たいまつの火
正男が担当していた新商品の企画は取り消しになった。
出社してしばらく仕事をしていた正男にとって、それは寝耳に水だった。
上司の浜中が正男のデスクに来て、前屈みになり、割と小さな声でその事実を伝え、最後に句読点の丸を表現するかのように手を正男の肩の上に優しく置いた。
昨日とは打って変わっての態度だった。
正男は浜中が去ろうとする前に反射的に立ち上がり、
「なんでですか?理由を教えて下さい。」と聞いた。
慌てた様子の正男の声が響き渡ると、その時フロアにいた数名が正男と浜中のやり取りに注目し始めた。
「おれもよくわかんないよ。青天の霹靂だよ。残念だが、狩野、そういう事だ。」
「じゃあ、代わりの新しい企画か何かは?」
「それもない。完全な白紙だ。」
と言って、浜中はまた歩き出した。
だが、正男は食い下がりはしなかった。
企画段階で頓挫する事はよくある事だからだ。
しかし、一日で話が急に変わる事なんて聞いた事がなかった。
正男はしばらくそのまま立っていたが、自分のデスクの椅子に座り直し、深く腰掛けた。
正男は考えていた。
これは理不尽であると。
だが、社会は理不尽なものなのだ。
いくら今回、商品開発へのモチベーションが上がらなかったとしても、目標があるとないとでは、全く違うのだ。
正男の中の小さな情熱のたいまつの火が消えた気がした。
上からの一息で簡単に消えてしまったのだ。
今、正男はどんな形であれ、目に見える成果が欲しかった。
前回の失敗を払拭し、自分を鼓舞してくれる成果を。
しかし、その矢先にまたそのチャンスが消えてしまった。
定まらない視線でぼんやりとパソコンの画面を見ていた。
そして、しばらくすると、画面は暗くなってしまっていた。
そこに映ったのは、輪郭がぼやけた黒い自分だった。
これから闇の中でまた彷徨い、消化不良の日々が続くのだろうか、
とりあえず今、正男は自分の中にある、怒りに近い複雑な気持ちを押し殺すと、ゆっくりと立ち上がり、その報告を企画会議の参加者に伝えて回った。
最初に伝えたのはタイミングよく外の営業から帰ってきた林だった。
「あっ、狩野さん、お疲れ様です。」と林はいつもの調子で言ってきた。
「お疲れ様。実はな、林」と正男はその報告を口にした。
だが、林の反応は予想以上に冷めたものだった。
「そうなんですね。売れそうだったのに。」と言ってから、すぐに別の話題に話が変わってしまった。
他の三人も同じような反応で、とくに感情がこもっていない声で残念がった。
「そういう決断は早い方がいいですよ。」と。
ただ一人、違う反応を見せたのは、本間だけだった。
アイデアをたくさん出した本間は少し悔しそうに言葉を漏らした。
「なんか、すみません。」と椅子に座ったまま、正男に謝ってきた。
「なんで本間が謝るんだよ。」と正男が言うと、
「あの事と関係がないとは言い切れないかもしれないと思って。」と言った。
あの事とは勿論、副社長のセクハラまがいの話である。
「それとは関係ないでしょ。」と正男はここでは明るく振舞った。
「そうだといいですが。すみませんでした。」と本間はまた謝るだけだった。
「謝らなくていいよ。」
「はい。わかりました。」
「うん。じゃ、そういう事だから。」
と正男がその場を立ち去ろうとすると、
「...ところで、体調はどうですか?」と本間は聞いてきた。
「あぁ、昨日薬飲んだら、今日はだいぶ良くなったよ。ありがとう。」
正男は自分のデスクに戻ると、その事については深く考えずに仕事を続けた。
自分のやりきれない気持ちはどこに行くのだろうか?という疑問は、今は心の奥に仕舞っておいた。
それから数日が経った。
結局、正男は日々をただ消化するようにして時間を過ごしていた。
そして、金曜日になり、今夜は恒例になっている社員の飲み会に正男も参加する事にした。
体調は薬を飲んでから悪くはないが、取り立て良くもなかった。
場所はいつもの場所、会社から徒歩数分圏内の大衆居酒屋だった。
