少年期 ―ヴァビロンの赤い罪日1―
レイアが創造した大地を碧双界。
火と水の神が創造した大地を赤双界と呼び、表裏一体で存在する大地をガディナと人々は名付けた。
神々の戦で生まれた大地の裂け目は、悠久の時が流れた今も二つの大地を繋ぐように開いており、この鬼穴と呼ばれる裂け目は世界の随所で発見されている。
「『しかし、赤双界と碧双界とを繋ぐ鬼穴には、火の神が発した摩瘴気が充満しているため、摩瘴気から身を守ることができる強いマヴィを持つ限られた者でなければ二つの大地を行き来することはできない』」
開いていた本の上を小さな吐息が通り過ぎる。
赤毛の少年は、露の含んだ草の上から起き上がり、衣服についた泥を掃った。
パタパタ駆けてくる足跡がしたのでランプを翳すと、小さな影が手を振って近づいてくるところだった。
「レザラ兄、おまたせ!」
明るい金髪は月光に照らされて、白く輝いて見える。
十にも満たない少年が、体からはみ出すほどの大きな麻袋を肩に担いで、転びそうになりながら走ってくる。
「今日はオホシロ山付近まで遠乗りするんだぞ。そんなに荷物を乗せたら、ラピンが疲れて動けなくなるじゃないか」
赤髪の少年レザラは大きく膨らんだ麻袋の中から、干し肉と水筒、小刀とランプを残して他の物を取り出す。
取り出した物を眺めて、レザラは呆れた様子で頭をかいた。これは、一度荷物を戻しに家に寄った方がよさそうだ。
「どれだけ、はりきって持ってきたんだよ。・・・・紅風鈴草の蜜にカバナの香草まであるし。ったく、デヴィは遠乗りを楽しむ美食家だな」
「ちぇっ、やっと大都市シャプールから帰ってきたレザラ兄との遠乗りだよ!ゆっくり美味しいものを食べながら旅の話が聞きたかっただけなのに」
「だからって、幾らなんでも多すぎるだろうが。それに、デヴィ好みの面白い話もないよ」
「ヴァビロン剣術大会に出場して、最年少記録で優勝したって爺ちゃんから聞いたよ。爺ちゃんがレザラ兄のこと、天才とかシンドウだって褒めてた。天才はわかるけど、シンドウってどういうことだろう?よくわからないけど、レザラ兄が羨ましいな」
「神童だって?馬鹿だな。あの村長の言うことを真に受けて・・・。それより、お前にはマヴィがあるんだから羨ましがることなんてないだろう?」
「そんなの誰だってあるじゃないか・・・て、あっ」
しまったというように、デヴィは慌てて口を手で塞ぐ。
レザラは気にした様子もなく、ラピンの顔を撫でた。
白色の長毛で覆われた四足の動物は、額の角が少年に当たらないようにして頬を寄せてくる。
愛嬌ある長い睫の動物ラピンは、移動手段用の動物として重宝されている。
レザラは自分の体より五倍以上はあるラピンの巨体に軽々飛び乗って、デヴィに手を差し出した。
「乗れよ」
「ちょっと待って、いつもどおり、これ、待っていくんでしょう。また『ガディナ旅行記』読んでたんだ。よく厭きないね」
レザラは傭兵や冒険家が愛読するという本を、暇を見つけては読んでいた。
デヴィも見慣れたその本を回収すると、レザラの手を借りてラピンによじ登る。
「朝だ・・・・・」
ラピンの騎乗の人となった二人の少年は、そろって目を細める。
稜線を縁取るような薄明の空。薄靄が山から立ち昇っている。
丘陵から村を見下ろすと、霧が麦畑を呑み込み、家屋の丸屋根を縫うように立ち込めていた。
遠くで鳥がピチピチ歌い、薄闇の村が霧の中から目覚めるように姿を現す。
・・・ここまでは、何の変哲のない平穏な朝だった。
この後、国が転覆するほどの悲劇に見舞われるとは、二人の少年は露知らず、欠伸をしながら朝の空気を吸い込んだ。
「・・・なぁ、何か聞こえないか?」
異変にいち早く気付いたのはレザラだった。
狂ったように甲高く鳴くマヤ鳥の声がしたかと思うと、背後で激しい羽音がした。
村の小道の柵を越えた先にある井戸で、木桶がカタカタ音を立てている。
不思議に思ったレザラは、ラピンを飛び降りて走り寄る。
釣瓶が激しく震えている。下向きに置いてある桶が突然宙を舞い、縄が限界まで伸びると地面に激突した。
