第七話
軟式野球の県大会1回戦。
前回同様、俺達のベンチには、野球部に馴染みのない教師が1人居る。
これまで一度も、練習を見に来た事も、指導した事もない教師が監督面をして。
この県大会だけは、今までの町や郡の大会と異なり、学校単位で出場する場合、部外者の指導員は監督としてみなされない。
なので、学校が教師の中から決めた名ばかりの顧問が、大きな顔をしてベンチに居座っている。
おまけに、ただ居座っているだけなら良いのだが、選手をろくに把握してすらいないのに、スタメンに口を出してくる。
前回、ずっと4番だった俺は、足が速いというただそれだけの理由で1番にされ、背の低い相手投手から四球を連発された挙句、まともにバットを振れないまま、4打席全て1塁に歩かされた。
結果、0対2で迎えた9回、ノーアウト満塁で打席に立った代わりの4番がゲッツーになり、俺の野球人生が終わってしまったのだ(中高は理由があって陸上部)。
その俄か監督が、普段は1番か5番を打っていた彼を4番に据えたのも、単に指導者の1人の息子だったからに過ぎない。
一応、彼なりに気を遣ったのだろう。
四球で塁に出る度、4回も走らされた俺は、良い迷惑だったが(スライディングなど誰も教えてくれなかったから、全力で走って、足がベースから離れないようにするのがかなり大変だった)。
今回も、やはりその教師は俺を1番に据えた。
ただ今回は、やり直し前と違って俺も精一杯の努力をし、掌を肉刺だらけにしながら結果を残してきたので、その指示を聞いた他の皆が驚いた顔をする。
ベンチ内に一瞬不穏な空気が流れたが、予期していた俺が『はい』と元気よく返事をしたので、どうにか収まる。
そして俺は今回、ある決断をしていた。
前回は、ボール球には一切手を出さなかった。
打てそうな球もあったのだが、塁に出る事を優先した。
だが今回は、打てる球は全て打つ。
どうせ四球で塁に出ても、前回通りに進むのなら、9回まで誰も俺を返せないのだ。
バッターボックスに立ち、堂々と構える。
案の定、背の低い投手が投げる球は、俺には低過ぎるのだが、少しだけ高めにきたボール球をフルスイングする。
重くも感じなかったその球は、ピンポン玉のように、レフトスタンドのフェンスを超えて飛んで行った。
一瞬の静寂の後、味方のベンチから大歓声が沸き起こる。
俺はゆっくりと走り出しながら、今回の勝利を確信するのだった。
1回戦の試合結果は、3対2で俺達が勝った。
俺は2打席目もライトスタンドにホームランを放ち、あとの2打席は歩かされた。
点を取られたのは、俄か監督が俺にずっとファーストを守らせたからだ。
翌日の地元新聞には、スポーツ面に『怪童現る』とかいう大袈裟な見出しで俺の写真が小さく載り、西本が大喜びで切り抜きを保存していた。
2回戦も、俺は1番打者だった。
俄か監督曰く、『打順が1番多く回ってくるから』だそうだ。
まあ、確かにそれはそうだね。
でもランナーが溜まっていないから、折角ホームランを打っても1点にしかならない。
勝負して貰えた2打席目までは、相手投手の身長が高く、高めにボールが集まる事もあって、やはり2打席連続ホームラン。
その後はずっと歩かされた。
2対1で何とか勝ち、3回戦で敗退。
結局俺はこの大会で一度も投げる事はなく、3回戦では全打席敬遠された。
これで俺の野球は終了したが、前回と異なり、悔いはない。
指の皮が何度も剝け、掌にはゴツゴツした肉刺がある。
それは俺が、精一杯バットを振ってきた証。
試合の結果ではなく、己の努力に満足がいく。
試合後に、車で1時間以上かけて学校に戻り、現地で解散すると、予め大体の時間を伝えていたからか、校門近くの場所で、西本が座って待っていた。
「・・残念だったね」
俺から話を聴き、一度もバットを振れなかった事に、そう言ってくれる。
「家まで送って」
そう言いながら、並んで、俺の右手を摑もうとしてくる彼女の左手を、咄嗟に僅かに避ける。
「・・嫌なの?」
「・・僕の掌は、ゴツゴツしてて固いから。
