雨と傘と彼と
「あ、雨」
誰かの声につられて田島紗英は、外を見た。黒い雨雲からぽつり、ぽつりと雫が落とされている。
本日の降水確率は30%。それゆえに傘を持たない生徒も多い。
鞄を傘に、岐路につく姿を横目に、紗英は、傘立てから自分の傘を取り出した。
「…」
あとは、傘をさして、出ていくだけ。
けれど、紗英の足は止まった。
昇降口の前で、雨の様子を伺う上田裕がいたから。
空を見上げ、手を出しながら、待とうか進もうか迷っている。
短い黒髪は濡れてもすぐに乾くだろうが、それでも強さを増してきた雨の中走って帰るには少し勇気がいった。
クラスメイトだが、紗英と裕に大きな接点はない。
だから、気軽に「入っていく?」と声をかけることはできなかった。けれど、裕の前をただ平然と通り、傘をさして帰るのは気が引けた。
紗英は一つ深呼吸をする。知らぬ間にかいていた手の汗をスカートでふき取り、昇降口の前まで歩みを進める。
「…上田くん」
「田島?」
「あ、あのさ…途中まで入っていく?」
そう言って傘を少し持ち上げる。
「いいよ。濡れて帰る」
「でも…雨強くなってきてるよ?それに、上田くんメガネだから、雨に濡れたら前が見えなくなるんじゃない?」
裕の黒縁メガネを見て紗英は言った。
「ああ、確かにね」
そう言いながら、裕は半歩前に出て、空を見上げる。
「この雨じゃ、前見えなくなるかな?でも、その小さな傘じゃ、2人は無理じゃない?」
紗英は手に持つ傘を見た。
花柄のシンプルな傘は、確かに女性が一人収まるサイズであった。
密着して入れば何とか2人はいるかもしれないが、紗英と裕はそういう間柄ではない。
「でも…」
「それに、田島って家どこ?」
「大井」
「俺、中川」
正反対の地名。
「で、でも…あの…」
小さい傘に、正反対の帰り道。これ以上、言葉を繋げなかった。
もごもごと口を動かす紗英を見て、裕が笑う。
「田島ってあんまり話したことないけど、優しいんだな」
「え…いや、そんなことないよ!ただお節介なだけ」
「そうか?」
「そうだよ。よく友達にもそう言われるし。あ、そうだ!私の家ここから近いから、家から傘を持ってくるよ」
「そこまでしてもらわなくていいよ。一言声をかけてもらっただけで十分嬉しかったし。ありがとう」
「でも、雨に濡れて帰ったら風邪を引くかもしれないし、それに、声をかけちゃったからには、やっぱなんとかしたいって思うし」
「優しいんだな」
「だからそういうんじゃないって。どっちかっていうと自己満足?」
「謙遜することないのに。そうだな…じゃあ、お言葉に甘えようかな?」
「じゃあ、すぐに取ってくるね」
「いや、俺も行くよ」
「え?」
「家近いっていうし、少しの間だけ一緒に入れてよ」
「え…あ、うん」
もとよりそのつもりではあったが、狭いとわかってしまったから頷くにはどこか居心地が悪い気がした。その反応に裕は少しだけ笑う。
土砂降りの外を前に、傘を広げた。
広げた傘はやはり、2人で入るには少し、小さい。
「ごめんね」
「なんで、田島が謝るの?俺の方こそ、ごめん。それから、ありがとう」
傘は背が高い裕が持つことになった。
紗英と裕では、10㎝以上身長差がある。紗英は女子の中では背が高い部類に入るが、それでも、見上げなければ裕の顔は見られなかった。
心臓の音が鳴る。
裕との距離は近く、なんだか音が聞こえてしまいそうだった。
「あ、あの…」
自分の心音を隠すために話し出す。
「ん?」
歩きながら、裕が紗英を見た。その顔が近くて、さらに音が大きくなる。
「上田くんって、サッカー部だったよね?」
「ああ。そうだよ」
「サッカーってよくわかんないんだけど、ほら、なでしことか活躍したでしょう?それから見るようになったんだよね、私」
「面白いだろ?」
「…それが、ルールとかよくわかんなくて。あ、でも、点が入ったとかはわかるよ」
「ぷっ」
吹き出すように笑う裕に紗英は眉間にしわをよせ、顔を上げる。
「あ、ごめん、ごめん。点が入ったとかは誰でもわかることじゃないのかなって思ってさ」
「…だって、本当にそれくらいしかわかんないんだもん。オフサイド?とか全然わかんないし」
「なら、今度教えてやるよ。ルールわかったら、もっと面白いから」
楽しそうな表情に、なぜか体温が上がった。顔が赤くなっていそうで、視線を前に向ける。
小道が見えた。
いつも紗英が通学に使っている道だ。大通りを通って帰るより、数分だが早く紗英の家に着くことができる。
