プライドと情熱
正男はマスクを耳にかけた。
ここ一カ月間近く、ずっとマスクをしていた。
来年度を目途に、新しい商品開発を任され、何にしようかと考えていた矢先に体調不良に見舞われたのだ。
熱がある訳ではないが咳き込む事はあり、その為、一様マスクを着用していたのだ。
マンションの最寄り駅から反対方向にある病院に何度か通っていた。
肺にも何か異常があるかと思い、調べてもらったが特に異常は見られなかった。
あの日、嘔吐をしてからは、夫婦の仲は以前に比べると随分とよくなっていた。
この前には、仕事を早めに切り上げた後、病院に寄り、その病院帰りに偶然、買い物帰りの妻と一緒になり、横に並んで歩いて帰宅したほどだ。
そして、その時の帰りに元上司の浜中とも道端で会ったのだ。
それは久しぶりの再会ではなかった。
実は何週間か前に、正男は12階に住む元上司の浜中に会いに久しぶりに部屋を訪れていた。
その訪問は浜中が会社を辞めた後、正男と二人で近所を飲み歩き、ヤケ酒で酔いつぶれた浜中を部屋に送り届けた以来だった。
会いにいった理由は、先月、浜中が結婚したらしく、正男は個人的に連絡をし、祝儀を届けにいったのだ。
結婚した話は会社の人から結婚後に聞いたのだった。
朝早く、正男がインターホンを鳴らすと、すぐに玄関の扉が開いた。
「おう、久しぶりだな。狩野。」と浜中は元気そうに言った。あの頃と何も変わらない様子だった。
「お久しぶりです。浜中さん。朝からすみません。」
「いやいや、久しぶりに会えて嬉しいよ。同じマンションに住んでるのになかなか会わないもんだよな。最後に会ったのは五カ月前ぐらいじゃないか?」
「そうですね。エントランスですれ違いましたね。」と正男は言ってから、「おめでとうございます。」と手に持っていた結婚祝いの祝儀袋を早速手渡し、「浜中さん、水臭いですね。教えてくれないなんて。」と言った。
「狩野にはここで会うからな。いつでもいいかと。」と浜中は笑った。
正男は既に浜中の元彼女、今の奥さんとも何回か面識があり、前から事実婚みたいなものだと正男も思っていた。それに、これから式を挙げる予定も特にないらしい。
「別におれはもう狩野の上司でもないから、受け取れないよ。」と浜中は一度は受け取った祝儀袋を返そうとした。
「何言ってるんですか。そんなの関係ないですよ。また今度久しぶりに飲みに行きましょう。」と正男は言った。
「そうだな。飲みに行こう。」と言ってから、浜中は怪訝そうに正男の顔を見て、「マスクなんかして体調大丈夫か?」と聞いてきた。
「はい。最近ちょっと弱ってて。」と正男は言うと、
「昔から狩野は弱る時があったもんな。けど、体調には気をつけろよ。」と親身になって言ってきた。
「はい。浜中さんは元気そうですね。それだけが取り柄だ。」
「俺は常に元気だよ。全く問題なしだ。ところで、会社はどうだ?」と浜中は顔色を変え、気になる様子で聞いてきた。
「相変わらずです。給料は上がらないですし、昇進もないです。けど、また商品開発を任される事になりました。」と正男は淡々と言った。
「昔と違って、あんまり嬉しそうじゃないな。」と浜中は正男の変化ぶりに驚いたように言った。
「まぁそうかもしれません。」
「企画は決まってんのか?」
「いえ、まだです。林がなんか一人で盛り上がっていますが...。なんか昨日も昼飯食べてる時、おれはやるぞ!とか言ってましけど、具体的な案は一つも...。」と少し笑いながら正男が言うと、
「あいつじゃな...。てか、林もまだ頑張ってんだな。」と笑って言い、
「ならリベンジしたらどうだ?本間さんのアイデアだったやつ。」と浜中は冗談かわからない事を言ってきた。
「嫌ですよ。」と正男は笑いながら拒否した。
「俺は今でもいけると思うけどな...。ところで、本間さんは元気か?」と浜中は正男に聞きたい事が山ほどあるみたいだった。