きっと君には気持ち良くない」
「馬鹿。
それが良いんじゃない。
一生懸命頑張った、男の子の手だもん」
再度、今度はやや強引に手を繋いでくる。
俺は涙を堪えながら、『そういえば、初めて彼女と手を繋いだな』と、心の中で喜んでいた。
「じゃあ、あとは宜しくね。
明日の15時くらいには帰ってくるから。
冷蔵庫の中の物は、何でも好きに食べて良いわよ」
玄関先まで見送りに出た俺達2人にそう言って、西本の母親がドアを閉める。
一足先に新幹線で向かった旦那さんと、現地で合流するそうだ。
これから約1日、西本の家で、彼女と2人だけの生活が始まる。
「とりあえず、アイスでも食べようか」
隣にいた西本が、そう告げて奥へと戻って行く。
「何が良い?」
大きな冷蔵庫の、これまた大きな冷凍室を開けて、アイスが沢山入っている中から選ばせてくれる。
「できれば、うまか棒で」
「これ美味しいよね。
色んな味が出てるし」
バナナ味の物を渡してくれながら、自分はレディボーデンの、大きな筒状の物を取る。
「これをこのまま食べるのが好きなんだ」
そう言って、スプーンで少しずつほじくりながら食べ始める。
学校給食での彼女を見る限り、食べ方が上品だなと感じていたが、家ではそうでもないらしい。
アイスが僅かに付着した、その口元をじっと見ていたら、『欲しいの?』と尋ねられる。
「あとで少し貰えるかな?」
「じゃあ、はい」
彼女が食べようとしていた大きな塊を、スプーンごとこちらの口に向けてくる。
一瞬だけ躊躇ったが、彼女が気にしていないようなので、有難く頂く。
「あなたのも少し頂戴」
そう言って、俺のうまか棒を齧る彼女。
齧られた付け根の部分、チョコレートコーティングしてあるその場所が、彼女の唾液で少し光っている。
俺はそれを、僅かに赤くなりながら、そっと口に含んだ。
「夕食は外に食べに行く?
お母さんが、その分のお金を置いていったから」
「何処か行きたいお店があるの?」
「ううん、別に。
でも私はまだ、お米しか研いだ事ないし」
相変わらず、料理は母親任せらしい。
俺は冷蔵庫のチルド室と野菜室を見て、それから戸棚にパスタの麺があるのを確認する。
「君さえ良ければ、僕がパスタを作ろうか?」
「うん!
それが良い」
にっこり笑う西本。
彼女には、パスタを茹でる時間(蓋をして火を止めるから15分)を見ていて貰って、その間に俺は、ピーマンと茄子、椎茸、鶏肉を薄く切り分け、白ワインとオリーブオイル、塩、胡椒、レモンで味付けした具を用意する。
最後に、茹で上がった麺を、フライパンの具の上に載せてよくかき混ぜながら、焦がさぬように少し加熱する。
トングを使って盛り付けている間、彼女が冷蔵庫から果物ジュースのパックを取り出し、2つのコップに注ぐ。
「いただきます」
お互いに向かい合ってテーブルに着き、彼女が早速食べ始める。
「うーん、美味しい」
西本の、満足そうな声を聞きながら、俺も食べ始めた。
「お風呂、先に入って良いよ?」
湯の溜まった浴室から出て来た西本が、夕食に使った鍋や皿などを洗っていた俺にそう告げる。
「いや、僕はこれを片付けるから後で良い。
君が先に入りなよ」
「お皿洗ってくれたんだね。
ありがとう」
「君のお母さんが帰って来た時、きっと疲れているだろうしさ」
「あなたがお風呂に入っている間に、私がするつもりだったの。
何もかも任せちゃって御免ね」
「気にしないでくれ。
こっちは泊めて貰ってる身なんだから」
「それを言ったら、こちらはお留守番を頼んでいる身よ。
・・一緒に入る?」
「え!?」
危うく、洗っていた鍋を落としそうになる。
「う・そ」
笑いながら、彼女は着替えを取りに2階の自室に向かった。
「勘弁してくれ。
只でさえ想像しないようにしてるのに・・」
小声で、そう愚痴る俺だった。
「そろそろ寝る?」
テレビを見ていた西本が、時計に目を遣り、そう口にする。
「そうだね。
もう(夜の)10時過ぎだし・・」
「本当に客間で良いの?
