契約
「なんじゃお主。まさか、わしのことが見えとるのか?」
死で充満していた空間に、まるで鈴の音がリンと鳴り響くようだった。
この場に似つかわしくない、可愛らしい不気味な音色が、かえって俺の恐怖を煽る。
「うーん……。しかしおかしいのぉ。人間にわしの姿は見えないはずなんじゃが」
俺の存在など意に介さないかのように、唸りながら考え込んでいる。
その間に、段々と冷静さを取り戻していく。
そして、改めて考える。
今、目の前に立ちはだかっているこいつは何者なのか?
振り返ってみれば、こいつは先ほど「人間にわしの姿は見えないはず」と言っていた。
この言葉はどういう意味だ? 人間には見えない?
こいつはやはり、人間ではないのか?
いや、そんなバカな話しがあってたまるか!
そんなことを本気で考える俺はどうかしている。
きっと疲れているんだ。そうに決まっている。
こいつは人間で、どうやってか俺の部屋に侵入してきた。
そして偶然、自殺をしようとしている俺と鉢合わせた。
疑問点はある。おかしい点もいくつもある。でも、そう考えざるを得ない。
そう考えないと、理性がどうにかなってしまいそうだ。
「……い。お……。……い!」
それほどまでに、俺の精神は参っていた。
日頃のストレスに加え、今日は自殺まで試みようと……。
「おい! お主、聞いておるのか!」
突然大声で話しかけられ、ビクッと体が跳ねる。
「全く、このわしのことを無視するとは。お主、命知らずじゃな」
目の前の何者かが、俺に話しかけている。
再び、赤い目がこちらを向き、喉が詰まる。
しかし、なんとか声を振り絞り、聞かねばならない疑問をぶつける。
「お、お前は、何だ!? どうやって部屋に入って来た!?」
「ん? おぉ、そういえば言ってなかったな。というかまぁ、本来なら言う必要もないんじゃが」
そう言って、フードを取った姿を見て、言葉を失う。
髪と肌は白かった。病的なまでに白い髪と肌には、一切血の気がない。
そんな、白に覆われた風貌に、爛と輝く赤が二つ。
まるで、雪原に血をポツリと垂らしたかのような赤い目が、こちらを見ている。
目の中で宿る赤は、血を、死を連想させる。
そして、その中でも一際異常なのは、その姿だ。
それは、どう見ても少女だった。
小学生ぐらいの背丈しかない、小さな少女。
歪で、人間離れしたその存在が、否応なしに俺の思考回路を停止させる。
「まぁ、わしは一言で言うなら、死神じゃ」
「……え?」
その少女は、なんてことはないように、「私は死神だ」と言った。
黒い服装に、巨大な鎌。
確かにその見た目は死神のそれだ。誰もが思い浮かべる死神の像だろう。
だが、だからと言ってそう簡単に信じる気にはなれない。
なんというか、そう思えるだけの実感が湧かない。
「えっではない。お主も死神ぐらいは知っておろう? そう、あれじゃ。命を奪う者のことじゃ」
「ふざけるな! そんな話し、信じる訳ないだろ! 真面目に答えろ!」
「何もふざけてなどおらぬよ。わしは至って真面目じゃ」
「もう一つの質問に答えてないぞ! どうやって部屋に入った!」
「どうもこうも、目が覚めた時にはこの部屋の中じゃったよ。そしたらお主が、順調に首を吊って死ぬ瞬間だったわけじゃ」
気が付いたらこの部屋の中?
全く持って答えになっていない。こいつは俺のことをからかって楽しんでいるんだ。
そう思った瞬間、死神だと名乗るふざけた少女に対して、激しい怒りが込み上げてきた。
「もういい! とっとと出て行け! 自分の家に帰りやがれ!」
「そうは言っても、この世にわしの帰る場所は無いからのー」
「じゃあお前はどこから来たってんだよ! あぁ!?」
「どこから来たか、か。ふむ、説明すると難しいんじゃが、お主ら人間は、死んだら肉体を焼くなり埋めるなり、どんな形であれ肉体を埋葬するじゃろ? そういう、肉体を埋葬する場所としての墓地ではなく、動物や植物、もちろん人も、あらゆる生命の魂が死後、必ず辿り着く場所、言うなれば「魂の墓地」じゃな。そこから来たんじゃ」
「魂の墓地」?
