悩みの告白
正男はデスクで仕事をしていた。
頭を使わなければいけないのだが、思うように頭が働かなかった。
全身に脱力感があり、何かの抜け殻になった気分だった。
そんな正男の様子を見て時折、後輩が来て、
「狩野さん、大丈夫ですか?」と心配されるほどには、傍からもわかる様子だった。
正男は「大丈夫、大丈夫。」とは言うが、仕事帰りに近所の病院に寄って帰宅しようと思っていた。
そして、動きが鈍い手先を動かしながら、なんとか午前の業務をやり過ごした。
今朝起きると、妻はまたいつも通りの雰囲気だった。
ちゃんと正男の分の朝ご飯も作り、仕事に行く準備をしていた。
寝室を出た正男は妻の姿を見ても、朝の挨拶はしなかった。
昨日の夢の話への怒りもまだ少しはあったのだが、ただ単に体がだるいせいもあった。
それに、そもそも朝から怒る元気もなかった。
どうして怠いのだろうか?
経験上、缶ビール二本開けただけで二日酔いになる訳はないだろうし、これは二日酔いとはまた違っただるさだと思った。
正男は椅子に座り、テーブルの上にある朝食を食べ始めたが、半分ほど残してしまった。
妻は正男の様子に気づいているのかどうかは知らないが、まるでここに正男がいるかどうなんて気にしていない素振りで先に家を出てしまった。
手にはそれほど大きくないゴミ袋を持って。
正男は会社の休憩室の椅子に座り、昼食は食べずに休憩室にあるカップ式自動販売機で飲み物を買い、1人で飲んでいた。
その時、「狩野さん、大丈夫ですか?」
と、また正男の後ろから声がかかった。
今日はじめての女性の声だ。
正男は振り向き、その声の主を確認した。
本間はどこか心配そうな顔をしていた。
「うん。大丈夫。」と正男は言い、柔らかな微笑を浮かべた。
「ちょっと今、お話できますか?無理そうなら大丈夫ですが。」
「うん。いいよ。ちょっとはマシになったから。」
正男がそう言うと、本間は回り込んで正男の反対側の席に座った。
この距離だと、こそこそ話すような内容ではないんだなと正男は思った。
「どんな話?」
「副社長の事です。」と本間は口に出した。
その時、声のボリュームは一切変えなかった。
その言葉を聞くと、正男は一様辺りを見渡した。
「副社長?副社長がどうしたの?」と正男が聞くと、
本間は話に抑揚をつけずに、すらすらと言葉を口にし始めた。
まるで人畜無害のニュースの原稿を読むかのように話した。
その内容は、正男にとってはなかなか衝撃的な内容だった。
簡単に言えば、副社長による本間へのセクハラまがいの話だった。
入社後少ししてから、副社長が本間に向けて個人的な内容のメールをしてくるようになり、新入社員の本間は立場上、最初は無視するわけにもいかなかったらしく、連絡を続けていたのだ。
そして、今度、食事にいかないか?と誘われたらしいのだ。
本間はその話を聞いてみると、どうやら二人だけでの食事らしかった。
正男は簡潔にまとめられた話を黙って聞いた。
内心では、なんでそんな事をおれに話すのだろうか?とも思っていた。
「へぇ、そうなんだね。そりゃ、厄介だ。」と正男は言った。
「はい。困ってます。」と本間は今度は少し落ち込んだ様子でぼっそと言った。
「他に誰かに相談はしたの?」
「はい。社長に。」と本間は言った。
「社長に?」
「先週の土曜日です。ですが、日曜日にまた副社長から連絡がありました。」
正男は副社長の人柄を知っていたが、そんな事をする人にはどうしても思えなかった。
結婚はされているはずだし、確か大きなお子さんもいたはずだ。
「で、本間さんの気持ちはわかるけどさ、なんでおれに相談する事にしたの?」と正男は率直に聞いた。
本間は瞬きを数回してから、「狩野さんなら理解してくれると思って。」と言った。
「うん。そう思ってくれたなら嬉しいし、悩みのはけ口にはなれるかもしれないけど、おれにそんな力ないよ。」と正男は正直に言い、弱々しく笑った。
「はい。わかっています。ただ、言っておく事に意味があると思うので。」
本間は正男は力になれないと理解した上で言っているのだ。
「まぁ、それはそうかもしれないね。この前、社長はなんて?」
「社長は分かった。話しておくとだけ言ってました。」
「もしかしたら、まだ副社長に話してないだけかもよ?」
「はい。わかってます。」
「うん。そうだと思うよ。」と正男は飲み干した紙コップを軽く握りながら言った。
「前の職場で同じような事があったんです。それが嫌で退職しました。」
と本間はいきなりそう過去の告白をしてきた。
男性ではなかなか起こりえない退職理由だった。
正男が普段から考えない領域の事情でも、そういった問題はいつも生まれて来ているのだ。
「その時よりは、まだ何もされてはいませんが、嫌な思い出があり、頭に過りますので。」
「そうか。まぁ、」
と言ったところで始業開始のチャイムが鳴った。
相変わらずの、気の抜けた呑気なチャイムだった。
そして、本間は正男の「まぁ」の続きを聞こうとはせずに立ち上がり、
