命燃ゆる祖の地、オルレイア1
苔蒸した地面に、浅い足跡が残る。
茹だるような暑さは深緑の樹海に入り込む隙もなく、清涼な空気が辺りを満たしている。
歩みを進めていた老人は、青天井を隠した緑の天蓋を見上げて立ち止まる。
突風が吹き抜けて、撓んだ何千もの枝が緑を揺らし、大量の木の葉が体に降りかかってくる。耐えるように身を縮めた老人は風が通り過ぎるのを待って、ふっと諦観の笑みを浮かべた。
「我は・・・・我はまだ生きているのだな・・・・」
「まるで残念そうだ」
樹海に老人以外の人影はない。
精緻な黒い生糸のローブに身を包んだ老人は、その声の持ち主に焦がれるように、ゆっくりと視線を正面に向けた。
「お互い再会を喜ぶべきかな?」
「再会と言うほど時間が経ったようには思えぬが」
「貴公にとってはそうかもしれん」
老人はフードを脱ぎ、隠れていたその面相が露わになる。
薄くなった皮膚。皺だらけの顔だが、英知を秘めた紫水晶の瞳は常人の持ち得るものではない。
その眼前には数千年もの年輪を刻む大樹が、枝を広げている。
枝は大量の葉の重みで撓み、正面から見ると壁のようにも見える幹は、巨大で揺るぎない。もう一つの声の主はこの大樹のものだった。
「大樹公。貴公にとっては僅かな時の流れであっても、我の流れはとても早く、そして澄んではいなかった。濁流といっても良い」
地面から露出した太い根に腰掛け、大樹公の幹に老人は寄り添う。
「我は自分が生きていることが不思議でならんよ・・・」
「そのようだな。彷徨い飛んでくるタンポポの種から汝の話を聴いた。駆け出しの魔導師だった小童が、人の世では大魔導師と呼ばれるまでに成長したと・・・・。だが、人の世では成長すればするほど自身を締め付け束縛していくものらしい。人とは同族であっても共生していくには苦痛を伴うようだ」
威厳に満ちた声が、まさに陽だまりのごとく大魔導師と呼ばれた老人の頭上に降り注いだ。
皺を刻んだ顔を、枯れ木のような手で覆い、気づけば数十年も流していなかった涙が頬を伝って流れ落ちていた。
「・・・・・貴公は、友から逃げた私を軽蔑するか?」
「トーダよ。そもそも人の世でいう『意味』とは何なのだ?『偉大な大魔導師トーダ』よ。汝は『大罪人トーダ』として追われる身だが、その『意味』は絶えず揺らいでいる。我にとっては『トーダ』という汝が真実そのもの。そこに『意味』が入り込む隙などない」
「・・・・私にとって、貴公の存在が感謝に値する真実のようだ」
トーダは涙の滲んだ瞳で幹を撫でた。
大樹公と呼ばれた木の梢が鳴った。空気が振るえ、連鎖的に全ての木々がサラサラと音を立てる。
「生きよ。人が汝にどんな『意味』付けをしても、汝は汝の『意味』を見つければよい」
突然トーダの体が白光を始めた。
トーダは大樹公のやろうとしていることに気付き、切迫した声を上げる。
「止めよ!止めよ!我は・・・・」
トーダは必死で首を横に振るが、さらに光は激しさを増す・・・・
「この世を生きよ。居場所を失くした哀れなトーダ」
――――この瞬間、老人は少年になっていた。
目を開けると、赤髪の青年が、眠そうに目を擦りながら甲板に出てくるところだった。
「寝ていたのか?」
面白がるようにレザラが問うと、トーダは顔色を変えずに首を捻って考え込むように答えた。
「この姿になってから、あまり疲れを感じないし眠くもない。・・・昔のことを思い出していた」
ディーブスを追い払った後、レザラとタポラ、ソスは一睡もしていなかったため、ソスに見張りを任せて仮眠をとることにした。
ソスも始めは狭い船内に恐怖を感じていたが、タポラやレザラがいることに安心したのか、いつの間にか深い眠りについていた。
レザラは一番早く目覚めて顔を出すと、ざっと船に異常がないか点検し、トーダの隣に腰を下ろした。
「貴君は渡航するつもりなのか?」
「ディーブス――生き別れた幼馴染とあの別れじゃあ、気になって渡航なんてできないさ」
水を張った桶にトーダが手を翳す。
すると、海図が浮かび上がり、船の位置を示して赤い光が明滅した。
それを静かに見下ろすトーダの横顔をレザラは盗み見る。
「そういうアンタは、アルサス王を殺したっていうのは事実なのか?悪人には見えないけどな」
「我が大罪人トーダ本人だということは、納得したのか?」
「俺はこの国の出身ではないし、アンタが罪人だろうと大魔導師だろうと、正直どうでもいい。重要なのは、アンタが俺達に危害を加えない人物であるかどうかで、要するに、過去をその判断材料にしたいだけさ」
レザラの言い分を聞いて面白そうにトーダは目を瞬き、内容を咀嚼するようにゆっくり頷く。
「国王殺害は事実だ」
「なぜ?」
「貴君は率直なのだな」
可笑しそうに喉で笑った若い老翁は、手元から顔を上げた。
レザラは少年の目が陰るのを認めて「悪かった」と、呟くように謝罪する。
「謝る必要などあるまい。貴君が渡航できなかった理由は、我にもあるのだろう?」
「いや、そういうことじゃないんだ。俺はヴァビロンの生き残りだ。もし過去について誰かに訊かれたら・・・まず言いたくない。・・・・デヴィにも悪いことをした」
「なるほど、我にではなく、今いない友に謝罪したか・・・・」
「全てがそうというわけではないんだが・・・すまん」
今度は声を立てて笑ったトーダは、帆に風をあてて旋回させた。
遠心力で態勢を崩し、レザラは腹這いになる。
風の抵抗に抗うようにレザラが顎を上げると、相変わらず重力を無視して微動だにしない少年が一点を指さした。
「アルサスについては、すぐに説明するつもりでいたから気に病む必要はない。見ろ、目的の地下川だ」
岩礁を縫った先に、鍾乳洞の入口が口を開けていた。
トーダは船を見事に操り、浅瀬に乗り上げないように船を進めると、迷うことなく船は鍾乳洞に入っていった。