第1話【始まりのURL】
いつから「自分」を見失ったのだろう。
会議では周りの意見に合わせて上司の指示に従い、仕事の効率が悪くても自分の意見を、自分自身を押し殺してアンドロイドのように「はい、承知しました」と言う。
この言葉はこの会社に入社してから数千回は言っているんじゃないか?
まぁ数えた事も無いけど。
果たして「本当の自分」とは何だろうか。
小学生の頃に道徳の授業で「本当の自分」について学んだことがあった。
学ぶと言っても自己分析をして、プリントに記入する、といった形式だ。
当時は『いつも楽しくて、元気で素直』と記入していたっけ……。
今は?と問われれば、僕はきっと答えられない。
まぁ、今の自分はこの27年間生きてきた経験から学んで成長した、紛れもない自分自身なのだから、否定はしない。
だけども、歳を重ねるにつれ「本当の自分」というものを心の奥底へ鍵をかけて閉じこめてしまう。
それもどれも全部会社のせいだ、と言いたいけども言うほどこの会社は悪くはない。
残業はほぼ無く、土日祝日休みに有給休暇が年15日取得でき、手取り21万円。今の世間ではホワイト企業の部類に入るだろう。
デメリットはと言われれば、やり甲斐が無い事くらいかな。
毎日同じ作業の繰り返し。
そして俺の生活も毎日同じ事の繰り返しだった。
帰宅して、ご飯食べて、お風呂入り、寝て、起きて、仕事して、帰宅して、ご飯食べて、お風呂入り、寝て…………。
「何のために生きているんだろう」という人生最大の問題が27歳で再び提起されたのだった。
趣味も生き甲斐も特にない。休日はテレビを見て、本を読んで終える。彼女も9年間いないし、気になる人もいない…。
「そんな俺の人生を小説化して出版したら半分読んで捨てられる自信がある」
「購入はしてくれるんだな」
『自分とは何か』について、古友と大衆酒場にサシで呑みながら話をしていた。この店はプレミアムフライデーの日は生ビールが21時まで半額だと聞き、お互い定時で上がり19時には店に入ることができ半額ビールを嗜む事が出来た。
だが、大衆酒場だということもあり店内は古友の声が聞き取りにくく、お互いに大きな声を出さなければ聞こえないし伝わらない。それほど賑やか場所だった。
「表紙を二次元キャラにすれば売れるだろう」
「安直な考えだなぁ……お前本買う奴は表紙だけ見て買うと思ってる?」
「え、違うのか?」
驚いた。俺は本をある程度は読んでいるが、表紙と題名だけで購入してしまうのだが。
「まずレビューを見て、ざっとページを開いて文章を読んでだな…」
「…………なになに?周りがうるさくて聞こえんわ」
「だー!!もう、うるさくて話も出来ん!外出るぞ」
「落ち着け!半額生ビールあと三十分あるぞ」
自身の時計を確認すると20時30分丁度だった。
しかし、真人が携帯を手にして俺に見せてくると、携帯の時刻は21時になっていた。
「嘘でしょ、これ電波時計だぞ!?……買ったばかりなのにもう壊れたのか?」
「あぁとても残念だ。さて店を変えて呑み直そう」
「素っ気ないな…」
お互いに2000円ずつ出し合い大衆酒場を後にした。
何杯ビールを飲んだか覚えてないが半額だけの事はあり、何品かつまみも頼んだのに会計はそう高くは無かった。
暖簾をくぐり、店を出ると飲み屋を巡る酔っぱらいの親父達で溢れていた。
まさに夜の街という名に相応しい程に、酒クサい空気が漂い、居酒屋とキャバクラの看板の明かりで街が輝いて見えた。テレビで見た函館の夜景とはまた違った安心と高揚感に包まれ、僕と真人も夜の街へと溶け込んでいく。
「あーあ、もう少し飲めたのになぁ……半額ビール」
「リーマンには優しい大衆酒場だからな、なによりあの店は値段が安いし美味い!」
「あぁ確かにあの豚の角煮は美味しかった、あんなにトロトロで後味がクドくない角煮は初めてだ!」
料理は美味しかったし、半額ビールと言っても薄められたりしてなかったし、安いしで満足だった。ただ、騒がしさを除けば……。
その騒がしさも大衆酒場の良さでもあるけど、サシで飲むのには向かないなぁ。
さて、次はどこへ行こうか。
お腹は膨らんだし、生ビールじゃないお酒が飲みたい気分だ。
「なんだかカクテルが飲みたくなってきたな」
「お、それなら良い店を知ってるぜぇ、ついて来な!」
「流石、毎日飲み歩いてる奴め」
「それが俺の楽しみであり生き甲斐なのさ!」
生き甲斐……その言葉に少しばかり胸にチクッと痛みが走る。
それは飲み過ぎの胸やけとは違う、小さな痛み。
「どうした立ち止まって」
「あ……あぁなんでもないよっ!さっさと連れていけ!」
「いてっ、お前飛び付いてくるなよ」
僕は真人の首に腕を回し、お互い肩を組んで歩いていった。
いつの間にかに胸の痛みは、酔いと共に体に溶けて消えていた。
………………
…………
……
ピピピピピっっ
聞き慣れた音が聞こえてくる。
この音とはもう、8年の付き合いだ。
体に気怠さを感じながらも、音のする方へ手を伸ばし手探りで探すが、何も無い。
だんだんと鳴り響く音が二日酔いの頭に響いていき、薄目を開けて身体を起こす。
「ふぅ……少し頭が痛いし、身体の節々が固まっている……これが歳ってやつか」
……いや、ただ飲みすぎただけか。
そう呟いて、音のする方へ顔を向けるが、どこから鳴っているのか見当たらない。
「どこいったんだ??」
ベッドの上から部屋を見渡す。
ワンルームの部屋に一人暮らしを始めてもう4年が経つが、相変わらず必要最低限の物しか置いていない。
テレビに本棚、ベッド、部屋の中心に小さな四角いテーブル。
それ以外、特に目立つ物は置いていないが部屋が綺麗という訳ではない。脱ぎ捨てられた洋服や仕事のプリントが散らかっているのだ。片付けないといけないのは分かっているが……億劫なんだよなぁ。
そんなことよりも早く音を消さないと。
耳を澄ませると、ベッドの下から聞こえてくるのが分かり、覗くと黒猫の目覚まし時計が転がっていた。
「あったあった。全く、休日の日くらい静かに寝かせてくれよな」
招き猫スタイルの目覚まし時計の音をオフにしてそう呟いた。
数年の付き合いであるこいつは、顔の部分のメッキが一部分剥がれ、当時の可愛さは失われてホラー感が溢れ出ていた。そもそもこいつは、大学に入学して初めて出来た彼女から貰った誕生日プレゼントで、毎晩抱きながら寝るほど大事にしていた。
結局、目覚まし時計しか抱く事は無く彼女とは終えた。
別に未練とか何もない。
だって目覚まし時計に罪はないんだぜ、使うもの使わないと。
そっと黒猫の頭を撫でて、いつものポジションに戻す。
そして携帯を手に取って電源をつけると真人からメッセージが届いていた。
『お疲れ、ちゃんと帰れたか?昨日俺が言っていたやつだけど、URL送ったから予約して行ってみろよ!また今度時間あったら飲みいこう、また連絡する!』
………だめだ覚えていない。予約……何の事だっけ?
「まぁ、後で見てみるか」
そう呟いて携帯の電源をオフにした。