第二十一話
3月4日。
約11年前、俺が彼に死を宣告された、約束の日。
この日のために、俺は1週間前から色々と準備をしてきた。
先ず両親に、高校で支給された奨学金の残りを全て渡して、夫婦2人だけで旅行に行って貰った。
斎藤さんへの支払い以外は全く手を付けなかったから、まだ90万円近くあり、母はとても喜んで、金沢と京都で美味しい物を食べたいと言って、仕事を休み、父を連れて行ってくれた。
あと3日は他に誰もいない家の中で、俺は少ない私物の整理をし、最後の日記を付け終える。
やり直し以前、看護師の仕事で難病患者の自殺現場に遭遇した母が、その死体の状態に関して話していたのを覚えていたので、第一発見者になるであろう西本に、俺の見苦しい姿を晒したくはなくて、一昨日の朝から何も食べていない。
今日の夕方以降に、西本がこの家に来る。
昨日、渡したい物があるからと、彼女と約束を取り付けたのだ。
もし寝ていたら起こしてくれと、家の合鍵も渡してある。
彼が俺の感想とやらを聴きに、脳内に話しかけてくるまで、斎藤さんに作って貰った曲を何度も聴こうとして、世に出たばかりのウ○ークマンに手を伸ばす。
ちょうどその時、当の彼が話しかけてきた。
『久し振りだな』
「・・お久し振りです」
『どうだった、やり直した残りの人生は?』
「お陰様で、満足のいく、素晴らしいものになりました。
心から感謝致します」
『随分と口調が変わったな。
どうやら心のゆとりが良い面へと流れたようだ』
「あの時の私は、何の希望もなく、心が荒んでおりました。
今考えると、お恥ずかしい限りです」
『もう悔いはないのか?』
「全くないと言えば噓になりますが、自分なりに、この11年弱を精一杯生きましたので・・」
『1つ尋ねたいが、お前が彼女に手を出さなかった理由は何だ?』
「それは私がディープな純愛主義者だからですよ」
『ほう?』
「やり直させていただく前は、小説でもアニメでも、ゲームでさえ、私は純愛ものしか手に取りませんでした。
たとえ主人公が何人ヒロイン候補と戯れようとも、ヒロイン側が他の男性に目を向ける事は許されない。
そんな自分勝手な内容のものを好んでいました。
既に男性経験があるという設定のヒロインは、私的にはヒロインではなく、ゲームなら攻略さえしませんでした。
だから、どんなに苦しくても、彼女には手を出さなかった。
数年で死にゆく定めにある自分が、これから長い人生を歩む彼女の枷になりたくなかった。
彼女に新しい恋が芽生えた時、その相手の男性に、負い目を感じるような負担を強いたくはなかった。
こんな自分に、有り得ないくらいの幸せを与えてくれた彼女に、私がしてあげられる事は、これくらいしかなかったから」
『成程。
相手がそれをどう思うかは別として、そういう考え方、自分は嫌いではない』
「神様にそう言っていただけると、救われますね」
『(自分が神だと)分るのか?』
「それは勿論。
時を遡るなんて非常識な事をやって退ける方を、他にどうお呼びしろと?」
『ならば自分(声の主)に、新たな願い事の1つでもあるのではないか?』
「叶うことなら、彼女を幸せにしてあげてください。
これからの彼女の道のりに、どうか笑顔と素敵な出来事が溢れますように。
重い病に罹ることなく、人生を全うできますように。
今の私の、心からの願いです」
『良いだろう。
その願い、叶えてやろう』
「ありがとうございます!
