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音のないアプローチ


「ねぇ」にも色々の「ねぇ」がある。


普通の声で、甘えた声で、悲しい声で、「ねぇ」を表現できる。


感情が言葉の意味を変えるのだ。


だが、狩野正男が妻の狩野えまなから聞いた「ねぇ」は、怒りを含んだ「ねぇ」だった。


妻は無表情で玄関の片隅に置いてあるゴミ袋を指していた。


正男は閉まりかけた玄関の扉をまた開いた時に、妻のその顔を見たのだ。


眉間に皺はないが、明らかに不機嫌な顔をしていた。


それは三年と数カ月ほどの共同生活からすぐに読み取ることができるものだった。


正男は妻に聞こえるようにして、大きなため息をつき、口を固く結ばれたゴミ袋を手に持った。


その間、お互いに口を一切聞かなかった。


ゴミ袋は見た目以上にずっしりとした重さがあった。


ささやかな生活をしているはずのに、どうしてこんなにゴミが出るのだろうか?


二人暮らしのゴミの量だとは思えなかった。


正男は妻に背を向け、再び玄関を出ようとした時、体の後ろ側で持っていたゴミ袋が扉に挟まった。


扉の開き具合が足りなかったのだ。


正男は家の外で「クソッ」と声に出して言った。


何に対しての「クソッ」なのだろうかと、妻に考えさせるようにそう声に出したのだ。 


正男はもう一度、家の方に体を向け、扉を大きく引いて開け、ゴミ袋が通るようにした。


だがその時、玄関に妻の姿はもうなかった。



それから、「ガチャン!」


と重工な音を立てて扉が閉まると、正男は小さくため息をついた。


そして、手に持ったゴミ袋を見下ろしてから、マンションのエレベーターに向かって歩き出した。




これからいらないものを捨てにいくのだ。





夫婦生活は結婚当初とは最早、別ものだった。


登場人物は同じであるが、ラブストーリーから、ちょっとしたサスペンスに移行してしまったのではないかと思わせるぐらいの鞍替え感があった。


夫婦の足並みもずれ、どこを目指しているのかさえ分からなかった。

いや、一緒に歩いているのかさえ疑問であった。



運行階表示器を見ると、エレベーターがタイミングよく正男が住む階に降りてくるところだった。


正男は空いている方の手で「下へ」のボタンを押した。


そして、エレベーターが止まる音がし、ゆっくりと開いたドアに正男はゴミ袋を持って乗り込んだ。




エレベーターには先客がいた。


いたのは正男と同じぐらいの背丈の男性だった。スーツを着て、黒い鞄を持っていた。


正男は軽く会釈をし、その男の右前に立った。 



しかし、その男は会釈を返さなかった。いや、目さえ合わさなかった。


大きなマスクをし、うつむいていて、正男はなんだか気味が悪いと思ってしまった。


そう思うのは、恐らくはじめて見る人のような気がしたからだ。



正男が住むマンションは14階立てで、世帯数が多い割に、今稼働しているエレベーターは二つしかなかった。


三つ目のエレベーターが先々週に故障してしまっていたのだ。



正男は11階に住んでいた。


だから、上階に住む人の顔を勿論、全員把握している訳ではないが、この時間帯でそんな人に会うのはなかなか珍しい事だった。


そして、この時間帯にエレベーターが一階に着くまで、他に誰も乗り込んで来なかったのも珍しい事だった。


一階に到着し、扉が開くと、ゴミ袋を手に持った正男は先にエレベーターから出て、すぐさまエントランスの裏側にあるゴミ収集場に向かい、雑な扱いでゴミを出した。


