第2話 パセリ
“魂消る”とは、こういうことなんだろう。
気を強く持たなければ、この世から完全に消し飛んだに違いない。夢に驚いて目が覚める感覚によく似てる。醒めないよう瞼の裏に必死にしがみつくように、素粒子単位にまで全霊を注ぐ。
「引っ張られるよ、たぶん」
今度は女の声――いったいこの四畳半一間には、どんだけ不幸が渋滞してんだよ。こんなことなら、仲介屋の話はよく聞いとくべきだった。
「だから、絶対さわんないで」
たぶんと絶対が同居する忠告。引っ張られるって何よ。疑問は尽きないけど、俺は手を引っ込めた。あっさり従ったのは、おじと遭遇した瞬間とは違い、安堵に似た高揚感に包まれたからだ。いや待て高揚だと? いくらなんでも……。
(……俺得すぎでは)
死ぬほど耐えがたい現実が、胸の奥に居着いてる願望を引き出したんだろう。
“最期くらい年上清楚系美女に看取られたい”――今際の際に、とんでもない幻を見せられてる。
だって、どう転んだって若い女が住むはずがないズタボロアパートだぞ。――隣人がたまに呼び出す嬢のドカ啼きで地鳴りするわ、ドアは震度三もあれば勝手に鍵が開くわ、プライバシーもセキュリティもへったくれもないガバさだ。都合良く女の子が顕れてたまるか。
すべて幻だとわかれば、凍てついた背筋もスッと解けてく。
(年上清楚系美女……!)
俺は勝手な先入観に囚われ、無防備に振り向きすぎた――
脱色しっぱなしの髪。ずいぶんとくたびれた赤と黒のセーターから察するに、だらしなさからのプリン頭か。月明かりで黒光りする短パンは合皮だろう。そこから下は光が遮られてるけど、きっとチープな網タイツ。いかにも、ドンキヘビーユーザーといった出で立ち――俺の願望にしては、好みとあまりにもかけ離れてる。完全に、不意打ちだった。
「根岸って、呼んでる」
「……根岸?」
俺の問いに、彼女は不健康に痩せた手首を捻りながら、おじを指す。
「そのおっさんのこと。なんも答えてくんないから、勝手にそう呼んでる。服の色的な」
「根岸色……」
いい加減に生きていたような見た目に反して、意外にも学がある言葉選び。専門知識がなければ、普通出てこない。美大生設定なんだろうか。……なんて、俺の内面はネットを介して人を見る“私”のように、バチクソ上から目線だ。そうだ、ずっと大きく見せようと演じてきた。そうじゃなきゃ、俺はただの伽藍洞だからだ。
「こ、これからどうすれば……」
とっさに口を開けば、想像以上に情けない声がでる。
(……チャットなら盛れんのに)
瞬時によぎったのがこれだから、マジ萎える。これが、俺の現実。現実の自分を変えるのはタイパもコスパも悪い。でもネット上ならすぐ、なりたい自分を作れる。だから人一倍言葉を準備して、賢さを誇示してきた。理想でいろんなもの殴ってきた。って、いまは自分語りでイキってる場合じゃない。初手から相手に裸同然の俺を見せてしまった。どう巻き返そうか。強くいかなきゃナメられる。弱みを握られたら格好の的――俺は身構えた。
彼女は何かを考えるように、フッと目を閉じる。だよな。
俺は返ってくるであろう口撃パターンを予想し、揚げ足取ることばっか考える。こっちが悪者にならないよう正論を模索する。はやく目開けろ。フォロワー三万稼いだ論破テク見せてやる。
「なんか生きてるくさくて好き」
彼女の顔がほころんだ。嘲笑じゃない。予想外すぎて、何言われてんのかすぐには理解できなかった。
「考える必要ある? いまさら」
どんなに粗を探そうとしても無駄だった。人ってこんな柔らかい表情作れたっけ。
ニッと、笑った口元から覗く欠けた犬歯。その隙間の奥で銀歯がきらめく。思わず、凝視してしまう。
「それとも……」
彼女のトーンが下がる。早鐘を打つはずの鼓動が聴こえない。ひたすら静寂のなか、膜が張ったような現実感のない緊張が走る。
「……誰か、祟る?」
急に照明を落とされたみたいな、仄暗い語り口。三日月の形に細く引かれた目、一抹の不安を覚える。狐かなんかに化かされてんのかなって。
(……俺の願望でも、幻でもない……かもしれない)
俺にそう思わせるほどの形相はほんの一瞬で。
「狙って祟るとかできないって。せいぜい、住人をこっちに引っ張るくらい?」
彼女は、軽口でも叩くように根岸に視線を送る。根岸は依然動かない、何も答えない――
引っ張るってもしや……。俺が炎上したのも、こうなったのも……。
「お前らの、せい……?」
煮えたぎった油を飲み干す気分だ。渾身の力を込めて、月灯りに佇む彼女を睨む。
そんな俺を彼女は、睨み返すこともない。くすくす笑いながら言った。
「あーし、ダメンズってほっとけないタイプ」




