【御子柴集という男】
訪れるお客が例え一桁でも、今日も営業は始まる。
相変わらず閑古鳥が鳴く喫茶店では、綾瀬は一人でテーブルの掃除をしていた。
「御子柴、開店準備、まだ終わってないよ」
「キミに任せた」
こちらを見ようともせずに、実にいい声でそう言ってのけた。
「キミはいつもそう。少しは手伝って」
「あと3ダラダラしたらね」
「なにその単位」
聞き慣れない単位に綾瀬は、眉間に皺を寄せて御子柴に尋ねた。
「因みに、1ダラダラは10ゴロゴロだ」
人指し指を天へと向け、得意気にいう御子柴の姿に綾瀬は再び眉間にしわを寄せる。
「だからなに、その単位」
顔だけこちらに向け、なんだ知らないのか、とでも言いたげな表情を作られた。思わず溜息が零れた。
「大体キミはね、いつもそんな理由で自分の店の開店準備すらしないのはどういうこ――」
「御子柴くんはいるかい?」
「あ、いらっしゃいませー!」
徐々に苛立ちが募ってきた綾瀬だが、ちりん、と音をたてドアを開いたため、営業スマイルにすぐさま転換した。
入ってきた人物は、この店の常連客の一人である初老の男性で、名前を高杉一と言った。
「やあ、御子柴くん」
椅子の上でだらだらとしている御子柴を見つけ、高杉は嬉しそうに破顔し、綾瀬にも同様に微笑みかけた。
「綾瀬ちゃんも久し振りだねぇ」
「ええ、お久しぶりです」
綾瀬も返事と共に掃除を中止した。
さすがにお客様がいる前での掃除はいただけない。本当は、まだ開店していないというのは、言ってはいけないのだろうか。
「マスター、いつもの、頼むよ」
「はいはい」
どっこいしょ、とでも言いそうな勢いで御子柴は立ち上がると、カウンターへとふらふらとした足取りで消えていった。
「彼は相変わらずかい?」
カウンターに腰かけた高杉は、開店前にごめんね、と謝罪を混ぜてから、綾瀬に世間話でもするようにそう問いかけた。
「そうですね……」
「おや、不満そうだね」
「確かに御子柴に不満に思うところはありますけど――」
「へい、おまち」
綾瀬が言葉を続けようとしたと同時に、御子柴のやる気の感じられない声と共にオリジナルブレンドコーヒーを持ってきた。
「やっぱり、御子柴君の淹れるコーヒーは他の店とは一味違うねぇ」
「黄金比があるからね」
普段から御子柴が自負しているように、彼の淹れるコーヒーは、確かにおいしいのだ。
そして、その秘密は彼独自のブレンドによるものらしい。
コーヒー豆の味の特徴を捉えなければ、到底おいしいブレンドなどできはしない。そういった意味では、彼のコーヒーにかける情熱は並々ならぬものなのだろう。
ちりん、と鈴が鳴り、もう一人男性客が入ってきた。三十代後半ぐらいの男性は。初めて訪れたらしく店内をぐるりと見渡してから、出口に一番近い席へと座った。
「ご注文をどうぞ」
「オリジナルブレンドの珈琲を一つくれ」
営業スマイルを展開する綾瀬をその男は、品定めするかのように頭からつま先までを舐め回すように眺め、間を持って注文を告げた。
一々勿体ぶるような動作が気に障る。
自分を大きく見せようとしてやっているのだとしたら、とんだ勘違い男だ。
「かしこまりました」
ぺこりと頭を下げ、綾瀬は足早に御子柴の元へと向かった。
嫌な気分になる客だった。
「御子柴、オリジナルブレンドのオーダー」
「気に食わない客だな、キミを品定めしようとしている」
注文を告げに行くと、御子柴が険しい表情を作っていた。
そんな御子柴を見て高杉は、なんとか笑わないようにと顔の筋肉を強張らせていたが、あまり効果はなさそうだった。
「私のことが心配?」
「もちろんだ、キミはこの店の大切な人材だからね」