マンションから出るゴミの量は小高い山の様だったし、なんとも言えない異臭が辺りに漂っていた。


正男はゴミ出し終えると、何かから解き放たれたみたいに快調な足取りになって、仕事場へと向かった。





正男の仕事は中規模の食品メーカーのマーケティング部門で、即席麺の担当だった。


即席麺は会社の新製品として10年前に開発されたが、今では会社で一番の売上を上げている支柱商品、社内では花形の仕事だった。


成果が出ないとすぐに人が入れ替わる、能力主義で移動が激しい業務だ。


正男は数年前にはじめて抜擢され、その時、見事に成果を残した。


そのおかげで今でも即席麺に関わる仕事ができていた。


正男はその仕事を楽しんでいた。


いかにして時代のトレンドを読み、人の興味関心を奪い、人の心を掌握できるのかと、ゲーム感覚みたいな野心を持ち合わせながら、楽しんでいた。


だが昨今、新たな商品を出してもなかなか売れなかった。


去年にはSNSで拡散してもらえるようにと、インパクト溢れる商品を作り売り出したが、他社でも考える事は同じで、渾身の商品を出したつもりでもなかなか成果が出ずに埋もれ、苦しんでいた。


それでも負けずと正男は次々に新しい案や企画を出していた。だが、それらが通る事はなく、業績が伸び悩む会社は既存の売れている製品を季節ごとに売り出すなどの安全な手法を取っていた。


人は変化を好まないのだ。


しかし、そんな矢先に、来年発売を目途に新商品の企画が先週決まったのだ。


正男はその担当責任者に任命されていた。

再び来た好機、今度こそはと腕をまくり、やる気に満ち溢れていた。


だが、今回は0からではなく、上層からこういう商品を作りたいという意向が既にあった。


そして、今日は企画会議の第一回目だった。



正男は先に会議室に入っており、自作した簡単な資料に目を通していた。


この企画に参加するのは5人だ。男3人、女2人。


開始時刻5分前に、


「キィ」と扉が開く音がした。


「失礼します。狩野さん、お疲れ様です。」


椅子に座り、資料を見ていた正男は顔を上げ、挨拶を返した。


「あぁ、お疲れ様。」


挨拶をしてきたのは、今回の新商品の開発に参加する、今年中途採用で入社してきた女性だった。


彼女がこの企画に抜擢された事になったのは、次の新商品は女性のためのヘルシー路線の即席麺を考えており、女性の意見を尊重したいからという事だった。


正男は最初、上司にそう言われた時、反対しようかと思っていた。


素人にわかる訳がない、本当にいいアイデアを出してくれるのかと、そういう適当な理由をつけてだ。


しかし、本音では、彼女はアメリカの西海岸にある有名大学の経済学部を卒業しており、その学歴に怯み、正男はこの企画のイニシアチブを彼女に取られるかもしれないという、恐れから来るものだった。


勿論、そんな情けない事は言えず、渋々了解していたのだ。


そもそも、なんでそんな経歴の人がうちの会社に入社したのかも正男には疑問だった。



彼女は会議室のテーブルの椅子に座った。


この企画に参加する人たちの中で、正男にとって目の上のたんこぶになりそうなのは、彼女、本間だけだった。


8人掛けのテーブルだったが、彼女が座った場所は正男から一番遠い場所だった。


正男はまた資料に目を戻そうとした時、


「これ、狩野さんが考えたんですね。凄いですね。」と本間は、テーブルの上に置いてある我が社の商品、以前、正男が商品の企画、デザインを考えたヒット商品の即席麺を手に取りながら言ってきた。


