ロニエ事変1
ロニエ地方南部にあるディナンの森で、火花のように味方の血を散らす悪魔の姿をテル・カナシュの先行部隊は目にした。
大柄な兵士の多いテル・カナシュ軍の中で、一際体が大きく、金の装飾を身に纏っていた大隊長アムトゥス=パオは、後悔と焦燥に支配されながら、夜の森を駆け抜けていた。
(こんなはずではなかった・・・我らは今頃ロニエの町に辿り付き、敵の屍の上を歩いているはずだったのだ!)
部族一早いラピンに跨り、後ろに続く部下達を引き離す速さで北へ疾駆しながら、アムトゥスは考える。
良質のラピンを産出するテル・カナシュは、大国オルレイアと比べて人口が圧倒的に少ないものの、純粋に人と人がぶつかる陸戦においては引けを取らないほどの強さを誇っていた。
もともと複数の部族が寄り集まり、強い部族長がそれを統一することで建国した国である。
破壊力の高い武器が普及する今でも、強い男は尊敬されるため、一人一人の能力は高い。
テル・カナシュの武人は、オルレイアの兵卒百人に値すると、今まで本気でアムトゥスは考えていたくらいだ。
しかも、オルレイアと和平協定が結ばれて大きな戦が起こらなかった間、現首長のラテビエ・イル・ハーンは、最新鋭の武器を駆使した戦い方を兵士に叩き込んでいる。
そして遂に、大国オルレイアに打って出るほどの軍事力を備え、オルレイアの隙を突く形で勝利を確実に手にするはずだった。
たった一つの都市を落とすだけで、大艦隊とテル・カナシュの主力が動いたのだ。
負けるはずがない。
しかし、蓋を空けてみると、至るところに伏兵が待ち伏せしており、敵兵の数も伝令から聞いた数より三倍は多い。
こちらの情報が全て敵に筒抜けだったのだ。
何よりの計画の狂いは、人間がやったとは思えない凄惨な大量殺人をこの一人の悪魔がやったことだ。
・・・・・噂では聞いていた。
だが、ぬるま湯のようなオルレイアで生まれ育った兵士が、我らに敵うはずがないと鷹をくくって歯牙にもかけていなかった。
―――それがどうしたことか。
悪魔はラピンを飛ぶように操り、すれ違った者すべて、紙のように鎧を破って内臓を切り裂いて殺していった。
悪魔は鎌のついた一陣の風のようにわが軍を蹂躙していく。
顔には愉悦の表情を浮かべ、闇に紛れて現れては消え、次々兵の数を減らしていった。
物心ついたときから戦場に身をおいていたアムトゥスでさえ、これほど絶大な戦闘力と残酷な人間を見たのははじめてだ。
背の皮を一枚一枚削り取られていくような焦燥を抱え、テル・カナシュの武人にあるまじき生き恥を晒すのもかまわず、アムトゥスは逃走していた。
「パオ大隊長、や、奴です。あの悪魔が、ぜ、前方にっ!!!!」
右腕と見込んでいた隊長が、情けない面を隠そうともせず、金切り声を上げた。そして、己も似たような顔をして逃走している自覚はあった。
「とっ、突破する。皆続けーーーーー!」
湾曲のダガ―を振り上げ、兵を鼓舞して突進する。
退路は敵に絶たれている。ずっと悪魔から逃げおおせていたが、腹を括るときがきたのかもしれない。
金の髪を闇夜に輝かす、碧眼の悪魔が現れる。
アムトゥスが最期に目にしたのは、悪魔の微笑みだった。
梟が憂鬱な声で鳴いている。
松明の爆ぜる微かな音が、草を踏みしめる足音にかき消される。
よく知る気配が近づいてきたが、ディーブスは顔上げる気にならなかった。
「准将、テル・カナシュ兵の残党ですが、全て排除し終わりました。ゴアゾル将軍は、先にロニエに進軍なさったようです。我々も急ぎ後を追いましょう」
草木をかき分ける音がして、部下レイノルが木々の隙間から現れる。
ディーブスが返り血を大量に被ったまま、呆けた顔で月を見上げている。
レイノルは怪訝な顔をしたまま上司に近づいた。
「どうかなさいましたか?」
「・・・レイノル、ここはひどいな」
血臭が足元から這い上がってくる。
テル・カナシュ兵の指揮官含む最後の一隊が、屍となって転がっている場所だ。
それも、ディーブスの鉤爪で内臓が飛び散った死体ばかり。
確かにひどい光景だ。
地獄でもこれほど惨い光景はないだろうと信じられる。
しかも、これをやった上司が、事もあろうに「ひどい」と言う。
それもまたひどい冗談に聞こえる。
「・・・・准将が言いますか?」
「足元のテル・カナシュ兵のことじゃない。この景色のことだよ」
「・・・・」
横手に黄土色の断面が見えるほど削られた禿げ山がある。
木々には採石場から降る粉塵が積もり、昼間見た景色はただ灰色に埋め尽くされていた。
今は月明かりでぼんやり白く見えているが、死体の山の方が灰色の森林より、よほど月明かりの中で目立つというものだろう。
しかし、ディーブスは足元には全く関心がないようで、体についた粉塵をまじまじ観察している。
