夢の告白
正男が目を覚ましたのは、また深夜一時だった。
この前もこの時間に目覚めたよなと、正男は枕元にある時計を確認しながら思った。
頭の中がぼやけている状態だが、ベッドから起き上がり、特に尿意はないがトイレに行こうと思った。
昨日寝たのは夜11時だった。物音に気付かなかっただけで、その間に妻が戻っているのかもしれない。
それを確認したかったのだ。
正男はドアを開け、部屋を出た。
すると、この前と同じようなデジャヴに正男は陥った。
リビングからテレビの薄明かりが漏れていたのだ。
そろりそろりと足音を立てずに歩き、
そして、秘密の洞穴をこっそり覗いてみるかのようにリビングを見てみた。
すると、妻がまた映画を観ていたのが分かった。
それに妻の影や家具の影が映像の光によって、部屋の中に投影され、大きく動く様は、どこか不気味に見えた。
妻は集中して映画を観ていた。
多分、何かしら映画だと思う。
この時間帯にドキュメンタリーを見るほど、現実的な感動を欲している訳ではないだろう。
テレビの画面の中では、女が男に真剣な顔をして話かけていた。
妻は頭を動かさずに、その様子をじっと観ているようだった。
だが、この前より随分と音が小さく、何を話しているのかが分からなかった。
何の言語さえか、よく聞こえない。
正男はその特徴のないシーンを観ていると、映画の名前はわからないが、次第にこの映画に見覚えがあるような気がしてきた。
だが、とりあえず、正男は妻の帰宅を一様確認すると、また足音を立てずに寝室に戻り、またベッドに入った。勿論、トイレにはいかなかった。
いつ帰宅したのだろう?
そして、またなんで映画をこの時間に観ているのだろう?
正男は不可解な展開に思考が絡まり、追いていけなかった。
太陽の下で空を舞うコウモリを見たような違和感だった。
だが、正男はとりあず一安心できた事から、毛布を顎までかけ、静かに目を閉じ、思考する事を放棄した。
そして、気が付いたら、朝だった。
正男はいつもの時間に起きた。
台所からは食器同士がカチャカチャと当たる甲高い音が聞こえていた。
正男は洗面所を出て、台所にいる普段通りの妻の姿を見ると、
随分と久しぶりに「おはよう」」と朝の挨拶をしてみた。
すると、「おはよう」と妻は正男の顔を見ずに言い返してきた。
そして、正男は椅子に座り、そんなに気にしていない素振りを見せながら、
「昨日どこに行ってたの?」と白々しく聞いた。
妻は「友達の家よ。」と何か隠し事があるような感じもせずに、はっきりと答えた。
「へぇ~」
正男は誰の家?と聞いてみたかったが、そこまでは追及しなかった。
いや、できなかったのだ。
妻の友達と言えば、三人の顔が思い浮かぶ。その内の誰かだろうと正男は決めつけた。
「最近、夜中に映画観てるでしょ?」と正男は次なる疑問を率直に聞いた。
「うん。観てるよ。なんで?」
皿を拭きながらそう妻に聞かれると、
「いや、特に何も思っていないけど、珍しいから。」と答えた。
「そうね。けど、若い頃はよく深夜に観てからね。その名残りよ。」と妻は答えた。
「そうか、知らなかった。」
「そう。」
正男はそう言われると、もうそれ以上、何も聞けなかった。
黙って食事をし、いつも通りの朝を過ごしてから仕事に向かった。
妻も昨日楽しい事は何一つなかったかのように、口数は少なく、いつも通りだった。
今日は企画会議の二回目の日だった。
昼前にこの前と同じ会議室に集まり、アイデアを出し合うのだ。
正男が会議室に入ると、既に全員揃っていた。
だが、室内にやる気が満ちあふれている感じはしなかった。
そして、正男はこの前と同じに席に着いている本間の顔をチラッと確認し、席に着くと早速、会議を始めた。
約1時間、色々な事を話たが、内容は前回からそんなに進展はしなかった。
結局、本間が提案した企画を進めてみる事になり、
アイデアを出すというより、練り、固めていく作業になっていた。
そして、今日も本間の細かい発言は適切であり、最終的には、誰もが自然と本間の発言待ちになってしまっていた。
その様子を見て、正男はいい気分がしなかった。
しかし、何か指摘のしようがなく、その発言には漏れがなかった。
会議は昼過ぎに終わり、今度は上層に話を一旦持っていくことにした。