「うん。まぁ、そうだけど、もうすっかり売り上げは下がってて、完全に落ち目の商品だよ。」と、正男は軽く背筋を伸ばし、謙虚の中に誇らしさを混ぜた感じで言った。


「けど、凄い事ですよ。なかなかできるもんじゃありません。」


そう本間が言うと、狩野は彼女に視線をやった。


彼女は背が高く、スタイルが良かった。その証拠に、椅子に座ると座高の低さが際立っていた。

そして、長髪を後ろで一つ結びにし、キリっと細く鋭い眉が印象的だった。

誰が見ても、仕事ができそうな人間に思えるだろう。

入社した当初、社内の男性陣の間でよく本間の事が綺麗だとか、仕事ができそうだとかでよく話題に上がっていた。


だが、日が経つにつれ、本間は愛嬌を振りまくタイプの人ではなく、社内の人たちは彼女の意思の強さを言葉や行動に対して感じ、チヤホヤする事はなくなっていった。



「食べたことある?」と正男は本間が手に持つ即席麺を指さしながら聞くと、


「勿論。」と本間は答えた。


「どう思った?正直に。」


「美味しかったですよ。」


「それだけ?他には?」


「まぁ、味はいいですが、」


と言ったところで、「ガチャ」と扉が開き、タイミング悪く他の参加者たちが会議室に入室して来た。


「狩野さん、よろしくお願いします。」と見慣れた顔の同僚たちが笑顔で言ってきた。


「よろしく。」と正男が返すと、同僚たちは今度は本間に話しかけていた。


そうなると、本間の続きの話を聞く訳にもいかず、全員席に着くと早速、企画会議を始めた。





最初の会議は一時間程度で終わった。


だが、収穫は思いの他あった。


正男が予想していた通り、本間のアイデアは鋭いものだった。


言ってしまえば、女性向けの商品開発だから、女性目線の意見は尊重、重視されやすいが、それらを差し引いたとしても、彼女は心理的な面での考察などを含め、会議室に集まった誰もがなるほど。と膝を打つような意見を多く出した。


それを証明するかのように、大きなホワイトボードは本間の案でほとんど埋め尽くされていた。


その案はこうだ。


ジャンキーなイメージを払拭し、派手なデザインやフォントを使わず、女性でもレジに持っていきやすいシンプルで洗礼されたデザイン、それにその方が棚に並んだ時の差別化、目に入りやすいだろうという事や、ヘルシー路線と言えど、食べ応えありで、罪悪感を減らす為に油を減らし、香りを重視してはどうか?など言った意見などを出してきた。




会議室を出る時、「本間さん。」と正男は後ろから声を掛けた。


本間は「はい。」と言って、振り向き、正男の顔を見てきた。


鋭い切れ長の眼だ。


「この感想の続きを聞きたいんだけど。」と正男は自分が企画した即席麺を指さしながら聞いた。


「感想ですか……?美味しかったですよ。」と本間は一回言いましたけど的な顔を浮かべて言うと、正男は次の言葉が出てくるまで待った。


だが、期待してた言葉ではなく、「中毒性のある辛さがいいですね。」とクールな笑顔を浮かべて言うだけだった。


正男は「そっか、ありがと。」と言い、先ほど本間が言った「けど、」の続きが聞きたいのを我慢した。


本間は本音を隠し持っている。


正男は彼女と似たようなタイプの人間だからこそ、何となく理解できるものがあった。


「では。お疲れ様です。」と言い、本間は会議室を出ていった。


正男はそのスラリとした後ろ姿を見た。彼女の少し早歩きでカツカツとヒールを鳴らす姿には自信が満ち溢れているように見えた。


正男は会議室に残り、自分の意見があまり反映されていないホワイトボードをしばらく眺めていた。




夜になり、正男は仕事を終えても会社に残ってスマホを見ていた。


今日は金曜日だった。


すると、横から正男の後輩の1人、商品開発にも参加している林が「今夜、飲みに行かないですか?」と誘って来た。


金曜の夜の飲み会はなぜか今年に入ってから、社内の間で恒例行事になっていた。


だが正男は、「今日は疲れたからパスするわ。おれ明日も会社来るし。」と断った。


後輩の林は「狩野さん、珍しいですね。分かりました。」と簡単に諦め、その場を後にした。





正男は夜道を歩き、自宅に向かっていた。


最寄り駅から自宅のマンションまでは徒歩10分程度の距離だった。

それは仕事帰り、考え事をしながら歩くには最適な距離だった。


実は数日前から、正男は体調があまり好ましくなかった。


原因はよくわからないが、時たま脱力感があり、寝ても寝ても回復する何かではなかった。


せっかく待ち望んでいた商品開発の担当を任されたのに、万全な体調ではない自分を情けなく思っていた。


妻はその異変に気付き、心配をしていてくれてはいたが、正男はその心配を「すぐ治る。」と突っぱねていた。



この時間帯、妻はもう家にいる。


妻の狩野えまなは市役所で働いており、先に仕事を終えた妻は帰宅し、今のような仲でも料理は作っていてくれていた。


結婚当初なら、「晩ご飯何がいい?」などといった連絡が事前に届いていたが、そういう事はすっかりなくなってしまっていた。


それに加え、今ではテーブルを挟んで一緒に食べる事もほとんどなかった。


家の中では、大きな貝殻にヤドカリが二匹いるような雰囲気が漂い、その居心地の気まずさに別居、離婚という二文字が時たま浮かんでくるような気がしていた。勿論、その話を切り出すとしたら妻の方からだと正男は思っていた。