桶の隙間からは鳥の翼がはみ出ており、激しくもがきながら甲高い声で鳴き声をあげている。
どうやら地上へ降下したマヤ鳥は、井戸の桶に突っ込み、器用に体が挟まってしまったようだった。
「なんか可哀想だね。助けてあげよう」
追いかけてきたデヴィは桶に手を伸ばそうとするが、レザラは咄嗟にそれを制止した。
「・・・待って、何かおかしくないか」
マヤ鳥は極彩色の美しい姿をした賢い鳥であるため、村の守り鳥とされている。
しかし、耳が痛くなるほど不快な声で鳴き、凶暴に暴れる様は、レザラの知るマヤ鳥と印象が一致しない。
動く桶を足で抑えつけると、慎重に足の力を緩めた。桶の隙間から、鳥の頭が突き出てきて、長い嘴が凄まじい速さで動く。
凶暴に噛みつこうと首を捻るその姿に、レザラは咄嗟に足に力を入れた。
視界に飛び込んできたその鳥は、丸い目玉が飛び出し、嘴の隙間からは長い舌が触手のようにうねり、顔は赤く膨張していた。
しばらく呆然としていたレザラだったが、腰の小刀を抜きはなち、木桶の上から突き刺した。
鼓膜を刺激する甲高い叫びを上げて、マヤ鳥は息絶える。
「レザラ兄・・・」
泣きそうな顔をしたデヴィが膝を抱える。
レザラは自分が肩で息をしていることに気が付いた。額の汗を拭い、デヴィの腕を引く。
「どこに行くの?」
「あれは噂で聞く摩鬼だ。鳥が摩鬼化するなんて聞いたことがないから変だろう?・・・親父達に知らせないと」
「摩鬼って・・・摩瘴気を浴びて凶暴に変身した生き物のことだよね。大きな町では偶に現れるってきいたけど・・・それってつまり・・・」
「落ち着け。何もなかっただろう。だから泣くなよ」
遠乗りに行くという楽しいイベントは、レザラの脳裏から完全に消え去り、命を屠ったマヤ鳥の醜悪な顔が小さな胸に恐怖を充満させる。
嗚咽交じりのデヴィを引きずるようにして、レザラは丘陵の上に立つ自宅へ急いだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
この少し前、首都から離れた農村に、その知らせを運んだのは一人の若い兵士だった。
ヴァビロン首都シャプールから、ラピンが潰れるのも厭わず一心不乱に駆け続け、夜明け前に到着したのだ。
ラピンの嘶きに気付いた村民が不審げに外に出てくると、ラピンから滑りおちた兵士を見て、わっと駆け寄る。
兵士が書簡を懐から取り出し、「これをアンバルへ」と言った後に意識を失った。
血痕のついた震える指先から、くしゃくしゃのそれが滑り落ちる。村民は慌ててそれを拾い上げると、村外れの丘陵に建つマーヴ使い――アンバルの家に走った。
「そんな・・・・・、摩瘴気爆発、バインドバーストが起こっただって」
丸眼鏡を片目につけた壮年の男が絶句する。村民の渡した書簡を開くなり顔色を変えた夫に、赤髪の女が駆け寄る。
「いったい何があったというの・・・・?」
「『シャプールでバインドバースト発生。避難間に合わず、民衆が魔人化。被害甚大。軍壊滅・・・・・。これより残された者で再び掃討作戦を決行す。各地のアンバルに支援要請と、非難民の受け入れを求む・・・・・ヴァビロン――アンバル師団長、ジャステナ』」
「嘘よ・・・・。バインドバーストを考慮して王には深緑増殖政策を再検討するように進言したところだったじゃない・・・・。まだ、時間があったはずだわ」
「いや、この署名は間違いなくシャプールにおわすジャステナ様のもの。我々は・・・・間に合わなかったのだ」
「じゃあ、シャプールは今頃・・・」
「発生したのは三日も前だ。掃討作戦が成功していれば良いが、失敗していればもはや中枢は機能していないかもしれない。それどころか、そろそろここも危なくなるはずだ」
顔面蒼白で二人が見つめ合っていると、木戸が軋みながらそっと開いた。
「何かあったの?それにバインドバーストって?さっき村の中でマヤ鳥が摩鬼化しているのを見たけど、それと何か関係があるの?」
大人達の異様な雰囲気を鋭敏に感じ取り、扉を開けたレザラとデヴィは立ちすくんでいた。
