嘔吐
本間が会社を辞める一週間前、
正男は仕事の昼休みに二人の同僚と、行きつけの定食屋に来ていた。
仕事内容は代わり映えもなく、何か面白い話があるでもなく、する話と言えば、世間を賑わせている芸能人のゴシップや同僚が買う予定の車の話などをしていた。
正男はたいして興味はなかったが、その話にちゃんと参加していた。
そして、しばらくして、その内の一人がトイレに行くと、
もう一人の同僚が正男に話かけてきた。
それは林だった。
「フラれました。」
とコソコソと小さな声で、残念そうに言ってきた。
「何を?」と正男は箸で漬物を取りながら言った。
「忘れたんですか?」と林は聞いてきた。
正男は箸で漬物を持ち上げたまま、
「...告白したのか?本間さんに?」と驚きながら言った。
「はい。しました。先週の、この前の飲み会の後です。」
本間は金曜日の飲み会に二週連続で参加していたのだ。
正男も同じく二週連続で参加していたのだが、その間、林がいつ告白をしていたのかはわからなかった。
その日、二次会はなかったからだ。
「どうやって?」
「そりゃ、直接ですよ。」
「何て言われた?」
「そういう事はやめてくださいと。キッパリと言われました。ショックでしたよ。」と、林はそこまで落ち込んでいる様子でもなく言った。
「そうか...。それは残念だったな。」と正男はやっと掴んでいた漬物を口に入れながら言った。
「慰めの言葉はそれだけですか?」と林がため息交じりでそう言うと、もう一人の同僚がトイレから帰ってきた。
「まぁそうだな。詳しくまた聞かせてくれ。」と正男は林に言った。
「詳しくもなにも...。」と林が言うと、
「えっ、何の話ですか?」ともう一人の同僚が興味ありげに割り込んできたが、二人は適当に誤魔化した。
そして、その話は終わった。
正男は頭の中で、昨日の本間の様子を思い出していた。
実は昨日、正男は本間と一緒に食事をしていたのだ。
昼間、正男は会社から外食に出るタイミングが他の同僚たちとはズレたが、たまたま本間とは重なり、
二人で階段を降りてる途中、「何食べるんですか?」と本間が聞いてきた事から、その話の流れで一緒に食事をする事になったのだ。
二人は会社の近くにある喫茶店でランチを食べた。正男はなぜかいつもとは違う場所を選んでしまった。
ここには今までに数回しか来た事がなかった。
少し薄暗い雰囲気の店内では、馴染みのないジャズがBGMとしてかかっていた。
そして、カウンターの席はスーツ姿の人で満席であった為、対面のテーブルで食事をする事になった。
その状況に正男は今更こっぱずかしくなっていた。
少し葉先が鋭い観葉植物が後ろにある席に座ると、正男は何を話そうかと考え、
「最近、仕事はどう?」と、とりあえずの質問を聞いてみた。
「どうですかね。いいと思いますけど。」と本間は少し考えてから、どこか不満があるような雰囲気で言った。
正男は「これからもっと慣れれば、少しは楽しいかもしれないよ。」と言った。
そして、おしぼりで手を拭きながら、「あのさ、今更聞くけどさ、なんでウチの会社に入ってきたの?」と前から疑問に思っていた事を聞いた。
本間もおしぼりを手に取ってから、「本音を言えば、家から近かったってのもありますけど、好きだったんです。会社の即席麺が。」と言った。
「へぇー、珍しいね。」と正男が感心しながら言うと、
「そうですかね?大学生の頃によく食べてましたよ。」と言った。
「そうなんだ。海外で?」
「はい。日本から沢山持って行ってました。」
「本間さん、即席麺を食べるイメージがあんまりないけどね。」と正男が言うと、
「そうですか?そんな風に見えますか?」
「うん。見える。ちょっと意外な感じがする。」
本間はおしぼりをテーブルに置き、
「人は見かけではわからないもんですよ。誰にも見えない部分があると思います。時にはそれは自分でも見えなかったりします。」と言った。
正男は咄嗟には理解できず、「えっ、どういうこと?」と聞くと、
「いや、すみません。なんでもないです。」と本間は言った。
「なんか哲学的だね。」と正男は笑み浮かべて言った。
その食事中、林が昨日、本間に告白してきた話を本間の口から聞くことはなかった。
どこからどう見ても、いつも通りの彼女であった。
二人の会話はスムーズであり、正男は他の同僚とは違って、本間とは話の内容にどこか噛み合うシンパシーみたいなものを本当には感じていた。
だが、この日を最後に、本間が退社するまで、二人が会社で挨拶をする以外に面と向かって話す事はなかった。
