死神
薄暗い部屋の中で、テレビの音だけが鳴り響く。
どうやら、今日は猛暑になるらしい。
今日の日付は、八月十五日。世間ではお盆という奴だ。耳を澄ませば、遠くから盆踊の喧騒が聞こえてくる。
そんな外の喧騒とは逆に、井瀬 歩は、部屋に一人引き籠っていた。
別に、引き籠ること自体は今に始まったことじゃない。もう何週間も、何か月もそんな状態だ。外に買い物に出かけるのも億劫で、食料や日用品は全てネット通販で済ませている。
しかし、最近ではそんなことすらもしなくなっていた。もう丸二日間、何も食べていない。
もはや、生きることすら面倒になってきていた。
どこで間違った?
何を間違った?
いつからこうなった?
そんなことをいくら考えても、答えは出ない。
段々テレビの音すらうるさく感じてきて、電源を落とす。
ワンルームの狭い部屋に、自分だけがいる。玄関からこの部屋に通じている廊下には、キッチンがあるはずだが、積み重なったゴミ袋で見えなくなっていた。もはやゴミ屋敷だ。
今、ワンルームにあるのは、テレビとベッドと机、本棚が一つと椅子が一脚。
閉め切っているカーテンを少し開き、チラッと外を見る。
五階建てのマンションの四階に住んでいるおかげで、景色がよく見える。遠くでは花火大会が行われているらしく、色のついた火花が遠くの空で散っている。
もっとも、花火を見ても何も感じない程に、俺の感性はとうの昔に死んでしまっているのだが。
「さて……」
そう独り言を呟きながら、ベッドから立ち上がる。
部屋の中央には椅子が置かれ、照明からはロープが一本ぶら下がっている。
これらは全て、自分で用意したもので、その理由は明白。
自殺をするためだ。
一流大学を出て、俺は優秀だと自惚れ、愚直にも一流の大企業だけを目指していた大学時代。
立派な社会人になるどころか、結局どこにも就職できず、フリーターになった。
それでも、来年があると張り切り、やはり愚直に大企業ばかりを狙っていた。
さすがに高望みし過ぎたかと、目標を下げて小さい企業に就職した。
しかし、そこの空気に全く馴染めなかった。
ただ毎日、機械のようにこなすだけの業務。度重なる上司からの嫌がらせ。いい大学出てるくせに仕事が出来ないと奴だとレッテルを貼られ、次第に人間関係にも疲れていった。
その会社も半年で辞め、正真正銘のフリーターになった。
ほとんど毎日バイトに明け暮れ、もはや生きるだけで精一杯。
学生時代に持っていたはずの夢も、目標も、いつの間にか全て失っていた。
そんな時、久しく会っていなかった学生時代の友人に、「会って飲もう」と誘われた。六人の友人が集まり、皆口々に、「最近の仕事どう?」とか、「付き合ってる彼女はいる?」とか、今の自分にとっては眩しすぎる会話をしていた。
「歩は何の仕事してんの?」
悪気があったのか無かったのか、友人の一人がそんな質問を投げ掛けてきた。
「えーっと……実は働いてなくて……フリーターなんだ……」
俺がそう言った瞬間、誰かに笑われた気がした。誰かはわからない。もしかしたら、笑われたということ自体、勘違いだったのかもしれない。
でも、どうしてもそう感じられて、それ以上その場にはいられなかった。
なぜなら、はっきりとわかってしまったから。
もう俺は、誰よりも下なんだと――。
それがわかった途端、俺は空っぽになってしまった。
俺には価値がない。俺は何も成し遂げていない。
きっと、ここから頑張れる奴もいるんだろう。
でも俺にはもう、そんな気力は無かった。もう疲れた。
かろうじて一生懸命続けていたバイトも次第に減っていき、ついにバイトも辞めてしまった。
そこからは、大学時代のバイトでコツコツと貯めていた貯金だけの生活。
気付けば、年齢は二十五歳になっていた。
二十五歳でニート。最低だ。正直、自分の人としての価値すらわからなくなっていた。
