第十八話
春の甲子園は、準決勝まで進出した。
俺は4試合で5本のホームランを打ったが、優勝校の前に2点差で敗れる。
地元新聞にでかでかと載った俺の写真を、西本が毎回嬉しそうにスクラップしていた。
2年生になり、西本は更に綺麗に、そして大人っぽくなった。
帰りは一緒に帰れないので、電車内で声をかけられたりしないか少し不安だったが、夕方前の比較的早い時間のせいもあり、電車内も空いていて、そんな事はないと言っていた。
田舎の学生の方が、都会の学生より純朴なのかもしれない。
俺もまた先輩と呼ばれる立場になり、それなりの自覚を促されていく。
今年の野球部は、過去最多の入部志願者を受け付け、さすがに全員は無理だったので、入部テストを行った。
20名もの新入部員を迎え、女子マネージャーも2人加入した。
俺が全国模試で1位になり、大層喜んだ理事長が、学校宣伝のポスターに写る事を条件に、野球部に新しい部室を増やしてくれた。
1年間、俺の自主練に必死に食らいついてきた矢島は、2年でレギュラー入りを果たした。
彼は、中学時代は結構有名な選手だったらしい。
筋トレと走り込みの成果が出て、大分打球の飛距離を伸ばしていた。
特進クラスの人数は、変わらず4人のまま。
だが、新たな有能教師達の確保に成功したらしく、今まで自習だった英語と古文、世界史が、毎回きちんとした授業になった。
因みに、1年生の特進クラスには、生徒が7人いる。
「ねえ、日本史や世界史の勉強法で、何かお勧めのものはある?」
日曜の午前、西本の部屋での家庭教師の休憩中、彼女からそう尋ねられる。
「もし暗記が苦手なようなら、最初は漫画から入るのもありだね。
勿論、聖徳太子が実は女性だったなんて、斬新な解釈が書かれた物は受験に使えないけど、信頼のおける出版社の物なら、それを一通り読んでから、教科書や参考書に手を付けるやり方が良いかもしれない。
わざわざ買わなくても、図書館で探せば見つかる可能性が高いし」
「漫画で勉強するの?」
「そうだよ?
漫画と雖も、そう馬鹿にした物じゃないんだ。
中には素晴らしい物も沢山ある。
それに、結構な利点もある。
君は漫画を全く読まないの?」
「少しなら読むよ?
揃えてる漫画だってあるし・・」
目に見える本棚には見当たらないので、何処かに終ってあるようだ。
「読んでいるなら分ると思うけど、漫画なら1回読んだだけで、その内容をかなり覚えているだろう?
殊更覚えようとしていないのに、興味を持って集中して読んでるから、凄く記憶に残っている。
大量の文章を暗記したり、難しい語句が多い書物を読むのが苦手な人にはお勧めの勉強法だよ」
「ふーん。
あなたがそう言うなら試してみる」
「それから、教科書や参考書で社会科を勉強する時、気を付けて欲しい事がある。
時々、文章中の太文字、所謂大事な単語を隠しながら読む人を見かけるけど、個人的にはあれは逆効果だと思う。
少なくともインプット時は、何もしないで文章をそのまま読む事をお勧めする」
「そうしてる(隠してる)人、私も教室で見たことある。
やっぱりあれって良くないんだ?」
「文章の途中途中を隠しながら読むと、思考がそこで途切れてしまう。
だから普通に読むより覚えづらいし、実際にテストで同じ文章に当たった時、そこで閊えてしまう。
隠し読みするのは、あくまでもアウトプットに使用する問題集でのみ。
尤も、問題集は大事な所が初めからカッコや空欄になってるけどね。
因みに、歴史の問題集は、同じ科目の物を2、3冊は使った方が良いよ?」
「どうして?」
「同じ事を尋ねていても、尋ね方が違うから。
例えば、ある人物名を答えさせる場合、その人が行った偉業を参考にさせる場合と、その人の生きた時代や場所、交友関係などから導き出させる場合とがある。