正男が席を立つとき、「なんか、これすごく売れそうな気がしますね。」と隣に座っていた林が笑顔で言ってきた。
「いや、どうだろうね。」と正男は疑問を残しながらそう言った。
「最初からネガティブだとダメですよ。」と林は楽観的に言ってきた。
「いけますって。」
正男はそれには何も返事をせず、会議室を出ようとする本間の横顔を見ただけだった。
久しぶりに任された企画だったが、今回の企画に正男が出した案は今でも少なかった。
よりによって、女性向けの商品を考えるはめになるなんて思っていなかったのだ。
そうでなければ、もっといい案、温めていた企画が沢山あったのにと、正男は悔しがり、残念がっていた。
だが、それは正男の予想、準備不足のせいであるため、自分の不甲斐なさのストレスが雪のように溜まっていた。
会議室を最後に出た正男に、横から声がかけられた。
「狩野さん、ちょっといいですか?」
そう声をかけてきたのは、本間だった。
「どうした?」と正男は少し驚きながら聞いた。
「いや、ちょっと話があって...。後でお話できますか?」と本間はいつもとは少し違う口調で聞いてきた。
「勿論、大丈夫だけど。何の話?」
「いや、個人的な話です。また空き時間にお伺いします。」と少し早口で言うと、正男の返答を待たずに、本間はその場から去っていった。
正男は会議室の鍵を閉めながら、また本間の後ろ姿を見た。
一体何の用なのだろうかと全く検討もつかなかった。
個人的な話、その糸口は皆目検討がつかなかった。
本間はいつもと同じ歩き方なのだが、そう言われた直後だと、不思議といつもと違って見えてくる何かがあった。
しかし、その日の内に本間が正男に話かけて来る事はなく、仕事は終わった。
正男は仕事中に何度か本間に視線を送ってみたが、目が合う事もなかった。
正男は帰りの電車の中で、仕事へのモチベーションがあまり上がっていない事にまた悩んでいた。
今の企画を自分が上手くコントロールできていないからなのだろうか?
能力が上手く発揮できていないからなのだろうか?
体調の不具合から来ている何かなのだろうか?
正男は消化しきれないモヤモヤをどう処理すればいいのかが、わからずにいた。
電車には満員ではないが、適度に席が埋まるほどの乗客はいた。
正男は周りの人たちが気になり出し、その人たちの顔を横目でチラチラと見ていった。
今どういう顔をしているのかが気になったのだ。
見ていった顔の中で、笑顔で幸せそうな顔をしている人は数人しかいなかった。
それもそうだろう。電車の中で一人でいる時に幸せそうな顔をする方が難しいのだ。
正男はマンションの最寄り駅に到着した電車から降りた。
正男と一緒に多くの人が降りていった。
その時、辺りを見渡すと、幸せそうな顔をしていた数人は誰も降りてこない事がわかった。
正男は今度、視線を前にやると、また二両先の電車からマスク姿の男が降りているのが見えた。
あの人は今、幸せなのだろうか?
それから正男はとぼとぼと歩き、いつも以上に時間をかけて家に帰った。
帰宅すると、正男は手を洗い、服を着替え、妻が作っていた晩御飯の赤魚の煮つけ、柚子豆腐と味噌汁を食べた。
妻はもう自分の部屋に籠っていた。
そして、食べ終わると、今や当たり前になった食後の皿洗いをし、そのまま横にはならず、すぐにお風呂に入った。気分転換がしたいのだ。
正男は湯船に浸かりながら、さらにこの悩みを払拭する為にも、景気づけに風呂上りにビールを飲もうと考えていた。
体調を崩してから、飲んでなかったビールを今はただ飲みたかった。
正男はいつもより早めに風呂場から出ると、バスタオルで簡単に体を拭き、寝間着を着て、髪を簡単に乾かし、冷蔵庫の所まで行った。
そして、冷蔵庫の扉を開けると、残り三本だけあった缶ビールを奥から取り出し、勢いよくプルタブを開け、そのまま喉の奥へと一気に流し込んだ。
温まった体によく冷えたアルコールが染み、喉へ来る炭酸の刺激が気持ちよかった。
正男は久しぶりのビールの美味さに感動し、一本をあっという間に飲み干し、すぐさま二本目を冷蔵庫から取り出そうとした。
だがその時、
「ねぇ」と後ろから声が聞こえた。
少し哀愁漂う「ねぇ」だった。
