の作品確認してみたら、うは 度しがたい屑男ですら可愛いポンコツと愛してしまう作者様のことだから、このクズ王子にも事…
[気になる点] ゴミ王子がヒロインと離れ離れになったからざまぁ?扱いなんでしょうけど、それ以前に色々と不完全燃焼でいっそざまぁなしのタグ付けた方が潔くてよかった。 [一言] ゴミみたいな王妃親子をこ…
2024/05/03 13:30 退会済み
管理
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