「元気ですよ。僕より全然。」と答えた。
「そうか、ならいいけど。まさか二人が結婚するとはあの時、思いもしなかったよ。狩野はやっぱりやり手だよ。」と浜中は笑って言い、
「実は、初めてマンションですれ違った時、眼鏡かけてたから気づかなかったなよ。本間さんだと。綺麗な人がいるなと思ったけどな。けど、もう本間さんとはここでは随分会ってない気がするな。」と浜中は目線を右上に置き、昔を思い出しながらそう言った。
すると、正男は一度腕時計を見る動作をし、「昔はコンタクトでしたしね...。では、浜中さん、おめでとうございます。これから仕事に行きますので、失礼します。」
「おぅ、わざわざありがとな。こんな朝から長い事引き留めてすまんかったな。仕事頑張ってくれ。で、また飲みに行こうな。」と言ってきた。
そして、その別れ際、正男が浜中に背を向け、数歩歩き出した時、
「狩野! 結婚っていいもんだな。」と浜中は同意を求めるように笑顔で言ってきた。
正男は作り笑顔で、「はい。」と小さな声で返事するだけだった。
そして、正男は色々と考え事をしながらエレベーターに乗ると、間違えて11階のボタンを押してしまった。
だがそれから、考えは変わり、
正男は妻と一緒に働いていた時、三年前に妻が残したアイデア、女性向けの即席麺の企画を今一度、試してみようと思ったのだ。
浜中の言う通り、今でも古びずに、通用するものだという確信があった。
どうしてだろうか、今ではそれをなんとか形にしたい気持ちが湧き出ていた。
今更、それにちゃんと目を向ける事ができるようになったのは、体調不良の時の妻の献身さだった。
だから、次の企画会議の時、この案を強く押し出そうと考えていた。
そして、このことを今夜、妻にも軽く伝えようと思っていた。
拒否されるかもしれないが、とにかく、今夜話してみることにした。
夕食時、あの日を境に夫婦でテーブルを挟んで食べる機会も多くなった。
無音の気まずさを解消する為につけていたテレビを今はつける事もほとんどなかった。
だが、今日は外では雨が降り、雨音が聞こえていた。しっかりと地面と叩き付けるような雨の音だ。
妻の手料理が並んだテーブルを、暖色系のライトが照らしている。それは妻が昨日、なぜかいきなり買ってきた、温かい火のようなライトだった。
正男は茄子とベーコンのトマトパスタと野菜スープを食べながら、少し雑談をした後で、今回の商品開発はあの女性向けのヘルシー即席麺でやってみようかと、対面に座る妻に向かって話し出した。
正男はその話を口にすると、妻は少しは喜んでくれると思っていたが、その間、特に反応を見せる事もなく、黙って食事を続けながら聞いていた。
そして、正男がその話を簡潔に言い終えると、
妻は不可解な表情を浮かべながら、「どうして?」と尋問するかのように聞いてきた。
「いや、どうしてって、それなら今でも通用すると思うからだよ。」と正男は妻の意外な反応に対して言った。
「それを押し出したいという気持ちの中には、今の私たちの仲と関係があったりするの?」と今度はそう聞いてきた。
正男はパスタがほとんど無くなり、油が染み込んだ茄子が少し残った皿を見ながら、
「まぁそれは、否定はできないと思う。」と正男は正直に言った。
「仲直りのしるしとして、私が昔だした案でやってみたいって事?」
「いや、どうだろう?そういう風に言ってしまえば、そういう風に聞こえるかもしれなけどさ、他に良さそうな案もないんだよ。」
「けど、当時、あなたはそんなに乗り気ではなかったわよね。」
正男は当時を思い出す振りをした。
「多分、そうだったかもしれない。けど、今でもイケると思うんだよね。」といって言ってから、
「嫌なのか?昔の案を今更引っ張り出すのは?」と正男は聞いた。
