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おはようと、あちらこちらで交わされる声。制服を着た学生たちの波に逆らうことなく、学校の正門をくぐる。花の盛りを終えた桜の並木道の終着点にあるのは、3階建ての校舎。
全てが懐かしく感じて、落ち着きなく辺りを見回してしまいそうな自分を理性で抑制する。
帰還してからは他愛のないことでも感動してしまい、どうしても心が浮き立ってしまう。「落ち着け」と呪文のように我が身に言い聞かせないと、無意識にスキップでもしてしまいそうで怖い。何が怖いって、勿論世間様の目だ。私は平穏な高校生活を送りたいのだから。
心の内を表すように軽く感じる身体を抑えつつ、昇降口に入ろうとして踏み出すはずの足が止まった。
無意識な身体の静止。こくりと息を飲む。
―――ここだ。
この場所が、あの世界へと繋がったんだ。
4月30日―――既にGWに突入し、明日からはまとめての連休ということで、あの日は誰もが晴れやかな顔で下校していた。借りていた本を返すために図書室に寄った私は、そんな生徒たちよりも少し遅れて昇降口に足を踏み入れた。
取り出した革靴を履き、さあ行くかと鞄を持った時だった。強い力で身体を後ろに引かれて、私はものの見事に尻餅をついてしまったのだ。余りの痛さに目を瞑り、涙が滲んだ。
「もうっ、危ないじゃない!」
悪戯にしては容赦のない力の入れ方に、抗議をしながら振り向いた先にいたのは見知った人間ではなく、外国の伝統衣装のような服を着た数人の大人達だった。
「え……?」
学校には不似合いな、異様な雰囲気を醸し出す人達を目にして頭の中が一瞬真っ白になり、辺りを見回して更に困惑した。近くにあったはずの下駄箱や教室へと続く廊下は見当たらず、あるのは周りを囲む乳白色の壁。突然現れた円形のホール状の部屋を呆然と見る。いや、この場合部屋が現れたのではなくて、私が移動したのだろうか?
何がどうなっているのか分からず、機能しない頭にゆるゆると手を置いた。
「初めまして。私共の世界にようこそおいでくださいました」
靴音も立てずに近づき、座り込んでいる私へと手を差し出した一人の青年。その時の彼の顔を、私は忘れることはないだろう。感情の読めない、平坦な笑顔で笑いかけた男は、異世界などという得体の知れない場所に私を召還した張本人だった。
混乱する私に、端正な面立ちの元凶の男は言った。「貴女の力をお借りしたいのです」と。
それが長い戦いの日々への幕開けだった。
ここが、あの世界に呼び出された場所だと思うと足が竦む。また同じように召還されるわけがないのに、過去の記憶が私に一歩を踏み出すことを拒ませる。
額に滲む汗。ごくりと唾を飲み込んだ。
「何してるの」
「うわあっ?」
いきなり横から顔を覗き込まれて、声を上げて仰け反った。
「なんなの、その反応は」
くすくすと笑っているのは、友達の結城聡子―――さとちゃんだ。
「脅かさないでよ。びっくりした」
「別に声をかけただけでしょう。どうしたの、こんなところでぼんやりして。まだ、体調がおかしいとか?」
帰還の日に彼女の所にも両親が問い合わせをしたため、さとちゃんは私が体調を崩していたことを知っている。心配そうに見つめる友達に、違うよと首を横に振って、適当に理由を取り繕った。
「ううん。何か忘れ物をしたような気がして、考えていただけだから」
「それならいいけど。ここで忘れ物が何かを考えたところで、この時間では家に戻ることもできないし、さくっと諦めましょ」
「もう、他人事だと思って」
「何事にも割り切りは必要だよ」
私の肩をポンと叩いて、さとちゃんが先に下駄箱へと向かう。
割り切りは……確かに必要だ。心の中でえいっと掛け声をかけて、昇降口に足を踏み入れた。
何も起きなかった事に安堵して、下駄箱に手をつき息を吐き出す。ドキドキと波打つ心臓に、思った以上に緊張していたことを思い知らされた。
何も変化はなかった。だから、大丈夫。
早く鼓動を打つ胸を押さえ、自分に言い聞かせる。あちらの世界で鍛えられたはずの精神は、こんなことで動揺するような柔なものではなかったはずなのに情けない……
「実咲、行くよ」
さとちゃんに呼ばれて、顔を上げる。彼女の背後では、かつて見知っていたクラスメイトが数人、話しながら教室へと歩いていく。壁には部活の宣伝ポスターが貼られ、大きな窓からは明るい陽射しが降り注いでいる。
ああ、ここが現実の世界だ。
過去に引き摺られそうだったのは、身体ではなくて意識だ―――
私は小さく首を振り、気持ちを新たにして、階段の下で待つ友人の元へと小走りに向かった。