こいつは何を言っているんだ?
聞けば聞く程、謎が深まるばかり。同時に、イライラも積もっていく。
「しかもわしは、そこの管理者なんじゃ! 偉いじゃろ?」
ああ、もう限界だ。どこまでバカにする気なんだ!
いくら子どもが相手と言えど、ここまで侮辱されては我慢が出来ない。
(力づくにでも部屋から引っ張り出してやる!)
少女に近づき、腕を掴もうとしたその時……。
お腹に強い衝撃が走る。
「かは……っ!!」
呼吸が上手く出来ない。みぞおちを強く打ちつけられたようだ。
「わしに気安く触るでない。その気になれば、瞬きの時間にも満たぬ一瞬で、お主の命を刈り取ることだって出来るんじゃぞ? 立場を弁えることじゃな」
どうやら俺は、鎌の柄の部分で殴られたらしい。
だが、その動作は全く見えなかった。気付けば体は痛みに悲鳴を上げ、その場にうずくまることしか出来なかった。
「まぁ、少しぐらいわしの話しを聞いてくれても良かろう? こうやって誰かと言葉を交えるのは久方ぶりなのじゃ」
痛みで体を動かせないでいる俺の様子など気にも掛けていないかのように、自らを死神と名乗る少女は、淡々と一人で話し始める。
「そうじゃなー。ここは、なぜわしがここに来たかを話そうかの? きっとお主も知りたいじゃろうし。えーコホン。まず、さっきわしは魂の墓地の管理者だと言ったの? それもまぁ、間違いではないが、本来の役割は別にある。それが今回、わしがここに来た理由じゃよ。それは、命を奪う事じゃ」
「……!?」
「ま、元々わしは死神じゃし、当然じゃな。じゃが、闇雲に命を奪っている訳ではないぞ? そこには当然、ルールがある。生命の魂は死後、魂の墓地に行くということはさっき言ったの?
じゃが、それにも例外があっての。例えば。生きることに執着があったり、後悔や未練の念が強いまま突発的な事故で死ぬと、その者の魂は墓地には来れず、いつまでも現世に留まってしまうことがあるんじゃよ。そうなることを未然に防ぐために、わしがおる。この「幽世の鎌」はの、生物の肉体を切ることで、その者の魂を強制的に魂の墓地に送ることが出来るんじゃよ」
(強制的に、墓地に……。)
「ここまで話せばわかるじゃろ? わしがここに来た理由、それはお主の魂を墓地に送るためじゃ。ま、簡単に言うと殺しに来たわけじゃ」
「…………は、ははは……。そうか、わざわざ俺を殺しに来たのか……」
ようやく痛みが引いてきたと思えば、次は段々と理性が麻痺してきて、なんだか可笑しくて笑いが込み上げてくる。
(なるほど。自分一人じゃあ、死ぬことすら出来ない俺を見兼ねて、死神が直々に殺しに来た訳だ。そういうことなら、都合がいい……)
自嘲の笑いが零れる。
いよいよ、俺は何も出来やしない人間だと証明されてしまった訳だ。
「なんじゃ、何を笑っておる? さてはお主、ここまで話してもまだ信じておらんな?」
「そんなんじゃねぇよ……むしろあんたが死神であることを願うよ。そら、本当に死神だっていうなら早く殺してくれよ」
半ばやけくそになりながら答える。
もういい。生きれば生きるほど恥じを重ねてゆき、自分のことがさらに嫌いになる一方だ。
これ以上醜態を晒す前に、とっとと殺してもらおう。
「んー……わしもそう思っとったんじゃがなー……」
「なんだよ。殺さないのかよ? は、やっぱり出来ないってか。結局死神だってのは嘘だったのかよ?」