その人物の1つの側面だけで覚えていると、そういった変化球に対応できない。
優れた問題集は、アウトプットの道具であるばかりでなく、有用な参考書でもあるんだ」
「さすがに全国1位の御方が言う事は違いますな。
そんな御方に教えて貰える私は幸せ者です」
「ちゃかすなよ」
「素直に有難いと思っているし、感謝だってしてるから。
・・だけどね、自業自得ではあるけれど、私も今、結構大変なの」
「何が?」
「私だって、これでもクラスで1位で、学年3位でもあるのですよ。
それで、時々クラスの皆さんに聴かれる訳です。
『何処の塾に通っているの?』と。
私は塾になんか通っていないから、『家庭教師をお願いしてるの』と答えていた訳です。
当然、何処の誰かまでは言っておりませんでした。
でもこの間、あなたが全国1位になったのがとても嬉しくて、つい口を滑らせてしまいました。
『彼、私の家庭教師よ』と」
「・・・」
「するとどうでしょう。
あちこちから、『今度遊びに行って良い?』とか、『私にも家庭教師として紹介してくれないかな?』などという、大変返答に困るお誘いを頂いてしまいまして・・。
『皆さんご存知の通り、彼はとても忙しいから・・』、『私もかなり無理を言って引き受けて貰っているので』と、一体何度口にしたことか。
それ以来、私は学校では独りで過ごしたいと願うようになりましたとさ」
「・・君、未だに学校で猫を被っているの?」
「私の話をちゃんと聴いてなかったの?
私は今、結構きてるんだからね?
愛する彼氏の優しさが、いつも以上に必要なの。
・・どうしたら良いか分るよね?」
悪そうな笑みを浮かべながら、西本がそう尋ねてくる。
俺は暫く考えてから、西本の背後に回り、椅子の背もたれごと、彼女を優しく抱き締める。
数秒経ってから離れようとすると、回した腕を、そっと手で押さえられる。
「もう少しこのままで。
ある言葉を添えてくれたら、お茶の時間に、和菓子の他に、とっておきのケーキも出してあげる」
決してケーキに釣られた訳ではないが、俺がその言葉を小さく告げると、彼女は身体全体を更に弛緩させ、口元だけで微笑む。
帰り際、早紀さんが、『あのケーキ、美味しかったでしょう?若菜に頼まれて、わざわざ北海道から取り寄せたのよ?』と笑っている横で、西本が渋い表情をしていたのは見ない振りをしておいた。
くたくたになった身体に活を入れながら、駅のホームに佇む。
部活としての練習後、毎回1時間程の自主練をし、身体を極限まで苛め抜いているので、正直、今は立っているだけでしんどい。
電車待ちの間、駅のホームにある立ち食いそば屋から、醬油の良い香りが漂ってくるが、あそこには苦い思い出があるので、立ち寄る気にはなれない。
やり直し以前、まだ高校生だった時に利用した際、追加したかき揚げの中から、大きな蜂がそのままの形で出てきた。
幸い、齧る前にかき揚げを箸で割っていたので、その蜂を口にする事はなかったが、汁でふやけて柔らかくなったかき揚げの中から、大きな蜂が姿を現した事実は、その後長いこと、俺のトラウマになった。
当時の立ち食いそば屋は、店内を何かしらの壁で覆われたものではなく、外にあるのに調理場すら風通しが良かった。
なので、従業員の知らない間にかき揚げのネタの中に紛れ込んで、そのまま揚げられたのだろう。
無愛想なおっちゃんに苦情を言っても仕方がないので、以後の利用を断念して、蜂が浮いたままのどんぶりを返却したのだ。
3㎝くらいあったから、直ぐ目についたであろうに、案の定、彼から謝罪の言葉はなかった。
電車内で約40分の仮眠を取り、駅から2km近い道のりを自転車で帰宅する。