・・ああ、これで、もう何も思い残す事はない。
安心して眠れる。
こんなに心が豊かになるなんて、以前なら信じられなかった」
『・・あと5分程で時間になる。
中々有意義な時間であったぞ』
彼の声が、そこで途切れる。
俺は徐にウ○ークマンのイヤホンを耳に挿し、再生ボタンを押す。
緩やかで静かなメロディーと共に、斎藤さんの歌声が耳に流れてくる。
それを聴く俺の頭の中に、西本との沢山の思い出が甦る。
『透君・・・』
彼女に出会った頃は、まだあどけない少女でしかなかったが、その幼くもかわいらしい姿に心を奪われた。
瞳に力があって、澄んだ眼差しを向けられると、言葉に詰まる事が多かった。
豊かな家庭で、親族から過保護気味に育てられたのに、ちゃんと他人の心の痛みが分る娘だった。
中学に入る頃には益々かわいらしく、美しくなって、その隣を歩ける事が誇らしかった。
毎日毎日、考えない日がないくらい、ずっと彼女を想っていた。
『透・・・』
初めての男女交際は、驚きの連続だった。
友人や幼馴染とはまた違う、高揚感と焦燥感。
握り合う掌に加わる力加減の変化や、互いを抱き締め合う、腕に籠る気遣い。
彼女の髪をそっと撫でるのが好きで、彼女に背後から凭れ掛かられるのが大好きで、自分を見つめながら微笑まれるだけで、その日はずっと幸せな気分。
組まれた腕に当たる彼女の胸に心乱され、真剣に問題を解く姿に目が放せず、肩に載せられたその頭に、必死にバランスを崩さぬよう緊張する。
一瞬でも、一枚でも多く、彼女の記憶に留めて貰えるよう、血の滲む手で振り続けたバット。
走り込みで倒れても、筋トレでもう限界だと感じても、やり直し以前の己の姿を脳裏に浮かべ、もう一歩、もう1回と、歯を食いしばりながら頑張った。
先のない自分が、未来を描けない俺が、彼女の彼氏面をしないよう、その言動には極力気を配った。
自分と親しくする事を、彼女が少しでも誇れるよう、非難されないよう、励み続けた11年だった。
閉じた目の端から、絶え間なく流れ落ちる涙。
俺は幸せだった。
こんなにも愛し、愛されていた。
ありがとう。
西本、本当に・・ありがとう。
「透、寝てるの?」
玄関のチャイムを鳴らしても、何の応答もない。
仕方ないので、預かっていた合鍵で、勝手に家の中にお邪魔する。
彼のご両親はご旅行の最中だと聞かされていたので、遠慮なく2階の彼の部屋へと足を運ぶ。
「何よ、机で居眠りしてるの?
渡したい物って何なの?」
力が抜けたような姿で、だらしなく項垂れている彼。
ふと、机の上にある、日記帳らしき物に目が留まる。
そう言えば以前、高校を卒業したら見せてくれるって言ってたっけ。
私が来るって知っていて、ページを開いたままにしているのだから、ちょっとくらい見ても良いよね。
そっと手を伸ばし、そのページを読み始める。
『 3月4日
どんな言葉で、どんな顔をして、君にこの事実を告げたら良いか分らない。
だから少し卑怯かもしれないが、ここにそれを記しておく。
今の僕は、いい歳をした爺さんが、神様のお陰で人生の一部をやり直した姿なんだ。
ろくな努力もせず、君に想いも伝えずに、底辺のような暮らしを余儀なくさせられていた僕に、その愚痴や負け惜しみを聞き飽きたであろう神様が、特別にやり直しの機会を与えてくれたんだ。
君がここに引っ越してくる8歳から、僕はその人生をやり直した。
今度こそ君の隣に立つため、君に相応しい男になるために、僕はその日から必死に努力し始めた。
勉強ができたのは、人の2倍は同じ事をしていたから。
元々運動神経は良かったけれど、甲子園での活躍だって、短くしか生きられないと予め分っていたからこそ、あそこまで努力できて、それが運良く結果に繋がったというだけなんだ。
幻滅させちゃったかな。
神様に与えられた猶予は、僕の寿命からその時の年齢を差し引いた、11年弱だった。
そして今日がその最終日なんだ。
君に渡したかった物は、この日記帳と、ウ○ークマンの中に入っているカセットテープ。
僕が詞を書き、学院のクラスメイトに曲を依頼した、君の為の歌だよ。
ある日突然、理不尽に取り残された君の心を、僅かでも癒して欲しくてこれを残す。
大嘘つきの僕なんかから、そんな物を受け取れないって?
それなら仕方ないけど、できれば捨てずに、押し入れの奥にでも終っておいてくれないかな?
時が過ぎ、君の気持ちが落ち着いた頃、一度で良いから聞いてみて欲しい。
今更何を言っても信じて貰えないかもしれないけれど、僕が君を愛していたのは本当なんだ。
心の底から、全身全霊で以て、君のことを愛していた。
今までありがとう。
こんな僕に、幸せな時間を与えてくれてありがとう。
君の貴重な人生の一部に係われた事を深く感謝して、ここでペンを置きます。
君が今後も、笑顔で過ごせる事を祈りながら・・』
「・・・」
途中から、読むのが怖くなった。
彼の方を振り向くのが怖くて仕方がない。
日記を持つ手が、今もぶるぶる震えている。
ギギギと音がしそうなほど、無理やり首を動かして、彼の顔をよく見る。
「透、起きて。
お願いだから返事をして。
ドッキリというやつなんでしょう?