レイノルは微動だにしない指揮官と、困惑を露わにする部下達を認めて眉間を揉む。
自分がディーブスと離れて、別動隊を指揮して残党狩りをしていた間のことを想像した。
レイノル以外の部下が、ディーブスの挙動不審を薄気味悪そうに見守る光景が目に浮かぶ。
戦で大勝利をおさめたところだというのに、緊張感が兵士の間で消えることはなさそうだ。
ディーブスがまだ軍曹だったときからつき従っているレイノルですら、上官が何を考えているのか正確に読み取ることは難しい。
ディーブスは屈んで土に手を触れると、火傷でもしたようにすぐに手を引っ込めた。
香が薫るように、地中の摩瘴気が少量滲み出ている。
ロニエは地中の摩瘴気を地下の瘴気管に吸い込むことで抑えているが、街の外に出ると、このように摩瘴気が噴き出している。
普段肋骨を何本折ろうがにやにや笑っているディーブスが、少量の摩瘴気如きで怯えていた。
「准将?」
ディーブスは瞳孔を開けたまま瞬きをせず、大量の脂汗で顔を濡らしている。
「何ともない」と、譫言のようにディーブスは答える。
部下の引いていたラピンを手繰りよせて騎乗すると、幾分落ち着きを取り戻した。
再度レイノルは声を掛けようとしたところ、ディーブスが手を振ったので口を噤む。
「レイノル・・・お前は魔人を見たことがある?」
「いいえ、話に聞いたことがあるだけです。赤双界で魔人を見たことがある人間は、それこそヴァビロンの生き残りくらいでしょう。魔人が、どうかしましたか?」
すると、怯えとも興奮ともつかぬ、爛々としたディーブスの碧眼が地面を睨んでいることに、レイノルは気付いた。
「このあたりは摩瘴気濃度が高すぎる。・・・早くクラビスを殺さなくちゃならない」
顔を覆って呟いたディーブスが顔を上げると、いつも通りの飄々とした皮肉屋の顔に戻っていた。
レイノルは上司の決意に共感するように深く頷く。
「准将殿!ああ、よかった、まだここにおられたのだな」
大軍の蹄の音がして振り向くと、威風堂々たる体躯の老将が、軍勢を従えて飛び出してきた。
王国軍の鎧を身に着けた老武将は、額の汗を擦りながら、ラピンに跨り息を切らしている。
どうやら、全力疾走で森を駆け抜けてきたらしい。
将軍の後ろには、およそ六千の兵士が後ろに控えており、オルレイアの国旗とファンブル領の旗が翻っている。
第四師団長のゴアゾルは、年老いてはいるが、生気の漲る目や引き締まった体躯で実年齢より若々しく見える。
体力もその辺りの若い者には負けない。
名門貴族ではあるが、アルサス存命の頃は、武人としての実力は他に並ぶものがないとまで賞賛されたほどの名武将だった。
「ゴアゾル将軍、先にロニエに向かったとレイノルから聞いていたけど、どうかしたの?」
「『どうかしたの』ではないわ。思った以上に早く、クラビスに裏切りが知れたらしい。先に向かった偵察部隊から連絡があってな。王国軍がロニエで我々を待ち構えていると情報が入った。だから、貴殿と合流しようと、こうして舞い戻ってきたのだ」
軽い調子のディーブスに呆れつつ、実直で知られる将軍は、孫の歳と変わらぬディーブスに真面目くさった表情を作る。
「間の悪いことにテル・カナシュも去り、生存した王国軍が全てこちらの敵に回った。クラビスの首をとるには今しかない。奴が逃げるまでに、急ぎロニエに向かおうぞ」
鼻息荒く、ゴアゾルは耳が痛くなるほど大声で話す。
高血圧で倒れやしないかと心配するゴアゾルの部下を、珍しくディーブスが同情したらしい。
「わかったよ」と、素直に頷いた。
クラビスを裏切り政変を起こすこと・・・・。
それはクラビスに出会ってから早いうちにディーブスが決意したことだった。
人を何人苦しめようが、殺そうが、悪政を敷こう気にならないが、魔瘴気を悪用することだけは看過できない。殺すなら警備が薄くなった今しかない。
「じゃ、行こうか」
散歩でも行くように軽く言うと、ゴアゾルも気合い十分に「おう」と答える。
「今から王子を意のままに操り、国民を虐げる悪の徒、クラビスを打ちにいく。皆、私に続けーーーー!!」
ゴアゾルが大音声で号令を出すと、「おおおおおお」と猛る兵士達が声を上げた。
鳥が驚いて飛び立つほどのその声が、ディナンの森に木霊する。
それを横目でちらと見ていたディーブスは、無言でラピンの腹を蹴って走り出す。
辺りに出陣を知らせる角笛が響きわたる。
ディーブスの後ろから、レイノルを含む第一師団が続き、その後をゴアゾル率いる第四師団が続く。
後ろから「こら、待たんか」とゴアゾルの叱責の声を聞いた気がしたが、ディーブスは無視して北のロニエに向け、先頭をきって走り出した。
こうして、第一、第四師団の九千の混成軍は、クラビスの首を狙うため、黒煙上げるロニエに雪崩込んだのだった。