「すみません。お時間取らせてしまって。」と言った。
正男もゆっくり立ち上がり、「言いにくい話をしてくれてありがとう。」と言った。
「こちらこそありがとうございます。お体に気をつけてください。」と本間は言い、早々と休憩室を出ていった。
本間が出ていくと、正男は紙コップをゴミ箱に入れた。
そして、副社長の顔を細部まで思い浮かべてみた。
柔和な顔がそこにはあったが、本間の話が本当なら、人は見かけではわからないなと思った。
午後になると、正男の体は随分軽くなり、何かで満たされているような気がして、仕事に集中できていた。
「狩野さん、大丈夫ですか?」と今度は聞き慣れた声がした。
「あぁ、随分よくなったよ。」と正男は振り向かずに言った。
「何話してたんですか?」と林は立ったまま、椅子に座る正男の横に来た。
「何って?」と正男はここで林の顔を見上げた。
「本間さんとですよ。休憩室で話してたでしょ?見てましたよ。」
「いや、特に何も。」
「そんな訳ないじゃないですか!」と林は小声で言った。
「特に何もって。何話してたか教えてくださいよ。」と林は詰め寄って来た。
「商品開発の話に決まってるだろ。」と正男はこのやり取りが面倒に思い、乱暴に嘘をついた。
「本間が新しいアイデアを言ってきたんだよ。」
「本当ですか?」
「あぁ、本当だよ。」
「どんなアイデアですか?」と聞かれると、正男は黙り込んでしまい、
「やっぱり、嘘ですね。」と林は言った。
「取るに足らないアイデアだったよ。パッケージを可愛くするとか。」
「まぁいいです。今度教えてくださいね。」と林は言って、去っていった。
その時、おれの体調への心配はないのか?と正男は思った。
その後、正男が担当してる商品開発の企画の現状が上層部に渡り、なかなかいいのではないかという手ごたえがあったと、上司の浜中が正男のデスクに来て言ってきた。
「狩野、評判はなかなか上々だぞ。」と正男の肩を叩きながら言ってきた。
「ありがとうございます。」と正男は椅子に座ったまま頭を少し下げた。
今回、自分のアイデアはあまり反映されていないのだが、と心の中で思った。
「これは売れるかもな。」と浜中は笑顔で言ってきた。相変わらずのフレンドリーさだった。
「そうだといいですけど。もし浜中さんが女性だったら、買いますか?」
「男だとしても買うよ。」と冗談なのかわからない返答をまた笑顔で言い、どこかに行ってしまった。
浜中さんは正男にとってもいい上司だった。熱血であり、紳士的であった。
今回の企画に正男を担当させたもの、おそらく浜中さんの後押しがあったからだと思うと正男は予想していた。
そして、本間はあの話を浜中さんにはしたのだろうか?と気になっていた。
終業時間になると、残業がない正男はすぐに会社を出た。
また体調が悪くなるかもしれない。だから今日は早く帰って休もう。
結局、病院の予約を取らなかったし、寄って帰るのも面倒になっていた。
会社から最寄りの駅に正男が着くと、そこには先に退社していた本間がいた。
最初に気づいたのは正男の方だった。
「本間さん、お疲れ。」と後ろから言うと、
少し肩を上げ、驚いた表情で正男の顔を見た。
「あぁ、狩野さん、お疲れ様です。」
会社の外で会うと、なんか不思議な気がしていた。
人が行き交う駅内でも、本間のスタイルの良さは際立っていた。
そして、髪を下ろした姿は綺麗だと正男は素直に思った。
「今日、なんかすいませんでした。変な事言って。」と本間は謝ってきた。
駅で頭を下げられると、周りから変な視線が正男に送られてきた。
頭を下げているのは、スタイルのいい美人なのだから余計に目立っていたのだ。
「いやいや、全然大丈夫だから。話してくれて嬉しかったよ。多分、何もできないけど。」
「話せて少しスッキリしました。ありがとうございました。ではまた明日ですね。お疲れ様でした。」と本間はそそくさと正男とは反対側のホームへと向かって長い髪を揺らしながら歩いていった。
正男は帰宅すると、ご飯を食べる前にお風呂に入った。妻と同じ部屋にいるのが気まずいからだ。
そして、お風呂上りにご飯を少しだけ食べ、帰りに寄った薬局で購入した薬を飲んでからベットに横になった。
ここ最近、色々な事が正男のもとに舞い込んできた。
それらを丁寧に一つずつ処理する事ができなかった。
処理する為には、自分の中に溜まっている何かを捨てなければいけないのかな?と正男は思っていた。
しかし、自分の心の中や意識を掃除し、配置を変え、風通りをよくする事は大変な作業なのだ。
時間が経ってしまえば自然と、意識や心は硬く凝り固まってしまう。
そして、あるところまで行ってしまうと、そう簡単にはほぐれてはくれない。
まずどうすればいいのだろうか?
正男はベッドに入りながら、そうこう考えている内に、
意識はどんどんぼやけてしまい、
いとも簡単に夜の暗闇へと溶け込んでしまっていた。
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