「…」
「どうかした?」
「……ううん。なんでもないよ?」
紗英は裕の問いかけに首を横に振った。その間に小道への入り口を通り過ぎる。
「ところで、田島は何部?」
「あ…えっと、茶道部」
「なんか、似合うな」
その言葉に、紗英は微苦笑を浮かべた。
「似合う」という言葉を数人に言われてきたからだ。
紗英の癖のない黒髪は長く、「和」という言葉が合うのだ。その容姿が落ち着いているという評判にもつながっている。
そんなつもりのない紗英は、そう言われると居心地が悪い。嘘をついている気になってしまうのだ。
「でも、さっきのでちょっとイメージ変わったかも」
「え?」
「ほら、ちょっと強引な勧誘?」
片頬を上げて、裕が笑った。
「勧誘じゃないよ」
「いや、そこで落ち込むなよ。冗談だからさ。…なんか田島って面白いわ」
裕の言葉に、紗英は少し驚いた。
「面白いなんて初めて言われたよ、私」
「面白いよ。なんかさ、お嬢様ってイメージでちょっと近寄り難かったけど、普通なんだな」
「普通ってほめ言葉じゃないと思うけど?」
そう言って、頬を膨らませてみる。その紗英の様子に裕はまた笑った。
「ほら、そんなことしないイメージだった。なんか、ラッキーだな、俺」
「ラッキー?」
「新しい田島、知れたし」
微笑みを浮かべる裕の顔に、なぜか、一瞬胸が苦しくなった。
「あ、あの赤い屋根が私の家」
少し早口でそう告げ、視界に入った赤を指さす。200メートルほど先に紗英の家はあった。
話したことのなかった男子と、狭い傘の中。居心地が悪い空間なのに、なぜか、家がもっと遠くにあればいいのにと思った。
小道は2人で通るには小さい。だから、避けた。けれど、この気持ちを説明する言葉が見当たらない。
「赤い屋根か。それもなんかぽいな」そう言う裕の声が耳に入り、心臓を打つ音が早くなった。
家に着くと、紗英は鞄から鍵を取り出した。
「田島って鍵っ子なんだな」
「そうだよ。両親共働き」
「ふ~ん」
「上田くんのところは?」
「うるさいおばさんがいつもいるよ」
裕が表情を歪めたので、紗英は笑った。
玄関に入り、傘立てから大きめの傘を取り出す。父親のものだが、裕に花柄の入った傘を貸すわけにはいかない。
「はい。これ、傘」
「ありがとう」
「あ、肩」
紗英の言葉に、裕は視線を斜め下に向ける。ワイシャツは揺れて、肌の色が見えていた。
「え?ああ。…ちょっと濡れたかな」
軽く撫でるように肩を触る。その手もすぐに濡れた。
小さい傘に2人が無理やり入った割には、紗英の方はほとんど濡れていない。裕の右肩が雨に打たれるのは当然の結果だった。
「ごめん」
俯き謝る紗英に、裕は首を横に振る。
「肩だけですんだのは、田島のおかげでしょ?」
「…ちょっと待ってて」
紗英は靴を蹴るように脱ぎ捨て、部屋からタオルを持ってきた。
「これで拭いて」
「ありがとう」
「ごめんね」
「だからいいって。傘入れてもらえて嬉しかったし。…それに、靴を脱ぎ捨てるなんてめったに見られないだろう田島を見れたしね」
そう茶化すように笑いながら視線を下げる裕。それに従い紗英も視線を下げる。そして、赤面した。
左の靴は、玄関の中央に、右の靴は逆になって、ドアの傍に落ちていた。
「あ、…えっと、…」
言葉を濁す紗英に裕がまた声を上げて笑う。その声に、紗英は赤い顔をさらに赤くした。
ひとしきり笑ったあとに、裕はタオルを肩にかける。
「このタオル借りて行っていい?洗って返すよ」
「別にいいよ、洗わなくても」
「いや、ここまで世話になったし、そのくらいさせてよ。いっぱい笑わせてもらったし」
「それ関係ないでしょ!」
「いやいや。それのお礼も兼ねて」
「…」
「怒った?」
「別に」
「今度、サッカーのルール教えてやるから」
「…約束だよ?」
「ああ。それじゃあ、明日、また学校で」
「うん。気を付けて帰ってね」
裕は手を振り、雨の中消えていった。その背をしばらく見つめると、紗英はドアを静かに閉める。
ふいに、胸に手を当ててみた。ドクンドクンと音が聞こえる。
明日、顔を合わせるときに、赤くならないようにしなければならないと、自分の心音を聞きながら、紗英は思った。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
今回は短い話です。
片思いになった出来事のお話。
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