早紀さんからのご厚意である朝のタクシー配車は、帰りは西本と一緒ではないので丁重にお断りしている。
帰宅時に自転車を使えなくなるからだが、『勿論、往復分のタクシー代くらい、毎日出してあげるわよ?』という彼女のお言葉に、疲れが酷いと、時々ぐらつく事もある。
母に温め直して貰った夕食を取り、直ぐに入った風呂の湯船で歯磨きをしながらうとうとし、身体を洗って眠気を覚ます。
それから2時間程を勉強に充て、深夜の2時近くに倒れるようにしてベッドに入る。
最近は、夢すら見ない事が多い。
「今年の夏の甲子園は、球場まで見に行くね?」
日曜の家庭教師の休憩時、西本の部屋で寛いでいた俺に、彼女がそう告げてくる。
既に予選を勝ち抜き、甲子園出場が決まっているので、家庭教師は次週から少し休みになる。
「止めておいた方が良いよ。
暑いし、混んでるし、テレビで見た方がずっとよく試合が見える。
当たり前だけど、解説だってないから味気ないよ?」
やり直し以前、球場にプロ野球の試合を見に行った事があり、その時の印象を素直に口にする。
「だってあなたの勇姿を直に見たいじゃない?」
「1回戦だけならともかく、勝ち進むと何回も見に来る事になるよ?
早紀さんは、あの暑さと人込みに、絶対に耐えられない気がする」
「あはは。
お母さん、お嬢様育ちだからねえ」
「君だってそうだろ?」
「私は小2から田舎育ちで、結構鍛えられてるから」
「中学生になるまで自転車すら許されなかった人がよく言うよ」
「あれはお父さんが過保護なだけよ」
「ともかく、直に見るのはお勧めしない。
折角君が来てくれても、僕が現地で君に会う時間は取れないだろうし」
「ええっ、会えないの!?」
「監督から、『大会中は、お前は無闇に宿の外に出るな』と言われているんだ。
ちょっとした買い物すら、女子マネージャーにお願いしてる」
「・・有名人は大変なんだねー。
まるで芸能人みたい」
「ユニホーム姿じゃあるまいし、そこまで心配する必要はないと思うんだけどね。
普通にその辺を歩いていても、きっと誰も気が付かないさ。
まあ、余計なトラブルを避ける意味もあるんだろうけれど・・」
かなり大きめにカットされたナポレオンパイにフォークを入れ、崩さないように口に運ぶ。
サクッとした歯ごたえと、大粒のイチゴの酸味、カスタードクリームの甘さが口一杯に広がる。
幸せを噛みしめていると、西本の視線を感じる。
「ん?」
「あなたって、本当に美味しそうに食べるよね。
見ていて嬉しくなるの」
「・・・」
やり直し以前の俺は、60を過ぎた頃には、日々まともな食事を取れなかった。
先行きに不安しかなく、過度な節約を続けていたせいもあるが、あの時の気持ちを忘れた事はない。
ケーキや和菓子のようなぜいたく品は、スーパーでも視界に入れないようにしていたあの頃。
あの惨めな境遇の中で、食事をきちんと取れること、美味しい物を不安なく頬張れる喜びを思い知った。
だから、やり直してからは、食べ物には気を付けている。
お腹が空いていないのに、惰性で物を口に入れないし、不必要と感じる物はほとんど口にしない。
食べたい物、好みの物を、十分に味わって食べ、ご馳走になる際は、どうしても口にできない品があれば、予めそう告げて、一切手を付けない。
「あ、そのまま少し動かないで」
西本が顔を近付け、俺の口に付いたパイの破片を吸い取ろうとする。
透かさずフォークを彼女の口に当て、牽制する俺。
「けち。
自然な流れだと思ったのに・・」
「この年頃の男性を甘く見たら駄目だよ。
直ぐにエスカレートして、あーんな事や、こーんな事までされちゃうぞ?」
「私、高校を卒業したら、一体あなたに何をされるのかしらね。
今から楽しみだわ」
楽しそうに笑う西本に、俺は『勉強を再開するよ』としか言えなかった。