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珈琲屋さん  作者: 文月
2/6

【店長と従業員】

 ジリジリジリ、とけたたましく鳴り響く目覚まし時計が、起床時間を告げていた。

 くぅっと、伸びをする綾瀬に硝子戸を通して入ってきた朝日が当たっていた。

 ちらりと枕元の時計を確認し、遅刻ではないことに取り敢えず一安心した。

 ゆっくりとベッドから降り、綾瀬は浴室へと向かった。

 途中、備え付けの鏡で自身の髪を見て、あまりの寝癖の多さに、シャワーを浴びた方がいいと考えたからだ。

 熱いシャワーを頭から勢いよくかぶり、しばらくそのままでいた。

 しばらくしてシャワーを止めると、肩よりも長く伸びた髪が、肌に吸い付くように張り付いた。

 顔に付いた水滴を掌で拭い、顔をあげると、鏡に見慣れた裸体が映っていた。

 細く長い四肢に平均的なバスト、何度も浴室で見慣れている自分の身体だった。

 こつんと鏡におでこを当て、ひんやりとした感覚を味わった。

 シャワーを止め、綾瀬は髪を軽く絞り、浴室を後にした。

 髪を乾かし、軽く朝食を摂り、バイト先の喫茶店へと向かった。



 その店は、某大型チェーンの喫茶店とは違い、知名度もなければ特別立地条件が良いわけでもない、そんな平均以下な店だというのに、思いのほか運営はどうにかなっていた。

 それもなぜか定期的に足を運んでくれる常連客のお蔭だった。

 手書きで【本日の営業は終了しました】と書かれた看板を裏返し【営業中】に掛け直してから中へと入った。

 小ぢんまりとしているが、中々風情のある店内に仕上がっている。


「御子柴、もう営業時間だよ」


 テーブルに突っ伏している青年に綾瀬は声をかけた。

 この男こそ、この喫茶店〝珈琲屋さん〟の店長、御子柴集(みこしばしゅう)である。

 とても店の店長とは思えないほどやる気が感じられないが、事実店長なのである。


「知っているさ。でも、この時間はほとんど客が来ない。キミも知っているだろう」


「だからって、店を開けないのはよくない、違う?」


「そのためにキミがいるんじゃないか」


 諭すような口調の綾瀬に対して御子柴は、開き直ったようにそう告げた。

 わざわざ僕が開けなくてもキミが開けるから問題ない、と彼は案に言っている。


「キミはいつもそんな調子、本当に私よりも年上なの?」


「歳なんて関係ないね、大体この店にはキミ以外従業員なんていないんだ」


 呆れた様子の綾瀬に、御子柴は相変わらず自分のペースを乱さない。

 彼女の言う通りこれではどっちが年上なの分からなくなってしまっているが、御子柴の方が綾瀬よりも三歳年上なのは事実である。


「私じゃ不満なら、もっと人数を増やせばいいじゃない」


「キミは馬鹿か。余分に払う給料なんてこの店にはないね」


「だったら文句言わないで働いて」


「キミが来てから僕の仕事なんてほとんどないだろう」


 元々キミが無理やり入れたんでしょ、と言う言葉を胸の中で叫び、綾瀬はむっとした表情を作った。


「それはキミが何もしてないからでしょ」


「僕がやらなくてもキミがやれば済む話だろう」


「私だって暇じゃないの、キミには分からないでしょ」


 ああ言えばこう言う、言葉の上では決着など付かない。

 綾瀬が攻めれば御子柴は巧みに躱す、それがこのところの二人のやりとりだった。

 立場上では、店長と従業員だが、その会話は、仲の良い友達同士の様なやりとりだ。

 なにより、なんだかんだ言って綾瀬自身この店の雰囲気を気に入っているのだ。


「暇じゃない?その歳で彼氏の一人もいないのに暇じゃないとでたか」


「私はまだ十八歳、そんなに歳じゃない。それにそれを言ったらキミだっていないでしょ、違う?」


 小馬鹿にしたような言い方に綾瀬もついむきになって反論したが、当の本人は何食わぬ顔でこう言ってのけた「僕はいいんだよ、興味ないからね」


「だったら私も興味なんてない」


「そうかい」


 沈黙が二人の間に訪れた。

 もやもやとした感覚が綾瀬に襲いかかってくる。

 ちらりと御子柴に目線を向けると、視線がぶつかった。

 慌てて視線を逸らす綾瀬だったが、気になってもう一度視線を戻すと、またしてもぶつかった。

 どうやら御子柴はあれからずっと綾瀬を見ていたようだった。