隣でにやにや笑う高杉のことなど気にも留めずに、御子柴はそう宣言した。
普段だらだらとしている癖にこういう時ばかりは不快感を露わにする。
店のためとは言っているが、誰かに大切だと言ってもらえるのは嬉しいことだ。
「ご注文の品になります」
「ねぇ、キミ、こんな店で働かないで僕の店で働かない?ここよりずっといい給料を出す
ことを保証するよ」
注文の品を届け終え、戻ろうとする綾瀬の手を取り、男は居住まいを正し、優しい口調で語りかけてきた。
――気持ち悪い。
触られた手か、それともその声か、或いはそのすべてが要因なのか、綾瀬の肌は一瞬で粟立った。あまりの気持ち悪さに、振り払おうとして、今が営業中なのを思い出し、あと一歩のところで思いとどまった。
「そうそう、僕実はこういう者でね」
懐から名刺を取り出すと、男――野島健は、さらに言葉を続けようとした。
「いえ――」
「僕の店の従業員に何の用だ?」
綾瀬が拒否の言葉を口にするよりも早く、御子柴が動いていた。
綾瀬を素早く自分の後ろへと回し、彼女と男の間に割って入った。
そこにはいつもの眠たげな瞳など一切なく、真剣みを帯びていた。
「……なんだ、手つきか……」
ぼそりと放った男の言葉に、綾瀬は思わず手をあげそうになった。
勝手に勧誘して、それに失敗した途端にその態度はどう言うことか、そもそも野島の店がどんなものかなど綾瀬は一度も聞いていないし、御子柴が止めに入らずとも最初からその手に乗るつもりなどなかった。
興が冷めたとでも言いたげな視線を綾瀬へと寄越してから、野島は代金をテーブルに置くとさっさと店を出て行ってしまった。
「まったく……キミは隙が多すぎだ」
「キミが来なくても私はあんな男の口車には乗らない、知っているでしょ?」
「それでも大切な人材を引き抜かれそうになるのは、店長としては見過ごせないね」
口ではそうは言っているが、あの時見せた表情は真剣そのもので、御子柴の想いが伝わってきた。綾瀬はそれを素直に嬉しいと感じ、思わず笑みが零れた。
「熱いねー二人とも。冷房効いてないんじゃないかね」
一連のやり取りを見ていた高杉は、冷やかすような口調で年甲斐もなくはしゃいでいた。
「なんだい、自分はお邪魔ってかい?わかったよ、また日を改めるよ」
御子柴と綾瀬の冷ややかな視線をどうとったのか、高杉は御代をテーブルに乗せ、熱い、
熱い、と手で扇ぎながら店を出て行った。
「何を笑っているんだ?」
高杉が出て行ったあと、隣でクスクスと笑う綾瀬に、御子柴は怪訝そうに顔を向けた。
「ねえ、御子柴。もし、私がこのお店を止めちゃったらキミは悲しい?」
「そんな気持ち悪い表情で僕を見ないでくれ」
せっかく上目遣いで尋ねてあげたのに、気持ち悪いとは何事だろうか。
しかし彼女は、そんなことにはもう慣れていた。御子柴集とは、こういう男なのだ。
「キミは素直じゃないね。そういう時は、素直に悲しいって言うものだよ」
「キミは僕がそんな台詞を吐くと本気で思っているのかい?」
冗談はやめてくれとでも言いたげな視線と共に御子柴は綾瀬から離れた。
「ああ、疲れた」と呟きながら御子柴は定位置とも言えるカウンターへと歩いていく。
「やっぱり素直じゃないね」
あれだけやる気のない御子柴に大切な従業員だといわれたのは、彼女にとってちょっとした優越感を与えた。
――でも安心してほしいな、この店は私だって大好きなんだから。
最初は無理やり感が否めなかったが、今ではこの雰囲気が好きになっている自分がいるのだ。
この店の雰囲気は、絶対に嫌いになれない。そんな思いが彼女の中にはあった。