翌週のある朝。
「本間さんは退社した。」
と上司の浜中が朝礼で伝えると、突然の報告にフロアにいたみんなは少し声を上げ、驚いた表情になった。勿論、正男も例外ではなかった。
そして、その後、フロアにいる誰もが顔を見合わせた。
「退社理由はよくわからないが、こういう形になって残念だ。」と浜中は特に感情を込める事なく言い、その日の朝礼はあっさりと終わった。
始業開始になると、林が早速、正男のもとにやって来た。
「僕のせいですかね?どう思います?」と開口一番聞いてきた。
「違うと思うよ。本間さんにも色々あったんでしょ。」
「狩野さんは事前に何か知ってましたか?」
「知らないよ。何も。」と正男は言った。
「寂しいですよね。なにか言ってくれてもよかったと思いますけど。」
「まぁな。けど、過ぎた事だ。気にすんな。」と正男は林の肩を叩き、
「この会社、案外、離職率は高いからな。」と言って笑った。
だが、林以上にショックを受けていたのは、正男だったかもしれない。
しばらくすると、正男は浜中のところに行き、
本間の退職理由の真実を何か知っているのかと聞いてみた。
「知らないよ。何も。けど、不満があったんだろ。彼女の能力を活かす事が出来ない仕事場だったとかそんなもんだと思うよ。彼女は優秀な人だから。まぁその気持ちもわかるけどな。辞めたい気持ちは。」と浜中は両腕を伸ばしながら言った。
「えっ、浜中さんも辞めるんですか?」と正男は少し冗談を交えながら聞いてみた。
「まぁ。どうかな?」と浜中は言った。
「どうかな?ってなんです。」
「おれも分からんって事だ。上が上だからな。それにまだ独身だからな、俺は。動ける時に動いておきたいよ。まぁ、もうマイホームを買ってしまったけどな。」と浜中は椅子にもたれかかり、顔は少し笑顔だったが、そう感慨深げにそう言葉を漏らした。
表面上ではわからない。
誰もが不満を抱えながら、生きているのだ。
企画が中止になり、本間が会社を辞めると、正男はさらにパッとしない日々を過ごしていた。
心は暗闇のどこかをずっと彷徨っていた。
新しい何かを見つける為にも、たいまつに火の明かりが欲しかった。
時間がただ過ぎて行くのが嫌だった。
だが、本間が辞めてから、二週間後の日曜日の朝、
正男は会社の最寄り駅で偶然、本間と出会ったのだ。
本間は私服姿で髪を降ろしていたが、スラッとした見覚えのある後ろ姿で正男はすぐに気がついた。
話かけたのは、正男からだった。
「本間さん、久しぶり!」と駅の北口で立ち止まっていた本間に正男は前に回って話しかけた。
「あっ、狩野さん...。お久しぶりです。」と本間は目を見開き、驚いた様子で言った。
「久しぶりだね。」と正男が言うと、
「はい。久しぶりですね。まぁでも、二週間ちょっとぐらいですけど。」と本間は半笑い気味で言った。
「何してんの?こんな所で。」と正男は正直に聞いた。
「いや、まぁここも家から割と近所なので...」
「そっか、そうだったね。」
「けど、会社にいた時に、気になったお店を見つけていたので、今日来てみただけです。」
「あぁ、そうなんだね。何のお店? また、てっきり入社してくれるかと思ったよ。」と正男は少しきつめの角度の冗談を言った。
「いえいえ」と本間は小さな声で否定してから、「ケーキ屋さんです。」と言った。
「へぇ、なんて名前のケーキ屋さん?」と正男は聞いてみたが、本間が返答したお店の名前は知らなかった。
「そんなお店があるんだね。近くなのに知らなかったよ。」と正男は言った。
「ところで、あの、狩野さんはなんで今日スーツ着ているんですか?」と今度は本間が疑問に思った事を聞いてきた。
「あぁ、これね。今日、ちょっとだけやる事があってね。」
「えぇ、日曜日にですか?珍しいですね。」と本間が言うと、
「そうなんだよ。珍しいよね。日曜出勤。ちょっと上に話す事があってね。けど、本間さんにまた会えたから良かったよ。」とお世辞に聞こえるかもしれないが、正男の本心を正直に告白した。
本間は黙って頷くだけだった。
すると、二人の間には、会話の終わりの後みたいな微妙な空気が流れた。
世間話は終わり、もう特に話す事はないのだ。
だが、正男はその場から簡単には離れられなかった。
本間は少し気まずそうに少し辺りを見渡していた。
そして、「狩野さん、ではまた。」と本間が言い出した時、
「本間さん、連絡先教えてくれませんか?」と思い切って言った。
「こういうのは本間さん嫌だという事はよく分かっていますが。」と正男は本間の心を読み取って言った。