 やる気のない目でじっと見つめられると、こちらまで眠たくなってきてしまう。

 このままではいけないと思い、何かないかと視線を巡らせ、綾瀬はテーブルが吹き忘れていることに気が付いた。

 御子柴の視線から脱するために、綾瀬は厨房へと入り、その奥の部屋から掃除用具を引っ張り出してきた。

 瞬く間に汚れを取り終えた綾瀬は、仕上げに砂糖の入ったポットを置き、カウンター席へと腰かけた。

 この間、御子柴は言うまでもなく何もしてはいなかった。


「ほら、キミがいればすべて終わってしまう」


 だらだらとだらしなく座りながら得意げに言う御子柴に、綾瀬は「はぁ」と溜息を吐いた。

 よく溜息をつくと幸せが逃げるといわれているが、幸せが逃げているから溜息が出るのではないだろうか。

 そんなことを思いつつも綾瀬は、この店を辞める気が湧かない点に苦笑した。

 ちりん、と来客を告げるベルが店内に響いた。


「いらっしゃいませー!」


 綾瀬は精一杯の笑顔をと共に、本日初めてのお客様に挨拶をした。


「中々古風のあるお店ねぇ」


「落ち着いた雰囲気のお店って私は好きよ」


 来店した客は、この店には珍しく女性二人組だった。

 綾瀬は、それとなく傍に立ち、注文をいつでも伺えるように、エプロンのポケットに伝票を準備していた。


「このオリジナルブレンドコーヒーを一つ」


「じゃあ私は、それと同じものと、このコーヒーチーズケーキをもらおうかしら」


「ご注文の確認をさせていただきます。オリジナルブレンドコーヒーが、二つ、コーヒーチーズケーキが、一つ、以上でよろしいでしょうか?」


「ええ」


「かしこまりました」


 注文の確認をし終えた綾瀬は、ぺこりとお辞儀し、カウンターから出てこない御子柴へと注文を伝えた。


「随分と様になってきたね」


 注文を受け、御子柴はブレンドコーヒーをドリップし始めながら、綾瀬の方を見ずにそういった。


「キミがここから出ないから。お陰様で、ね」


 それに対して綾瀬はやや皮肉気味なニュアンスを纏わせて返した。

 ただ彼の判断は正しいだろうと彼女も思っている。お客が男性でも女性でも、男が注文を取りに来るより、女が来た方が何かと便利だと綾瀬も理解していた。

「さあ、出来上がりだ。運んできてくれ」


 話しながらでも作業の手を止めない御子柴は、冷蔵庫からコーヒーチーズケーキを取り出し、コーヒーと一緒にトレーへと乗せ、綾瀬へと渡した。


「ご注文の品になります」


「いい香りねぇ」


「最初はちょっと不安だったけど、いい味ね。ここは穴場なのかもしれないわ」


 多少失礼な物言いだが、このお客が不安になるのは綾瀬にも理解できた。

 この店は、知名度があるわけでも、立地条件が良いわけでもない。

 そんなお店に初めて入るというのは中々勇気がいるものだ。なんにしても、気に入ってもらえて何よりだ。

 ほっと胸を撫で下ろした綾瀬は、背後から視線を感じ、振り返ると自慢げにカウンターの影からにやり、とこちらを見ている御子柴の姿が目に入った。

――正直、ちょっと不気味だ。

 そんなことを思いつつ、綾瀬はカウンターへと戻っていった。



 お客が帰ってしまうと、また店内には綾瀬と御子柴のみとなってしまった。

 元々それほどお客が来ないこの喫茶店には、このように暇な時間と言う名の休憩時間がよく出来るのだ。


「キミも飲むか?」


 御子柴は、冷蔵庫から水出しコーヒーを取り出し、綾瀬にそう尋ねた。


「もらう」


 正直コーヒーは苦いのであまり好きではない綾瀬だが、彼が淹れた物ならなぜか飲めてしまう。

 恐らく、淹れ方の違いだろうと彼女は考えていた。

 御子柴の淹れ方と、自分の淹れ方には何か違いがあって、それがコーヒーの苦み分の差になっているのだろう。

 いつもはだらしない御子柴だが、そういったところは彼女も素直に尊敬できた。


「キミの淹れるコーヒーは美味しいね」


「伊達にマスターはやってないからね」


 綾瀬の褒め言葉に気をよくしたのか、御子柴はカップを片手にキザっぽく笑った。

 カウンター席を挟み、向かい合う形で座る二人は、必然的に相手の顔をよく見ることができる。

 普段はあまりやる気を感じない御子柴だが、肌が白く中性的で綺麗な顔立ちをしているため見た目は悪くはない。もう少しきりっとした表情を作っておけば女子受けは悪くなさそうなのだが。本人は接客をする気がまったくないようだった。


