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129.魔王領――78

 心臓が止まるかと思った。

 状況を把握するより早く、目の前の家からパジャマ姿のノエルが姿を見せる。


「ノエル……」

「……ごめん。話は大体聞いてた」

「き、聞いてたって?」

「誰かに教えてもらったとかじゃなくてさ。どうやらここで過ごしているうちに、身体にキミの魔力が馴染んできたみたいで……少し前から、耳を澄ませば屋敷の外からでも話し声は聞き取れてたんだ」


 少しばつが悪そうな声でそう話すノエル。

 こっちの意図が筒抜けだった驚きと、俄かには信じがたいノエルの聴力への呆れで、自分でもどんな感想を抱けばいいのか分からなくなってくる。


「そこで、一つ提案があるんだ」

「提案?」

「……ボクは、明日の戦いに関与しない。そうしたら、キミはボクを凍らせなくてもいいんじゃないかなって」


 予想だにしていなかった……僕にとってあまりに都合の良い言葉に、耳を疑う。

 でも、ノエルの姿を見れば言葉にその言葉が空耳でもなんでもないのは分かった。

 平静を装う彼女の拳は硬く握りしめられていて、僕は一も二もなく頷きたい気持ちを抑えて尋ねる。


「……いいの?」

「よくないよ、本当は。ボクは、ここで戦わないといけない。でも……出来ないよ」

「…………」

「本当はさ。キミたちが忙しそうにしてる時、何回も迷ったんだ。適当な誰かを捕まえて、この結界から逃げ出そうって思って……。だけど、どれだけ決心したつもりになってもダメだった」


 ノエルは静かにそう話すけど……それなら、今は?

 彼女の提案は、ディアフィスに仇為す者を討つという勇者の任を放棄するものだ。

 これまでどんなに辛い戦いでも勇者の責務だと信じて果たしてきたノエルに、この言葉を告げるのはどれだけの決意を強いた事か。


 自分の手に力が入っている事に気付いたノエルは、ゆっくりと手を開いて言葉を続ける。


「明日この結界に残るのはコーネリアについてきた人たちと、ユリアとテオの姉弟だよね? ユリアたち魔王(そっち)側の子に混ざればいいかなって思ってるんだけど、どうだろう」

「……うん。それで充分話はつけられると思う」


 ノエルの提案を検討し、特に問題は無さそうなのを確認して頷く。

 それで実務の方に思考が逃げそうになったけど……ノエルが、これまで勇者としてずっと拘ってきた一線を曲げた事。

 それが多分、僕の為なんだって事。それをこのまま曖昧にしたら駄目だと思った。

 夜空と同じ色をしたその瞳を見つめ、それから深く頭を下げる。


「…………ごめん」


 言わないといけない事はたくさんあったけど、出た言葉はそれだけだった。

 視線を外したからノエルの反応は分からない。

 聞こえたのは近づいてくる足音。

 次いで上から暖かいものが覆い被さってきたのが分かった。


「……ああ。やっぱりキミのせいだ」

「ノエル?」

「ボクだって……こんなに弱いはずじゃなかったのに」

「それは……」


 ノエルは弱くなんかないとか、弱くてもいいとか、幾つもの言葉が浮かんでは声にもならず消えていく。

 快活で明るい普段とも、勇者として自分を押し殺している時とも違うか細い声。

 それに対して僕が、どの口で応えるというのか。

 二の句を継げずにいると、身体に回されたノエルの腕にそっと力が入った。


「――ありがとう」


 告げられたのは短い一言。

 だけどこの時、確かに互いの気持ちが通じ合った気がした。

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