正男は笑顔を作れずに、真剣な顔になっていた。
本間は少し黙ってから、
「はい。あんまり好きではないですが...、狩野さんなら知っているのでいいですよ。」と長い髪を耳にかけながら言ってきた。
正男は急いでポケットを探ってみるが、スマホを家に置いてきたのを思いだした。落としてはおらず、恐らく家だと思う。電車の中でそれに気が付いていたのだ。
「あっ、ごめん。今日スマホを家に忘れてるんだわ。だから、ちょっと、これに連絡先書いてくれる?」と鞄を慌てながら開け、紙とペンを取り出した。
正男はその瞬間、自分でも無様に思えていた。
本間は正男が取り出した紙に電話番号とアプリの連絡先を書いてくれた。
日曜日、周りを通り過ぎる多くの人たちは、そんな正男と本間のやり取りの様子をジロジロと見てきた。
正男はその視線を感じ、どっからどう見ても、これはナンパにしか見えないだろうと思った。
スーツ姿の男が私服姿の女性に話かけている構図だ。
「なんか、ごめんね。引き留めてしまって。」と正男は真面目な口調な割には作り笑顔でそう言った。
「いえいえ、またお会いできてよかったです。」と本間は言い、
「じゃあ、またです。」とお互いに小さく手を振って別れた。
だが、正男は歩く素振りを見せた後、立ち止まり、数秒間、また本間の後ろ姿を見てから、会社に入っていった。
たいまつに再び小さな火がついた気がした。
いや、火はついたのだ。
正男は会社に入ると、自分の携帯に一様、電話をかけてみた。
そして、自宅に帰ると、一目散にスマホを手に取り、適当な挨拶を並べた後、
「今度映画でも観に行きませんか?」と誘ったのだ。
朝、正男が目覚め、時間を確認したのは午前5時だった。
外はまだ暗かった。
目覚めた理由は体調が好ましくなかったからだ。
強制的な身体の反応によって意識が起こされたのだ。
再び目を閉じ、安静な状態でいる事さえ出来なかった。
気分が悪い。
それも今まで生きてきて、感じた事のない気分の悪さだった。
正男は寝間着が汗でピッタリと引っ付いた体で、湿ったベッドから這い出し、
トイレへと向かった。
嘔吐の気配があったのだ。それもその気配はすぐ近くにいた。
壁に手をつけながら、暗い廊下をゆっくりと歩き、
トイレの扉を開けると、タイミングよく、下から這い上がってくる蠢く生き物みたいな液体と固形物を便器に向かって勢いよく嘔吐をした。
顎は大きく開かれ、首筋の筋肉は強張った。そこに自分の意思が入る余地はなかった。
そして、正男は吐き出す途中、ちゃんと呼吸ができずに苦しかった。
次々と鼻腔に胃酸や食べた物が入り込み、なんとも不愉快な臭いや感触がしていた。
正男は吐き終えると、トイレに座り込んだ。立ち上がる気力がなかったのだ。
そして、またしばらくすると、全部吐き出し終えたと思ったが、再び波が押し寄せてくるのを感じ、
便座を力強く握ってから、嘔吐した。
その時、自分の声ではないような音が喉から出ていた。
その異音に気付いた妻が起きてきて、正男のもとに慌てながら駆け寄り、
何度も「大丈夫?大丈夫?」と心配そうに声をかけてきた。
正男は妻を背中に感じながらも、応答をしなかったが、いや、出来なかったが、
「救急車呼ぶ?」と妻の焦った声で聞かれると、
「そこまでしなくてもいい!」と正男は力強く、大きな声で断った。
それはわざとではない。
その時、声のボリューム調整なんて出来る状態ではなかったのだ。
その後、正男はちゃんと声を弱めてから、「大丈夫、大丈夫。呼ばなくていい。」と言った。
結局、、太陽が東の空に昇るまで、正男はほとんどトイレに籠っていた。
三度ほど嘔吐をしたら、気分が落ち着き、割とすっきりとした気分になれた。
その間、妻はトイレの外で声掛けしたり、家の薬箱を見たり、ネット検索し、この症状は一体何なのかと必至に調べていた。
「今日もちろん会社休むよね?」とトイレの扉越しに妻から聞かれると、
「多分。」とトイレの壁にもたれかかった正男は弱々しく返事をした。
「じゃあ、電話しとくね。」と妻は言った。
「で、近所の病院に朝一で行こう。一緒に。」と続けて言われると、正男は返事をしなかった。
子供じゃないんだからと、意識が少し朦朧としながらも思った。
だが結局、正男は朝一番に妻と一緒に病院に行った。
正男は数時間後には普通に歩く事ができ、一人で行ってくると言ったが、妻は無理やり付き添いで着いてきた。
そして、病院での診断は、熱はないし、心拍も血圧も正常で、ストレスによる何かではないか?という事になった。
