第十八話:化学反応式と夢みたいな現実
「さあーて、勉強始めますか!」
珍しく坂下が勉強というものに対し、やる気を出した。
「おー!!」
見れば、秋庭さんや遙もなんだか楽しそうだ。
友達がいるってだけで、楽しいからな。そりゃあ効率が悪い筈だ。
けれど、勉強会というものが廃れないのは、その独特の楽しい雰囲気のおかげなのだろう。
「んじゃ、まず何からやってく?」
「はいはい、科学やりたい!」
そもそも正式な勉強会のやり方を知らないのだが、とりあえず遙の一存で科学を最初にやることとなった。
「えーと、範囲は化学反応式だね」
「よーし何でも問題出してくれ」
実は科学はちょっと得意だったり。
「その1。プロパンを燃焼すると二酸化炭素と水が出来る。この場合の化学式を答えよ」
……いきなり難問?
「まずプロパンがC3H8でしたよね。モデルを描いて… C3H8+5O2 → 3CO2+4H2O でしょうか」
ノートの上でせわしなくシャープペンを動かしつつ、秋庭さんが澱みなく答える。
「さすが。正解」
へえ…やっぱり頭いいんだなあ。
「秋庭さんすごーい」
秋庭さんは照れたように縮こまっていた。
ほめられることに慣れていないのかもしれない。
学校では滅多に見れないその姿がなんだか可愛らしかった。
あー、勉強会来て良かった…。
「あのう…」
坂下がおずおずと手を挙げる。
「何?」
「素朴な疑問を一ついいでしょうか」
何で敬語?
そして、怖ろしい事を訊いてきた。
「化学反応式って何?」
………―――。
長い沈黙。
「ナニィーーーー!!」
全員の目が点になって、絶叫した。
秋庭さんも、こればかりは眼鏡がずり落ちそうだ。
見れば、桜さんまで悲鳴を上げている。
さすが兄妹。驚いた時の顔が微妙に秋庭さんと似てるかも。
…いやいや、そうじゃなくて、
「なんてこと訊いてんだお前は!」
「だってわかんないんだよ」
「…それはこれまでの科学の授業―それも中学から―を全て聞いていなかったと見て良いのでしょうか」
坂下はにっこりと微笑み返してきた。
この場合、僕はどんな対応をとれば良いのかな?坂下君。
「…大河内、頼む」
結局、大河内に説明を頼むことにした。
「了解…。秋庭さんと小野寺さんは他の教科でもやっててくれるかな?」
「オーケー」
遙が呆れたように言い、まだ驚きの覚めやらぬ秋庭さんは、こくんと頷いた。
「まず原子と分子はわかる?」
「そのぐらいはわかる。水がH2Oってやつだろ」
わかってんじゃん。
「H2+O → H2Oって感じに化学変化を式で表したもののことだよ」
「マジで!?それでいいんだ!難しく考えすぎてたわ」
内心ため息をつきつつ、秋庭さんと遙の方を見た。
「It is no use crying over spilt milk.これの和訳は…」
どうやら英語をやっているらしい。
「何かのことわざらしいのですが…」
二人がそのまま考えあぐねていると、さっきからうずうずしていた桜さんがすかさず割って入った。
「よしよし、僕が教えてあげよう」
僕?この人ってホント女子組には親切だな。
「It is no use〜ing で、〜しても無駄だという意味だから、 It is no use crying over spilt milk.では?」
「あっ、わかった!『こぼれたミルクを嘆いても無駄だ』!」
遙が弾けるように答えた。
「ピンポーン。つまり『覆水盆に返らず、後悔先に立たず』ってこと」
「桜さんすごーい!!」
「いやあ、大したことじゃないよ」
しかし本人、まんざらでもなさそうな顔をしている。
「桜さんっこっちも教えて下さい!」
坂下の手がパッと挙がった。
が、
「はっ。男は苦しむがいい」
軽く鼻であしらわれた。
それも、シッシッと、ご丁寧に手ぶりつき。
「お兄ちゃん…」
秋庭さんの視線を受けるなり、桜さんの態度が180度変わった。
「むっ、何だ紅葉の為ならしょうがない。お前ら紅葉に感謝しろよ」
思わず苦笑してしまった。
何か、こういうのっていいなあ。
兄妹…。うちの妹は可愛さのかけらもないからなあ…。
――それだけじゃなく、僕はあいつに申し訳なさを感じているのもあるのだけど。
幼い妹から、家族から、僕は――
「蓮?どうした?」
大河内が心配そうにこっちを見る。
「いや、なんでもない」
大河内と坂下、それに遙のおかげで最近はあのときのことを思い出すことも少なくなってきたけれど。
いや、そうじゃない。
秋庭さんのおかげだ。
高校生になって、秋庭さんと会って。
だんだんだんだん、僕は救われていったのかもしれないな――。
秋庭さんの横顔をそっと盗み見る。
秋庭さんは、小さく微笑んでいる。
――前より、よく笑うようになったな。
この笑顔に、僕は弱いんだ。
『この状況を、あいつは一時の夢かなにかだと思ってる』……か。
確かに皆が皆、なんでもないことで笑いあっている今。それは夢みたいだという他に、どんな表現があるのだろう。
でも――。
目を開ければそこに君がいて、手を伸ばせば君がいる。
それは確かに、現実じゃないか。
秋庭さん、この世界は夢じゃないよ。
「さーてと」
僕はシャープペンを取った。
「気合いれて勉強しますか」