正男はマンションの300メートル手前辺りまでたどり着くと、マンションの前である人影に気が付いた。


外光灯の下で誰かの影を見たのだ。


正男は少し視力が落ちた目を凝らし、誰なのだろう?と思って凝視してみると、その人物は、今朝エレベーターで会ったマスクを着けていた男のような気がした。


なぜなら、その人もマスクを着け、似たようなシルエットだったからだ。そんな単純な理由だった。

そして、その男はスマホを使い、誰かと電話しているように見えた。


その数秒後、そのマスクの男がマンションの敷地内に消えていくと、正男はこのままだとエレベーターでまた一緒になりそうだなと思い、わざわざ少し時間をずらしてからマンションへと入っていった。




マンションの部屋の扉を開けると、いきなり妻の笑い声がリビングから聞こえてきた。


正男はそれに少し驚いてしまった。


妻の大きな笑い声を家の中で聞くのは久しぶりだったからだ。


正男は少し気まずい気持ちになり、玄関でいつもより大きな音を立てて靴を脱いだ。


すると、その音で察したかのように、リビングから笑い声が消えた。


正男は普段より時間をかけてリビングに入ると、妻から「おかえり」と言われた。

テーブルの上にはスマホがあり、まだその声には電話で話していた時の親和性が残っていた。


正男は「あぁ、ただいま。」と言った。


「てっきり、今日飲んでくるかと思って、晩御飯、作ってないよ。」と妻は早々に白状した。


正男は金曜日、恒例になっている飲み会に参加してから帰る事が多くなっていたからだ。そして、ここ数回は連続で参加していた。


「別にいいよ。」と正男は少し不満げに言ったが、何も言わなかった自分に落ち度がある事はわかっていた。


妻はテーブルの上に置いたスマホを手に取り、なぜ早く帰ってきたのかの理由も聞かず、椅子から立ち上がり、今では妻の部屋、昔は使われていなかった部屋へと歩いて入っていった。