正男は振り向き、「おっ、ビックリした。」と驚きながら言った。
気付かない内に、妻が部屋から出てきていた。
正男は妻の部屋に背を向けていたから、その事に気付かなかったのだ。
「どうした?」と正男は聞きながら、
眼鏡の奥にある妻の目に、どこかおかしな雰囲気があるのを瞬時に見て取れた。
それもまた、ある程度の長い付き合いから分かるものだった。
「話があるの。」
と妻は静かなトーンでそう言った。
「そう。」
と正男は短い返事したが、一気に筋肉が強張り始めた。
内心では勘弁してくれ、絶対いい話ではないよなという確信があった。
その言葉によって、手に持っていた、よく冷えた二本目の缶ビールを飲みたい勢いは消え失せていた。
「座って。」と妻が自分が座る椅子を引きながら言うと、
「暗い話か?」と正男は聞いた。
「うん。暗い話だと思う。」と妻は正直に言った。
「今日じゃなきゃダメか?」
「うん。今日がいい。」
部屋はリビングのライトを付けずに、薄暗いままだった。
明かりは一本の蛍光灯、台所のライトだけだった。
一気に緊張が張り詰めた空気の中、正男の頭の中では、別居、離婚というワードがくっきりと浮かび上がっていた。
よりによってどうしてこのタイミングなんだと思い、気分が萎え、血の気が少し引いていた。
正男は缶ビールをテーブルの上に置き、椅子を引き、
少し威厳があるようにしてドサッと座り、開放的に足を開いた。
そして、妻が何か口を開く前に聞いた。
「離婚か?離婚の話か?」
正男は妻の胸元を見てそう言った。
まじまじと顔を見る勇気がなかったからだ。
それから次第に目線を上に上げていった。
妻は正男の顔をしっかりと見ていた。
「違う。」
妻がそう言うと、正男は背もたれに寄りかかった。自分が思っているよりも安心した自分がいた。
「別居か?」
と正男がまた聞くと、
「違う。」
とまた答えた。
そして、「これ飲む?」と正男はテーブルの上にあるビールを少し妻の方にスライドして言った。
妻はビールを見ているのか、正男の手を見ているのかわからない目線のまま、
「いらない。」と答えた。
「そうか。」と言い、数秒後に「話って何?」と正男は聞いた。
「私たちの関係について。」
「そうか。」
正男は離婚、別居の話じゃなければ、一先ずは安心ができた。
「私たちの関係について」の議題はこれまでにも何回か話した事はあった。
だが、その時は今のより冷えた関係ではなかった。
「これからどうする?どうしようと思ってる?」と妻はいきなり具体的な質問をしてきた。
早速、ボールは投げられたのだ。
正男は少し考える振りをしてから、
「どうするって、このままでも悪くはないと思うけど。」と言うと、
「良くもないけどね。」と妻はスイッチが入ったかのように、素早く返答してきた。
「まぁ、けど、感じ方は人それぞれだろ。常に幸せな状態の夫婦なんて、現実あまりいないし、いたとしても本人たちは慣れてしまっていて、毎日幸せだな、なんて考えながら生きてないと思うよ。人生、山あり谷ありが普通だよ。」と正男もスイッチを入れたかのように、喋り始めた。
妻は正男に聞こえるようにため息をついてから、
「いつもそういう風に大きく言えば、例え話を大袈裟に言えば、なんでも言い包められて丸く収まると思ってるでしょ?世界ではまだ紛争が起きている、それに比べれば、俺たちは幸運だ。とか言って。確かにそれも一理あると思うけど、」と熱を少し帯びた感じで言ってきたが、
「子供の事だろ?結局、言いたい事は。」と正男は途中で口を挟んだ。
回りくどい事が嫌いなのだ。
そう、今まで通りなら、「私たちの関係について」を別の言葉に言い換えれば、子供についての話だった。
「そうね。それが最初だった。その事で話合いもしたいけど、今はその手前なの。」と妻は言った。
「手前って?」と正男は素直に聞いた。
「夫婦として、私たちは足並みが揃ってないの。そもそものお互いの性格、考え方の根本的なズレよ。子供以前の話。」
「人間ってのはズレてて当たり前だと思うけど。同じ人間なんていないんだから。」
「あなたっていっつも極端よね。」と妻はまた冷たい視線を送ってきた。
その時、メガネをかけていなかったら、もっと怖い表情なのだろうか?と正男は余計な事を考えてしまった。
