第3話 セージ
「は?」
ダメンズ……久々に聞いた。彼女はどう見たって俺より年下だ。ふっるっ、死語じゃんって、腹を抱えかけたが、じわる――メッキが剥がれる感覚に魂がひりつく。
「無、だよ」
彼女は、ここに残るだけと言わんばかりのハンドサインを虚空に描いた。自らを小馬鹿にする目で。
「あーしなんて、何がしたかったか忘れちゃったし、いまの気持ちもよくわかんない。今日が何曜日かも答えらんない。残ってるのは、記憶だけ」
サビでも歌うように語ると、彼女は再び自虐的に強調する。
「空気よりも役立たず。マジで無」
いやおかしくないかそれ。だって――
「でも、姿形あるし、話してるし、“無”ってわけじゃ……」
さっきから、なんか反論しないとって衝動が抑えられない。なんでかも実はわかってない。
(いまさら認めたくないってのか俺)
かと言って、論破する知識も足りない。そもそも死後の情報なんて、待てど暮らせどタイムラインに流れてくるもんでもない。空虚な思考がガス欠のようにか弱く吹き抜ける。
「白黒はっきりつけなきゃ、死んでも死にきれないって感じ?」
彼女は、俺の顔を覗き込むように首を傾ける。ほんの一瞬、目を泳がせると、手探りのように口を開く。
「誰かのイメージ……なのかも? うまく言えないけど」
「……イメージ? 誰の――」
俺の問いは、のみこんだ唾に遮られる。
事故物件。
そう脳裏をよぎった途端、視えてしまったからだ。砂嵐のようなノイズが走って――首筋から拡がる血だまりで、横たわる彼女の姿。声を上げる隙もないコンマ数秒。それでも焼き付いて離れない。腰が砕けそうな重さが、じわっと滲む。そのくせ、心は迷子の風船みたく漂った。
「この部屋が、あーしを遺してくれてるのかも」
ざっくりと、でも不特定多数が確実にこのズタボロ荘に向ける負のイメージ。
「じゃあ、ずっとこのまま……?」
「ここで死んだしね」
ここにきて不器用にざわつきだす俺の魂。見透かすような、諦観まじりの眼差し。どこからともなく一斉に舞う紙。その風が俺の髪を撫でる。
「……草?」
紙一枚一枚に、花もつけない地味な絵が描かれてる。何かのまじないかと勘繰るくらい、鬼気迫る物量だ。それにしても既視感ある。一枚つかんでみる。……ああ、近くの土手に生えてる雑草、いやハーブだったのか……。
(いまじゃ草茫々で、この絵っぽさはないけど)
さらに数枚拾って確かめる。四種はある。
画力はあるけど、油絵具の使い方がなってない。水彩画かってくらい、薄く引き伸ばされた緑色。それに、えぐい安物臭もする。視覚的に捉えるまで気付けなかったけど、俺が最初に感じた“過去”の臭いの正体だった。
「一枚でも、ウケてたら違ったのかなー」
天井を仰ぎながら放たれた声。バズってたら誰かにもっと別の形で憶えてもらえたのかもしれない。いやそれだってタイパ悪い。すぐ流れて終わる。簡単に忘れられる。つか友だちは? 家族は? 疑問ばっか溢れてくる。ただひとつわかるのは、“事故物件”だけが、ひっそりと彼女を現世に繋ぎ止めてること。
天国と地獄。死後、どっちに行くかなんて考えるのは、きっと生きてる側の煩悩なんだろう。ズタボロ荘が忘れられるまで続く、途方もなく空っぽな概念――それが死だってなら、確かに無なのかもしれない。極楽浄土とやらに期待するなら、死に損だ。でも、彼女は……。
血が巡るように、彼女のことでいっぱいになる。
「……なんで、死んだんすか?」
気付いた時には、もう口にしてた。ガラにもない口調で。誰かの背景を知りたいと思ったのはいつぶりだろう。
「あーし?」
女ってやつは、生きてるだけで得してる――俺はそう思い込んできた。だから羨み妬み、ネット上だけでもと“私”を演じた。だけど……。
彼女は思いもよらなかったと言わんばかりに、目を丸くしてる。
(どんだけ他人から興味持たれなかったんだよ……)
SNSがラベル化した“女さん像”とは、なんか違う気がする。
若い女が住むはずがない――そんな固定観念を少し手放してみると、たちまちプリン頭である理由も、欠けた歯の意味も、緑の油絵具を薄く引き伸ばす事情も、嫌な予感になって押し寄せてくる。
「……あーしかー。重いし、長いよ?」
自分語りなんてしたことない、そんな苦笑いを浮かべる彼女。俺は黙って頷く。もう急かす理由も、急ぐ必要もないし。
彼女は、纏うビビッドなカラーとは裏腹に、申し訳なさそうに、おずおずと語り出す。
また、ノイズが走る。これは彼女の過去を見せる合図なのかもしれない。
枯れかかった花が水を得たように、彼女が戻ってく。自然な黒髪、健康的な肌艶。彼女がまだ、彼女だった頃――言い方悪いけど、イモっぽい。でもこっちのほうが断然いい。
これが彼女のはじまり。