正男は妻の後ろ姿を見て、一体誰と電話していたんだろう?と思った。



鞄を置き、スーツを脱ぎ、服を着替え、靴下は洗濯籠へと投げた。


そして、正男は二人用のテーブルの椅子に座った。


だが、さっそく何か食べようと思い、またすぐに立ち上がり、台所へと向かった。


綺麗に整頓された台所だが、シンクの三角コーナーにバランがあるを見つけた。


それを見ると、正男は次にゴミ箱を見てみた。


ゴミ箱の中にはスーパーの特上にぎり寿司セットがあった。一様、値段を見てみると1280円していた。


正男はそれ見終えると、次は冷蔵庫の中身を見た。中は割とスカスカで、今日スーパーで買い物をしてきた痕跡はなかった。


正男は今から何か料理を作る気にはなれず、小分け用豆腐と余りもの辛子明太子、インスタントの味噌汁とご飯で済ますことにした。


独身の頃を思い出すような食事だった。


正男はテレビをつけずに、スマホも見ずに、黙々と食べ始めた。




二人が結婚したのは三年前で、その前に約三カ月間付き合っていた。

その間に同棲期間を二カ月ほど経ての、スピード婚だった。


アプローチをしたのは正男からだった。正男が妻に惚れたのだ。

スラリと背が高く、長い髪を揺らして歩く彼女は美しく、小さく魅惑的な口が口角を上げる度に、正男はその魅力に惹かれていった。


正男は仲間内で彼女と数回会ってから、デートのお誘いをし、二回度目のデートで一度告白をしたが、きっぱりと断られた。


その時の感触は暖簾に腕押しみたいだった。


正男はその事でプライドがかなり傷ついた。それをきっかけに、なんとか彼女をものにしたいと躍起になっていた。


それから慎重かつ丁寧に外堀を埋めるようにアプローチをし、なんとかして彼女の好意を得た手応えがあった時にもう一度告白し、念願の交際にたどり着いたのだ。


交際日数が増えていく内に、さらに彼女の警戒心の壁は少し崩れていき、正男は更に優しい気遣いや言葉をたくさんを与えていた。


そして、とんとん拍子で結婚まで至ったのだ。


今思えば、正男の優しさのピークはそこだった。


しかし、一度釣った魚には餌を与えない訳ではないのだが、結婚してからは彼女の方が正男より優しくなり始めてしまった。


彼女の意思は正男の意思に沿うようになってしまっていた。


こうなると、次第に正男はその優しさにもたれかかるようになり、心のどこかで偽っていた本性を少しずつ現していった。


獲物を追う肉食動物は、追われるより、追いたいのだ。



それでも、結婚してニ年目までは順風満帆な日々だったと思う。


家の主導権は正男が握り、亭主関白タイプの男になり、料理、洗濯なんて、随分長い間やっていなかった。ゴミ出しも気分次第だった。


正男はそれにすっかり慣れ、当たり前だと思ってしまっていた。



だが、その日が前触れもなく、訪れたのだ。



結婚してから二年が過ぎた頃、ある事から口論が起こった。


その頃にはなぜか口論自体は珍しい事ではなかった。


妻は少しづつ正男に反発するようになっていた。


その時の原因は正男の発言だったのだが、そのことについて謝らなかった事からだ。


口論が終盤に差し掛かった時、妻のえまなは仏頂面で正男にこう言った。



「無能なくせにプライドだけは高いのね。」



それが妻の狩野えまなから言われ、今までで1番心に刺さり、残った言葉だった。


好きだとか、かっこいいだとか、頼りになるとか、付き合っていた当初、結婚した当初にはいくつかのポジティブな言葉もあったはずだ。


だが、そんな言葉たちをなぎ払うほど「無能なくせにプライドだけは高いのね。」という言葉の羅列が正男の心を揺らしたのだ。


そして、今でも揺らし、抜けていない棘がズキズキと痛んでいた。



正男はその言葉に動揺し、その後に激怒した。今までで、一番の激怒だったと思う。


その時、運悪く丁度、正男が企画、デザインした即席麺の売り上げが徐々に下がってきている時期だったのだ。


社内で話題になる事も少なくなり、入れ替わりで他のチームが発案企画した即席麺が、正男が企画したものより大きな売り上げを上げていた。



正男が大きな怒鳴り声を出した後の部屋には長い沈黙が続いていた。


正男も妻もしばらく立っている場所から動かなかった。


どちらが先に口を開くのかと、両者間にそういう思惑がある中でも、正男は頑なに口を開く気はなかった。


すると、妻のえまなはその場を立ち去り、誰も使用していない部屋へと入っていったのだ。





その次の日、妻は言い過ぎたと何度も謝ってきた。


だが、正男はむきになり、返事をしなかった。


「おれは謝らない。」と決めていた。



一度、ボタンを掛け違えたままにしていると、次からはずっとずれたままになる。


それから、その日を境に二人の関係は一緒に何かをするという事も、一緒に笑い合う事もなくなってしまっていた。


気持ちがこもっていない言葉を交わす毎日が増えていった。




正男は食事を終えた。終えると皿をシンクに持って行った。そして、そのまま立ち去ろうとした時、もう一度シンクに戻り、皿を洗った。


気分転換に缶ビールでも飲もうかと考えたが、やはり飲む気になれず、風呂に入って疲れた体を早く休めたかった。また体調不良になると厄介だ。


正男はゆっくりと湯船に浸かり、お風呂から上がるとリビングにはいかず、そのまま夫婦の寝室へと入っていった。勿論、長い間ずっと一人で寝ており、夫婦の寝室とは最早呼べなかった。


