第三話
西本若菜が新築の自宅に引っ越して来てから約1か月。
その間、俺は徐々に彼女と親しくなっていった。
家に引っ越しの挨拶に来た彼女達一家。
平成が終わる頃には、アパートの隣に越して来ても挨拶にすら来ない者がほとんどだったが(俺はきちんと両隣と真下に挨拶した)、この時代にはまだそういった習慣が色濃く残っていた。
若い女性の中には、護身のためとか言って挨拶をしない者がいたようだが(最初から家賃を払う気が無い男性も)、それはアパートやマンションなどの集合住宅では諸刃の剣だ。
もし自宅に泥棒や痴漢が侵入してきて、暴れたり、大声で助けを求めても、隣がどんな人かも分らなければ放っておかれる確率が高いし、挨拶にすら来なければ、お互いに係わらない人も多い。
普段は会っても挨拶すらしないのに、相手が困った時だけ当てにされても、『知らねえよ』で終わりだろう。
実際、隣の住人が大きな物音や悲鳴を聴いていても、警察にすら連絡して貰えず、若い女性が侵入者に殺される事例が幾つかあった。
主観で言えば、両隣がどんな人物なのかを知る上でも、手土産の有無に拘らず、引っ越して来た際には挨拶くらいした方が良い。
それだって、立派な護身だろう。
西本の家は3人家族で、彼女に兄弟姉妹はいない。
父親は大企業に新幹線通勤するエリートで、母親は専業主婦だ。
どちらも常識の有る、感じの良い人達で、付き合いやすそうなイメージがあった。
前回とは異なり、俺は子供とは思えない丁寧な挨拶をして、先ずは彼らの好感を得る。
それから顔を合わせる度にきちんと挨拶をして、じっくりと関係を築いていった。
この地域は、小学生の登校の際、年長者が近所の子供達を引き連れて行く決まりだった。
皆が集まるのを待って、5、6人で登校する。
だから、今はクラスが違くても、毎日彼女の顔を見られる。
家が隣同士という事もあり、多少の会話もできた。
尤も、まだ8歳だから、高が知れているが。
クラスが同じになる5年生までは、そんな感じで良い。
彼女にとって、俺が無害で親しみやすい存在であれば、それで良い。
その間、俺は自分が立てた計画通りに家事や勉強をやり、資金や体力作りに励んだ。
勉強は勿論、(文系に進むから)受験に必要ない物理を除いて、大学受験、それも東大レベルまで。
やり直す以前の俺は、国立ならせいぜい北大法学部レベルだった。
数学と化学が今一つだったからだ。
英語も、当時は暗記中心の偏った勉強法だったので(中学の時、ろくに5文型を教わらなかったから)、偏差値は65くらいだったが、国語は模試でも県で1位を何度か取るくらいに得意だった(5年生までサボってたから、漢字の部首とかは大して知らなかったけど)。
忘れている事も沢山あり、全部一からやり直したが、小学生のものならともかく、中学生の教材も、5教科、3年分で、1か月も要しなかったのには笑えた。
あの頃は、本当に楽してたんだなあ。
実際、中学以降はテレビで時代劇を見たり(『水戸黄門』や『遠山の金さん』の再放送を見るために、部活を何度も休んでた)、漫画や小説ばかり読んでいて、勉強なんて、試験日前日の一夜漬けしかしていなかった(漫画の読み過ぎで徹夜して、度々学校を休んだ)。
それでいて、毎回学年で20位以内にいたのだから、皆サボり過ぎだと思う。
勉強で使う教材は、親類からお下がりを貰ったり、町の図書館で借りて済ませる。
この時代では、漫画や趣味の本まで扱う古書店はまだ一般的な存在ではなく、ブックオフのような全国チェーンもない。
住んでいる町には、1つの古書店もなかった。
どうせ直ぐ要らなくなる物に、無駄なお金をかけない。
それは習い事でも同じ。
やり直す以前は、小学生の間、絵画やそろばん、習字などに通ったが、どれも然程面白いとは感じなかった。
周りの皆がやるから、自分もやっていたに過ぎない。
だから今回は何もせず、その分を、体力作りに回す。
