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「え、なんで……俺は一体?」

 バイクに乗っていた男性が、戸惑いの声を上げる。

 それはそうだろう。横滑りしたバイクに事故を覚悟したら、慣性の法則も重力も一切無視して、バイクが斜めの状態で停止したのだから。人を轢きそうになった恐怖と、通常ではありえない現象に、頭の中で状況処理が追いつかないのも無理はない。


「大丈夫ですか」

 混乱している男性に声をかける。騒ぎにはしたくない。早々にこの場から離れなければ。


「止まって良かったですね。怪我はありませんか」

「あ……ああ」

「ではハンドルをしっかり持って、バイクをきちんと立たせてください。……そうです」

 男性は言われたままに行動するものの、夢でも見ているかのようにぼんやりとしている。呆けている男の顔の近くで、パンと音を立てて手を叩いた。


「しっかりしてください。ヒヤリ・ハットなんてバイクを運転していれば、今までにもいくらでもあったでしょう。あなたが気を付けなければ、このバイクは凶器になるんですよ。人を殺める可能性だってあるんです」

 ビクリと肩を震わせた男性の目の焦点が合い、私の姿が瞳に映る。


「今回は事故にはなっていません。皆、無事です。もし気持ちが落ち着かなくてこのまま運転するのが危ないと思うなら、バイクに乗らずに転がして帰ってください。分かりましたか?」

「ああ……分かった……」


 今一つ不安は残るものの、とりあえず正気には戻ったようだ。ちらほらといるギャラリーがこれ以上増える前に、立ち去るのが賢明だろう。

 後ろを振り返り、地面に膝をついている学生服の少年に目をやると、戸惑うような表情を浮かべているものの意識はしっかりしているようだ。


「君も気をつけて帰って」

 言葉一つを少年に残して、走り出す。引き留める声が聞こえたような気もするけれど、そんなものは無視だ。

 信号のある十字路を左折し、人目につかない場所を探す。古びた雑居ビルの非常階段が目に入り、その下へと駆け込んだ。道路から死角になるのを確認して、空気を肺まで吸い込む。

 細く、ある一定のリズムをつけて息を吐きだし、空気を震わせる。これは人間には聞こえない。『寄せ笛』に反応するのは異質なものだけだ。


 ビルの隙間の暗闇から見える、光った目。キィィと鳴く声は高く、警戒を顕にしている。

 両手の全ての指を細く開き、垂直に下ろす。指の間に作った空気の針を、手首を返して持ち、構えを取った。

 一瞬の睨み合いの後。

 飛び掛かってきたネズミもどきに、透明の武器を一本投げ放つ。首に貫通した針は、敵に声を出させることなく地面へと墜落させた。

 それを目で確認する前に、手にある残りの針を上方へと素早く投げる。頭上にある階段から、飛び降りて私に食らいつこうとしていた数匹の生き物がバタバタと落ちた。


 白い腹を見せているネズミもどきの口にあるのは、顎からはみ出すほどの長い牙。普通のネズミには有りえないものだ。そして何よりも、この動物の喉元にある印は―――


「なぜここに、こんなものがいるの……?」

 空気に溶け込むように消えて行く異形の姿に、過去の記憶が呼び起こされた。



「こんな所にいらっしゃったのですか」

 白いローブを着た青年が、落ち着きのある声で私に話しかける。向けられているのは最初に会った時と同じ、作られた笑みだ。ちらりと相手を見やり、特に返事をすることなく、また庭園の風景へと目線を動かす。


 無理矢理の召還に身体が追いつかなかったのか、数日寝込んでようやく動けるようになった私を訪ねてきたのは、この地に私を呼び寄せた神官だった。袖口や裾に施された翼の刺繍はとても緻密で、高い地位にいる人なのだろうとその衣服だけでも察せられた。


「どうして私はこの世界に呼ばれたんでしょう。特別な才能なんてない、平凡な子供にすぎないのに」


 オレンジ色の空の下、風に揺れる花を見ながら疑問を口にした。

 高校は進学校ではあるけれど、成績は中の上、運動は人並み。特技だってお披露目できるようなものは何もない、一般的な女子高生なのに。


「平凡だと言い切れる、あなたのその状態こそが既に非凡なんですよ」

「は?」

 謎解きのような、答えにならない答えを返されて、思わず苛立ちの声をあげる。不快な気持ちのまま眉根を寄せると、アメジストの瞳が私を真っ直ぐに見据えた。

「あなたに退治を依頼した異形と呼んでいる化け物ですが、元々こちらの世界の生き物ではないのです」


 これをご覧ください、と神官がホログラムのような映像を空間に映した。仁王立ちしている、黒い毛並みの動物。今にも飛び掛からんばかりに、耳まで裂けた大きな口を開けているその生き物の額には、伝説のユニコーンのような鋭い角が生えている。


「これと似た動物を知っていますか?」

「熊……でしょうか。もっとも、私が知っている熊には角なんて生えていないし、こんなに凶悪な表情はしていませんけど」

「あちらの世界にいたあなたがそうおっしゃるなら、これは『熊』で合っているのでしょう。彼らはこの世界に落ちた時に皆、変容し凶暴化するのです。これが異世界から落ちてきたものの印です」

 神官が指を差した化け物の首元には、ハートを逆さにしたような青い痣があった。


「形は様々ですが、彼らには一様にこのような痣が喉にあり、それが急所となっています。ここを攻撃しなければ、彼らは息絶えることはありません」

「……それで……?」

 嫌な予感に乾いた声で尋ねると、紫色の瞳が映像から私へと視線を移す。

「アマネ様。あなたに変化はありましたか?」

 ドクン、と心臓が音を立てる。


「まさかこの世界にいると、人も姿が変わって凶暴になる、なんて言いませんよね?」

「アマネ様」

「違いますよね……?」


 小刻みに震えだした身体を両手で抱える。


 私もあんな風に変化するのだろうか。喉に印をつけて?……私に印なんてあった?鏡はこの世界に来てから見ていない。見る余裕なんてなかった。

 恐る恐る右手を首元に持っていく。


「アマネ様、落ち着いて。あなたは変化していません」

「本当、に……?」

「ええ。だからこそあなたをお呼びしたのですよ。この空気に影響を受けないアマネ様を。異世界の者がこの世界に来て、『平凡』だと言い切れることがどれほど稀有なことであるか、あなたはご存じない」

「そんなの……変化しないのは良かったけど……それだけじゃないですか」


 化け物に変わらないというのは本当に、心から安心したけれど、だからと言って何の力もない女子高生に利用価値があるとは思えない。力なく呟く私に、神官は尚も説明を続ける。


「こちらの世界の空気はあなたの世界の生き物にとって、身体を変容させるほどに大きな圧力を与えるものであり、強い毒でもあるのです」

 『毒』という言葉に反射的に息を止めて、右手を口に当てる。

「大丈夫です。ご説明している通り、影響を受けないあなたにこの毒は利きません。そして……」


 神官は口を抑えていた私の手を取ると、恭しく持ち上げて礼をした。


「あなたはここの空気に支配されない者ではありません。支配する者なのですよ、アマネ様」

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