砦の少年(1)
少年が"ベンツォードの奴隷"となってから数ヶ月が過ぎた頃、一台の貴族用馬車が砦に到着した。
降りたのは2人の男女。
どちらも見た目がとても若く、恐らく年齢は12、3才と少年と変わらないほどだった。
1人はアッシュ・アンスアイゼン。
美しい金色の髪に白を基調とした貴族服を着た背の高い少年。
もう1人はエヴリン・ルザール。
長く伸びた黒髪を片側の肩に流し、上品な白いドレスの上に黒の毛皮のコートを羽織った少女だった。
気にならない……といったら嘘になる。
少年にとって2人は同年代だ。
特にエヴリンにいたってはとても可愛らしい容姿で興味が湧いた。
アッシュとエヴリンが来てから、なぜか少年も騎士たちの訓練に参加させられることになる。
少年としてはエヴリンと一緒にいれることに、喜びを感じたが、彼女は目も合わせてはくれない。
それはアッシュも然りで、まるで少年は全く存在していないかのように2人は生活していた。
そんな中、2人が砦に来て数ヶ月経った頃、少年が彼らに認識される決定的な出来事が起こる。
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ある日の昼下がり。
少しだけ雪の降る砦の中庭にいつも通り集まった騎士たち。
その一番の後方にアッシュ、エヴリン、少年の3人が並ぶ。
アッシュは白い拳法着のような服を着用し、上にグレーのコートを防寒着として羽織る。
エヴリンは長い黒髪を後ろの高い位置で結い、白いワイシャツにブラウンのパンツを穿く。
防寒着として黒いコートを着ていた。
あれから少年もボロボロの服から上等な布服になっていた。
……と言っても"奴隷"という立場は変わらないので、服はこれしか持っていない。
騎士たちが集まり並ぶ中、ザイナス・ルザールが皆の前に向かい合って立つ。
「今日は一対一の模擬演習をおこなう。"アッシュ"と"ベン"は前へ」
"ベン"というのは少年のあだ名だ。
"ベンツォードの奴隷"、これを略しに略してベンと呼ばれていた。
大人の騎士たちを掻き分けて少年は前に出る。
アッシュは羽織った防寒着を脱いでエヴリンに預けると無表情のまま続いた。
その際、騎士たちが隣同士でヒソヒソと話しているのが聞こえてきた。
「ついにきたか……」
「これは見ものだな」
「果たしてどうなるものやら」
2人の若者には、このやり取りの意味はわからなかった。
ただ、どちらも釈然としない顔つきで中央へと向かう。
なにせ少年にとっては相手は貴族、アッシュにとっては相手は平民の奴隷だ。
それだけではない。
少年はしっかりとした剣術の稽古をしているわけでなく、逆にアッシュは物心ついた頃からそれをおこなっている。
2人の実力差は歴然であったのだ。
5メートルほど離れて向かい合う2人の真ん中に、少しだけずれてザイナスが立つ。
「波動は使用禁止。先に片膝をついた方が負けだ」
お互いの顔を見て言った。
波動使用禁止といっても、どうせまともに使えたこともないのだから考えもしなかった。
少年だけが頷くと、どちらも棒剣を前に構える。
ここで初めて少年は間近でアッシュの姿を見た。
少年は驚愕することになる。
彼から放たれる闘気は今まで出会ってきた誰よりも多く、天を貫くほどだったからだ。
恐らくこのベンツォードにいる、どの騎士よりも強い。
息を呑む少年に構う事なく、ザイナスは合図を下して演習は開始される。
瞬間、アッシュの闘気が揺れた。
そして少しの時間差があってから動く。
凄まじいほど放たれる闘気が逆にアッシュの行動をハッキリさせていた。
"踏み込み横切り"、"縦切り"、"突き"の三段構えの攻撃だ。
少年は上体を後ろへと傾けて横切りを回避。
そのまま縦切りを上段ガードで受けて、相手が棒剣を引いたところでバックステップする。