正男は少し残業を終えてから、合流する事にしていた。
今日、飲み会に行く人の話を聞くと、女性陣の参加者の中には本間もいるらしい事がわかった。
考えてみれば、なぜか本間と飲み会に行くのははじめての事だった。
残業をしていたのは正男を含め、三人ほどいた。
暗くなったフロアで蛍光灯の明かりが、その人たちがいる場所だけを照らしていた。
観客は誰もいないが、舞台照明みたいだなと正男は思った。
そして、不規則にパソコンのキーボードを叩く音が静かな部屋に響いていた。
しばらくすると、正男が一番最初に残業を終え、「お疲れ様です。」と残りの二人に挨拶をしてから、会社を出た。
外の夜風は今日はなんだか冷えていた。
正男は少し早歩きで、飲み会が行われている居酒屋へと急いで向かった。
到着した居酒屋は人で溢れかえっていた。
居酒屋の外では明かりより、野太い笑い声の方が漏れていた。
正男は暖簾をくぐり、ガラガラと扉を開けると、真正面に会社のグループを見つけた。
店内に足を一歩踏み入れると、アルコールと焼き鳥の臭いが充満していた。
「あっ、狩野さん!」と林が正男に気づき、こっちだと手招きをしてきた。
正男は椅子や人の靴やらで狭くなった通路を歩き、会社のグループがいる場所にたどり着き、靴を脱ぎ、座敷に上がると、「お疲れ様です。」という声が再び飛び交った。
陽気な声だった。
みんなはもうビールを飲んでいた。
正男は同僚の少し赤くなった顔を順番に見ていった。
よく笑い楽しそうだった。
そして、正男はまた角にいる本間に視線をやった。
彼女の頬は赤くはないが、いつもより楽しそうな顔をしていた。
本間の屈託のない、緩んだ笑顔を見たのだ。
正男は座るとビールの中ジョッキを頼み、1分もしない内に届いたビールを早速、喉の奥に流し込んだ。
「狩野さん、いい飲みっぷりですね。」と向かいにいた林は言ってきた。
「やっぱ、ビールは美味いわ。」と正男は中身は半分になったビールジョッキをテーブルに音を立てて置き、上機嫌にそう言った。
飲み会の話は盛り上がった。話の8割が会社への不満、誰かの噂話か悪口だった。
正男も話に所々で参加し、その夜を楽しんでいた。
その会話中、林が正男が担当していた企画が飛んだのは、頭が固い上層のせいだと頻繫に口にした。
そして、本間のアイデアは凄かったと何度も口に出し、周りに賛同を求めていた。
しかし、その時、本間はその会話にあまり参加しなかった。
口にしたのは、はい。うん。いいえ。そんな事ないです。ぐらいだった。
正男は時折、本間の顔を見た。
開始から時間が経つと、さすがに少し頬は赤くなっていた。
正男はその本間の顔を見た時、何とも言えない気持ちが心の中で芽生えたのだ。
飲み会は10時半まで続き、そろそろお開きという事で、正男はアルコールと焼き鳥の臭いが染みついたスーツを再び着て、居酒屋を出た。
外の気温は季節を巻き戻したかのように、先ほどよりさらに冷えていた。
「二軒目に行きましょう!」と酔っぱらった声で誰かが言うと、
「そうしましょう!」と林が必要以上の大きな声で言った。
「ねぇ、狩野さんも行きましょうよ。」とすっかり酔っぱらった林に言われると、
正男は本間の顔を見た。
本間の後ろには、飲み会に参加した数少ない女性陣たちが固まっていた。
すると、本間は、
「私たちはここで失礼します。」と冷静に言った。
「本間さんたちも行きましょうよ。」と林は今度、本間に近づき、少し強引な感じで言ったが、
「いえ、今日はもう疲れたので、男性陣の皆さんで行ってきてください。」と女性陣を代表するかのように言った。女性陣の中で一番新入りの彼女がそう言ったのだ。いや、ただ言わされているだけかもしれない。
「えぇ~。そうですか。まぁ、仕方ないですね。」と林は言い、
「狩野さんは行きますよね?」と聞いてきた。
「いや、おれももう帰るよ。楽しかったけど、色々と頭の中を整理したんだ。」と言った。