全てのスポーツにとって基本となる、足腰の強化と持久力作り。
うちの学校は、5年生にならないと部活にも入れない。
だから専ら自主トレーニングで、それも、下校時刻を過ぎた夕方から。
準備運動をし、1周が200mある校庭を1日に40周以上して、家では腕立て伏せや腹筋、背筋の強化に努める。
成長期で、急激に伸びる身長に、膝が痛くなるなどの弊害もあったが、以前の後悔を繰り返さないためだと思えば、乗り切れた。
幸い、小学校は歩いて10分かからない場所に在り、現在と異なり、防犯意識も緩くて、夜間でも簡単に校庭には入れたのだ。
やるべき事、そのやり方さえ知っていれば、訓練や作業自体は苦ではない。
例えば、昔の訓練で定番だったうさぎ跳び。
あれは実は膝に良くない。
やり過ぎると膝をおかしくする。
また、短距離走では、当時はただ足を速く動かせば良いと考えていたが、実際には、一歩一歩の踏み込みが大事で、バタバタ足を動かすより、跳ねるように走る方が断然速い。
そういう事を、当時の指導者達は何一つ教えてくれなかった。
事務的に受け持つだけの教員に期待する方が悪いのかもしれないが、野球やサッカーなどは、部外者が無償で教えていた程だ。
10歳に満たない俺が、夕食を挿んで毎日夜遅くに帰宅しても、金銭感覚がしっかりし、家事や勉強をかなり熱心にやっていたせいで、親は許してくれた。
5年生になる頃には、俺のする事に、一切口を挿まなくなった。
そして迎えた5年生。
やっと西本と同じクラスになり、担任も、俺に目を掛けてくれた女性教師に代わる。
それまでも、あの日からのテストは全て100点で、音楽と図工以外(歌と絵の才能は、多少の努力では埋められなかった)はオール5の成績だった俺を、担任だった教師は以前のように問題児扱いしなかったし、寧ろ他の教師達に対して自慢げに扱っていたが、俺は自己変革以外に、教師に気に入られるような一切の労力を割かなかったし、余計なトラブルを生むクラスメイトと関わりもしなかったから、体育などで手加減していたこともあり、身長以外でまだそう目立つ存在ではなかった。
クラスメイトとの関わりと言えば、この時期は『お誕生日会』なるものがあった。
級友の誰かの誕生日になると、その子の家に集まり、買ってきたプレゼントを渡して、その家の母親が作った料理を食べる。
それに招待されるかどうかは、その家の親と子供の気持ち次第だが、当然、自分が呼ばれれば、こちらも誕生日には『お誕生日会』を催して、その子を招待せねばならず、せいぜい10人くらいとはいえ、親に要らぬ負担をかけていた。
また、こちらが用意したプレゼントを、1つ1つ皆の前で開ける習慣があり、小学低学年が使えるお金には限度があるが、手抜きをすれば、気を遣わない子供同士だから、あからさまに非難される。
俺も一度、町では金持ちだった家に招かれ、ろくに考えもしないでいつものように数百円のプラモデルを持参し、『何だ、これかあー』と大声で失望された記憶がある。
ただこの時は、そこの母親が人格者で、『そんな事を言っては駄目。カッコ良いプラモデルじゃない』と庇ってくれた。
その人の顔すら全く浮かばないのに、向けられた善意だけは、半世紀を過ぎた今でもしっかりと記憶に残っている。
不思議なものだ。
男女の性差が明確に意識される5年生頃には自然消滅した行事だが、やり直した今回は、招待されても何かしらの理由をつけて全て断ったし、自分のもやらなかった。
違うクラスだった西本には、悲しい事に、女の子同士の集まりだからと呼ばれなかったし。
5年生からは、俺の立ち位置が劇的に変わる。
やり直す以前も、担任教師のお陰で相当変化したのだが、これからは更にだ。
この年から、俺の日常には部活動の野球と、町内大会での助っ人である陸上、野球が休みになる冬だけのサッカー、そして、親の知人に勧められて始める剣道が加わる。