今ならまだ、許してあげるから・・」
彼が動かない。
耳を澄ませても、呼吸音が聞こえない。
ドサッ。
私の手から、分厚い日記帳が床へと落ちる。
「・・透。
透!!」
腰が抜けたように、その場に座り込む。
「あ・・・ああっ。
ああああ!!!」
放心して何も考えられない私の目から、細い涙がゆっくりと流れ落ちてゆく。
思考が停止した私の頭に、勝手に浮かび、流れていく光景。
子供のくせに、妙に達観した横顔。
でも何時しかそれが、頼もしさに変わる。
良く言えば思慮深い、悪く言うなら遠慮が過ぎる、彼の私への態度。
その目が語っている彼の気持ちと、その口から紡がれる言葉が示す内容が、大分違う。
何をそんなに気にしているの?
どうしてそこまで私に臆病になるの?
もっと近寄って良いんだよ?
もっと沢山触れて欲しいの。
・・ああ、やっと、到頭口に出してくれた。
私を好きだと言ってくれた。
これからの私達は恋人同士。
まだ秘密や我慢が多いのが不満だけど、それもその内どうにかしてみせる。
甲子園での彼、カッコ良過ぎる。
ビデオに写真にスクラップブック、あと何を残そう。
大人になったら、今の貸金庫には、貴金属より絶対こちらを入れるんだから。
お母さんは、私が高3になってからずっと、私達2人が大学で一緒に暮らす部屋を探していた。
『どうせなら、家ごと買う?』と言われたけれど、掃除が面倒だから、マンションにして貰った。
『子供ができたら、また買い直せば良いしね』
そう言われた時は、『はは、何時の事やら』と、彼の奥手を嘆いた。
女子高で、何度も渡されそうになった彼への手紙を、必死に断り続けていたのは内緒にしている。
恋人として付き合い出してからも、『ラブレターじゃなくて、ファンレターだから』とお願いしてくる人達には辟易した。
勿論、帰りの電車の中で、私自身に差し出してくる手紙を無下にしていた事も秘密だ。
余計な心配を掛けたくないからね。
お陰で、1人の時は、わざわざ人の多い車両に乗る癖が付いてしまった。
彼の笑顔、彼の言葉、彼の匂い、彼の体温。
私の好きなものが、どんどん脳内から溢れて来る。
それからどれくらいの時間が経ったであろう。
窓から見える空に、ほんのりと赤みが差し始めた頃、私は未だ呆然としたまま、何とか立ち上がって、彼の机の引き出しを開ける。
意外と古風で、渋い趣味を持つ彼は、手紙などの書類を開ける際、必ずペーパーナイフを使っていたから。
小振りだが、品の良いそのナイフを摑み、そっとその鞘を取り除く。
そしてナイフの切っ先を、ゆっくりと己の首へと向ける。
「透、待っててね。
今私も、あなたの側に行くからね?
言ったでしょう?
もうあなたは、私から逃れられないの。
たとえそれが、死んだ後であってもね」
そこでふとある事を思い付いて、一旦刃を降ろす。
「散々焦らしたんだから、ファーストキスくらい頂戴ね」
彼の顎に手を添え、少し上向かせながら、静かに唇を押し当てる。
「・・ご馳走様。
じゃあ、あの世でまた会いましょう」
勢いよくナイフを首に刺そうとした腕の動きが、見えない力によって強引に止められる。
「え?」
「こらこら、一体何をしようとしていたんだ?」
「誰!?」
声がした方に視線を向けると、部屋の入り口付近に、知らない少年が立っている。
全身黒ずくめの、スーツ姿の少年が、呆れたような顔をしてこちらを見ていた。
「あなた誰よ!?
何時の間に入り込んだの!?」
身構えるように、手にしているナイフをその少年へと向ける。
「彼の日記を読んだのなら、自分が誰だか想像がつくだろう?」
「・・神様とでも言う訳?」
「否定できないな」
「・・それで、その神様とやらが、どうして私のする事を止めるの?」
「それが彼の意思だからだ。
彼は自分への最後の願いとして、君を幸せにして欲しいと頼んできた。
そしてそれを、自分は了承したのだ」
「私を幸せにするですって!?
