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「どうしてっ!俺を捨てるの?この世界を見捨てるの!?」
私の腰にしがみつき、縋る身体はがくがくと震えている。嫌だ、なぜと責めるように問う少年に、私は彼の望む言葉を与えるわけにはいかなかった。
「私は役目を果たしたから、もうこの世界には必要のない存在なんだよ。だから私は、私の本来の居場所に帰りたいんだ」
「そんなの嘘だ!皆、ここにずっといればいいって言ってるじゃないかっ。今更帰らなくてもいいだろう?」
逃がさないと言わんばかりに、腰に回された手にぎゅっと力を込められる。胸の位置で私を見上げる瞳には、大きな涙の粒が溢れ出ていた。
「俺より日本とかいう所の方が大事なの?俺よりも、もっと大切な人がいるの?」
「君のことはとても大事だよ。でも、私は……」
「それなら俺の傍にずっといてよ。いなくならないでよ。ねえっ、アマネ。アマネ、アマネーーッ」
木霊する声に反応して、ガバリと跳ね起きる。
静寂を破る、規則的な時計の音。暗闇の中に浮かぶのは、木目の洋服ダンスに教科書の置いてある学習机。
―――夢、か。
ぱたんと力なく布団にうつ伏せになる。
辛い夢だ。私が切り捨てた―――私自身の心情はどうあれ、そういう形になった男の子の夢。
私の名を何度も呼んでいた、あの悲壮な声が頭の中に残っている。
天音実咲。
それが私の名前だ。あの世界で、私は苗字だけを名乗っていた。
名前を聞かれたときに苗字を一言ぼそりと答えたら、それが私の名前だと認識された。それだけのことだった。
わざわざフルネームを教える気もなかったし、あちらも私の正式な名前を尋ねるようなことはしなかった。日本における家名など、彼らの身分制度に当てはまるわけもなく、意味のないものでしかなかったのだろう。
そんな調子で始まった異世界生活だったけれど、こちらの感覚で10年近くも暮らしていれば、情の移る相手ができるのは仕方のないことだった。私は周りの全てを撥ねのけられるほど意固地にもなれなかったし、強くもなかったから。
私を召還した人の良い大神官、共に戦った信頼できる仲間達、そして弟のように慕ってくれた少年。いつの間にか大切だと思える人達が増えていた。
アマネ、と今も頭の中で木霊する声の主は、あどけない印象の少年だった。事故で親を失い、一人で彷徨っていたところを拾ったのが縁で、数年を一緒に行動した。
幼いながらも仲間の戦士から剣技を習い、鍛錬していた彼はいつしか貴重な戦力へと成長していたけれど、私に無邪気に懐く様子はまるで子犬のようだった。
行かないでほしいと縋る彼を置いてきてしまったこと―――それが一番の心残りかもしれない。
*****
顔の高さまで積み上がった、50人分のノート。それを両手で抱え、職員室へと向かう。視野が狭く非常に歩きにくい。
宿題を集めたはいいけれど、そのまま机に置き忘れるなんてGWボケですか先生!と心の中で突っ込みを入れる。
日直の役目だと押し付けられたノートの山を運んでいると、急に視界が開いた。目の前で、化学の先生が私が持っていたはずのノートの半分を持って微笑んでいる。
「重そうだから、手伝うよ」
「ありがとうございます」
私の横に並んだ先生は、かなり身長が高い。190センチはありそうだ。20代半ばぐらいだろうか。化学専門で担当のクラスを持っていないこの先生は、茶色の柔らかな髪に少したれ目の甘い顔立ちで、一部の女子から格好良いと騒がれているらしい。
過去を思い返してみるに、この人とは授業の受け答えぐらいでしか、まともに話をしたことがなかったと思う。
「そういえば、バスケうまいんだね」
「……っ!」
いきなり思いがけない話題を振られ、不覚ながらも喉を詰まらせて軽く咽せた。
「そんな風に言ってもらえるほど、たいしたことはしていません。と言うか、見てたんですか先生」
「ああ、見てたよ。クラス対抗戦で面白そうだったからね。ずっと……見てた」
「先生……?」
「以前とは動きが変わったね。そして、雰囲気も」
向けられた言葉の響きが妙に重く感じられて、隣にいる教師の顔を振り仰ぐ。私の視線に気付いたのか、先生がにこりと笑った。
「君達ぐらいの年頃の子は、成長が早いからね。そんな大事な時期を近くで見守ることができるなんて、教師冥利に尽きるよ」
「先生だって、それほど私達と年が離れていないじゃないですか」
「それでも8年の差は大きいし、とても長く感じたからね」
過去の何かを思い出すようにしみじみと紡がれた言葉に、教師になるのも大変なのかなと思わず自分の進路について思いを馳せてしまう。
来年は受験生だし、どこを受けようか。私はこれから何をしたいのだろう。
あと数歩で職員室というところで、カラリと軽い音を立ててドアが開いた。中から出てきた担任と目が合う。
「天音、ノートを持ってきてくれたのか。ありがとうな。今思い出して、取りに行こうとしたところなんだよ。ああ、片桐先生まで付き合っていただいたようですみません」
私の隣にいる化学教師が同じようにノートを持っていることに気付いた担任が、軽く頭を下げた。
「いえ、たまにはこうして生徒と話しながら歩くのも良いものですから」
「そう言ってもらえると助かります」
担任は私と片桐先生から忘れ物を受け取ると、踵を返して職員室へと戻っていった。
「先生、手伝ってもらってありがとうございました」
隣に立ったままの化学の先生に礼を言うと、「どういたしまして」と爽やかな笑顔が返ってきた。
「君に良いきっかけをもらえて、俺の方が礼を言いたいぐらいだよ」
「え?」
意味不明な発言に思わず素で言葉を返すと、片桐先生は私の耳に唇を寄せて囁くように言った。
「俺は君と話がしたかったんだよ、天音……」
妙な甘さを含んだその響きに、ぞくりと背中が震える。
固まる私に意味ありげな笑みを残し、片桐先生は職員室のドアを開けて中に入ると、静かに扉を閉めた。