「じゃあ、どうすればいいと思うの?」と正男は投げやりに言った。
「あなたは優しい人だったわ。」
「またその話かよ。」
妻は正男の過去の幻想にしがみついていた。
「うん。あなたの子供が欲しいと思ってた。」
「思ってた。」
正男はその言葉に少し動揺し、さっきまでの勢いがひるんでしまった。
妻は続けて、「ある夢を見たの。」と言った。
「ちょっと前の夢の話だけど。」
「その話は今関係ある?」と正男は少し強い口調で何とか言った。
「あるから言うの。」
「あなたの子供の夢よ。」
「どういう意味?」
「あなたとの子供ができた夢よ。」と妻は嬉しそうではない表情を浮かべて言った。
正男はその様子を見ると、黙ってその話の続きを聞く事にした。
「その子はもう三才ぐらいだった。夢の中で手を繋いで一緒に歩いたの。一目見ただけで、世の中の可愛いという言葉はこの子の為にあると思ったの。笑顔を見せてくれただけで、私の世界は彩られたの。小さく柔らかい手を握っただけで、宝物を手に入れた気がしたの。これが私が生きる意味だとその時、深く理解できたの。」
しかし、正男はまた口を挟んでしまった。
「それがなんでおれの子だとわかったの?」
妻は小さくため息をついた。いや、ただため息に近い呼吸だったのかもしれない。
「あなたにそっくりな性格だったからよ。」と残念そうに言った。
「本当に可愛い子だった...。だけど、何もかも、あなたにそっくりだった。私が何かを言うと、能書きを垂れるのよ。あなたそっくりな口調で。その子の中に私の遺伝子の要素なんてものは、どこを探しても見つかりそうにない気がしたの。中身が100%、あなたのままだったの。」
妻はそう言うと、視線をまた缶ビールに向けた。
「その子供が小さなおれだからって何なんだよ。」
「そうね、言い方を変えるわ。あなたの嫌な部分、プライドか何かを擬人化したみたいな子だったのよ。」
妻はそう言ってから、
「勿論、あなたにもいい所はあるわ。それは分かって。」と情けに近いカバーをしてきた。
正男はそう言われると、沸々と小さな怒りが湧いてきて、テーブルの上にあったビールを手に持った。
「夢の中で出来たおれとの子が愛せなかったという話なんだろ?」と正男は冷淡に言った。
「違う、違うの。愛する自信を無くしたの。」と妻は悲しげに言葉を漏らした。
「そうか、なら終わりだな。おれらの関係も。」と正男は口にした。
「けど、あくまで夢の話だし、そもそもあなたは子供を望んでないじゃない。」と妻は言った。
「だったら、そんな話、わざわざ言う必要あった?気分が悪くなるだけだ。」と正男は声を抑えて怒り、席を立った。
「おれは今、色々と疲れてるんだ。そんなくだらない話を聞く暇はない。」と上から言葉を妻に投げた。
「そうね。ごめんなさい。けど、」
「けど、」の続きを正男はテーブルの横に立ちながら待っていたが、しばらくしても妻は下を向いたまま何も言わなかった。
正男は結局、缶ビールを手に持ち、寝室に戻り、力強く扉を閉めた。
正男は寝室に入ると座らずにそのまま扉にもたれかかった。
また頭が痛くなってきていたのだ。
ビールのせいか、
妻の話のせいか、
又はどちらのせいでもないか、
または両方か。
自分の性格のせいで妻が苦しんでいる事は正男もわかっていた。
なぜなら、時に正男自身も苦しんでいたからだ。
無駄にプライドが高いと理解していた。
正男は壁から体を離し、ベッドに腰かけた。
ベッドのスプリングがいつも以上に深く沈んだ気がした。
正男は怒りの勢い任せに、二本目のビールのプルタブを開けた。
しかし、飲みたい気分ではなかった。
「あなたそっくりの子」
妻のその言葉に、正直、正男自身も同意だと思ったのだ。
自分似た子供なんて、正男も欲しいとは望んではいないのだから。
正男は冷えたビールを胃袋に流し込んだ。
その味は、さっき飲んだビールと同じものだとは思えなかったし、
心の渇きを潤すものでもなかった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
まだ続きます。
感想、評価、誤字脱字の指摘をもらえたら、嬉しいです。
ありがとうございました(^ ^)