ふざけないで!
散々透を弄んでおきながら、よくもそんな事が言えるわね!」
「弄ぶ?」
「だってそうでしょう!?
希望を与え、手を差し伸べておいて、これからって時に突き落とす。
それを他に何て言葉で言い表すのよ!?」
「この日に死ぬことを選んだのは、彼自身だが」
「11年しか時間を与えなかったからじゃない」
「それが彼の寿命だったからな」
「随分けちなのね。
今時の神様は、赤ん坊からやり直させるのが主流じゃないの?」
「何故それを知っている?
その設定は、まだこの時代には生まれていないはず・・」
「何時だったか、透が教えてくれたのよ。
『これからは、きっとこういう内容の本が増えるよ』って。
子供の頃は、その時間の貴重さに、多くの人が気付かない。
だから大人になって、今の自分を振り返った時、後悔する人が多いんだとね」
「・・・」
「分ったら邪魔しないで。
直ぐにでも透に会いに行きたいんだから」
「それは無理だな」
「何でよ!?
自殺したら、地獄に落ちるとでも言いたいの?」
「自分の話を聴いていなかったのか?
自分は、『君を幸せにする』と言ったのだぞ?
君にとっての、最高の状態とは一体どういうものだ?」
「そんなの決まってる。
透が私の側にいること・・ってまさか?」
「そうだ。
君達2人には、もう一度だけやり直す機会を与える。
それも、今回は11年と言わず、8歳から其々の寿命が尽きるまでだ。
ただ、彼はまた二度目のつもりで生き始める。
君が知らせない限り、彼はまた11年弱で死ぬものと思って努力をし始める。
どの段階で彼にこの話を告げるかは、君の判断に任せよう。
再び甲子園での彼を見たいというのなら、その試合が終わるまでは黙っているのもありだ」
「宜しいのですか!?」
「いきなり口調が変わったな」
「尊敬できる神様には、きちんと敬語を使いませんと。
やり直したら、毎年透とお参りに行きますね。
お寺と神社のどちらが宜しいですか?」
「好きにしろ。
補足しておくが、彼の寿命は必ずしも79という訳ではない。
この数字は、前回の不健康な状態でのものだ。
だから当然、もっと長生きする可能性だってある」
「ではそれまでは、2人とも大病に罹ったり、事故には遭わないんですか?」
「君を幸せにすると、彼に約束したからな。
君達2人は、自然死するまで自分が守護してやるよ」
「大盤振舞ですね。
お賽銭、毎年弾みますから」
「最後に、自分は『けち』だそうだから、この日記は没収な。
ここに書かれた内容に囚われず、また2人でゆっくりと関係を築いてゆくが良い」
「うう、意外と根に持つタイプですか?
まだ最後のページしか読んでいないのに・・。
・・あの、最後に1つだけお聴きしても宜しいですか?」
「何をだ?」
「透がどうして私に手を出さなかったのか、ご存知ですか?」
「・・純愛主義者の矜持とだけ言っておこう。
因みに、彼と疎遠になっていた君の前回では、君は一生独身のままだったぞ。
変にプライドをこじらせて、誰とも付き合わず、親の残した莫大な遺産を食い潰していた。
まあ、君の母親の、婿に対する要求が高過ぎたせいもあるのだがな」
「お母さん・・」
「では、そろそろ失礼する。
2人で楽しく暮らせよ?」
そのお言葉とともに、私の意識は一旦失われた。
ピンポーン。
「はあい」
「突然失礼致します。
私達、今度隣に引っ越してきた、西本と申します。
この子は一人娘の若菜」
「まあ、それはご丁寧に。
透、お隣さんがご挨拶に見えたわよ?」
その母の声で、俺は待ちに待った瞬間を迎える。
玄関まで出向き、丁寧に挨拶する。
「初めまして。
久住透と申します。
小学2年生です。
どうぞ宜しくお願い致します」
そう言って頭を下げる。
「随分丁寧に挨拶できるのね。
ほら若菜、あなたと同い年よ。
あなたもご挨拶なさい」
心なしか、そう言われた彼女が、じっと俺を見てる気がする。
「初めまして、透君。
また宜しくね!」
その顔が、笑顔で輝いている。
『ん?
また?』