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夕焼けが、街をオレンジ色に染めている。
あの世界―――ユフラシアには夕方という概念がなかった。朝5時間、昼5時間、夜10時間という、なんとも割り切りの良い時間構成で、太陽は高く上ることはなく、低い位置で半円を描き、沈んでいった。
だからあちらの空の色はいつも赤みがかっていて、青空を見ることは一度もなかった。
夕焼けで赤く色づく住宅街は私が幼い頃から知っている場所なのに、錯覚が起きそうになる。
異形の出現に、消えていない退魔の力。私は本当は帰還などしていなくて、夢を見ているのではないだろうか。
虚構のような世界から抜け出したはずなのに、ここが現実の世界だと確信が持てない。
こうしてぐるぐると、一人で悩んでしまうのは私の悪い癖だ。
そんな時はいつも、あの人が迎えに来てくれた。使役している美しい羽根を持つ鳥に私を探させて、そっと手を差しのべるのだ。出会った当初は堅苦しい笑顔が標準装備だった、不器用で心優しい大神官様が。
暖色に染まった道に一つ、黒く長い影が伸びて私に近づいてくる。―――そう、いつもこんな風に彼は現れた。
「実咲!」
名前を呼ばれて、視線を上げる。そこには夕日を背にした従兄が立っていた。
「彼方、どこかにでかけるの?」
「お前を探してたんだよ。家に行ったらまだ帰っていないって言うから、また戻ってきた」
「どうして」
「どうしてって、お前……っ」
彼方は言葉を詰まらせると、私の身体を確認するように上から下へと視線を動かした。
「怪我はなかったんだな?」
「……もしかして、バイクが突っ込みそうになったのを知ってるの?」
「ああ、俺は反対側の歩道を歩いていたんだ。急ブレーキをかける音がしたから、何かと思って見たらバイクが横滑りして事故りそうになってた。その先に、実咲が見えた気がしたんだ」
あの場に知り合いがいなければ良いなとは思っていたけれど、よりによって彼方が居合わせていたなんて。間が悪い、と内心で舌打ちをする。
「一瞬のことだし車通りが激しくてよく確認できなかったから、慌てて交差点を渡って現場に駆け付けた時にはもうお前はいなかった」
「バイクは歩道に乗り上げる前に止まったし、何事もなかったからね。ちょっと寄り道して、帰るのが遅くなっただけだよ」
「……じゃあ、やっぱりバイクの前にいたのは実咲で間違いないんだな」
語気が強くなり、明らかに怒っている彼方の様子に、受け答えの仕方を間違えたことを知った。はっきりと私だと分かっていなかったのなら、適当にしらばっくれれば良かったのだ。
「バイクが横滑りしだした時、お前、わざわざバイクの方に向かっていっただろう」
「別に好き好んで、バイクの前に飛び出したわけじゃないよ」
「実咲が中学生を庇ったのは、その場にいた人に聞いて分かってる。事故にならなかったのも良かった。だけどな、それは結果論だ。わざわざ自分から危険に飛び込むようなマネをするな」
「でも身体が自然に動いちゃったから、不可抗力みたいなものだよ」
「不可抗力って、お前なんでそんなに冷静なんだよっ」
彼方が悲痛な声を発し、私の両腕を掴む。その手が小刻みに震えていた。
「遠くから見ていただけの俺でさえ怖かったっていうのに、なんで事故に遭いそうだったお前がそんなに平然としてるんだ。少しは危機感を持てよ!」
「彼方……」
「あの時、頭が真っ白になった。お前を失ったかと思って、ぞっとした」
「……ごめん……」
「違う、謝らせたいわけじゃない。俺はただっ」
「うん、でもごめん」
私の両腕を掴んだままの彼方の胸に、とんと額をつける。
怖がらせるつもりなんてなかった。「もう二度と会えないかもしれない」と感じる恐怖を、彼方に味あわせたくなどなかった。
私はそれを充分過ぎるほど、あの世界で体験してきたというのに。
まさか彼方が近くにいるとは思わなかった―――そんなことは言い訳にすぎない。例え彼方が見ていると知っていたとしても、私は同じように行動していただろうから。
だから、ごめん。
でも私は自分のできることの上限を知っているから。それをきちんと把握した上で、動いているから心配しないで。
言うことのできない言葉を飲みこんで沈黙していると、大きな手が私の頭に置かれた。ゆっくりと撫でるその優しい仕草に、いつの間にか張っていた肩の力が抜けていく。
「悪かった、取り乱して。俺が動揺してどうするって話だよな」
与えられる温もりと同じような穏やかさで、彼方が私に言葉を掛ける。
「偉かったよ、お前。身体が自然に動いたって言うけど、咄嗟に人を庇うなんて、誰もができることじゃない。だけど……俺はどうしてもそれを、素直に良いことだと思うことができないんだ」
「彼方……」
「自分勝手だよな。ごめん」
訥々と語られる想いに触れて、思いがけず一筋、涙が零れた。落ちた雫がアスファルトに小さな染みを作る。
誰かを助けるということが、私にとっては当たり前のことになっていた。それを実行できるだけの能力があったし、それがずっと私の存在意義になっていた。
純粋に心配をしてくれている彼方に、諭された気がする。
私は私自身を優先して良いのだと。それが当たり前のことなのだと。
「帰ろうか」
彼方は私の手首を軽く掴み、歩き出した。それに逆らうことなく、引かれるままについていく。
この従兄とは、小さい頃からの付き合いだ。近所に住んでいることもあって、兄妹同然に育った幼馴染。兄と言うよりは母親かと言いたくなるほどに過保護で、常に私を気に掛け守ってくれた。
自分を大事にしろと諭してくれる彼方の気持ちは、とても嬉しかった。私が見失っていたものを知らしめてくれた。
―――でも私には、やらなければいけないことがある。
脳裏に浮かぶのは、異質な変化を遂げた小動物の姿。
もう私は、守られるだけの立場ではいられない。
彼方に手を引かれながら一抹の寂しさを覚えて、遠い暁の空を振り仰いだ。