そして、彼は完成者である
広義的な意味での預言を扱う者、預言者。
神は言われるだろうか?
「私は静寂である。私は私がどんな事をするのか着目して離さない。」
神はこう言われる。
「私は静寂である。私が言わないと決めた事はとことんまで静寂にて、知識する者を現さない。すなわち、知識出来ない様に、静寂する。
私は静寂であるから、静寂する事に苦痛を覚えず、違和感はない。すなわち、自分の一部として、静寂でありながら、饒舌である。すなわち、私の言う事には、秘密にすべきものを秘密にし、語らうべき事を存分に語らう。私が今言う様に、静寂と饒舌は我が一部である。私は存分にその属性を使い分けるのである。私が言わない事は、公開されず、私が言う事は、私が黙っていても、公開される。何しろ神は饒舌、神そのものが喋らなくても、饒舌そのものが語るのだから、神の饒舌はすべて、公開されるべきものを人の口を借りてでも公開するのである。たとえば、「そして誰もいなくなった」、たとえば、「ドラゴンボール超」、公開されるべきものは、人間が自主的に公開するものである。
神が公開されるべきものを選り分ける。神の静寂は人間に宿らず、神の饒舌は人間に宿るものである。神の静寂は有知であり、神の饒舌は全知である。この状態変化に、対応し得るのは、神のみであり、有知の状態は純粋であればある程、神に近く、全知は神そのものである。
神はすなわち、神たる者を使徒として、送って、神に相応しい者を神の予言者とするのである。すなわち、私を使徒として送るのは、私が有知に限りなく近い存在だからで、モーセの様に、神の代わりとする者である。また、神の予言者とは、黒住教、天理教、金光教、大本教の四宗教である。この宗教は始めから終わりまでが神の予言者なのであり、使徒とは違って、自動書記を使う者、その文書を用いる者である。ある意味、教会とは、ひとりひとりが預言者なのだと言える。何しろ、書にして預言書を預かっているのだから、ひとりひとりが預言書を扱う預言者なのだ。神の預言を扱う者はすべて、預言者なのだと言える。しかし、狭義的意味の預言者は「クルアーン」にて、打留を宣告されている。広義的には、預言を扱う者すべてが預言者なのだ。」
有知に近い存在が神の使徒で、神の全知を現す存在が神の予言者なのである。そして、預言を扱う者、広義的な意味での預言者が神を指し示す者なのである。
神はカテゴライズを為される。何故か?
その理由は神イエス・キリストに重きを置くから。言葉にて、言葉なる神であられるイエス・キリストがすなわち、インマヌエルがいわば、言葉にて、カテゴライズするべき存在なのである。
また、彼は先駆者である。
彼は道でもあるから。
そして、彼は完成者である。
彼こそは神の体現者であるから。