自分で言うのも何だが、以前の俺は、水泳とスキー、スケート以外はスポーツ万能だった。
6年生の頃には、身長172㎝と、恵まれた体躯のせいもあり、少し努力すれば大抵郡(平成の大合併前の行政単位。幾つかの市町村が合わさり、郡と呼ばれた)でトップか上位にいた。
野球なら4番で郡大会で優勝、1、2か月しかやらないサッカーはスイーパーで町内優勝、陸上は遠投(ソフトボール投げ)と走り幅跳びで郡1位、リレーで郡5位、剣道は2年連続郡大会個人優勝で、日本武道館まで試合に行った程だ。
学期末に渡される通知表には、それらの成績がびっしりと書かれていた。
町内では、何らかのスポーツをしていれば、同じ小学生で俺を知らない者はいなかっただろう。
でも、晩年になると、どのスポーツにも後悔があった。
遊び半分だったサッカーはともかく、野球と剣道はずっと後悔していた。
野球は、俺に凄く期待をかけてくれた指導者に、十分に報いなかったこと。
剣道は、あからさまな悪意とちゃんと向き合わなかった件で。
折角やり直せるのだから、今回はそれらにちきんと対処し、必ず努力すると決めていた。
予め考えていた通り、今回はサッカーはやらない。
足は速いが、ろくな技術もなく、トーキックだけで高みを目指せるほど甘くはない。
陸上を本格的にやるのは、ある事情のせいで、中学からだった。
だから、それまでの2年間は、野球と剣道に絞る。
そのための基礎は、既にできているのだ。
「透君は何の部活に入るの?」
4月の登校時、隣を歩く西本に聴かれる。
前回と異なり、名前で呼ばれるのは、今までの俺の努力の賜物だ。
5年生になり、同じクラスになったことで、これまでよりも更に親しくなっている。
「野球部に入る」
「ああ、やっぱりそうなんだね。
子供会のソフトボールにも誘われてるもんね」
親の知人が指導者である野球部。
その人は、子供会でのソフトボール大会でも、指導的立場にいる。
「子供会のソフトも入るよ。
西本もやるんだろう?」
「うん。
私、ソフトボール好きだから」
「なら一緒に練習できるな」
「そうだね。
部活もソフトにするの」
「あと僕は、今年から、親の関係で町の道場に入って剣道もやるんだ。
それは週1回、夜になるんだけどね」
西本の両親に対する手前もあって、俺は自分の事を人前では『僕』と呼ぶ。
「剣道?
・・何だか痛そう」
「そりゃ痛いし、冬は寒いし、足は冷たい」
「じゃあ何でやるの?
強制じゃないんでしょう?」
「・・今回は、自分に対するけじめのためだよ。
言っておくけど、汗臭いとかの偏見は持たないでね?」
「・・透君なら大丈夫かな。
いつもきちんと身だしなみを整えてるし。
たださ、この際だから聴いて良い?」
「何を?」
「何でいつもジャージで登校してるの?」
「それは難しい質問だね。
1番の理由は、毎日着ていく服を選ぶのが面倒だから」
背が伸びるのが速い俺は、親に余計な負担をかけないように、私服も季節ごとに2、3着しか持っていない。
「確かにそれはあるね。
同じにならないよう、組み合わせなんかにも気を遣うし。
女子は意外とそういうの見てるから」
「女の子は大変だ。
僕なんか、誰にも注目されないから楽で良いよ」
「・・・」
学校まで直ぐだし、年少組も見てるから、毎朝これくらいしか会話できない。
下駄箱に靴を入れて、同じ教室に入る。
席に着いて、カバーをかけた大学受験用の参考書を読んでいると、担任の教師が来て口を開く。
「新しい学年、新しいクラスになったから、そろそろクラス会長を決めよう。
誰かやりたい人いる?」
うちの学校は、クラスを纏める人を、委員長ではなく会長と呼ぶ。
各学期ごとに選ぶから、3学期制では3回機会がある。
同じ人物は続けてその地位に就けないが、会長なら副会長にはなれ、最悪、1人の人間が、会長、副会長、会長と、3回連続でやらされる事もある。
実際、俺がそうだった。
誰も手を挙げない。
「じゃあ推薦でも良いよ?