「何を整理するんですか?」と言って笑い、「そうですか。わかりました!では、男たちだけで行ってきます!」と言った。
その言い方にが本間が来なくて残念だという気持ちが入っているように感じた。
結局、二次会に行くのは、飲み会に参加した半分の人数だけだった。
居酒屋の前でとりあえずの解散した。
二次会に行かない残りのみんなの中で、電車通勤の人たちは一緒に駅へと向かって歩き出した。
ゆったりとした足取りで、ぞろぞろと歩いた。
その間、正男は最後尾にいて、誰とも喋らずにいた。
飲み会は確かに楽しかった。
しかし、それは一時的なものでしかない。
これから何を糧にして頑張っていけばいいのか、何かまた探さなきゃと思いはじめていた。
商品開発が中止になってから、ずっとそんな事を考えている。
もう一つ、平行で進められていた商品開発はそのまま続行しているのが、正男は気に食わなかった。
そして、その企画参加者たちはみんな二次会に行っていた。
みんなは何を考えて生きているのだろうか?
同僚の後ろ姿を見ながら、そんな事を思っていた。
先を歩く同僚たちは、居酒屋のままの声のボリュームで喋っては、オーバーに笑っていた。
駅に着くと、そこで再び解散し、それぞれのホームに散らばった。
正男は電車が来る前に駅のトイレに入り、そこで用を足した。
そして、トイレを出ると、正男の目の前に本間がいた。
アルコールによって少し顔が赤い事が、正男に何か勘違いを抱かせそうだった。
「今日はありがとうございました。」と本間は言った。
正男は何のことかと瞬時に察した。
居酒屋の会計はその時、一番先輩の正男とそのまま二次会に行った二人の同期と、三人で支払ったのだ。
「あぁ、いいよ。別に待ってまで、お礼を言わなくても。」と正男は言った。
「それと…」と本間は何か言いにくそうに話を始めた。
「やっぱり、企画の中止は私が原因だと思います。」と言った。
「なんで、なんでまたそう思うの?」と正男はこめかみを掻きながら聞いた。
今日はちょっと飲み過ぎたなと思っていた。
「その前の日、企画が取り止めになった前日の夜、副社長に直接言ったんです。もうそういう連絡は止めて下さいって。」
正男は掻いていた手を頭から離し、本間の目をしっかりと見た。
「本当に?」
「はい。言いました。だから、多分、私のせいです。」
「そんな事ないと思うよ。たまたまだって。」と正男は言った。
「すみませんでした。」と本間は軽く頭を下げた。
「いいよ、そんな事しなくても。もう過ぎた事だから。」と正男が言った時、電車が到着するアナウンスが流れた。
二人が何か話していると、いつもタイミング悪く、邪魔が入るのだ。
「全然、気にしなくていいから。じゃあ、また来週。」と正男は言い、
「...はい。ありがとうございます...。ではまた来週ですね。お疲れ様でした。」と本間も言い、その場で別れた。
本間は小走りで出し、乗り遅れないようにプラットホームを目指した。
正男は彼女の後ろ姿を再び見ていた。
長い髪が不規則に揺れていた。
足元はスニーカーで、その足取りはどこにでも行けそうな軽やかさだった。
そして、正男は、本間の話はあり得ない話ではないと思った。
世の中の動機のほとんどは、私利私欲で動いているのだ。
正男は歩き出した。
別に電車に乗り遅れても、構わなかった。
それから二週間が経つと、
なんの前触れもなく、
本間は会社を辞めてしまった。
その時、正男が感じた喪失感は、
企画が取りやめになった時より心に来るものがあった。
たいまつの火は消えたまま、
未だに正男は暗闇の中で立ち尽くしていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
第7話はさらに展開します!!読んでもらえると嬉しいです!
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ありがとうございました(^^)




