166.セントサグリア――30
「っ……!」
察知したのは予兆。
触腕に開いた無数の顎門が雄叫びを潜め、それに比べればごく小さな呼吸音にとって代わる。
この状況でブレスを撃つつもりか?
まさか、なんて思っている余裕も無い。
支えていたリエナの身体を抱え直し、自分とノエルの元に氷で足場を生成。
全力で退けば、或いは凌ぎきれるかもしれない。
……だけど。
「ノエル、本体を狙って!」
「任せて!」
いま戦いとしての体裁を保てているのは、リエナの――魔王「焦がるる忌腕」の瘴気があってこそだ。
本来それは、諸刃の剣という言葉でもまだ温い自滅機構。
おそらくこの怪物は、自ら放った汚濁でさえ喰らい糧とするのだろう。
ここで仕切り直しを許して、戦いを長引かせるわけにはいかない。
「せやぁあああっ!」
「…………ッ!?」
あまりにリスクの大きい無謀な要求に、ノエルは完璧な結果で応えた。
本体という言葉がどこを指すのか確かめるまでもない。
触腕を掻い潜ったノエルの瘴剣が、かつてヴィンターの胴体だった部分を正確に貫いた。
……そもそも、この怪物の異常な成長速度のタネは何なのか?
空気さえ媒介に僕らから直接奪っている魔力、だけでは説明がつかない。
魔法の使用は最低限に抑えているし、リエナの瘴気とアリシアの攻撃を喰らう事は不可能だ。
ならば、変貌を続ける触腕の根元に接続されてなお原形を留めている肉塊に仕込みがあると判断するのは決して分の悪い賭けではないはずだ。
びくりと、電撃でも流されたかのように触腕全体に震えが走った。
だが、足りない。
ちょうど後方からアリシアの放った斬撃が触腕の一画を切り崩すも、残った砲口から溢れ出ようとする汚濁は止まらない。
「――冬の帳よ! 我が命、我が誇りに懸けて災禍を捩じ伏せよ!!」
起点とするのは先ほど足場代わりにした氷板。
そこに魔力を注ぎ込み、凍気として爆散させる。
「ぐ、あっ……!」
「ユウキ!?」
怪物全体を凍気で呑み込む。
その行為自体が酸の海に飛び込む暴挙に等しい苦痛となって還元されてきた。
信号は激痛に押し流され、まだ凍気に感覚が繋がっているかさえ定かではない。
……その時、痛み以外の感覚が僕の手を包んだ。
それは視覚で得た情報を根拠にした、都合の良い錯覚だったのかもしれないけれど。
リエナの手から伝わってくる力強さを頼りに、更に魔力を注ぎ込む。
望んだ現象は圧殺。
荷重を得た凍気は魔力を貪る触腕を捉え、その顎門が下を向くように大地へ縛り付けた。
地面からは鎖が伸び、触腕を更に地下深くへ引きずり込む。
突き上げるような衝撃が僕らを襲ったのは、その直後だった。
「……終わらせる――!」
器を介する事も無い、剥き出しの瘴気。
蛇の頭部に似た形状で束ねられたそれは大きく牙を剥き……地上に残されたヴィンターの本体を噛み裂いた。
リエナの身体から切り離されたそれは、獲物は逃がさないとばかりに触腕を伝って地中へ潜っていく。
………………。
敵からのアクションは、無い。
魔力を喰らわれる感覚も収まった気がする。
多分、能力でそれを察したのだろう。
真っ先にへたり込んだのはラミスだった。
それが合図になったか、僕の身体にも力が入らなくなる。
途端に思考が纏まらなくなっていくのをどこか他人事のように感じながら、僕はそのまま意識を手放した。




