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人はなぜ歴史を学ばないのか 歴史を学ぶことと幸福、あるいは不幸の関係について

作者: くらげmotema

 「歴史」の存在を疑う人は少ない。信長のもとに何百人と時間旅行者が現れたとして、それが誤りであることは誰もが知っている。それは歴史が確固たるものであって、いたずらに改変などされないと信じているからだ。


 だがそれは誤りだ。歴史は確固たるものではないし、改変もされうる。例えば大航海時代は欧州にとっては発展の時代だったが、インドや新大陸などにとっては侵略の歴史だ。ヒトラーは人類悪のように扱われているが、当時のドイツでは英雄だった。2000年まで日本史の教科書に掲載されていた土器の大半は、一人のアマチュア考古学者の捏造品だった。


 そうしたことはあまり知られていない。それは単純に、人々があまり歴史を学ぼうとしないからだろう。それはなぜだろうか? 詰め込み暗記教育の弊害もあるだろうが、それはひとまず置いておいて、歴史が学ばれない理由、そして逆に歴史を学ぶ意義について私なりの考えを述べてみたい。


 まず一つには、歴史の学習がある目的の達成に直接寄与するものではないから、と考えることができるだろう。Javaを学ぶことはキャリアアップという目的達成を助けるが、歴史を学ぶことはそうではない。時間に追われる現代人にとって歴史を学ぶことは単なる時間の浪費でしかなく、それ故に歴史を学ばないのかもしれない。


 あるいは歴史が、時に不都合な「真実」を伝えるためであるかもしれない。人類史を紐解けばそれが必ずしも進歩し続ける「右肩上がり」ではないとわかる。だがそうした「真実」は人を不安にさせる。実際に第一次世界大戦後の欧州では戦後社会が平和へ進むことが信じられていた。大戦という不幸を経験した人々にとって、その後の時代が更に悪くなるなど考えたくもなかっただろうし、また考えることなどできなかったのだろう。


 以上のような歴史を「学ばないこと」への理由は、ある種の人間の弱さに起因している。それは視野の狭さであり、「自分が間違えるはずがない」という傲慢だ。キャリアのためにJavaを学ぶことは目的達成のためにはたしかに有効だ。だが、その目的が正しいという根拠はなにか。今やJavaよりPythonを学ぶ方がキャリアに寄与するかもしれない。そもそもキャリアアップは人間の幸福を保証してくれるのか?


 私が思うに、歴史を学ぶ意義とは究極的にはそこにある。「人は間違える」という理解を与えてくれるものこそ歴史なのである。人は過ちを犯し、人類史は黎明と黄昏を繰り返すものだという認識が、傲慢を取り去ってくれる唯一のものだ。あるいは仮に人類史が「右肩上がり」だったとして、その事実は揺るがない。常に現代が「右肩上がり」の頂点だと仮定すれば、それ以前の歴史は全て「現代ほどの成功を果たせなかった失敗の歴史」と言える。「人は間違える」という歴史の教訓からは逃れられないのである。おそらく人々はそのことを理解しているからこそ歴史に向き合いたがらないのである。「人は間違える」? 冗談じゃない! 自分は絶対に間違えない!


 それでようするに、人々は己の幸福のために歴史を学ばないのだ。では歴史を学ぶことは意義がありつつも不幸をもたらすのだろうか。いやそもそも幸福とはなんなのだろうか? これについて私の気に入っている言葉があるので引用したい。


 人はおおむね自分で思うほどには幸福でも不幸でもない。

 肝心なのは望んだり生きたりすることに飽きないことだ。


 ロマン=ロランの『ジャン・クリストフ』の一節だそうだが、私がこの言葉と出会ったのは、押井守監督による映画『イノセンス』のワンシーンだった。TVアニメ版の攻殻機動隊も面白いが、映画はまた異なる魅力があるので未視聴の場合はぜひ鑑賞をおすすめしたい(Netflixにあるよ!)。


 さておき、この言葉は幸福や不幸をあえて定義していない点が美しい。幸福や不幸とは本質的に定義不可能なものである。少なくともドーパミンの分泌量では測れないし、ある時点では幸福だと感じた体験が後から不幸のイメージを伴うものに変化することは珍しくない(好きな女の子にフラれて顔も見たくなくなった、など)。特に「自分で思うほどには」という点が重要である。人間は所詮、自分で思う範囲でしか世界を認識できない。そしてその範囲とは驚くほどに狭い。自らの無意識でさえ認識できないのだから、その範囲は推して知るべしである。


 一方で歴史には、それを編纂する歴史家の存在も含めて様々な人間の視野が反映されている。少し教科書を紐解いてみれば、一見すると自明である事柄について実に多くの人々が様々な観点から争っていることがわかるだろう。例えばチェンバレンの宥和政策は現代的な観点から見れば明らかな愚行に思えるが、当時はそれを平和への偉大な一歩だと捉える人々が少なくなかった。この歴史が教えてくれるのは、強権的なファシストには鼓を鳴らし攻めて可なりということではない。当時最高の頭脳を持つ政治家でさえ、その視野は限られたものだったのだ。逆にナチスの危険を予知していた人々もまた大勢いたし、そうした積み重ねが歴史となっていく。歴史を学ぶことで視野の幅が広がる。これは一つの大きなメリットである。


 またこのチェンバレンに関する単純な事実は、実のところ歴史を学ぶことはどちらかと言えば幸福をもたらすことを示唆している。人々はいつでも、自らの限られた視野の中で幸福を追い求め、あるいは自らの不幸を嘆く。そしてお決まりの能力主義と自己責任論に行き着き、社会をますます硬直化させるのである。しかし人は状況によってつくられる……というのはサルトルの言葉だが、幸福や不幸というのはつまるところ状況の産物であり、人間にできることは、望んだり生きたりしながら状況が変わり続けることを止めないことだけなのである。しかし歴史に学ばない場合、そのことに気が付けない。これは心構えの問題かもしれない。「人は間違える」と理解している者のほうが、それを知らない者に比べ、不幸への耐性は高くなるのである。


 もしあなたが「俺って間違えてばかりだしマジで無能……」と思っているのなら、騙されたと思って歴史を学んでみてほしい。人類は間違えてばかりである。世界を牽引するべき人々が、なぜか核兵器を作って世界を滅ぼしかけたりしているのだ。投稿した小説のPVが伸びないことくらい、たいして気に病むことでもないのである。

最後までお読みいただきありがとうございます!

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