血液採取もしてもらったが異常はなかった。診察中、正男はいつも通りであり、あの異変は朝霧のごとく、どこかに消えてしまっていた。
一様、大病院の紹介状も書いてもらい、名前が覚えられない薬をいくつか貰って帰宅しただけだった。
マンションに帰宅すると、妻は「一先ず安心ね。今朝は驚いたけど。」と口にし、
「私も今日仕事休んだから。」と続けて言った。
「そこまでしなくてもいいよ。」と正男は気の抜けた体でソファに深く座って、妻を見ながらそう言うと、
妻から、また冷たい視線が送られてきた。
それを見ると、「そうか、悪いな。」と正男は言った。
正男はその日一日安静を取り、妻がシーツを変えてくれたベッドで横になっていた。
食事も運んできてもらった。
正男は「もう元気だから、そこまでしなくてもいい。」と言うが、
「もう一か月ぐらい体調が悪いじゃない。また再発するかもしれないから、今は安静にして完全に治す時よ。」と言って聞かなかった。
その後も同じようなやり取りがつづいた続いたが、最後には妻のその言葉を通り、正男は了承し、妻の優しさにもたれかかる事にした。
そして、何もやる事がなくお昼を過ぎると、また少しだけ気分が悪くなってきた。
昼食に妻が作ったお粥を食べた後だった。
まだ湿っている居心地悪いベッドに横になりながら、
一体これはなんなんだ?と考えていた。
長く続いている体の不調、原因不明が一番怖いのだ。
目を閉じていると、自分の体がまだ自分のものではないような気がしていた。そして、軽く咳をした。
夕方になると、正男はまた一度だけ、トイレで嘔吐した。
妻はその様子を見て、また心配そうに看病をしてくれた。
夜、普段ならまだ起きている時間に、正男はベッドに入りながら、もし自分が一人で暮らしていたらと想像していた。
そう想像すると、妻の存在に感謝するしかなかった。
それに、妻がこんなに献身的に看病してくれている様子を見て、正男は正直、驚いていた。
てっきり嫌われていると思っていたからだ。
いや、嫌われているところがあるのは確かだろう。
だが、まだ夫婦として、一度は愛し合った人同士として、細くとも繋がりがあった事に気が付いたのだ。
自分の立場が変わると気付くものがあるのだ。
そして、気付けなかった自分に対して、無視していた自分に対して、少しの懺悔を感じていた。
見えていなかったものが見えた気がしたのだ。
正男はその夜、心の中で妻に感謝をしてから、深い眠りについた。
正男の体調が回復したのは二日後だった。
結局、あれから大病院には行かなかったが、近所の病院にはまた行った。
しかし、また検査をしてもらっても、特に異常は見当たらなかった。
その間、仕事の同僚からもたくさんの心配の連絡が来ていた。
「体調大丈夫ですか?早く良くなってください。」などだ。
それを見て正男は、妻は職場にどんな病状の報告をしたのだろう?と思うと同時に、
仕事の仲間の存在にも、今までよりずっと感謝の気持ちが持てるような気がした。
そんな数日を過ごしている内に、正男の体は抜け殻みたいではなく、また何かで少しずつ満たされていった。
その回復の要因、一番のおかげは、やはり妻だったという実感があった。
妻が、何かを注いでくれたのだ。
正男は寝室から出て、リビングのソファに座っている妻の側に来た。
妻は振り向き、「体調はどう?」と聞いてきた。
「うん。だいぶ良くなったよ。だから、明日から仕事に行くよ。」と言った。
「今はまだあんまり無理しない方がいいわよ。」
「けど、急用があるんだ。」
「うん。けど、本当に無理はダメよ。」
「わかってる。明日一様、早めに切り上げて、病院で点滴打って帰るよ。色々とありがとう。」と正男は妻に言った。
随分と久しぶりに、面と向かって「ありがとう。」と言ったのだ。
その感謝の言葉に対して、
「うん。」と妻は小さな声で言った。
部屋の中では、なんとも微妙な空気が流れはじめた。
それはずっと昔、二人がデートをしていた時に流れていた空気と同じような気がした。
しかし、翌日、
正男は仕事を終え、駅から自宅に向かって歩いている時に目撃してしまったのだ。
妻とあのマスク姿の男が並んで歩き、マンションのエントランスに入っていくところを。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
次が最終話になります!
感想、評価、誤字脱字の指摘などをいただけると嬉しいです!
小説書くのは、難しいですね。
ありがとうございました(^^)