私の部屋に布団を敷いても良いよ?」
「幾ら子供でも、異性でそれは不味いと思う。
僕達以外、他に誰もいないんだから」
「小学生の間なら、ぎりぎり許されるんじゃない?
これを逃したら、『きっと暫く』機会がなくなるよ?」
「仕方ないよ。
君のご両親がいない時にそんな事をしていたら、僕は彼らの信頼に背く事になってしまう」
「はいはい。
クラス会長さんは、相変わらず真面目ですね」
「むっ、馬鹿にすると、洗濯までしちゃうからな?
君の下着も混ざっているから、洗わないでいるのに・・」
「別にそのくらい、『あなたなら』見られても平気よ?
汚れてる訳じゃないし」
「そうか。
さすがにもう、猫さんのプリントされたパンツは穿いてないんだね」
「何でそんな昔の事を知ってるの!?」
「僕は、少し前まで君のお隣さんだったんだよ?
庭で洗濯物を干してる時、君の母親も、よく同じ事をしていたんだ。
君はまだ小さな子供だったし、彼女は、君の下着だけは外に干してたよ?」
「~ッ。
今は違うわよ!?
お母さんが買ってくれた、少し大人っぽい下着なんだから!」
「だからわざわざ教えなくて良いって。
・・おやすみ」
「おやすみ」
部屋の明かりを消して、ベッドに入る。
今日は1日、空回りしてばかりだった。
もっと落ち着いて、さりげなく側に居ようと考えていたのに、彼と2人きりで家に居ると思ったら、ついはしゃいでしまった。
呆れられていないと良いけど。
2年生で初めて彼に会った時、随分大人だなと感じた事を覚えている。
私なんかと違って、挨拶もしっかりしていたし、背が凄く大きかった。
会う度に笑顔で挨拶をしてくる彼に、私も安心して話せるようになるまで、そう時間はかからなかった。
5年生になるまで別のクラスだったけど、学校や外で時々見かける彼は、何ていうか、周りの生徒達とは全く別の存在だった。
良く言えば無邪気、悪く言えば何も考えていないような同学年の子達に混ざって、1人だけ立派な大人がいるような、そんな感じ。
同じクラスになってからは、その思いが一層強まる。
先生方も皆、『彼に任せれば安心』、そう考えているのが丸分りな状態だった。
不思議だったのは、その交友関係だ。
普通、小学生くらいなら、誰かしらは仲の良い友達がいそうなものだが、彼にはそれが見当たらない。
5年生になり、立場上、ある程度までは親しく接するのだが、何となく周囲に壁を作って、それ以上は踏み込ませないのだ。
その年のバレンタインデーでは、彼は沢山のチョコレートを貰っていた。
私達の歳では、どれが義理か本命かすら分らないチョコが数多く出回る。
たとえ500円くらいのチョコでも、小学生の身には、なかなか大変かもしれないのだ。
手作りもあったようだけど、何名かの合作で、今一つ判断に苦しむ。
かく言う私は、お母さんに買って貰った1000円くらいのチョコを、『義理ね』と言って渡してしまった。
私は義理チョコを配らないので、当然本命だったのだが、あの時はまだ、今ほど強い想いは抱いてなかった。
勿論好きだったが、今はその感情がもっと強い。
部活の練習が終わってからも、夕暮れの校庭で、唯一人、ずっとバットを振っていた彼。
何度か見かけた、剣道の練習に行く時の、凛々《りり》しい胴着姿。
濃紺の胴着と黒い袴が、防具袋をひっかけて肩にかける紫鍔の竹刀が、長身で風格ある彼によく似合っていた。
6年生で主力レギュラーになっても、部活が終わった際の後片付けを、5年生に混ざってやっていた彼。
子供会のソフトボール大会では、暑い日差しの中、観戦に来た他のご家族が差し入れてくれたジュースに、最後になるまで決して手を出さなかった。
正確な人数を把握していない彼らが差し入れてくれるそれらは、時として足りない事がある。
案の定、何回かそういう事があって、でも彼はまるでそれを知っていたかのように、そうなる前に1人で水を飲みに行っていた。
うちのクラスは、他のクラスの担任が羨むくらい、静かで団結が強い。
自習になっても、皆大人しく自分達の席に着いている。
彼が5年生で初めてクラス会長になった際、最初の自習で、皆にこう言ったからだ。
『自習中、何をするかは皆に任せる。
与えられた課題をするも良し、漫画や本を読んでいるも良し、居眠りしてても良い。
但し、1つだけ守って欲しい。
他の人の邪魔をしないこと。
皆が騒げば、真面目に勉強したい人には迷惑になる。
教室が五月蠅くなれば、僕は立場上、その元を絶たねばならなくなり、気の乗らない権力や物理行使をしなければならなくなる。
それは皆も嫌だろう?