そして、ベッドに入りながら商品開発についての考え事をしようかと思っていたが、正男はすぐに眠りについてしまった。




だが、正男が目覚めたのは深夜一時だった。


何かの物音が聞こえてきたのだ。


正男は重い体を起こして、目をこすり、ベッドを抜け出し、寝室のドアを開けて、静かな足取りで廊下を歩き、音が聞こえるリビングをこっそりと覗いてみた。


そこでは電気をつけずに、妻がソファに座りながら、何かの映画を見ていた。



その様子を見て、正男は驚いた。


思わず話しかけそうになった声を抑え、その様子をしばらく見ていた。


こんな深夜の時間に妻が映画を観ているなんて思いもしなかったのだ。


そして、妻が観ていた映画は正男もどこかで観た事があるような気がした。


ある男とある女が演じる、どこにでもあるラブストーリーだったのだが。


ある所でシーンが変わると、正男はまた音を立てずに寝室に戻り、電源を切ったかのようにすぐに眠りについた。


 


朝になるといつもの時間に正男は目を覚まし、支度してから、朝食を食べた。

テーブルの上には目玉焼きとウィンナーとカットトマトがあった。


正男はまず沸かしてある白湯を飲んでから食事をはじめた。そして、ものの数分で食べ終わると、皿をシンクに置いた。


今日、会社は休みなのだが、正男は少し溜まっている業務を終わらせる必要があるので出社する事になっていた。


市役所に勤める妻は休みなのだが、いつの日からか日課になっている朝のウォーキングにもう出掛けていた。


正男は仕事に行く準備をし、マンションを出た。





土曜日となると、電車の中は空いていた。


座席にちゃんと座る事ができ、会社の最寄り駅に着くまでの間、短い移動時間だが、ゆったりと過ごす事ができた。


電車が駅に到着すると、正男は電車を降りた。


ホームに立つ人の数はまばらで、平日もこうならいいのだがと思った。


スーツ姿の人も少ない。だが、正男の視界にある気になる人物の姿が映った。


三両先で、またあのマスク姿の男らしき人物が同じ駅で降りていたのだ。

その人は今日もスーツを着ていた。


正男は「えっ」と驚いた。確信は持てないが、多分、同じ人だと思った。

まさか同じ駅で降りているとは思ってもいなかったし、この辺りで働いている可能性があるなんて思いもしなかった。


正男は時間を確認し、少し早歩きでその男の後を追ってみた。

北口、南口、どちらに出るかだけを確認しようと思ったのだ。


だが、マスク姿の男も早歩きだった為、正男はマスク姿の男を簡単に見失ってしまった。


正男は一様、会社の方角の北口だけではなく、南口にも一度出てみたが、そこにも男の姿はなかった。


それが分かると、会社に向かった。



正男はいつもより静かな会社に到着し、デスクに向かう途中、今度は本間と廊下で出会った。


「おはようございます。」と目線を下を向けながら歩いていた正男に、本間が挨拶してきた。


「おっ、おはよう。今日来てたんだね。」と正男が言うと、


「はい。社長に会いに。」と本間は何の躊躇もなく、そう口にした。


「あっ、そうなんだ。」


「はい。では、また。」と言い、本間は軽く会釈をしてから、その場を後にした。


廊下を颯爽と歩く、本間の後ろ姿を正男はまた眺めていた。


「あっ、そうなんだ。」と正男は言葉を返したが、その発言に驚きを隠せなかった。


「社長に会う……。」入社してすぐに正男が直接、社長に会った事はないし、ましてや、今年入社の人間が休日の土曜日に社長と直々に会う話なんて聞いた事がなかった。どういう用件なのだろうか?