それに気づいたレザラの母親ターラは驚いたように、二人を部屋に招き入れる。
「レザラ!それにデヴィまで。マヤ鳥が摩鬼化したって、どういうことなの?」
レザラは先ほど見た光景を思い出して、両親であり優秀なマヴィの使い手で、研究家でもあるアンバル二人に説明する。
話を聞き終えた二人のアンバルは沈鬱の表情で頷きあった。
「普段警戒心の強いマヤ鳥は摩瘴気を察知すると上空へ逃げる。しかし、そのマヤ鳥が摩鬼化したとなると、上空まで立ち昇るほどの摩瘴気が一瞬で膨れ上がったとしか考えられない。先ほど都のアンバルから知らせがあってね。高濃度の摩瘴気が地下から地上へ噴出するバインドバースト・・・正式名は【摩瘴気爆発】と呼ばれる惨事が、都で起こったらしい。レザラが見たマヤ鳥は・・・おそらく都でその被害を受けたのだろう」
「でも・・・・それなら、さっき魔人化って言ってたけど・・・それって――」
レザラは躊躇して言葉を切ると、何と言うべきか言葉を探す。
摩瘴気とは、火の神が戦で発したとされる赤い霧のような瘴気で、最近では人体を構成する一つの要素だとも考えられている。
人体に含有する摩瘴気を使用し、念じるだけで火や水などを発現させる術をマーヴ。
そして、マーヴを発動する潜在能力をマヴィと呼び、人々は摩瘴気に助けられながら生活をしている。
しかし、大量の摩瘴気は生物に悪影響を与えるため、摩瘴気の多い場所に生息している獣が、摩鬼といわれる凶暴で強靭な生物へと変貌する事例は各地で起こっていた。
鬼穴周辺が摩瘴気の多い地域だと考えられていたが、近年では都市周辺で突然発生する事件も多く、摩瘴気濃度が高い場所に住んでいた場合は移住が余儀なくされる。
それでも、こうして危険を前に住居を移すことで、摩瘴気の直接的な人体の影響は最小限に抑えられていた。
しかし、今父親の説明した内容は、遂に回避していた最悪な事態が発生したことを意味している。
「・・・人間は動物より摩瘴気に耐性があると言われているから、摩鬼化することはほとんどない。だけど、バインドバーストは別だ。魔人化というのは、君の想像どおり、人から摩鬼に変質した生物を呼ぶんだよ。赤双界ではまだそうした事例が発生したことがないから、父さんもよく知らないが、先祖の教えが真実なら――――」
「あなた!」
妻の制止の声に口を引き結ぶ父親は、逡巡した後「魔人化した人間を見たら、絶対戦おうとするんじゃない。いいね」と曖昧に言葉を濁してレザラの肩に手を置いた。
それから壁の刀掛け台に置かれた黒塗りの太刀を掴むと、レザラを招きよせて小さな手に押し付けるように渡す。
「以前話したと思うが、我々ヴァビロンの民は先祖を辿れば碧双界からの移民だと言われているのは知っているね。そして、これは先祖代々受け継がれてきた魔除けの太刀、夕霧だ。摩瘴気の知識が深い碧双界の業物だから、きっと君の役に立つだろう。それに、今は私より君の方が上手く扱えるはずだね。万が一のことがあれば、この太刀で母さんを守りなさい。但し、摩人を見たら逃げること。いいね」
父親の決意に気付いたレザラは、唇を噛んで俯いた。
黒染めの長い着物の裾をたくし上げて屈むと、父親は名残惜しいように袂でレザラの涙を拭う。
デヴィの泣きじゃくる声も耳に入らないほど、レザラは口を開けば飛び出そうになる言葉を、必至に唇を噛むことで留めた。
・・・・・戦に赴く者を引き止めるのは、何よりもこの国では恥とされている。
「ジャステナ様の救援に向かうつもりなのね・・・・」と、諦めたような母親の声。
「すまない。しかし、アンバルの同胞達の苦境に助けに行かないわけにはいかない。それに、もし我々の先祖の言が正しければ、早く事態を終息しなければ、この地は魔の巣窟となるだろう。お前は村長にこの旨を伝え、レザラと共にできるだけ都から離れた地へ逃げなさい」
涙する妻の肩を抱き、レザラの父親は早々に荷物を纏めて旅立った。
・・・・これが、レザラが見た父親の最後の姿だった。