妻はフォークから手を離し、ゆったりとした動作で両肘をテーブルに着けた。
「嫌とかじゃないの。けど、重要なのは、そこにプライドはあるのか?って事よ。」と妻は一音一音はっきりとした声で言った。
「プライド?」
「プライド」
「どういうこと?」と正男はフォークで茄子を刺しながら聞いた。
「多分、あなたは今、ある種のプライドを捨てた事で見えなかったものが見えてるし、柔軟になれてると思うの。それはいいことだけど、」と言うと、妻は言葉の続きを考えるように一呼吸置いた。
「その仕事にプライドを持てるかどうかよ。それに仕事に、簡単な理由で私情を持ち込むべきじゃないし、それが売れるとは限らないじゃない。で、もし仮に売れなかったとしたら、私たちの関係がまたギクシャクするかもしれないよね。」
「どうしてそんな話になるんだよ。ちゃんとプライドは持ってるし、そこまで深く考えなくてもいいと思うよ。ギクシャクなんてならないよ。」と正男は言った。
妻はその言葉を信用したのかはわからない。
「そうね。少し考え過ぎなのかもしれない。あなたがする仕事はあなたの自由だから。だけど、」と妻はまた言い、今度は両肘をテーブルから離し、軽く背筋を伸ばした。
「まぁ、わかるよ。言いたい事は。」と正男は口をはさんだ。「いきなり鞍替えし過ぎって思ってるでしょ?そんな気持ちでその仕事にプライドが持てるのか?って事でしょ?」
妻はかけていた眼鏡を外し、両手でそれぞれのフレームを持った。
「プライドは情熱と一緒に燃やさなくてはいけないの。いい仕事をするのには、誇りを持った仕事をするには、内から出てくるプライドが必要だし、情熱も必要なのよ。情熱でプライドを燃やして頑張るの。そうしたら、また新しいプライドが生まれてくるの。その繰り返し。そして、いらないプライドは燃えないゴミの日にでも出すの。いらないプライドを持ち続けると、自分が苦しいだけだから。」
「いらないプライドって何?」と正男は聞いた。
「いらないプライドは、今のあなたが持ってないものよ。自分を守るけど、窮屈な檻みたいなもんよ。」
正男は無言になり、
「その話、なんだかよく分からん。」と少し笑って言った。
すると、妻は「覚えてないの?このセリフ、昔一緒に観た映画の主人公のセリフよ。」と笑った。
「全く覚えてないな。」
「あなた好きだったじゃない?面白かったって。」
「いや、本当に覚えてないわ。」と正男は笑った。
「二人で一番最初に観た映画のセリフなのに。」と妻は言った。
「なんか観たのは、覚えてるけど、その時、内容に集中できなかったから。」と正男は言った。
そして、話題を変えようと思った。
明るい話がいいのだ。
「話変わるけど、今日、冷蔵庫の下の段見た?」
「いや、見てないけど。何かあった?」と妻は言った。
「いやね、今日ね、会社の近くのケーキ屋さんでケーキ買ってきたんだ。」と正男は言った。
「その店知ってる?」と正男は店名をあげながら、妻に聞いた。
すると、妻は「ねぇ、」と言って、笑みを浮かべた。
「ねぇ」にも色々な「ねぇ」がある。
感情が言葉の意味を変えるのだ。
その時の「ねぇ」には、優しさが隠れていた。
正男は、
いや、正男から吐きだされ彷徨うプライドは、
ゴミ捨て場に立っていた。
内なる情熱の火、たいまつの火があったとしても、燃えないプライドだった。
自分を認め、愛を知り、優しさに触れ、感謝の気持ちを持つと、いなくなるプライドだった。
彼はこの状況に対して、何も思わなかった。
彼はまたすぐに現れるかもしれないからだ。
遠くの方から子供の声が聞こえてきた。
それは無邪気で楽しそうな声だった。
彼はその声をしばらく聞いてから、
そっと目を閉じた。
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