「そうではない。さっきも言った通り、わしは闇雲に殺している訳ではない。あくまでも、未練や後悔で魂が現世に残らないように殺すのが目的じゃからな。つまり、「死ぬ事」自体が目的の自殺と、それは矛盾するんじゃよ。死にたくて死ぬのに、そこに後悔があるのは変じゃろ? いや、厳密に言えば変ではないのかもしれんが、何にせよ、生きたいという思いより、死にたいという思いが勝ったということじゃな。総じて、自殺は人生を見限った者が取る行為じゃ。死ぬことでしか己を救済することが出来なくなった瞬間に、人は自ら死を選ぶのじゃよ」
「おい待てよ。じゃあなんだ……俺にはまだ未練があるって言ってんのかよ!?」
「ま、そうなるかのー」
「ねぇ! ねぇよそんなもん! 人生なんてクソだ! もういいんだよ!! 何かを始めることも、努力することも、全てが面倒くさくなったんだ!! もう、全部どうでもいい!! だからもう、俺は死ぬって決めたんだよ! どうせ俺には何も価値が無いんだからな!!」
無我夢中になって、吐き出した。
吐き出して、改めて実感した。
俺は無価値だ。虚無だ。社会に適合出来なかったクズだ
おまけに、自殺すらも自分一人でロクに出来やしないマヌケだ。
「だからとっとと殺してくれよ!! 生きる意味も! 目的も! ましてや未練なんて何もねぇんだからな!!」
こんなに大声を出したのはいつ以来だろう。
はぁはぁと、激しく息切れを起こし、呼吸が苦しい。
死神の少女は、俺の話しを聞いた後、部屋をぐるっと眺め、やがて本棚の方を見ると動きを止めた。
「ふむ、未練は何も無い、か? では聞くが、あれはなんじゃ? わしも現世のことはある程度は把握しておるし、人間の営みも知っておる。わしの記憶が正しければ、確かあれは、資格、と言うものじゃろ? それを取るための本がそこにあるではないか。見たところ、随分と使い古されているようじゃが……」
「てめっ……!! 勝手に見てんじゃねぇよ!!」
「あれが何よりの証拠じゃろ。自分の存在は無意味だと、無価値な存在であると思いながらも、それでも抗おうとした証拠じゃ。虚無な自分のまま人生を終えることが怖くて、そのちっぽけな手で何かを掴もうと、必死に手を伸ばし続けたのじゃろう? どうやら、それがお主の未練の源泉のようじゃな」
「うるせぇ!! てめぇに何がわかるんだ!! 知ったような口を利くんじゃねぇ!!」
「わかるとも。ダメな自分に抗おうと必死に戦って、それでも結局何も変えられずに死んでいった者をどれだけ見てきたと思っておる。わしは死神じゃぞ?」
こいつは本当に何なんだ。
心の奥底にしまって、二度と取り出さないようにしていた想いを、いとも容易く掘り返し、挙句、それこそが俺の未練だという。
本当にこいつは……。
「ところでお主、名前は何という?」
「あ? なんだよ急に、名乗る義理なんかねぇだろ。どうせ死ぬんだからな」
「まぁまぁ、良いではないかそれぐらい! ほれ、名前は?」
反抗するのも面倒くさくなり、大人しく名乗る。
「井瀬……歩……」
「そうかそうか、お主、名前を歩と言うんじゃな? では歩よ、ここは一つ、わしと契約せんか?」
ニマーっと悪だくみをしている子どものような顔を浮かべて、死神は、とある契約を俺に持ち出す。
「おっと、契約と言っても悪い話しではないし、難しい話しでもない。 歩よ、今からでも人生を変えれるとしたら、お主はどうする?」