プロローグ
葉月綾瀬は、ぶらぶらと街中を歩いていた。
見渡す限り人、人、人。
空を見上げれば、今にも雨が降りそうな程どんよりとした雲が空を覆っていた。
そんな天候のせいか、すれ違う人々はみな一様に傘を手に持っていた。
ぱたた、と遂に雨が降り出してしまった。
すぐに雨は大降りへと変わり、傘を持たない綾瀬に容赦なく雨粒が降り注いでいった。
たまらず、たまたま目に付いた喫茶店へと駆け込んだ。
しかし、所持金に不安があったため、中へとは入ることは出来なかった。
「中に入らないのか?」
「キミは、誰……?」
そんな綾瀬に一人の青年が声をかけてきた。
年齢は二十歳くらいだろうか。見上げるほどに背が高く、白いシャツに〝Le Café〟と
印刷された黒いエプロンを身に着け、眠たげな瞳にまっすぐ伸びた鼻筋、切れ長の目をしている。
肌が白く中性的で綺麗な顔立ちをしているが、寝癖のように所々はねた髪型のせいでどことなく野暮ったく感じた。
「まあ、いいか」
そう言い青年は綾瀬の腕を掴み強引に店内へと引っ張った。
これでは誘拐ではないか。
あまりの強引さに一瞬対応が遅れ、そのまま店内へと引っ張られてしまった。
どうやら開店して間もないらしく、客は誰も入ってはいなかった。
「ご注文をどうぞ」
積極的な行動とは裏腹に、青年の声はやる気が感じられなかった。
意識的にやっているのか、それとも無意識なのか、どちらにしても店の接客には向いてはいなかった。
「私はお金なんて持ってない」
財布の中身を確認し、綾瀬は青年にそう告げた。
元々、入るつもりなどなかったのに、無理やり入店させられたのだ。
綾瀬としては、迷惑極まりなかった。
「それは残念だ」
言葉とは裏腹に青年の様子はちっとも残念そうではない。
まるで最初から分かっていたと言わんばかりの表情に、綾瀬は疑問を抱いた。
この目の前の男は何がしたいのだろうか。
無理やり入店させられたとはいえ、一応客である綾瀬の前で堂々とだらけ始めると言うのはどうなのだろうか。仕舞いには、コーヒーを淹れ、勝手に飲み始めてしまった。
それは店の商品ではないのか、と綾瀬は心の中でツッコミを入れた。
「キミも飲むか?」
「お金がない」
「お代はいいよ、これは僕からのサービス」
そう言い、青年は慣れた手つきでドリップしたコーヒーをカップへと注いでいった。
挽きたてのコーヒー特有の匂いが店内に漂い出した。
コーヒーなど普段から飲む習慣のない綾瀬にとっては新鮮なものだった。
「砂糖とミルクはそこにあるから自由に入れてくれ」
それだけ言うと、青年はゆったりとコーヒーを飲み始めてしまった。
接客する気などないようだ。
せっかくなのでブラックで飲んでみることにした。
「あれ……にがく、ない……?」
一瞬、あの独特の苦みを想像した綾瀬だったが、思いのほか苦くはなかった。
「そのコーヒーはね、この店の中で一番口当たりがまろやかなブレンドでね。コーヒー初心者に向いているんだ」
「へぇ、詳しんだね……」
「まあ店長だからね」
「……キミが、店長?」
だらけきった体勢から言われても、説得力は感じられないが、言われてみれば、先程から他の店員の姿が見当たらなかった。
「そうだ、キミこの店で働く気はないかい?」
「キミは何を言っているの?」
唐突な勧誘に、綾瀬は思わず青年の顔を凝視してしまった。
「キミなら〝まろみ〟も理解できるだろうし、何より僕は人手が欲しいんだ」
「まろみ……?」
「見ての通りこの店には従業員が僕だけしかいなくてね、そこで一人は人材が欲しいと思っていたんだ」
青年の口から飛び出した単語に首を傾げた。
しかし、そんな彼女の疑問などスルーして青年は、人手が欲しい経緯を語り出した。
やる気があるのかないのか、はっきりしない男だ。
「それで、どうして私なの?」
随分と適当な従業員探しだなと綾瀬は思ってしまったが、店自体の雰囲気は悪くはない、そんなことをするなら普通に募集した方が早そうだった。
「キミなら〝まろみ〟を理解できる、そう確信したからだよ」
従業員になるにはそんなに〝まろみ〟に対する理解が重要なのだろうか。
コーヒーに特別詳しくはない綾瀬には分からなかったが、常識的に考えて、それは重要ではないと判断できた。
「それじゃあよろしく、従業員一号さん」
「待って、私はまだ何も言ってない」
「素直に話を聞いてくれたじゃないか、てっきり了承だと思っていたんだけど、違ったのかい?」
「それはキミの発言に呆気にとられていただけ」
呆れたような綾瀬の視線を気にも留めない様子の青年は、美味しそうにコーヒーを啜った。