するとアッシュの突き攻撃が空を切った。
闘気の揺れは収まらず、アッシュの連撃は続くが、少年には擦りもしない。
「どうなってる……?」
焦った様子のアッシュが呟くように言った。
凄まじいスピードで繰り返される攻撃は大人顔負けであったが、少年には全く当たらなかった。
そしてアッシュが横に大振りになった時を狙って、少年はたった一撃、振り上げた棒剣を勢いよく下ろして相手の肩に当てた。
「ぐっ!!」
悲痛な表情でアッシュは片膝をつく。
ザイナスは"そこまで"と言い放つと、2人に対して列の後ろに戻るように促した。
少年の心臓は興奮で高鳴っていた。
初めての演習であったが、上手くできた気がする。
一方、痛みで肩を押さえたアッシュは横目で少年を睨んでいた。
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豪雪の日、あまりにも天候が悪いため訓練が中止となって休みになった。
そうは言っても奴隷である少年に休みなんてあるはずもなく、日課である清掃は朝から始まった。
眠気眼を擦りながら螺旋になった石階段を下りて一階の玄関ホールに辿り着くと、そこにはアッシュがいた。
まともに話したこともなかったため、少しだけ会釈してから、それからは無視して清掃に取り掛かる。
そんな少年の背に向かってアッシュは口を開いた。
「君、強いよね。どこの生まれかな?」
突然のことに驚いて振り返る少年。
アッシュの表情は思いの外、優しいものだった。
「わからない。気づいたらここにいた」
「へー。興味深いね。私のことやエヴリンのことは気にならないかい?」
「気になるさ。でも貴族は俺には興味ないと思ってたけど」
「最近までそうだった。あの演習の時から色々と考えてたよ。君のことをね」
少年は眉を顰めた。
貴族と平民の間柄など決まっているようなものだ。
貴族は決して平民には干渉することはしない。
もし、この前の件で興味が湧いたというのであれば、それは"いい意味"では決して無いだろうと少年は考えていた。
「もし君さえよければ、もう一度、この前の続きをやりたいのだけど……どうかな?」
「この前の続き?」
「演習の続きさ」
「まぁ……いいけど」
「決まりだね。今日の夕刻、砦から少し北へ行ったところに山になったところがあるから、そこでやろう」
「砦の中じゃなくてか?」
「ああ。だって非公式で戦うんだから、ザイナス団長に見つかったら二人で怒られちゃうだろ?」
「確かに」
ザイナスは落ち着いた雰囲気のようで、かなり厳しい性格だ。
大抵のことは見て見ぬフリをしているが、問題を起こせば部下であっても数日間は牢屋に入れられる。
「じゃあ、また後で」
「ああ」
アッシュは気さくに手を振って石階段を上って自室へと戻っていくようだ。
少年は胸を撫で下ろしていた。
平民が貴族に勝ってしまうというのは、さすがに相手のプライドを傷つける。
それはここに住むようになってから、ようやくわかるようになった感情だ。
演習の一件はアッシュにとって間違いなく屈辱的な出来事だったろう。
「案外、大人なのかもな」
少年の口元は自然に緩んだ。
これをきっかけにしてエヴリンともお近づきになれるのであれば勝ってよかったというもの。
そう思いつつ少年は大急ぎで砦内の清掃を終わらせると、身支度を整えて砦を出て北へと向かう。
夕刻近くになると降る雪も弱まり、視界がひらける。
これならアッシュの闘気もしっかり見えるため、まず負けることはないだろう。
少年はアッシュの言っていた小さく雪山になった場所なら辿り着いた。
そこは砦が小さく見えるほど遠くにあった。
「……」
日が沈み始めて、夕刻近くになる。
そんな中で少年は静かにアッシュを待つ。
しかし……どんなに待ってもアッシュは少年の前に現れることはなかった。