本間が廊下を曲がると、正男は再び歩き始めた。


そして、彼女の香水なのだろうか、どこか懐かしい香りがほんのりと廊下に漂っているようだった。



正男は残っていた仕事を午後一時過ぎに終わらせた。


すぐに家に帰るより、どこかで昼飯でも食べて帰ろうと思った。

そして、資料などが散らばったデスクの上を片付け、立ち上がろうとした時、


「狩野さん、ちょっと時間ありますか?」と後ろから声が聞こえてきた。


正男が振り向くと、そこには昨日、「これから飲みにいかないですか?」と誘ってきた後輩の林がいた。


「おぉ、林も来てたのか。今まで気付かなかったわ。」


「はい、ちょっと外でやる事があったので。で、狩野さん、これから食事に行きませんか?」


「いいけど、どこいく?」


「いつも場所はどうですか?」


正男と林は会社から徒歩数分圏内にある、行きつけの大衆向けの食事処で昼食を食べる事にした。


入店するとすぐに、正男はアジフライ定食を頼み、林は唐揚げ定食を頼んだ。


「なんか話でもある?」と正男はさっそく単刀直入に聞いた。


林は何か話たい事があるんだと、正男には分かっていた。


「はい。話があります。仕事とは関係ないですが。」と林が口にした時、感のいい正男は口を開いた。


「恋愛か?」


「はい、そうです。よくわかりましたね。」と林ははにかみながら言った。


「うん。そうだと思ったよ。で、相手は誰?望月さん?」と正男は、会社で人気の独身で愛嬌がある小柄の女性社員の名前を出した。正男は以前にも林から恋愛相談を受けた事があった。回りくどい事が嫌いだから誰なのかを早く知りたかった。


「それとも社外?」


「いや、違います。本間さんです。」と林も正男の性格を理解しているかのように、もったいぶらずに答えた。


その返答に正男は少しの間、沈黙をしてしまった。


「以外なところにいくな。ちょっとビックリだわ。てか、本間さんと話した事ある?」


「当たり前ですよ。話した事がないわけないですよ。もう数カ月一緒に働いてますし、今同じチームですから。」


「そうだったな。」と正男は笑い、続けて「いつから?それと、どこに惹かれてんの?」と聞いた。


「本間さんが入社してから、すぐですね……。好きなのは、正直、顔です。それと、あの知性的な感じが好きなんです。」と林はにやけながら答えた。


「そうか、まぁわからない事もないよ。彼女は美人だからな。けど、本間さんは高嶺の花って感じがするだろ?」


「はい。だから、狩野さんに相談してるんです。」


「なんで?」


「いや、なんとなくです。狩野さんならなんか、アドバイスをくれるかなと思って。」


「俺にアドバイスできることなんてないよ。当たって砕けろぐらいしか。」と正男は笑い、

「てか、今彼氏はいるんじゃないの?あの容姿なら。」と言った。


「いや、聞いたところよると今はいないみたいです。」と林は嬉しそうに答えた。


「そうか。けど、今は同じチームだからな。今のがひと段落してから、行動してくれよ。」と正男は今度は真面目な顔でそう言った。


「やっぱり、そうですよね。けど、僕にとってはこれはチャンスなんです。一緒の仕事ができるのは。」と林は言った。


「まぁ、そんなに慌てなくていいよ。本間さんはなかなか奥深い人っぽいから。」


「それはどういう意味ですか?」


「いや、ミステリアスな感じがするってこと。」


二人は届いた定食を食べながらも、その話を続けた。結局、正男が林に言ったのは、「今はまだ待て。」という事だった。そして、企画中の即席麺の話もしてから、会計は正男が払い食事処で二人は別れた。


正男は外で一人になると、人に恋愛相談をする男の気持ちが全く理解できない、よく内情をズケズケと話せるもんだと、話を聞いておきながら改めて思った。



昼下がり、今からどうしようかと考えたが、久しぶりにご飯をお替りまでして食べたら急に睡魔が襲ってきた。

なんだが最近、よく眠りたくなる。


正男は午後の温かい日差しを受けながらも、まだ時間は早いがもう家に帰ろうと思った。


林に伝授した恋愛成就の方法を思い出しながら歩き、駅に向かった。


慎重かつ丁寧に、外堀を埋めるようにアプローチをするんだと。


その後の大切さについては、正男自身、何も言えなかったのだが。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

恐らく、1話が1番長いです。


感想、評価、誤字脱字の指摘などをいただけたら、嬉しいです(^^)

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