ベンツォードの奴隷
ベンツォード砦
10年ほど前
その日は珍しくあまり雪は降っていなかった。
かと言って真昼間であっても日差しがあるわけでもない。
土地柄なのか厚い雲が常に空に張り付き、それが陽の光を遮っていた。
砦の中庭には、騎士たちが決して大きくはない人の輪を作る。
輪の中にいるのは2人。
"体格のいい男の騎士"と"黒髪に少しだけ銀が混ざったボロボロの布の服を着た少年"だった。
「どうなってやがる……」
体格のいい男は息が上がり、額から流れる汗を腕で拭っていた。
向かい合う少年は涼しい顔をして立っている。
少年から出された"賭け"の申し出によって今の状況があった。
それは"自分に触れられなかったら釈放しろ"というものだ。
騎士たちは北では数少ない娯楽だと思ったに違いない。
これによって貴族としての自分たちのプライドを傷つけてしまうことになるとは思ってもみなかった。
「なんで誰も触れられないんだ?」
「どうなってる……波動を使っているのか?」
「波動でそんなことできないだろ」
1人また1人と兵士たちは挑戦するが、この少年には触れることができない。
そこに人の輪を掻き分けて入る男がいた。
振り向き様に男を見た騎士たちは姿勢を正して道を作る。
それは白髪の初老でシワが目立つ、白いローブのような服の上に軽装の鎧を羽織った男だった。
「なかなか面白そうなことをしてるじゃないか」
白髪の男が言い放つと、騎士たちは顔を強張らせる。
独特の雰囲気を漂わせる男であったが少年には関係のない話だ。
「次はあんたが俺の相手?ジジイじゃないか」
この少年の発言に騎士の1人が激昂した。
「貴様!!ザイナス団長に向かって、なんて口の聞き方を!!」
怒鳴る騎士の声が中庭に響き渡るが、少年は表情を全く崩さない。
冷静に鋭い視線を"ザイナス"と呼ばれた男へと向けていた。
ザイナスは少しだけ手を上げて怒る兵士たちを止める。
「どんな賭けをしたかは聞いてる。だが、それでは些かつまらない気がするから、私から賭けを申し出てもいいかな?」
「は?どういう意味だよ」
「もし私が君に触れることができなければ、私の全財産をやろう。そうだな……大体、人生四、五回分は遊んで暮らせるほどの額だ」
あまりにも唐突な言葉に唖然とする兵士たち。
貴族の全財産……いや、第三騎士団長の全財産となれば確かにそれほどだろう。
だが、そんなものはお構いなしを言わんばかりに少年は冷静に言い放つ。
「俺は何を賭けるんだ?」
この発言に"フッ"と笑みをこぼしてザイナスは口を開いた。
「私が君に触れる事がでたなら、この砦で永遠に奴隷として働いてもらう。どうかな?」
「いいぜ」
「ほう。考えなくていいか?もしかすれば君はここで死ぬことになるんだぞ」
「別に何も考えることなんてない。俺は勝ってあんたの全財産をもらって帰る。それだけだ」
ザイナスは少年の言葉に満足げに頷いた。
「では決まりだな。ルールは"触れられるかどうか"……だけでいいかな?」
「どういう意味だ?」
「追加はあるかどうかと聞いている」
「そんなのは無い」
「結構。では始めるとしよう」
そう言うとザイナスは兵士に下がるように促し、なぜか狭かった輪を広げようとしているようだ。
ザイナスは誰の目から見ても老体だ。
これでは少年の独壇場、逃げ放題となってしまう。
見かねた少年はため息混じりに言い放つ。
「いいのかよ、こんなに広げて」
「大丈夫さ。ただし、この距離から始めさせてもらうよ」
ザイナスと少年の距離は2メートル弱といったところだった。
ここからは始まりの合図などはない。
ただ2人はこの距離を保ったまま全く動かない状況が数秒、数分と続いた。
周りで見守る兵士たちは息を呑む。
ザイナス・ルザールという男は第一騎士団長から最も信頼の厚いというのは皆が知るところだ。
部隊を指揮させれば、どんな弱くても高水準の成果を出すという。
少年はザイナスから目を離そうとはしなかった。
先ほどまではリラックスしていたが、少しづつ体の重心を落として素早く動ける体勢を作っていく。
一方、ザイナスは全く体を動かすことなく、その場に立っていた。
そして"ある奇妙"なことをした。
ザイナスは少年に向けた視線を眼球だけ動かして、ゆっくりと横に逸らした。
少年はハッとして自分も同じ仕草をした。
目を動かして横を見てしまった。
しかし、そこに何もない。
ただ数十メートル離れた場所に兵士たちが固唾を飲んで立っているだけだ。
その光景を見た少年は眉を顰めてザイナスへと視線を戻した瞬間、ザッという音が聞こえる。
砂が目に入ったようで塞がざる終えなかった。
ザイナスは地面を蹴って砂を巻き上げて少年の顔に浴びせたのだ。
少年は急いで目を擦ってから正面を見た時、目の前にいたザイナスに肩を優しく叩かれていた。
「私の勝ちだな。とりあえず砦内の清掃からやってもらおうか。私の部屋は最後でいい」
「なんだよこれ!!卑怯じゃないか!!」
ずっと冷静だった少年は取り乱して叫んだ。
だがザイナスは逆に冷静に言い放つ。
「なぜだ?ルールには目潰しをしてはいけないなどというものは無かった。だから卑怯でもなんでもないんだよ」
「そんな……」
「それに"君の能力"に私が勝つにはこれしかない。ルールを追加しなかった時点で私の勝ちは決まっていたのだよ」
「能力ってなんだ?」
「自分でも気づいていないのか。まぁ確かに君のような年齢で"闘気"が見える者など私も見た事がない。まぁとにかく君は今日から"ベンツォードの奴隷"となったわけだから、ここでしっかりと働いてくれ。働いた分は食わせてやるさ」
ザイナスは笑みを浮かべて言うと、脱力する少年に背を向けて砦の方へと戻っていく。
そのまま中庭まで一緒に来た騎士に近づくと、皆に聞こえないほどの声で言った。
「彼を頼む。十年……いや、百年に一度の逸材だ」
「ご、ご冗談でしょ?」
「冗談などではない。私は彼を騎士にする」
「平民をですか!?しかも見たところ孤児のようですが……」
「"平民"、"孤児"というものが気になるのであれば私が養子として迎え入れるよ」
「そこまでされるおつもりとは……」
ベンツォードにいる騎士達を見てもため息ばかりしていたザイナスが、たった1人の平民で孤児の少年に肩入れするとは思いもよらなかった。
「これからどうするおつもりですか?」
「もうすぐアンスアイゼン家の長兄が私に弟子入りに来る。二人を競わせて私の後継者を決めるのさ。あわよくば、どちらかを私の娘と結婚させたいね」
ザイナスがニヤリと笑って言い放つと1人で自分の書斎へと戻って行った。
これを聞いた騎士は、このことを黙ってられずに同僚に話すと瞬く間に噂はベンツォード内に広がることになる。
中庭で唖然として佇む少年はまだこの重大な出来事を知らずにいた。