誰かいない?」
皆が周りをチラチラ見る。
俺は大きな体をできるだけ小さくして、顔と視線を伏せていた。
前回の記憶では、この後、何故か教師が俺を見て、会長に指名したからだ。
それが俺の実質的なデビューとなり、以後卒業まで、クラスで必ず何らかの地位にいた。
尤も、6年生の最後の役員選びだけは、クラス全員の投票になり、43人の内の31票を獲得した俺に、担任教師がその名が書かれた投票用紙を、『これがあなたの今までの成果』という言葉と共に渡してくれた。
決して良い事ばかりしていた訳ではない。
今考えると、校長の目の前でわざわざバタバタと足音を立てて歩くなど、『何でそんな愚行を!?』と吠えたくなるくらいの意味不明な事もした(当然怒られた)。
けれど、鉛筆で己の名が書かれたその沢山の投票用紙は、大人になるまで捨てられなかった。
「久住君が良いと思います」
は?
あんた何言ってんの?
誰の声かは直ぐ分った。
「じゃあ久住君、君にお願いするね」
担任教師が破顔してそう宣言する。
「・・・」
沈黙で抵抗する俺に、もう決定と言わんばかりに次に移る彼女。
「次に副会長だけど・・」
「西本さんを推薦します」
挙手して、先程の仕返しをする俺。
『ちょっと、やめてよね!』
彼女の心の声が聞こえるくらいの、嫌そうな顔をこちらに向けてくるが、御構い無しだ。
「おっ、仲良いね。
じゃあ西本さん、あなたに頼もうかな。
良い?」
先生、俺には確認なかったですが・・。
「・・分りました」
「ありがとう。
最後に書記ね。
・・・・・」
上機嫌の担任教師が話を進めていく中、俺達2人は、離れた場所で視線を戦わせていた。
放課後、其々が入る部活に挨拶に行った後、校門前で西本と会う。
どうやら俺を待っていたらしい。
「一緒に帰ろう」
彼女がぶっきらぼうに言ってくる。
「まだ怒ってるのか?」
「別に」
「西本が最初に余計な事をするからだぞ。
僕は悪くない」
「だって、本当にあなたが良いと思ったんだもん」
「何で?」
「透君、凄く真面目で頑張り屋だから」
「そうかな?
別に大した事してないよ?」
「うちのお母さんも褒めてたよ?
毎日洗濯物を干したり取り込んだりして、お庭やお家のお掃除もしてるって。
夕方のお買い物でも、何度も会うみたいだし・・」
「共働きの家だから、それくらいは手伝わないとね。
父はあまり家事が得意じゃないし、母だって疲れて帰ってくるんだから」
「でも晩御飯まで作ってるんでしょ?
この間、あなたが作ったカレーを分けて貰ったよ?
美味しかった」
母さん、恥ずかしいからやめて下さい。
「自分で作れば、自分の食べたい物を作れるから。
僕には結構好き嫌いがあるんだ」
「私、まだお洗濯もお料理もしたことない」
「簡単な料理くらいは、お母さんに教えて貰っておいた方が良いよ?
確か6年生くらいに家庭科で調理実習がある」
「・・透君って、何でもできるよね。
頭も良いんでしょう?」
「そんな事ないよ。
勉強はともかく、歌や絵は下手だし。
音楽の時間に聞いても笑うなよ?
あと泳げない。
プールが嫌いだから、2年生から一度も入ってないし」
「え、そうなの?
何で?」
「・・隠しながらとはいえ、皆の前で下着を脱ぎたくないし、プールの水が奇麗だとも思えないから」
身体が大きいという事は、それだけ成長も早いのだ。
「女の子みたいなこと言うね。
そういう人、女子の中にもいるけど・・」
『私も段々恥ずかしくなってきたし』
「まあ、不特定多数の間なら、そう気にならないだろうけど、知り合いばかりだとね。
それより、僕が西本を推薦したのは、全くの主観。
どうせ一緒にやるなら、君が良いから」
前回は言えなかった台詞を、さりげなく混ぜる。
「・・どうして?」
彼女がこちらの顔をじっと見てくる。
「お隣さんだし、現時点で1番親しい人だから」
肝心な所で、今一つ踏み込めなかった。
言ったところで、どうせ玉砕だろうしね。