「こういう時は素直になるんだ」


「僕はいつだって自分に正直さ」


 くすりと笑いながら言う彼女に対して御子柴は、澄ました表情でコーヒーを一口啜った。

 それを見た綾瀬も一口啜る。ちょっぴり苦いが、それでも後から来るコーヒー独特の風味は嫌いにはなれなかった。


「やっぱりキミの淹れるコーヒーは美味しいよ」


 そう言い綾瀬は満足気に微笑んだ。


 今度、それとなくおいしいコーヒーの淹れ方を聞いてみるのも悪くないかもしれない。


「今日の営業はもう終わりだ。上がっていいよ」


 店のロゴの入った黒いエプロンを脱ぎながら、御子柴は綾瀬にそう告げた。


 本来の営業時間はあと二時間ほど残っているのだが、御子柴はそんなことを気にした素振りも見せずにそう告げた。


「ここの掃除が終わったら上がるから、御子柴はそっちをやっておいて」


「キミは相変わらず、仕事熱心だね」


 丁寧に机を拭いている綾瀬に御子柴は目を細めた。


「ただでさえ人があんまり来ないんだから、せめて店内くらいは綺麗にしようとは思わないの?」


「客なら定期的に来るだろう、常連客(…………)が」


 御子柴の返答に綾瀬は溜息を吐いた。

 確かにこの店は必ずやってくる常連客が存在してはいるが、コーヒーの一杯や二杯では正直大した差はない。


「その人たちだっていつここに見限りをつけるかわからないでしょ、違う?」


「それは無いね、断言できる。僕の淹れる珈琲はそこらの店とは違う」


「それは認めるけど……」


 今だって儲かっているとは言い辛い状況なのに、なぜこんなことを言えるのだろうか。

 綾瀬には御子柴の自信の理由が分からなかった。

 この店が潰れずに済んでいる本当の理由は、ネット通販を利用した売り上げがあるからだ。

 それがなければ今頃――と言うより今すぐにでも潰れてもおかしくはない。


「キミは確かココアが好きだったね」


 一応の確認と言った様子で御子柴は、アイスコーヒーと一緒にアイスココアを持ち綾瀬の方へとやってきた。

 普段はダラダラとしていることが多いのに、コーヒーを淹れたりする時に限っては積極的になるのだ。

 もっとも御子柴自身も、綾瀬との会話はつまらなくはないのだろう。

 そうでなければ彼女の分の飲み物まで用意はしないだろう。


「雑務手当だとでも思って飲むといい」


「ありがたく貰っておくね」


 作業の手を止め、綾瀬はアイスココアを受け取り、近くの椅子に腰かけた。

 一つ伸びをして綾瀬は、自らが綺麗にした店内を見渡す。

 初夏を迎えた店内に綾瀬の飾った紫陽花が西日を浴びて赤く色付いていた。

 我ながら良いセンスだと思えた。

 紫陽花の花の色は、青や白や紫と様々な色に変わっていく。

 そのせいか俗説ではあるが、移り気という花言葉まで存在している。


「……移り気、確かそんな花言葉だった気がするが」


 丁度御子柴も紫陽花を見ていたようで、綾瀬の反対側に座るとそう呟いた。


「御子柴も知ってるんだ。でも、キミが花言葉なんて言うと、なんか似合わないね」


「それは僕が無知だと言いたいのか?」


 御子柴は片眉をくいっと上げ、綾瀬を睨んだ。

 やる気のない顔が一時的にきりっと引き締まった。中々いい顔である。


「そうとは言ってないよ、ただ意外だっただけ」


「僕だってそれくらい知っているさ」


 ふん、と鼻を鳴らし御子柴はアイスコーヒーを啜った。

 普段こそ敬語も使わない関係だが、彼が年上なのは確かな事実で、職場上で言えば店長と店員なのだから、上下関係が確かに存在している筈なのだが、二人にとってはこれが普通となっていた。

 平常からお客が来ないため、まったりする時間は多くても、御子柴がこうして自ら話題を振ってくることは少ない。もっとも、御子柴が奥のカウンターから中々出てこないのも原因の一つなのだが。


「好きなのか、紫陽花」


「どうだろうね……たまたま目に入って、それでお店に合うかもって思って買ってきたお花だから」


 綾瀬の返答に、御子柴はそれ以上何も聞いてはこなかった。


「店の戸締りは僕がしておく。キミは帰っていいよ」


「うん、それは任せるね。あとココアありがと、美味しかったよ」


「じゃあな」


 御子柴は素っ気なく答えると、綾瀬の手からカップを受け取り、カウンターの奥へと消えていってしまった。

 お店の戸締りを任せた綾瀬は、彼女用に割り当てられたロッカーから荷物取り出し、帰路へと付いた。


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