……とまあ、そんなことがあって、生きること自体に疲れた俺は、今日になってようやく、
自殺する決心が付いたのだった。
椅子の上に上がり、ロープを掴む。先ほど試しにぶら下がってみたが、ロープの耐久度に問題はなかった。用意は万全。いつでも死ねる。
後は、このロープの輪っかを首に掛けて、椅子から降りるだけ。簡単だ。
ロープを首に掛け、スタンバイはOK。
(降りるだけ……降りるだけ……降りるだけ……)
頭ではわかっている。なのに体が動かない。
決心は付いていたし、覚悟も出来ていた。
なのに、体の動かし方を忘れたかのように、ピクリとも動かない。
「く、くそ! なんでだよ……っ!」
何も出来ない俺に唯一出来ることがあるとすれば、それは死ぬことだ。
なのに、それすらも出来なかったら、本当に俺は何なんだ……。
死ぬことでしか自分の価値を見出せなくなったのに、それすらも出来ない。
惨めだ。
「もう俺にはこれしかないんだよ!! もう死ぬことぐらいしか出来ないんだよ!!」
喉が張り裂けそうになるぐらい、必死になって叫んだ。
動かなくなった体を、それでも無理やり動かそうとする。
すでに、体は汗でびしょびしょだった。
どれぐらいの時間が経っただろう。時間の感覚もわからなくなってきたその時。
「……!」
ズルっと足が滑った。
体が下へ引きずられ、そのまま首に全体重が乗っかる――
「……!?」
しかしその瞬間。
俺は視界の端でそれを捉えてしまった。
部屋の前に、何者かが立っている。
「ぐっ……!!」
慌ててロープを両手で掴み、首に体重が掛からないようにする。
かろうじて片足が椅子に残っていたおかげで間に合った。
「はぁ……はぁ……」
尋常じゃないくらい、汗をかいていた。
せっかくあと少しで死ねたのに、そこに水を差されて怒りを感じていた。
それと同時に思ってしまった。
もう二度と、こんなことはしたくないと。
死の淵に立つ怖さを知ってしまった。
恐怖で足がガクガクしていた。
足腰が立たず、四つん這いの状態から廊下の方を見る。
そこにはやはり、誰かがいる。
「てめぇ……! 一体誰だ!! どこから入って来……!?」
怒りをぶつけようとして、言葉に詰まる。
なぜなら、その何者かの服装が異常だったからだ。
全身は黒いローブに包まれ、黒いフードを深く被っているため顔は見えない。
しかし何よりも目を惹くのは、その手に握られている大きな鎌だ。
こちら側に刃を寝かすようにして向け、まるで、いつでもお前の首を跳ね飛ばせるぞと言っているようだった。
この薄暗い空間にその恰好は、まるで死神だ。
それほどまでに、今廊下に立って、俺のことを見下ろしている死神からは、異質な気配が漂っていた。
「何なんだ……お前……」
話しかけるが、返答はない。
「答えろよ……お前は誰だって聞いてんだ!?」
ヒステリックさすら感じさせる声を上げながら、俺は大声を上げて問うた。
しかし、反応は同じ。まるで聞こえていないかのように死神は何も答えない。
すると、死神が動いた。
キョロキョロと、何かを探しているかのように周囲を見渡している。
「お前だよ!! 今、鎌を持ってキョロキョロしてるお前に聞いてんだよ!!」
そう言った途端、ぐりんと死神の首がこちらを向いた。
「ひっ……っ!」
フードの奥から赤い双眸が覗き、たったそれだけで声を発することも、身じろぎすることも、あらゆる行動が出来なくなる。
(怖い……怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いわ怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い!)
頭の中が恐怖で支配され、気を失いかけたその時……。
「なんじゃお前。まさか、わしのことが見えとるのか?」
まるで子供のような幼い声が、闇で満たされているフードの中から聞こえてきた。