だから、お互い静かにね』
それでも初めの何回かは、まだ少し五月蠅い人もいた。
だけど、5年生の夏頃に起きたある事件後は、ぱったりと静かになった。
同じクラスのある男子が、人の少ない昼休みの教室で、6年生の3人組からいじめを受けていた。
私と一緒に偶々《たまたま》それに遭遇した彼は、静かな怒りを放出させ、一言口にした。
『何をしてるんだ?』
その時、相手の6年生達が、彼に何と答えたのかまでは、よく覚えていない。
はっきり覚えてるのは、普段は優しい彼が、物凄い勢いでその3人組を蹴り倒した事だ。
実際、その内の2人は吹っ飛んでいた。
そして彼は、倒れた主犯格の生徒の顔を、上履きを履いたままの足で思い切り踏み潰した。
更に、その髪を摑み、頭を少し持ち上げて、こう言ったのだ。
『これから毎日、僕がお前のクラスまで会いに行ってやろうか?
毎日毎日、お前達が彼にしていたのと同じ事を繰り返してやるよ。
その内、学校に来るのが嫌になっちゃうかもな。
・・どうする?』
彼にそう言われた6年生は、泣きながら首を横に振り続けた。
その後、いじめられていた男子の側に行った彼は、『僕はクラス会長なんだから、困ってる事があったら、ちゃんと相談してくれよ。いじめを受けている事は、決して恥ずかしい事じゃないぞ』と労っていた。
その光景を見ていたクラスの何人かが、後で皆に漏らしたのだろう。
それ以来、うちのクラスの自習はとても静かになったのだ。
因みに、助けるためとはいえ、6年生達に暴力を振るった彼には、何のお咎めもなかった。
その3人組は、以前からあちこちで同様の事を繰り返していたらしく、先生方の評判がかなり悪かった。
なので、誰も問題にしなかったらしい。
『何だか最近、部活の先輩達から避けられてる気がするんだ』
それから暫く、彼はそんな事を言っていたっけ。
クラス対抗で、全員参加のドッジボールの試合をする時も、彼は専ら守備に回り、狙われそうな女子達を庇いつつ、取ったボールは外野の男子にパスしてた。
同じくクラス対抗のマラソン大会でも、走るのが得意な男子達を一纏めにして優勝させ、彼らに活躍の場を持たせながら、自分は遅い人達を集めたチームに入って、アンカーとして見せ場を作った。
クラス単位で何かをする際は、必ずそれが得意な子に花を持たせ、彼は陰でそれを支えてきた。
そうした事が幾つも積み重なって、今のうちのクラスの結束がある。
今や彼は、クラスに欠かせない存在なのだ。
そんな彼と仲が良い私は、時々他の女子達から羨ましがられる。
狡いと言われた事さえある。
でも絶対、この位置は誰にも変わってあげない。
私の、私だけのものなんだから!